闇がしたたる ~三千世界に怪異は嗤う

日野

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5 いっしょにいたいか

第24話

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 やけにあたりが赤い。

「如月さん、まわり……」
「深まってますね」

 ――様変わりしている。

 廊下はこんなに広かっただろうか。天井はこんなに高かっただろうか。空気はこんなに湿っていただろうか。
 窓の向こう、こちらをのぞきこむ猫の双眸はいつからあっただろう。

「あ」

 紅緒が声を漏らすと同時に、柱を思わせる巨大なものが周囲に突き立てられた。
 その数は四本。

「やべぇっ」

 人面犬の声は悲鳴だった。そうかやばいのだ、と紅緒は納得する。
 白いふわふわの毛に覆われた柱――白猫の足だ。

 そのうちの一本が紅緒に絡みつく。
 毛のかたまりの先から爪が現れた。
 紅緒の身体にぴったりと寄り添い、動くことを躊躇うような鋭さだ。

「あわっ」

 動揺した声を上げたのは人面犬だけだった。紅緒は静かに腹部に回された爪を見下ろし、如月は無言で闇を滴らせている。

「いつの間にこんな近くに……に、においがしねぇ……」

 紅緒の周囲では、白い毛が重さを感じさせない動きでゆっくりと舞っている。毛からにおいは感じないが、人面犬は嗅ぎ取っていたはずなのだ。

「走らんの?」

 ガラガラの濁声とともに、窓や天井や壁からぬるりと白い猫が全身をあらわにする。

「もっと走れ。遊ぼう」

 紅緒を捕捉したまま、巨大な白猫は人面犬に鼻先を近づける。ふんすはっは。舞っていた白い毛が、人面犬の口に吸いこまれる。

 とっさに紅緒は口元を手で覆っていた。
 もしかすると人面犬は、走り回っているうちに白猫の体毛を吸入してしまったのかもしれない。
 蓄積されれば、大量にもなるだろう。
 そのせいで白猫のにおいがわからない――考え過ぎかもしれなかったが、人面犬が呼吸をするごとに白い毛が口内に吸いこまれていた。

 走り、逃げたらどうなるか。
 如月が話していた。逃げ続けるのが有効だと。
 それはほんとうだろうか。
 体躯がちいさいとはいえ、紅緒たちよりずっと足がはやいだろう人面犬でも、白猫の手のひらの上だったのではないか。

 おそらく白猫は、逃げ回る人面犬と遊んでいるつもりだった。

 孤を描くするどい爪を見下ろしていた紅緒は、そっとそれにふれてみた。
 ふふ、と笑う声が頭上からする。見上げたそこには、美しい白猫の顔があった。

「いいにおい、にんげん。おまえも走る?」

 紅緒の身体から白猫の前脚が離れた。

「走らないです。ひとを探してるので」
「探す?」
「私たちみたいな人間です」

 ふふぅん、と白猫は目を逸らした。これは知っていそうだ。

「おまえのにおい、いいにおい」
「いいにおい、しますか?」

 残業続きでくたくたで、終電もとうになくなった時間である。
 くたくた具合に拍車がかかっている。湯船に浸かり、なにも考えずゆっくりしたい。

「たむけるにおいだ」

 ぐいぐいと鼻先が押しつけられる。紅緒は後ろに下がっていく。如月も人面犬もそうだった。
 下がる、下がる――エレベーターの扉を真後ろに控え、それ以上逃げることができなくなる。

「なにかご存じですか?」
「ごぞんじ」

 ふふん、と鼻を鳴らした白猫の瞳孔が、細くなり、そして丸くなる。美しい。紅緒のスカートが引っ張られた。見下ろせば、人面犬が裾に噛みついて首を振っている。

「ワンちゃん」

 スカートを解放した人面犬は、苦しそうな息を吐く。

「たぶらかされるなよ!」

 ぐずぐずと痰の絡んだ湿った音で人面犬は叫ぶ。

「ごぞんじだったら、そいつともっと遊べるか?」
「……ワンちゃんと?」
「そうね、そいつ。ちまちま、楽しい」

 完全に玩具扱いらしい。

「やだよ、俺もうやだよ……走れねぇよ……」

 紅緒のふくらはぎに顔を押しつけ、人面犬がか細い声を上げる。人面犬も怪異の仲間だろうに、走って逃げる以外になにかできないのか。

「遊ぶって追いかけっこですか? いっちゃんが捕まるまで?」
「いっちゃん? それのこと?」

 重く響く音が聞こえる。

 ――エレベーターの駆動音だ。

 エレベーターが上がってくる。階数表示の光を紅緒は見つけた。

「遊んでみて、いっちゃんと仲良くなれますか?」
「なんねぇよ!」

 すかさず人面犬が叫んだとき、チン、と高い音がエレベーターホールに響いた。

「なかよくぅなかよくぅ」
「一緒にいたくなるかどうか、です」

 如月の足が人面犬をエレベーターに蹴りこんだ。
 後ろ手にボタンを押す音が如月の背後――隠れて見えない部分から、人面犬の呻き声と一緒に聞こえた。
 如月は人面犬をエレベーターで逃がそうとしている。

「いっちゃん、ボタンを!」

 如月が短く言い放ち、紅緒は肩越しにそちらを見る。
 エレベーター内で人面犬が階数ボタンに向かってジャンプしていた。顔面でボタンを押そうとしているのだ。

 どの階に向かうかわからないが、ひとまず人面犬が逃げたらなんとかなるかもしれない。
 どこかにいった人面犬と白猫とで、追いかけっこをしてもらえばいいのだ。

「俺も!」

 巨大な白猫が突風のように奔った。

 軽く許容量を超えて見えるのに、白猫はエレベーターに身体を押しこんでいく。収まっていく。
 人面犬の悲鳴が響き渡った。エレベーターの扉が閉まっても、紅緒の耳に届く。

 悲鳴が遠ざかる。
 エレベータは上昇していた。行き先が何階なのかは見届けず、紅緒と如月は背を向ける。

 いまのうちに新人氏を見つけ出せないか――歩き出してみるが、前も後ろも赤い廊下が延々と続いていた。
 赤さはここが白猫の縄張りという証なのだろう。
 エレベーターで白猫が運ばれていったくらいでは、その影響は変わらないらしい。

「いますかね、武藤さん」
「いたらいいですね、武藤くん」

 声にあまり真剣味がない。
 紅緒はとても疲れていた。

 終電はもうない。
 タクシーで帰るのとどこかでカプセルホテルでも探すのでは、どちらのほうが安く上がるだろう。
 暖かくなったら、紅緒は和菓子旅行に出ようと計画していた。できる限り予算を確保しておきたいのだ。

「あ、いましたよ」
「えっ」

 気がつけば、紅緒の視線は足下に落ちていた。
 顔を上げると、新人氏のはにかんだ顔がすぐそこにあった。

 窓の向こう、つい先ほど白猫の双眸が輝いていた場所――窓ガラス越しに新人氏が手を振っていた。
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