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9 道連れということ
第46話
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五月の連休に出かけたかった――しかしスマホが買い換えとなり、見送った。
できるだけ連休のことを考えないようにしていたが、紅緒の失意をよそに、更衣室では行楽予定を話す楽しげな声が行き交っている。
「見た? なんかめっちゃ仲良さそうなんだよね」
「資料室のメンズでしょ? 感じよかったよ」
いつもより遅れて入った更衣室では、資料管理室のメンバーが話題らしい。
資料管理室にアルバイトが入ってから、半月ほどが経っている。
「それそれ。どっちも、どっかのなんかに拉致られてたんでしょ? 片方、旅行中に拉致られてたんだって」
結局豊田の失踪期間は、新人氏同様にどこだかの勉強会に拉致された、という適当な話になっていた。
適当すぎて通るのか心配になったが、どうにかこうにか通ってしまっていた。
豊田も白猫の姿を見ることができ、順応している。遊び相手が増えたと受け取ったのか、白猫は上機嫌だ。
資料管理室にはアルバイトが入り、紅緒はひっくり返っている。
如月が紅緒をひっくり返すと言い出し、なんのことだと思いながら日々を送っていたが、それは突然起こった。
――今朝突然に、だ。
やけに目覚めがよく、顔を洗いに立った洗面所の鏡を前に、紅緒はしばらくぼんやりしていた――そのおかげでいつもの電車に乗り遅れ、走る羽目になった。
ひっくり返すとはこれのことか、と納得できた。
「この時間なの珍しいですね、三嶋さん。おはようございます」
更衣室に入ってきた中川に声をかけられ、紅緒は微笑んだ。
「おはようございます。ちょっと起きてからぼーっとしちゃって」
「あー、そういうのありますよね。そのまま休みたくなったりして」
中川が着替えはじめ、紅緒は廊下に出る。
鼓動が忙しない。
少しばかり制服のサイズが合わなくなっている。入ったものの、スカートはきつくなっていた。
総務部に入るまでに、見知った顔の何人かと挨拶をした。
みないつも通りの態度で、欠伸をしていたり軽い世間話をしたりする。
「おはようございます」
紅緒はそう声をかけながら、総務部のドアを開けた。
数人のメンバーがそこにおり、そのなかに如月もいる。
挨拶をしながら自分の席に腰を下ろすと、紅緒はブロックメモに短い伝言を書き留めた。
となりの如月に、投げるように渡す。
――ひっくり返るってこれですか。
走り書きの返事の添えられたメモが返ってくる。
――です。
事前になにか説明のしようがあっただろう。文句を言いたくもなったが、ドアが叩かれる音に紅緒は口をつぐんだ。
「失礼します、おはようございまぁす」
顔をのぞかせたのは、人事の志尾という女性だ。
親交のない相手だが、五十路前でも揚げ物を大量に食べられる胃の持ち主だ、と居成が尊敬を滲ませながら以前話していた。
「どうしました、志尾さん」
居成が腰を上げると、志尾は書類を挟んであるクリアファイルを示した。
「三嶋さん、いらっしゃいますか?」
「私ですか?」
紅緒が席を立つと、彼女は大股に机にやってくる。
活力に溢れた顔立ちをしていて、確かに揚げ物など敵ではなさそうだ。
「始業前にごめんなさい、ちょっとミスがあって……こちらなんですけど」
広げられた書類は紅緒の履歴書といってよかった――人事でパソコンに入力したものを、印刷したようだ。
「ごめんなさい、訂正したから問題ないと思うんだけど、入力ミスが見つかったんです。お耳に入れるだけでも」
ここ、と彼女が指差したのは、紅緒の年齢だった。
「フォーマットを統一するってことになって、今年の頭に作業したんですよ。年齢を二十六じゃなくて六十二って入力していて」
「ああ……それは」
――ひっくり返った。
「作業印がなくて、誰のミスかはわからないんですけど、今後こんなことがないようにしますので」
居成が笑いながら近づいてきて、紅緒は広げられていた書類をまとめた。
「逆にして入れちゃったのか、気がつきやすいのでよかったじゃないですか。今後気をつけましょう」
「はい、すみませんでした」
きっちりと頭を下げ志尾が総務のフロアを出ていくと、入れ替わりに中川が入ってきた。
始業時間となり、朝礼があり、仕事がはじまり――紅緒はこれまでとおなじように働いた。
昼食に仕出し弁当を食べ、夕方まで眠気を覚えながらまた働く。
いつも通りだ。
ひっくり返ったことに、誰も気がついていない。
定時となり、紅緒は総務部を出た足で資料管理室に向かった。
ことことと階段をのぼっていく。
若返ったところで筋力が劇的に上がるわけではないようだ。
階段を駆け上がってみたが、すぐに後悔した。
肩で息をして入室した紅緒に、武藤が目を丸くしている。
「失礼します」
「……三嶋さん、です?」
「はい」
「えっと……そう、ですよね」
武藤は口ごもり、それから笑い出した。
短い時間だったが彼は笑い、それから作業机で身体を伸ばしていた白猫を撫でる。
そこに白猫がいるのだ、紅緒の年齢が変わることもある――そう思ってくれるだろうか。
資料管理室は棚の連なった部屋だ。
見れば退社する支度をしていたらしく、作業机もその周辺も片づいている。
「三嶋さん来たんですかぁ?」
奥から豊田の声がし、顔を見せた彼は紅緒を見てやはり目を丸くした。
豊田は狂ったように笑い転げた。
白猫の腹に顔を埋め、くるしいと呻き、いひいひいひと声を出す。
「大丈夫ですか? 先に断ってから来ればよかったですね」
紅緒が背中をさすると、豊田は首を振って深呼吸をする。
「先に知ってても、見たらやっぱりびっくりしたと……いやほんとびっくりしましたよぉ」
「私もびっくりしてます」
何事もないような目を向けてくるのは、白猫だけだ。
「顔を見せに来ただけなんです。髪を切ったとか、そういうレベルの変わり方じゃないと思ったので」
「べにぃ、かわった?」
紅緒は白猫の鼻先を両手で包んだ。
「においおなじ」
ふが、と白猫がにおいを嗅ぐ感触がする。紅緒は微笑んでいた。
「もしにおいが変わったら、教えてください」
「まかせろ」
若返るというのは、どういうことなのだろう。
過剰に与えられた――そんな感覚が拭えない。
一度死に地獄に落ちるまでの経緯から、紅緒はこの世に生きるのは公平なことではないと身に沁みて知っていた。
毟り取られることがある。
強奪はふいに吹く風に似ていた。その風にすべてを奪われるのは紅緒だけではない。誰にでも起こる。
奪われた後、さらにひどいことも起こり得る。
そんなものだ。
だが与えられるものもいる。
大抵それは、強奪する側だ。
他者のものを奪い、他者に与える。
若返ったことで、紅緒は知らないうちに莫大な借りをつくっているのかもしれない。
薄ら寒い気持ちを飲み下し、紅緒は更衣室に向かった。
「三嶋さん、いま帰りですか?」
声がかかる。
「この間の焼き鳥、また行きませんか?」
「席、空いてないかもしれないですよ」
人気店ですから――そう続けようとした紅緒に、彼はスマホを見せてくる。
「予約取れました。着替えたら店で待ち合わせましょう」
如月はそういい、ぼたぼたと闇を滴らせた。
できるだけ連休のことを考えないようにしていたが、紅緒の失意をよそに、更衣室では行楽予定を話す楽しげな声が行き交っている。
「見た? なんかめっちゃ仲良さそうなんだよね」
「資料室のメンズでしょ? 感じよかったよ」
いつもより遅れて入った更衣室では、資料管理室のメンバーが話題らしい。
資料管理室にアルバイトが入ってから、半月ほどが経っている。
「それそれ。どっちも、どっかのなんかに拉致られてたんでしょ? 片方、旅行中に拉致られてたんだって」
結局豊田の失踪期間は、新人氏同様にどこだかの勉強会に拉致された、という適当な話になっていた。
適当すぎて通るのか心配になったが、どうにかこうにか通ってしまっていた。
豊田も白猫の姿を見ることができ、順応している。遊び相手が増えたと受け取ったのか、白猫は上機嫌だ。
資料管理室にはアルバイトが入り、紅緒はひっくり返っている。
如月が紅緒をひっくり返すと言い出し、なんのことだと思いながら日々を送っていたが、それは突然起こった。
――今朝突然に、だ。
やけに目覚めがよく、顔を洗いに立った洗面所の鏡を前に、紅緒はしばらくぼんやりしていた――そのおかげでいつもの電車に乗り遅れ、走る羽目になった。
ひっくり返すとはこれのことか、と納得できた。
「この時間なの珍しいですね、三嶋さん。おはようございます」
更衣室に入ってきた中川に声をかけられ、紅緒は微笑んだ。
「おはようございます。ちょっと起きてからぼーっとしちゃって」
「あー、そういうのありますよね。そのまま休みたくなったりして」
中川が着替えはじめ、紅緒は廊下に出る。
鼓動が忙しない。
少しばかり制服のサイズが合わなくなっている。入ったものの、スカートはきつくなっていた。
総務部に入るまでに、見知った顔の何人かと挨拶をした。
みないつも通りの態度で、欠伸をしていたり軽い世間話をしたりする。
「おはようございます」
紅緒はそう声をかけながら、総務部のドアを開けた。
数人のメンバーがそこにおり、そのなかに如月もいる。
挨拶をしながら自分の席に腰を下ろすと、紅緒はブロックメモに短い伝言を書き留めた。
となりの如月に、投げるように渡す。
――ひっくり返るってこれですか。
走り書きの返事の添えられたメモが返ってくる。
――です。
事前になにか説明のしようがあっただろう。文句を言いたくもなったが、ドアが叩かれる音に紅緒は口をつぐんだ。
「失礼します、おはようございまぁす」
顔をのぞかせたのは、人事の志尾という女性だ。
親交のない相手だが、五十路前でも揚げ物を大量に食べられる胃の持ち主だ、と居成が尊敬を滲ませながら以前話していた。
「どうしました、志尾さん」
居成が腰を上げると、志尾は書類を挟んであるクリアファイルを示した。
「三嶋さん、いらっしゃいますか?」
「私ですか?」
紅緒が席を立つと、彼女は大股に机にやってくる。
活力に溢れた顔立ちをしていて、確かに揚げ物など敵ではなさそうだ。
「始業前にごめんなさい、ちょっとミスがあって……こちらなんですけど」
広げられた書類は紅緒の履歴書といってよかった――人事でパソコンに入力したものを、印刷したようだ。
「ごめんなさい、訂正したから問題ないと思うんだけど、入力ミスが見つかったんです。お耳に入れるだけでも」
ここ、と彼女が指差したのは、紅緒の年齢だった。
「フォーマットを統一するってことになって、今年の頭に作業したんですよ。年齢を二十六じゃなくて六十二って入力していて」
「ああ……それは」
――ひっくり返った。
「作業印がなくて、誰のミスかはわからないんですけど、今後こんなことがないようにしますので」
居成が笑いながら近づいてきて、紅緒は広げられていた書類をまとめた。
「逆にして入れちゃったのか、気がつきやすいのでよかったじゃないですか。今後気をつけましょう」
「はい、すみませんでした」
きっちりと頭を下げ志尾が総務のフロアを出ていくと、入れ替わりに中川が入ってきた。
始業時間となり、朝礼があり、仕事がはじまり――紅緒はこれまでとおなじように働いた。
昼食に仕出し弁当を食べ、夕方まで眠気を覚えながらまた働く。
いつも通りだ。
ひっくり返ったことに、誰も気がついていない。
定時となり、紅緒は総務部を出た足で資料管理室に向かった。
ことことと階段をのぼっていく。
若返ったところで筋力が劇的に上がるわけではないようだ。
階段を駆け上がってみたが、すぐに後悔した。
肩で息をして入室した紅緒に、武藤が目を丸くしている。
「失礼します」
「……三嶋さん、です?」
「はい」
「えっと……そう、ですよね」
武藤は口ごもり、それから笑い出した。
短い時間だったが彼は笑い、それから作業机で身体を伸ばしていた白猫を撫でる。
そこに白猫がいるのだ、紅緒の年齢が変わることもある――そう思ってくれるだろうか。
資料管理室は棚の連なった部屋だ。
見れば退社する支度をしていたらしく、作業机もその周辺も片づいている。
「三嶋さん来たんですかぁ?」
奥から豊田の声がし、顔を見せた彼は紅緒を見てやはり目を丸くした。
豊田は狂ったように笑い転げた。
白猫の腹に顔を埋め、くるしいと呻き、いひいひいひと声を出す。
「大丈夫ですか? 先に断ってから来ればよかったですね」
紅緒が背中をさすると、豊田は首を振って深呼吸をする。
「先に知ってても、見たらやっぱりびっくりしたと……いやほんとびっくりしましたよぉ」
「私もびっくりしてます」
何事もないような目を向けてくるのは、白猫だけだ。
「顔を見せに来ただけなんです。髪を切ったとか、そういうレベルの変わり方じゃないと思ったので」
「べにぃ、かわった?」
紅緒は白猫の鼻先を両手で包んだ。
「においおなじ」
ふが、と白猫がにおいを嗅ぐ感触がする。紅緒は微笑んでいた。
「もしにおいが変わったら、教えてください」
「まかせろ」
若返るというのは、どういうことなのだろう。
過剰に与えられた――そんな感覚が拭えない。
一度死に地獄に落ちるまでの経緯から、紅緒はこの世に生きるのは公平なことではないと身に沁みて知っていた。
毟り取られることがある。
強奪はふいに吹く風に似ていた。その風にすべてを奪われるのは紅緒だけではない。誰にでも起こる。
奪われた後、さらにひどいことも起こり得る。
そんなものだ。
だが与えられるものもいる。
大抵それは、強奪する側だ。
他者のものを奪い、他者に与える。
若返ったことで、紅緒は知らないうちに莫大な借りをつくっているのかもしれない。
薄ら寒い気持ちを飲み下し、紅緒は更衣室に向かった。
「三嶋さん、いま帰りですか?」
声がかかる。
「この間の焼き鳥、また行きませんか?」
「席、空いてないかもしれないですよ」
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