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10 生きた怪異のする仕事
第54話
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「ここに引っ越す予定なんです」
古びてはいるが、大きな家があった。
三世代くらいの大家族でも暮らせるのではないか、そんな家を転居先に決めたという如月の横顔をまじまじと見つめた。
いくら古くても、大きい家は単純に家賃も張る。
知らないだけで、大家族なのだろうか。
紅緒の視線を受けても、如月は気にしていないようだ。
コンビニで買ったおにぎりを口にした如月は、ぐるりと周囲を指先でしめしていく。
如月が咀嚼中のため、彼の言葉を待たずに紅緒はあたりを見回した。
「……へんなところですね」
空気が薄く、街灯の数は十分そうなのにあたりは薄暗い。
周囲の家々から明かりが漏れていないのだ。
「お留守のお宅が多いんですかね」
まだ時刻は十時になる前だが、周囲はやけに静かだ。
「夜にどんな感じか、確かめに来たんですか? 私が来る必要なかったんじゃ」
昼夜、平日と休日――住まいの環境がそれぞれどんなふうに変化するか、確認するのはいいことだ。
おにぎりをかじり、あたりを見回す。
「副業の話、早めにしておいたほうがいいかと。八尺御寮のことも確かめたかったので」
タクシーの車窓、道端に立つワンピースの女――八尺御寮を紅緒は見つけていた。
結界石で守られた道には入れないようだが、紅緒たちが乗りこんだタクシーはそこから外れた道路を走っていた。
走り出したタクシーの背後、彼女の視線を感じた。
紅緒だけでなく、如月も彼女に気がついていたようだ。
タクシーに揺られたのは三十分弱、到着した場所は立地としては上等なはずだ。
会社も繁華街も近く、大きな商店街もある。
到着するまでの道は明るく、大きな病院も公園もあった。
「このあたり、住んでるひとはいないんです」
静かな家々に目を向ける。暗いのはそのせいらしいが、無人となると首をかしげてしまう。
「点いてますよ」
紅緒は家々の玄関先に灯る明かりを指差す。
家から光は漏れていないが、玄関灯は煌々としたものだ。
「いちおう、住んでいる体にはなってます。このあたり、あまりに土地が穢いので確保してあるんです」
コンビニのビニール袋からもうひとつおにぎりを取り出す。昆布だ。紅緒はそれを割り、半分を如月に手渡した。
「土地が穢い?」
「平たくいうと、呪われた土地ですね。ひとが暮らすとえらい目に遭います」
「どんな」
「壊れます」
そこに如月が引っ越す――それはどういう状況なのか。
「壊れるところに引っ越すってことは、もう如月さんは壊れてるってことですか?」
「そんなわけないでしょう、俺は壊れません」
如月はおにぎりを咥え、ポケットから鍵を取り出した。
その先端が暗い家を指し示す。
門扉があり、家とちいさな庭はぐるりと塀に囲まれている。
横板を敷き詰めたような塀の隙間から、紅緒は家をのぞいてみた。そこには暗い家があるだけだ。
「三件連続殺人の現場になったんですが、死体遺棄現場が離れてるんですよ。あと異状死が二件。いまはちょっとした心霊スポットってことで」
「ここに住むんですよね? 如月さん」
「三嶋さんもどうです? どこでも好きな家を選んでいいですよ」
「いまのアパートで十分です」
「家賃かからないですよ」
引っ越すつもりはさらさらないが、紅緒は玄関灯だけが灯っている家々に視線を走らせていた。どれも外観がきれいだ。
「どこからどこまでが、悪い土地なんですか?」
「穢いだけで、悪くはないです。このへん一帯は全部そうですね。あっちに貸倉庫があって、こっちに材木置き場があります。で、そっちには時間貸しの駐車場。そのあたりまでですね、穢いのは」
あっちこっちそっち、とそれぞれの道の先を如月は指していった。現在地はどんづまりだ。
「掃除してもきれいにならないですよね、そういう穢さって」
「恨みがどうのって次元じゃないですから、時間が経って薄くなるのを待つ感じで……百年あったらどうなってるかなぁ」
如月の顔がそっちと説明していたほうを向く。
「めずらしい」
ひとが歩いてくる――二人組だ。
あちらもあちらで、家の前に建つ紅緒たちに気がつき、なにやらこそこそ話している。
無人だと思っていたのかもしれない。そんな態度だ。
「如月さん、なかに入りますか?」
「あのひとたち、見た顔ですね」
如月がそちらに向かって会釈をする。
ノイズ混じりの如月の頭と、やってくる若い男性たち。
見比べていた紅緒は、彼らが動画配信を勤しむ顔だと思い当たっていた。
「如月さん、マチマチャンネルってひとですよ」
こっそり囁くと、如月は首をかしげた。
「誰でしたっけ」
「豊田さんの」
「……ああ、はいはい、あーね」
有志が集まって制作した番組を、ネット上で動画配信しているのだ。
それを指してなんと呼べばいいのか、紅緒にはよくわからない。
紅緒が即座にそうと気づけたのは、彼らが身に着けたスタッフジャンパーの胸元に、マチマチという文字とテレビを模したらしいシンボルが描かれていたからだ。
「こんばんはぁ、ご近所の方ですか?」
高めの聞き取りやすい声だ。
「急にすみません、僕たちマチマチャンネルっていう番組制作をしているものです。取材をしているんですが、お話うかがえませんか?」
「お時間いただいて大丈夫ですか?」
まだ住民といっていないのに、彼らは話しはじめている。
「僕は町谷といいます、こっちが清水で……怖い噂、みたいなのを調べてます」
マチマチャンネルでもなんでもいい。
紅緒はどうこたえたものか、如月を見上げた。べたりと大粒の闇が滴り、その下で彼が微笑んでいる。
任せてしまおう。
「噂って、ここの曰く付き物件だっていうアレですか?」
そんな話があるのか。
「お耳に入ってますか? でもあの……なんというか、お住まいの方で……?」
「いえ、これから引っ越してくるんです。噂になってるみたいですが、曰く付きだなんてとんでもないですよ。家の持ち主の方、噂に困ってらして」
「なんでも殺人があったとか、以前住んでいた方が浴槽で亡くなられて、その」
ひどい内容だ。これから住むという相手を前に、よく言えたものである。
「ああ、湯船で溶けたっていうやつですよね」
如月の声に笑いが滲む。
滲んでいるだけで、見せかけのものだ。
紅緒は手に提げたコンビニのビニール袋を持ち直した。残っているおにぎりはあとひとつだ。
「そういうお話は気にされないんでしょうか」
「とんでもない、家主さんと知り合いなんです。浴槽での件ですが、出棺前にお別れしましたよ。溶けてなんていませんでしたから……どこから噂が出たのかわからないですけど、家主さん困ってました」
如月が笑い、マチマチャンネルのふたりは追従のような笑い方をした。
「それで……これからここに住むんですよね、おふたりで?」
「え」
紅緒は驚いて思わず声を漏らす。
そんなふうに見えてしまったか。如月から少し離れて立ったほうがいいかもしれない。
「そうです、仕事帰りなんです。家具を買うので部屋の寸法を測りにきて――そろそろいこうか。では失礼します」
「ありがとうございました!」
紅緒は如月の手のひらを背に感じながら、暗い家に足を向けていった。
古びてはいるが、大きな家があった。
三世代くらいの大家族でも暮らせるのではないか、そんな家を転居先に決めたという如月の横顔をまじまじと見つめた。
いくら古くても、大きい家は単純に家賃も張る。
知らないだけで、大家族なのだろうか。
紅緒の視線を受けても、如月は気にしていないようだ。
コンビニで買ったおにぎりを口にした如月は、ぐるりと周囲を指先でしめしていく。
如月が咀嚼中のため、彼の言葉を待たずに紅緒はあたりを見回した。
「……へんなところですね」
空気が薄く、街灯の数は十分そうなのにあたりは薄暗い。
周囲の家々から明かりが漏れていないのだ。
「お留守のお宅が多いんですかね」
まだ時刻は十時になる前だが、周囲はやけに静かだ。
「夜にどんな感じか、確かめに来たんですか? 私が来る必要なかったんじゃ」
昼夜、平日と休日――住まいの環境がそれぞれどんなふうに変化するか、確認するのはいいことだ。
おにぎりをかじり、あたりを見回す。
「副業の話、早めにしておいたほうがいいかと。八尺御寮のことも確かめたかったので」
タクシーの車窓、道端に立つワンピースの女――八尺御寮を紅緒は見つけていた。
結界石で守られた道には入れないようだが、紅緒たちが乗りこんだタクシーはそこから外れた道路を走っていた。
走り出したタクシーの背後、彼女の視線を感じた。
紅緒だけでなく、如月も彼女に気がついていたようだ。
タクシーに揺られたのは三十分弱、到着した場所は立地としては上等なはずだ。
会社も繁華街も近く、大きな商店街もある。
到着するまでの道は明るく、大きな病院も公園もあった。
「このあたり、住んでるひとはいないんです」
静かな家々に目を向ける。暗いのはそのせいらしいが、無人となると首をかしげてしまう。
「点いてますよ」
紅緒は家々の玄関先に灯る明かりを指差す。
家から光は漏れていないが、玄関灯は煌々としたものだ。
「いちおう、住んでいる体にはなってます。このあたり、あまりに土地が穢いので確保してあるんです」
コンビニのビニール袋からもうひとつおにぎりを取り出す。昆布だ。紅緒はそれを割り、半分を如月に手渡した。
「土地が穢い?」
「平たくいうと、呪われた土地ですね。ひとが暮らすとえらい目に遭います」
「どんな」
「壊れます」
そこに如月が引っ越す――それはどういう状況なのか。
「壊れるところに引っ越すってことは、もう如月さんは壊れてるってことですか?」
「そんなわけないでしょう、俺は壊れません」
如月はおにぎりを咥え、ポケットから鍵を取り出した。
その先端が暗い家を指し示す。
門扉があり、家とちいさな庭はぐるりと塀に囲まれている。
横板を敷き詰めたような塀の隙間から、紅緒は家をのぞいてみた。そこには暗い家があるだけだ。
「三件連続殺人の現場になったんですが、死体遺棄現場が離れてるんですよ。あと異状死が二件。いまはちょっとした心霊スポットってことで」
「ここに住むんですよね? 如月さん」
「三嶋さんもどうです? どこでも好きな家を選んでいいですよ」
「いまのアパートで十分です」
「家賃かからないですよ」
引っ越すつもりはさらさらないが、紅緒は玄関灯だけが灯っている家々に視線を走らせていた。どれも外観がきれいだ。
「どこからどこまでが、悪い土地なんですか?」
「穢いだけで、悪くはないです。このへん一帯は全部そうですね。あっちに貸倉庫があって、こっちに材木置き場があります。で、そっちには時間貸しの駐車場。そのあたりまでですね、穢いのは」
あっちこっちそっち、とそれぞれの道の先を如月は指していった。現在地はどんづまりだ。
「掃除してもきれいにならないですよね、そういう穢さって」
「恨みがどうのって次元じゃないですから、時間が経って薄くなるのを待つ感じで……百年あったらどうなってるかなぁ」
如月の顔がそっちと説明していたほうを向く。
「めずらしい」
ひとが歩いてくる――二人組だ。
あちらもあちらで、家の前に建つ紅緒たちに気がつき、なにやらこそこそ話している。
無人だと思っていたのかもしれない。そんな態度だ。
「如月さん、なかに入りますか?」
「あのひとたち、見た顔ですね」
如月がそちらに向かって会釈をする。
ノイズ混じりの如月の頭と、やってくる若い男性たち。
見比べていた紅緒は、彼らが動画配信を勤しむ顔だと思い当たっていた。
「如月さん、マチマチャンネルってひとですよ」
こっそり囁くと、如月は首をかしげた。
「誰でしたっけ」
「豊田さんの」
「……ああ、はいはい、あーね」
有志が集まって制作した番組を、ネット上で動画配信しているのだ。
それを指してなんと呼べばいいのか、紅緒にはよくわからない。
紅緒が即座にそうと気づけたのは、彼らが身に着けたスタッフジャンパーの胸元に、マチマチという文字とテレビを模したらしいシンボルが描かれていたからだ。
「こんばんはぁ、ご近所の方ですか?」
高めの聞き取りやすい声だ。
「急にすみません、僕たちマチマチャンネルっていう番組制作をしているものです。取材をしているんですが、お話うかがえませんか?」
「お時間いただいて大丈夫ですか?」
まだ住民といっていないのに、彼らは話しはじめている。
「僕は町谷といいます、こっちが清水で……怖い噂、みたいなのを調べてます」
マチマチャンネルでもなんでもいい。
紅緒はどうこたえたものか、如月を見上げた。べたりと大粒の闇が滴り、その下で彼が微笑んでいる。
任せてしまおう。
「噂って、ここの曰く付き物件だっていうアレですか?」
そんな話があるのか。
「お耳に入ってますか? でもあの……なんというか、お住まいの方で……?」
「いえ、これから引っ越してくるんです。噂になってるみたいですが、曰く付きだなんてとんでもないですよ。家の持ち主の方、噂に困ってらして」
「なんでも殺人があったとか、以前住んでいた方が浴槽で亡くなられて、その」
ひどい内容だ。これから住むという相手を前に、よく言えたものである。
「ああ、湯船で溶けたっていうやつですよね」
如月の声に笑いが滲む。
滲んでいるだけで、見せかけのものだ。
紅緒は手に提げたコンビニのビニール袋を持ち直した。残っているおにぎりはあとひとつだ。
「そういうお話は気にされないんでしょうか」
「とんでもない、家主さんと知り合いなんです。浴槽での件ですが、出棺前にお別れしましたよ。溶けてなんていませんでしたから……どこから噂が出たのかわからないですけど、家主さん困ってました」
如月が笑い、マチマチャンネルのふたりは追従のような笑い方をした。
「それで……これからここに住むんですよね、おふたりで?」
「え」
紅緒は驚いて思わず声を漏らす。
そんなふうに見えてしまったか。如月から少し離れて立ったほうがいいかもしれない。
「そうです、仕事帰りなんです。家具を買うので部屋の寸法を測りにきて――そろそろいこうか。では失礼します」
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