愛姫と伊達政宗

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時代を生き、輝かせた女人   愛姫と伊達政宗

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愛姫と伊達政宗

目次
一 喜多、誕生
二 政宗の乳母、喜多
三 喜多の活躍
四 故郷に戻る喜多
五 愛姫(1548-1648)と伊達政宗
六 愛姫実家、田村家取りつぶし
七 愛姫と政宗、愛の始まり
八 愛姫の力
九 愛姫の養子、田村宗顕
一〇 政宗が愛した女
一一 政宗の子たち
一二 愛姫の心意気
一三 政宗の死
一四 愛姫と忠宗
一五 忠宗の藩政
一六 忠宗と側室の子たち
一七 藩主、吉村の祖母

一 喜多、誕生
 伊達家当主、輝宗の妻、義姫待望の嫡男、政宗は、一五六七年九月五日、生まれる。
一五六四年、最上家を守る為に一六歳で伊達家に嫁いだ義姫は、早く嫡男を生みたくてたまらなかった。
両家の絆となり、最上家の安泰に役立つために、伊達家嫡男の母となると決意していたからだ。
 神仏にご加護を求め、三年後、待ちに待った嫡男が生まれた。
感謝の思いを込め、神様に捧げた御幣(神飾り)から幼名を梵天(ぼんてん)と名付けた。
可愛くてならず、感謝の思いがあふれ出て、強く抱きしめる日々だ。

 伊達家は、人質として義姫を迎え入れ、輝宗と結婚式を挙げた。
嫡男が生まれるのは、大歓迎だが最上家の影響力は極力抑える必要があった。
輝宗も立場を忘れることはない、義姫の美貌才知がとても気に入り、仲睦まじい暮らしを送った。
出来うる限り閨を共にし、子の誕生を願ったが、嫡男の養育に対しては冷静だった。
 政宗の守役小姓を慎重に選ぶ。
義姫が推す最上家縁の乳母は選ばず、伊達家中から乳母を幾人か選び、義姫に引き合わす。
最終決定は、義姫の判断に任せた。

 その時、義姫は、片倉喜多に出会った。
どこか共通項を感じて、目の覚める思いで、見つめ続けた。
義姫より一〇歳年長だが話すと、勇ましさ賢さに驚かされ、流れ出る言葉は巧みで飽きさせない。
伊達家中にもこのような女人がいたと安心する。
筆頭乳母とし、政宗を任せることにする。
喜多(1538 -1610)の母の実家、本沢氏は最上家に仕えていた。
最上氏に近い喜多であり、輝宗が義姫を喜ばせたいと見つけてくれたのだ。
輝宗の愛情もうれしい。

 喜多は責任の重さに身を引き締める。
義姫・輝宗の意に沿いながら、政宗の乳母・侍女をまとめ、政宗を育てると誓う。
喜多の強い責任感は、政宗はもちろん、選ばれた小姓・近習にも影響力を及ぼしていく。
輝宗はその様子を嬉しそうに見守る。

 政宗は義姫の子である以上に、伊達家嫡男として大切にされ、喜多を中心に乳母近習に囲まれ育っていく。
義姫は政宗が遠い存在になっていくように感じ寂しく思うほどだ。
ただ次々子が生まれ、政宗を想うばかりではないが。
一五六八年、次男、政道が生まれる。

 次男、政道には、義姫の推す乳母が付き、愛情すべてを注ぐことが出来た。
続いて、千子姫が生まれ、誕生を喜んだが、病弱で、気をもむうち五歳で亡くなる。
あまりにつらい経験だった。
続いて、次女が授かるも死産。
生みの苦しみを耐えたのに、誕生を喜ぶことさえできなかった。
子を生むことのつらさ、子を失くすことの情けなさが身にしみ、涙があふれた。
二人の子が育てば十分だと子を成す事をあきらめる。

 結局、義姫が自由に抱き、会えるのは、政道だけとなる。
政宗は、義姫の正室としての存在を確固としてくれた大切な嫡男だ。
それでも、遠慮しながら会う嫡男より、自由に会い抱きしめることができる政道が可愛くなる。
溺愛していく。

 輝宗が全幅の信頼を置き、義姫以上に幼い政宗に影響を与えた片倉喜多。
鬼庭(おににわ)良直(よしなお)(1513-1586)の娘であり、片倉景綱の姉であり、鬼庭(おににわ)綱元(つなもと)の姉になる。
少し複雑だが、母が再婚したためだ。
 母は本沢真直の娘、本沢直子。
 
 鬼庭氏。
山城国愛宕郡八瀬(京都市)を発祥の地とし、一一九二年、下総国佐倉、次いで下野国那須へと移り陸奥国伊達郡茂庭に土着する。
 譲位した天皇が国政を執る院政が続き、内部対立があった平安末期。
平清盛・源義朝ら武士の棟梁がそれぞれの法皇らに従い戦う。
その為、京の町は、戦禍を被り、疲弊していく。
 その平安末期の戦乱の中で、京を逃れる多田源氏を祖とする武将がいた。
縁ある地に移り住み、伊達郡茂庭に落ち着く。

 茂庭(もにわ)氏を名乗ろうとした。
当主、茂庭(もにわ)実良の武勇伝が起きた。
茂庭村飯田沼に、いけにえの乙女を求めて暴れる大蛇がいた。
村人は恐怖の中で、いけにえを差し出し、困り果てた。
その時、勇猛な武将、茂庭(もにわ)実良が、大蛇を殺し村人を救った。
その武勲をたたえ、村人は、村の名を茂庭から鬼庭に変えた。
この地を名をとって称した茂庭(もにわ)氏も鬼庭氏に変える。
そして、伊達家に仕え、譜代の臣となる。
 時を経て、秀吉が、鬼庭氏ではなく茂庭(もにわ)氏を姓とするよう命じ、変えた。

 一三八〇年、勢力拡大にひたすら励む伊達氏は、陸奥国伊達郡から出羽国置賜郡(おいたまぐん)長井荘(山形県長井市)に侵攻し、この地を治めていた長井氏を追放した。
長井氏は大江氏嫡流で、宗家を引き継いでいた。
弟が毛利氏の祖だ。

 この時、先陣を務め長井領に侵攻したのが茂庭(もにわ)氏。
本拠、茂庭郷から奥へ進み稲子峠を経て七ヶ宿、次いで新宿峠を一気に駆け下り高畑に進攻し押さえた。
以後、置賜郡(おきたまぐん)(長井郡)は伊達領となり、功のあった茂庭氏に任された。
最上領と境を接する地域であり、茂庭氏は最上家重臣と、緊張関係にありながらも付き合いも深めていく。

 時が過ぎ、ますます伊達氏の野望は大きくなり、長井荘だけでは満足できない。
伊達家当主、稙宗(1488-1565)は、最上領が欲しくなり、侵攻し勝利していく。
 一五一五年、最上家当主、義定は、最上領を守るため苦渋の選択をする。
稙宗の妹と結婚し、伊達家の影響下に入る和議を結んだ。

 ここから、茂庭良直の父、元実は、最上家への監視の役目を担う。
一五二〇年、最上義定が後継なく亡くなり、後継者を巡って内紛が起きる。
稙宗は、伊達家縁の養子を送り込もうとしたが、最上氏重臣・出羽の国人衆の激しい反対にあう。
 一戦交えて決着をつける余裕はなく、断念し、影響力を保持する道を選ぶ。
一五二二年、最上一族からまだ一歳の義守を迎え、当主とすることを了解した。
伊達家は義守の後見となり、最上家への影響力を一層強めた。

 幼君ゆえ、伊達家と最上家の取次を命じられた茂庭良直の父、元実の役目は大きく、重くなる。
最上家重臣との付き合いを深め、連絡を密にし、伊達家の意向を行き届かせていく。
 そこで、一五三五年、嫡男、良直と最上家重臣、本沢真直の娘、本沢直子の結婚を執り行った。
本沢氏は、最上家の誇る勇猛な武将、飯田氏・氏家氏・谷氏などと縁戚で、伊達家との取次役をこなしていた。
一五三八年、喜多が生まれる。

 一五四二年、稙宗・晴宗親子が戦う天文の乱が始まった。
良直は父と共に晴宗方に属して戦った。
ここで、最上家は、最上領の回復と独立化の絶好の機会が来たと稙宗に掛けた。
晴宗方、良直と稙宗方、最上氏・本沢真直の戦いとなる。

 良直は、戦いを避けたく、本沢氏・飯田氏・氏家氏・谷氏らに晴宗に与するよう頼む。
だが、聞き入れられない。
戦いが続き、蘆名氏が晴宗方になった。
ここで、ようやく、最上家も情勢を知り、晴宗に与する。

 この間、良直は、最上家に裏切られたと情けなく、腹立たしかった。
次第に、妻、本沢真直の娘、本沢直子と疎遠になる。
共に戦う晴宗方の主力武将、中野宗時・牧野久仲父子との縁が深まる。
 ここで、牧野一族、牧野刑部の娘と出会う。
愛を育み、一五四九年、綱元が生まれる。

 綱元の誕生を祝うように、晴宗は、恩賞として出羽国置賜郡(おきたまぐん)長井郷二千石を茂庭良直に与えた。
ここから、茂庭良直は、伊達家重臣となる。
居城を川井城(山形県米沢市川井)とし、父祖の地である茂庭村から移る。
実質支配していた地だが、伊達家重臣として認められて与えられた地であり、胸張って川井城に移る。
ここで、良直は、牧野刑部の娘との結婚を決め、本沢直子に伝えた。
 
 本沢直子は予期していた。
だが、喜多が生まれており実家に戻りたくなかった。
喜多が、群を抜く賢さを見せ始め、感動するほどだったからだ。
伊達家中で、その才を活かす場、結婚をさせたかった。
鬼庭良直も同感で、行く末をどうすべきか共に考える。

 対外的な離縁の理由は。
直子に嫡男を望んだが、喜多以外の子が生まれなかった。
喜多が生まれて一〇年が過ぎ、直子が子をなすことをあきらめた。
そこで、牧野刑部の娘を側室に迎え、望み通り、一五四九年、喜多の弟、鬼庭綱元が誕生。
本沢直子が、嫡男の母は正室であるべきだと言い、鬼庭良直も合意。
そこで、本沢直子と離縁し、牧野刑部の娘と再婚。となったということだ。
牧野一族は、戦功著しく、正室にふさわしい家柄だった。

 こうして、本沢直子は、自らの名誉を守りつつ、再婚相手を探すことにした。
すると、結婚相手を探す米沢八幡宮(川西町塩の沢)神職であり武将でもある片倉景重を紹介される。
鬼庭良直とも顔見知りで、才媛として評判の最上家重臣、本沢真直の娘、直子の自尊心を満足させる相手だった。
 片倉景重は、先妻との間に嫡男、片倉景重が生まれており、先妻と死別した再婚だ。
再婚なのに、格上の鬼庭(おににわ)氏から直子を迎えるのは、申し訳ないと片倉家は恐縮する。

 直子は、笑い気にしなかった。
「子を生むことを望まれない気楽な結婚は望みです」と片倉景重を我が子として責任もって育てると応えた。
 神職の家は、教養が高く名誉もある、と鬼庭(おににわ)良直も大賛成だ。
武将としての地位は低くとも、文人として望む暮らしが出来ると本沢直子は嫁ぐと決めた。
 
 本沢直子が自らの力で探し出した再婚相手だ。
最上氏との縁を切り、伊達家に忠誠を尽くすと、清々しい思いで嫁ぐ。
一五五五年、望まれて、祝福されて、再婚した。
 後のことだが、最上氏改易後、本沢家は、直子一族の招きに応じて片倉家に仕え、筆頭家老となる。

 片倉氏は、古代豪族、金刺部(かなさしべ)氏を始めとし、信濃国伊奈を発祥の地とした。
諏訪大社の神職、諏訪(すわ)大祝(おおほうり)を務めた。
時を経て、一族、繁名が別家を起こし、数代後、為重のとき、出羽国置賜郡小松郷(山形県川西町)に移り住む。
 それから、数代続き当主、景春が斯波家兼に従い、大崎氏に仕えるようになる。
武家として、力を発揮し、勢力を広めた。
 
 片倉景重の父、景時の時、伊達氏に仕えた。
取り次いだのは、茂庭氏だ。
景時の長男、景親が武将として引き継ぎ、伊達家に仕える。
 次男、片倉景重は、知行地近辺の八幡宮の神主の娘と結婚し、米沢八幡神社を引き継ぎ、兄とは別家を興し、伊達家に仕えた。
ここでも、取り次いだのは、茂庭氏だ。
片倉家にとって、茂庭氏は、恩人であり、伊達家中での位置ははるか上だった。

 直子は、信仰心が篤く、片倉景重をよく知っていた。
神主としての教養もあり、武将としても力があると見込んでいた。
それだから、先妻の死後、再婚を申し出たのだ。
片倉景重にとっては、望んでも得られないほど格式が違う直子だ。
幸運に感謝し、喜んで再婚する。

 喜多は、母に従い片倉家に来た。
母は、すぐにでも、喜多を結婚させるつもりだった。
実父、鬼庭良直の元で、勉学に励み、剛健さを磨き、武芸もたしなんでいた。
そして、米沢八幡宮という新しい勉学に適した環境を得て、喜多の英知は開花する。
喜多の持つ才知に感嘆した継父、景重は、勉学の師となり、学識者を招き学ばせ、剣、薙刀、弓、軍学も思う存分に学ばせた。

 片倉景重は、直子と再婚したとき、熟年夫婦だった。
喜多の存在が、二人をより強く結びつけ、景重も直子の才知を愛し、仲睦まじかった。
その愛に包まれ、直子は子を生む年齢を遥かに過ぎた四十歳近くになった一五五七年、弟、片倉小十郎景綱を生む。
予期していなかった慶事に、家中は大喜びだった。

 この年、喜多一九歳。
直子は、景綱の誕生を喜ぶが、それ以上に喜多の行く末を想い焦った。
 喜多は、ずば抜けた才知ゆえに相応しい結婚相手が見つからないのだ。
高名さは高まっていくが、伊達家の一家臣、片倉家の分家の生まれと見なされ、喜多を望む結婚相手はいない。

 実父、鬼庭良直も喜多の結婚相手を、晴宗に願う。
晴宗は、喜多の優秀さに驚くが、結婚相手を見つけるほどの家柄ではなく答えは出ない。
 次第に、喜多は神主の娘であることに誇りを持ち、結婚は望まなくなる。
気の向くままに学び武芸の鍛錬を続ける。
そして、優秀な弟、綱元・景綱の教育に関わることで喜びを見出していく。
 
 晴宗の元、良直は、武勲を挙げ続け、実績を積み重ねた。

 
二 政宗の乳母、喜多
 一五六四年、輝宗(1544-1585)が伊達家当主となる。
最上氏・伊達氏が、同盟を結び、最上氏の義姫が、対立していた伊達家、輝宗に嫁ぐと決まる。
その時、当主の交代を和議の条件とした。
 形式的なことで、輝宗には、当主としての実権はない。
隠居の晴宗と天文の乱で家中最大の実力者となった中野宗時・牧野久仲父子に権力は握られたままだ。

 それでも、輝宗は将来を見越して、自ら優秀な側近を探し、登用していく。
まず、鬼庭良直を評定役(奉行衆よりも格上の役職)に抜擢した。
 ここから、輝宗の伊達家掌握のための戦いが始まる。
一五六六年、蘆名盛氏と和睦し、父、晴宗の反対を押し切って妹、彦姫と盛氏嫡男、盛興と結婚させた。
秘かに晴宗と輝宗が対立した際には盛氏が輝宗を支持する約束を結んだ。
 中野宗時家臣、遠藤基信の才覚を見込んで取り込んでいく。
中野家中に、輝宗の影響力が少しづつ広がっていく。

 まもなく、一五六七年、政宗が生まれる。
良直は、輝宗の側近くで仕え、喜多への想いを輝宗・義姫に話すことがあった。
余りに優秀故、良縁に恵まれず、片倉家を離れられないでいること。
喜多が不憫だが、実父を頼るのを嫌がっていること。
どうすることもできず情けないこと。などなどだ。

 輝宗は、面白く聞いた。
鬼庭良直の娘、喜多に興味を持ち、呼び出し、人となりを確かめ、話に聞いた通りだと納得。
政宗の養育係に、喜多を推し、義姫に会わせる。
 義姫を喜ばせるためでもある。
最上家に縁ある喜多が、政宗の乳母になることを望むはずだからだ。
思った通り義姫は喜び、決まった。

 この時、喜多は、二九歳。
遥か雲の上の人、将来伊達家を継ぐ政宗の乳母に選ばれたことに身を震わす。
結婚はせずに、政宗に生涯を捧げると誓う。
それからは、政宗の側につきっきりで、育てていく。
 
 良直は、妻の縁もあり、一五七〇年の中野宗時・牧野久仲追放の企てに深く関与する。
中野宗時は、稙宗の拡張政策に不満を持ち、越後上杉氏への養子問題をきっかけに晴宗を擁立して反逆、天文の乱を引き起こした。
数年の抗争の末に勝利し、稙宗を隠居に追い込んだ。
勝利の恩賞として数々の特権を得た。
以後、晴宗から与えられた特権をフルに使い、権勢思いのままになる。

 周到な準備をしたうえで、牧野家中に詳しい鬼庭良直と中野家重臣、遠藤基信が謀り、中野宗時・牧野久仲に謀反の疑いありと訴えた。
その旨聞いた輝宗は追討を命じた。
 宗時は、晴宗と計らい、時期を待つと、相馬盛胤を頼って逃げる。
高畠城主、小梁川盛宗(伊達晴宗の娘婿)・白石城主、白石宗利・内親城主、宮内宗忠・角田城主、田手宗光の領内を通るが、宗時と共に栄華を謳歌した盟友たちであり、通過するのを見守った。

 ところが、松川の渡し場である宮の河原(刈田郡蔵王町宮)で待ち受けていた亘理城主、亘理元宗が通すことはできないと、攻撃する。
鬼庭良直が話をつけていたのだ。
 予想外の攻撃に慌てた中野勢は潰滅し、宗時らは身一つで相馬領へと逃れた(元亀の変)。
宗時と久仲は、大森城主、伊達実元と晴宗を通じて、輝宗に赦免を乞う。
輝宗は、強気で押し切り、許さなかった。
ここで晴宗から引き継いだしがらみを一掃し、名実ともに伊達家当主となった。
 
 鬼庭良直と遠藤基信の息のあった連携がなければ成功しなかった企てだった。
鬼庭良直は、輝宗の信任によく応え、見事な働きをした。
長年の懸案を解決し、輝宗の藩主としての地位の確立に大きく貢献した。
伊達家重臣の地位を固めた。
 輝宗は評定役を良直に、外交を遠藤基信に任せ、政権の中核を担わせた。
 
 この時、良直五七歳、
妻の一族を落とし込めた申し訳なさがあったが、伊達家の為と割り切った。
その後、牧野一門を陰ながら支援する。
 嫡男、網元は二一歳。
優秀で、母思いの侮れない存在となっていた。
妻へは、中野宗時・牧野久仲の謀反の動きを丁寧に説明する。
そして、別れることなく側に居て欲しいと告げる。
妻は、網元の母として生きると、受け入れた。

 ここから、良直は、網元に、政治の駆け引き、栄光と没落を真摯に見つめるように教えていく。
家督を網元に引き継ぎ、隠居する時が来たと思う。
網元は、父母を受け入れ、茂庭家を引き継ぐ覚悟を固めていく。

 
三 喜多の活躍
 片倉家も大きく変わっていった。
一五七〇年、継父、景重が亡くなり、母、直子も後を追う様に亡くなる。
嫡男、重継が後を継ぎ、片倉家は新しい時代となる。
 ここで、喜多は、景綱一三歳の母となることを公言した。
母に「景綱のことは任せてください」とはっきり約束した。

 景綱の師を選び、喜多自らも、厳しく教え、学問を学ばせる。
だが、片倉家に戻れるのはときたましかなく、すべきことをきっちり学んでいるか、不安になる。
それぞれの学問の師がしっかり教えてくれているが、それだけでは安心できない。

 そこで、折に触れて、政宗の元に呼ぶようにする。
すると輝宗の目に留まる。
景綱は、輝宗の問いにしっかりと答え、感心させた。
だが、それだけでは、抜擢されない。
喜多は、政宗周辺に人脈を創っていく。
そして推挙され、輝宗により、一五七五年、弟、景綱一八歳は、梵天丸政宗の近習となる。

 だが、あまりに個性が強い政宗に仕えるのは難しい。
近習も次々変わっていくほどだった。
景綱も出奔を企て、喜多に相談する。
喜多は了承し「男として一度志したことに口を挟まないが、出発の日には餞別など進ぜようほどに、必ず挨拶に来てほしい」とにっこりと応えた。

 景綱は身辺を整理し、いざ出発と喜多にあいさつに来た。
その時「忠臣は二君にまみえず。幼き主君を捨ててどこへ行こうというのか。他国にいかなる名君あろうとも、身に寸功もない新参者を当主近侍として登用することがあろうか。他国に仕える気持ちで今一度奉公してみよ」と厳しく叱責し母として命じた。
 驚き言葉に窮した景綱は、出奔を思いとどまる。
「あの時、このような言い方をすれば激しい口論となりただの物別れに終わってしまう、そのため快諾を装って心中を秘し、時を稼いだのだ」と笑いながら話す。
このような女傑、喜多の逸話は数多くある。

 一五七九年、政宗が愛姫(1568-1653)と結婚する。
ここで、輝宗は、喜多を愛姫一一歳に近侍させる。
伊達家について、政宗の妻としてすべきことを教えるよう命じる。
以後、愛姫付となり、次第に、愛姫老女として力を奮う。

 喜多は、政宗から離れたくなかった。
だが、乳母は成長後お役御免になるのが一般的だ。
いずれ離れる時が来ると覚悟していた。
その思いを、輝宗・義姫がわかっていた。
愛姫を通じて、政宗近くでずっと仕えるようにとの配慮に涙がこぼれた。
 喜多の性格から、中途半端には出来ず、愛姫に生活すべてを捧げて尽くすことになる。
愛姫は、全幅の信頼を置き、実の母子のような関係となる。

 一五八五年、喜多を高く評価した輝宗が亡くなる。
輝宗と政宗の関係をよく知る喜多は、複雑な思いだが、政宗は並みの当主ではない。
考え抜いた結果だと、受け入れる・
 翌年には実父、鬼庭(おににわ)左月斎良直(1513-1586)が人取橋の戦いで、政宗の身代わりとなる殿(しんがり)を務め、討死する。
思い残すことのない本望の討ち死にだった。
喜多とは、それほど深い付き合いはなかったが、娘として常に大切に思っていてくれているとわかっていた。
その死は、悲しい。

 鬼庭(おににわ)良直は、天文の乱で父、元美と共に晴宗方に与しよく戦い、晴宗に重んじられた。
次に、新しい伊達家を作る意欲に満ちた輝宗が当主となると、輝宗に従い、内政全般の責任者、評定役に抜擢された。
 中野一族追放後、遠藤基信と共に輝宗政権の中核を担い、輝宗の期待通りの働きをし、一族の家格(伊達家最高家格は一門、一家、準一家、一族と続く)を与えられ藩政を担う家格となった。
伊達家重臣ではあったが、晴宗により高く評価され伊達家重臣としての地位を確固とした。
 ただ、政宗は、今までの当主の物差しでは測れないほどの怪物だった。
茂庭家が、政宗にも同じように優遇されるとはかぎらない。
そこで、綱元の為にも忠義を見せねばならないと、突撃し死んだのだった。
 
 喜多の異母弟、鬼庭綱元(1550-1640)は、一五七五年、家督を継ぎ、出羽川井城(長井市)主になっていた。
政宗に近侍し、政宗に鷹狩りの指導を行ったたりと、公私にわたって親しくした。
一五八一年、政宗の初陣の時には、後見人として出陣している。
政宗にも信頼されていた。
 
 それでも、良直は、輝宗の死で、鬼庭家の将来を不安に思った。
政宗が父、輝宗の治世を良しとは考えず、独自の伊達家のあるべき姿を模索していたからだ。
そのため、輝宗に引き立てられた重臣に冷たい眼を向けていたことも。
そこで、政宗に忠誠を誓う鬼庭家だと示さなくてはならないと考え、戦死した。

 良直の鮮烈な討ち死で、政宗は忠義を褒め、綱元は、三八歳で老臣を差し置いて家老(奉行)となる。
一五八八年、相馬氏に対峙する要害、陸奥百目木城を任され、五千石を得て伊達家高禄の重臣としての地位を固めた。
 人取橋の戦いで父、良直を討ち取った岩城氏家臣、窪田十郎を後に捕らえるが「捕虜を切るは、士道に背く。解放するように」と言うほどの武将となった。
感謝した十郎は、以後、綱元の家臣となり忠誠を尽くした。
 綱元は多くの逸話を残す、有名な政宗重臣となる。

 政宗の信頼を得た喜多の存在が、鬼庭家の支えとなった。
そこで、実父、良直のため、鬼庭家の精神的支えとなる菩提寺を残そうとする。
 義姫に、実父の供養を行ないたいと願う。
輝宗以来の鬼庭(おににわ)良直の忠誠心や喜多の最上家に対する忠誠心も知る義姫は、快く応えた。
こうして、一五八六年、山形長井に妙心院(長井市)を建立した。
義姫の庇護のもと、建立し、義姫の力を示した菩提寺だ。
義姫から心ゆくまで供養するようにと言われ、喜多は心から感謝し自らの菩提寺と決める。

 喜多には、生家、茂庭家も大切だが、母から託された片倉家も大切であり、片倉景綱の母でもあった。
一五八九年、喜多は、摺上原(すりあげはら)(福島県磐梯町・猪苗代町)の戦いに出陣する弟、片倉小十郎景綱に片倉の名が天下に鳴り響くようにと「黒釣鐘」の旗印を作り渡した。
旗印に負けない働きをするようにと渡したのだが、いつも期待した以上の働きをする凄い弟だった。

 政宗は、この戦いに大勝し、父、輝宗の死の傷跡を乗り越え、奥州に政宗ありと高らかに宣言した。
だがすでに、世の中は秀吉の時代となっていた。
政宗も秀吉とは敵対せずに奥州での覇権を守ろうとしたが、秀吉は天下人として政宗に忠誠を求める。
政宗は、まだまだ勢力範囲を広げたいし、拡大した伊達領を秀吉に奪われたくなかった。

 一五九〇年、秀吉は天下平定の最後の大仕事、北条氏を下す為に侵攻を開始する。
政宗と敵対する佐竹氏が要請したのだ。
秀吉は、政宗に出陣命令をだした。
政宗は、伊達家に利があるとは思えず、素直に従えない。
攻め落とすべき国人衆がまだまだ居り、兵に余裕もない。

 喜多の異母弟、綱元は、秀吉への参陣どころか、秀吉方との徹底抗戦を伊達成実(1568-1646)と共に主張した。
だが、片倉景綱は絶対に参陣すべきだと力説した。
 政宗は、それぞれの意見に耳を傾け、納得し、重い腰を上げると、秀吉に臣従すべく少人数で急ぎ参陣した。
遅くなったが、北条家への総攻撃の前に秀吉の前に出ることが出来た。
間に合ったのだ。

 秀吉への臣従の意思を伝えることができ、秀吉もうなづいた。
その後、北条家は、完璧に負け、降伏し、改易となった。
わずかの差で幸運に恵まれ、政宗は父、輝宗の時代の本領七二万石を安堵される。
秀吉の元、生き延びたと、運の良さに安堵する。

 交換条件が、妻、愛姫(1568-1653)が秀吉の下に人質になることだった。
当然受け入れなければならない。
そこで、喜多に付き添いと、伊達家の女主として愛姫が体面を保つことができるよう取り仕切ることを命じる。
こうして、喜多は、愛姫の筆頭老女として、京聚楽第の屋敷に付き従って入る。

 喜多は、政宗に「伊達家を大きくする夢」を持つよう幼い時から教え、実現できると励ました。
その想いをくじいた秀吉だ。
秀吉がいなければとの無念の思いを、共有している。
 秀吉に伊達家の意地と誇りを見せ、その思いを愛姫に伝え、共に伊達家を守るのが務めと心した。
秀吉に礼を尽くし、神妙に仕えつつ、潤沢に贈り物をし、伊達家の力を見せる。
 
 政宗は、どうにか、秀吉からの疑いの目をかわし、臣従が認められほっとした。
それでも、秀吉の仕置には納得できないところが多い。
翌年、伊達氏に属していた国人衆が秀吉への反抗、葛西(かさい)大崎(おおさき)一揆を起こした。
政宗が支援していることは明らかで、秀吉は一揆を煽動したことを表す証拠を見つけ、激怒した。
改易された国人衆が新領主、蒲生氏郷に反抗するのは当然だったが、後ろに政宗がいるのが見つかったのだ。

 伊達家改易の危機だった。
政宗は、喜多の弟、鬼庭綱元(1549-1640)を秀吉の元に送り、弁明させる。
愛姫と喜多は、秀吉・ねねと親しい付き合いを始めており、喜多は、弟と共に、行き違いを詫び、秀吉への忠誠心に偽りはないと、身体を張って、弁明に努める。
喜多と鬼庭綱元の理路整然とした話しぶりは見事だった。
秀吉は鬼庭綱元に感心し気に入り、許した。

 政宗は、改易の危機が去ったと知ると、身の安全を確保したと、直接弁明に秀吉の下に参上する。
秀吉は、すべてを許したわけではなく、制裁として、玉造郡岩手沢城(岩出山城)五八万石に国替えを命じた。
伊達藩の存続を許したのだから当然のことだった。
政宗は苦渋の思いで、受け入れた。
 以後、政宗と秀吉の取り次ぎ役は、鬼庭綱元になる。
姉、喜多と弟、鬼庭綱元が連携し、秀吉との信頼関係を作っていく。

 一五九二年、文禄の役の際には、鬼庭綱元は、肥前国名護屋まで出陣し、兵站を責任もって行った。
一五九三年、政宗は朝鮮に出陣した。
朝鮮での戦いぶり、南部海岸での築城と、秀吉を感心させる忠誠心を見せた。
一五九四年、秀吉の隠居城、伏見城が出来ると、伊達家も城下に土地を得て屋敷を建て、喜多は、愛姫と共に移る。
この間、喜多は、政宗の命に従い、秀吉・ねね夫妻と同じように秀次との関係を深めていた。
 だが、翌年、秀次事件が起きる。
政宗は秀次を取り込み、伊達家の影響力の増大と安泰を図っていた。
だが、失敗した。
そこで、政宗は、秀次謀反に何ら関与していないと表明した。
秀次と親しい付き合いを続けていた喜多(1538-1610)・鬼庭綱元・伊達成実らを隠棲させる。


四 故郷に戻る喜多
 喜多が伏見を去る日が来た。
一五七九年の愛姫と政宗の結婚以来、一六年仕えた主君、愛姫との別れだ。
喜多五七歳「隠居する時が来ました」とすべての思いを愛姫に打ち明け、別れを告げた。
「政宗様・弟、片倉景綱・鬼庭綱元を育てました。それぞれ素晴らしい武将に育ち、弟は政宗様に仕え、重用されています。ありがたいことです。私の生涯の誇りは愛姫様に仕えたことです。愛姫様は、私の教えを何倍にも深く、学び受け入れられました。伊達家の誇りです。思い残すことはありません」と締めくくった。

 秀吉・秀次との付き合いはすべて愛姫の指示で行われている。
愛姫は、緊張とこれからの不安で、動揺しながらも毅然として、うなづいた。
「私の後継(宗顕を)を預けます。我が子だと思い見守ってください。私の子が田村家を引き継ぐことをあきらめてはいません。その時が来たら、支えてください」と喜多に告げた。
 喜多が去り、愛姫が独り立ちするときが来たと思いながらも、寂しくて受け入れられない。
政宗を恨んだ。
喜多に言ったことを、政宗にも伝えた。
政宗もうなづいた。

 喜多の死後、愛姫は、一万八千石白石城主、片倉重長(景綱嫡男)に田村氏後継とした養子、牛縊(うしくびれ)定顕(さだあき)を迎え入れるよう命じる。
宗顕と喜多の選んだ片倉一族の娘との間に生まれた定広・良種は、白石城主、片倉景綱の姉である片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉一門として続いていく。
牛縊(うしくびれ)定顕(さだあき)は、片倉家の生みの親とも言うべき喜多の後継として名誉ある地位を保ち続く。
 愛姫は、喜多に実家田村氏を託し、喜多は、片倉一門として続く道を創った。
愛姫の願いを、実家、片倉氏で実現したのだ。

 愛姫に別れを告げた喜多、五七歳は、弟、片倉景綱に預けられた。
景綱の居城、亘理(わたり)城(宮城県亘理郡亘理町)に入り、閉門蟄居となる。
喜多は片倉景綱の母であると自称しており、子の元で隠居するのだから何ら問題はない。
政宗の配慮だ。
宗顕が待っていた。

 喜多の弟、片倉小十郎景綱は一五五七年、置賜郡(おきたまぐん)長井庄に生まれた。
授からないはずの男子が授かったと家中は大喜びだった。
喜多一九歳。一九歳年下の弟の誕生だ。
母のお手柄だが、笑ってしまう。
 この時、景綱は成島八幡神社の神主の次男として生まれた。
伊達家に仕えても、将来の見込みはない。

 藩主の側近となり、伊達家重臣の鬼庭良直の娘である喜多が、結婚相手も決まらない状態なのに、弟に光ある道を歩めるはずがないと思う。
鬼庭良直に綱元が生まれて以来、母、本沢直子は喜多を父、良直に任せることを嫌った。
わが手で、喜多の将来を見つけると再婚相手を探し、時間が過ぎた。
一五五五年、母が再婚した時、喜多は一七歳。
結婚適齢期を過ぎようとしていた。
それでも、母は、とても優秀な喜多にふさわしい相手を見つけようとした。
だが、見つけられなかった。
 母は、喜多に詫びた。
喜多の幸せを願っても、何もできなかった自分の非力を。

 喜多に力が湧いてくる。
母が選んだ片倉家分家に尽くし、武将の家として大きくしようと。
そうすれば、弟の生きる道ができていくはずだ。
まず、弟に今まで学んだことを教えようと。
母親代わりに人生の師になるのだと決意した。
喜多のような屈辱を味わうことのない立派な武将にすると。

 喜多は政宗の乳母に決まるまでの一〇年間、自らも学びつつ、弟の師となり英才教育をする。
喜多の薫陶を受け、景綱は、兵書を好み武術に長け、鋭い洞察力を磨き、勉学にも秀でた。
政宗の乳母となると、出来うる限り、政宗に会わせ、近習になる道を創った。
なかなか認められなかったが。
 そして起きた米沢での大火、景綱は夢中で火消しの指揮を執り、輝宗家老、遠藤基信の目に留まる。
基信は景綱を気に入り、剣術指導までして才能を磨かせ、政宗の近習に推す。
遠藤基信の推挙を受け、輝宗に仕え、政宗に付けられる。

 遠藤基信は、父、鬼庭良直と共に藩政を担う同僚であり、喜多とも親しい仲だ。
喜多と父、良直がおぜん立てしたことだが、遠藤基信は喜んで、輝宗・政宗に、景綱を推挙した。
こうして、景綱を政宗近習とし「これで将来は安心だ」と思っていたが、なかなか政宗には認められない。
 喜多は、一五七九年から政宗の側近くから離れ、愛姫の側に居た。
だが、愛姫と政宗の間は緊迫し、手助けができにくい状態となっていたからだ。

 喜多が愛情込めて育てた景綱だ。
何があっても一家を成し、武将として名を残させると決めている。
その景綱が、政宗に認められず、二六歳になっても結婚できない。
これではだめだと、まず景綱の結婚相手を探す。

 父、鬼庭良直や遠藤基信と相談し、米沢大町の警察・治安・裁判に権限を持つ検断、矢内重定の娘を選ぶ。
城下一の商人の家でもあり、財政が豊かであることも、資金のない景綱に相応しかった。
分相応の相手だと、喜多は、満足し、祝福した。
輝宗の了解を得て、一五八三年結婚。

 経済的に安定した結婚後の景綱の活躍は素晴らしく、戦力を整え、軍事力で力を見せることができるようになる。
奥羽の覇者を決する会津葦名氏との戦いから、ことごとく参戦し、伊達の先人を切って戦い、軍事力を見せつける。
家臣団も充実させ、一家を率いる手腕を発揮。
一五八五年、人取橋の戦いでは、窮地に陥った政宗に成り代わり、敵を引き付け、政宗を救った。
以後、策略調略に才を発揮。

 小田原の北条征伐の際、秀吉の命に従って、参陣すべきか否かをめぐり政宗重臣の意見は、真っ二つに分かれた。景綱は一寸の迷いもなく秀吉方への参陣を強く進言した。
政宗は、その意見を取り入れ、伊達家は安堵された。
以後、政宗は、景綱に一目置き、意見を求めるようになる。

 奥州仕置きで秀吉も、景綱の力量を高く評価した。
そこで、三春の旧田村領五万石を与えようとしたが、主君は政宗だけときっぱり断った。
政宗は喜ぶ。
朝鮮の役にも従軍し戦い戦果を挙げ、秀吉から軍船小鷹丸を拝領するなど、称賛された。
武勇と外交謀略の知将として知られていく。

 徳川の世となると、景綱は大森城、亘理城を経て、一六〇二年、刈田郡の大部分一万三千石(後に一万八千石) を得て、居城、白石城(宮城県白石市)に入る。
 一六〇二年、片倉景綱は、白石城主となり、喜多も共に行く。
城下、刈田郡蔵本邑勝坂に瀟洒な喜多に似合いの喜多庵を建てた。
喜多は、心遣いに感謝し、優雅に住まう。

 新参の家柄だが、政宗の絶対的信頼を得て、政宗第一の臣として見なされるようになる。
伊達家での家格は一門に続く、二番目、一家となる。
鬼庭氏の上だ。
想像を絶する出世に息を飲むほどだった。

 喜多は、わが子のように育てた景綱の出世を、誰かれに自慢する楽しいおばあさんになっていく。
一番の自慢は、愛姫から預かった牛縊定顕(田村宗顕)にお気に入りの親戚の娘と結婚させたことだった。
まだ子は生まれていないが、将来、愛姫が喜ぶ子が誕生するはずだ。
 喜多の仕える人は愛姫。
生涯忠誠を尽くし、愛姫から与えられた役目を全うすることだが、成し遂げたと思う。

 一六一〇年、喜多庵近くの滝の観音堂で、七二歳で亡くなる。
景綱は、喜多庵裏手の丘に埋葬し、円同寺(後の傑山寺)とし、片倉家菩提寺とする。
 鬼庭氏・片倉氏を伊達家の誇る高禄の重臣の家系とし、満足の生涯だった。
嫡流だった景綱の兄、片倉重継は、弟、景綱の重臣の家系として続く。

 政宗は、米沢にあった妙心院を仙台に再興、喜多の位牌寺とし、長年の功に報いた。
 愛姫は、田村宗顕の子たちに喜多の名跡を継がせ、片倉姓を名乗らせた。
田村家を引き継ぐ二人は、片倉定広・片倉良種と名乗り、片倉一門として続く。

 
五 愛姫(1548-1648)と伊達政宗
 一五七九年、政宗(1567-1636)は一二歳で愛姫(1568-1653)一一歳と結婚する。
政宗は、愛姫が正室になることに納得していなかった。
田村家は配下にすべき国人であり、正室としての威厳を持って並び立たせる家系ではないとの思いがあった。

 愛姫の母は相馬氏。
 祖母は政宗の曽祖父、稙宗の姫。
 曾祖母は岩城氏だ。
相馬氏・岩城氏は、伊達家の配下となるべき家だが、皆、それなりに力ある名門だ。
比べて田村氏は、すでに伊達家の影響下にあり、力はないと見なしていた。
田村氏、愛姫との結婚は必要なかった。
  
 愛(めご)姫は一五六八年、三春城主、田村家の一人娘として誕生。
父は田村清顕。
母は相馬(そうま)顕胤(あきたね)の娘、於北御前。
「めご」とは東北の方言でかわいらしい様を示す「めごい、めんこい」から来ている。
両親の願いでもあったが、生まれたばかりの愛姫は、めんこい姫だった。
家中が祝福した。

 田村家は、平安時代、蝦夷討伐で活躍した征夷大将軍、坂上田村麻呂を祖とし、田村郡を支配した。
以後、田村家は分家を創り、多くの縁戚を持ち、血筋は複雑になってしまうが。
征夷大将軍を受け継ぐ家系としての誇りは持ち続けた。
 そして、戦国時代となると、交通の要所、田村郡のある仙道地域(福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの侵攻を受け度々戦となる。
田村氏は、この地を死守する。
 
 田村氏は、周辺国人衆と通婚し、支援されたり、利害を共有しながら、領地を保つ。
岩城常隆の娘と結婚した愛姫の曽祖父、田村義顕は、岩城氏の後ろ盾で、一族をまとめて田村郡内を統一し、さらに勢力を拡大して、戦国大名へと飛躍し、一五〇四年、三春城(福島県田村郡三春町)を築き居城とした。
一〇万石程度の領地を有していた。
 後を継いだ、愛姫の祖父、田村隆顕は、伊達稙宗の娘と結婚した。
伊達家優位での和議で影響下に入っての結婚だったが、それだけでは終わらせなかった。
伊達家の後ろ盾を得ることで力を保持し、軍事的支援を受けて勢力を広げていき、結婚を価値あるものとした。

 そして起きた天文の乱。
隆顕は、稙宗を支持し戦い、晴宗との和睦をまとめようとするが失敗。
そんな時、同じ、稙宗支持だった蘆名氏が、晴宗に寝返り、田村氏と敵対関係になる。
大義を重んじる田村氏は、裏切った蘆名氏を許せない。

 そこで、一五四九年、嫡男、愛姫の父、清顕に、相馬氏の於北を迎えた。
相馬氏と共に蘆名氏に対峙するためだ。
この同盟も価値あり、蘆名氏の侵攻を許さなかった。
 それでも、田村氏を守り続けるのが、当主としての一番の役目であり、常陸の佐竹氏が奥羽に侵攻すると、一転して蘆名氏と共闘する。
利害の一致した蘆名氏と共に、佐竹氏を追い払う。
その後は再び蘆名家と敵対し戦う。
 すると、今度は、蘆名氏が佐竹氏と結んで周囲の国人領主を配下に置き、田村領に攻め込んできた。
田村家は窮地に陥る。

 伊達家に従いながら、勢力を伸ばす友好な関係は続いた。
続いて、伊達家の内紛、天文の乱で伊達家が力をなくすと、田村家は力を盛り返し、独立体制を取り戻した。
家督を継いだ清顕は、軍事に優れ縦横無尽に兵を繰り出し、蘆名氏の包囲網を次々と打ち破った。
 蘆名領との間に位置する畠山(二本松)義国を味方にし、義国は伊達方の八丁目城を調略し配下に置いた。
怒った輝宗は、蘆名盛興に与して参戦し、伊達実元が城を奪還し、畠山領二本松まで攻め寄せた。
ここから、伊達家と田村家の戦いが始まる。

 伊達家に立ち向かえるはずのない清顕は、輝宗へ和睦を申し入れるが、拒否された。
やむなく輝宗からの条件を受け入れることで、和議を結ぶ。
 畠山(二本松)義国の隠居だ。
家督を継いだ嫡男、畠山(二本松)義継が伊達氏の配下となる。
田村清顕は、配下にしていた二本松氏を失った。

 伊達家と確実に縁を結ぶことしか田村家の生き残りはなくなる。
そこで、次期当主、政宗との結婚を望んだ。
輝宗も愛姫の母が相馬の出であることから、戦いが続く相馬氏への対策に利用できると、田村家の一人娘を迎えることを了承した。
 稙宗・晴宗に多くの子があり、それぞれ周辺諸国に送り込み、有力国人衆は、伊達家の兄弟姉妹が占めるまでになっており、特別、政宗が結婚すべき姫はいなかった。
 
 結婚が決まってわずか二カ月余りの一五七九年一二月二五日、愛姫は伊達政宗の元に嫁ぐ。
愛姫は一人娘ゆえ、いずれ産まれる次男に田村家を継がすと約すと、田村清顕が結婚を急がせた。
田村家唯一の姫として、多くの従者を引き連れ花嫁行列が続く。
ところが、わずかの侍女近習のみを残して、愛姫の輿は、梁川(福島県伊達市梁川町)で伊達氏に引き渡された。
 
 幼さが残っている愛姫を引き取ったのは、伊達成実、遠藤基信ら伊達家の中枢幹部。
緊迫感があった。
丁重に迎えられたが、人質だった。
愛姫は、平然と気品を持って挨拶し、伊達家の人となる。

 ここで、輝宗は、城下の屋敷を愛姫の住まいとした。
片倉喜多と臨済宗妙心寺派の僧、虎(こ)哉宗(さいそう)乙(いつ)を愛姫付きの教育係として付けた。
愛姫は、予想していた結婚とは違うので、戸惑った。
それでも、伊達家を知り、学びの場で新しい知識を得るのは面白く、喜多の教え方はうまく素直に受け入れた。
政宗と同じ教育係から一年余り伊達家の成り立ちからの歴史を学び、奥を取り仕切る妻としての役目を徹底的に学ぶ。
文人としての教養も積む。

 こうして一五八一年正月、結婚式を挙げ、米沢城に入る。
愛姫は、一年余りの人質としての扱いに、尊厳を傷つけられたが、耐えた。
すぐに結婚式となるはずだったのに、長く待たされたと、悔しい思いが胸にあふれるが、無事結婚出来て、父母のためにもほっとした。
この間学んだことは、役に立ち、喜多に出会えたことはうれしかった。
 
 輝宗は相馬盛胤・義胤父子との戦いに苦戦していた。
そこで、清顕(きよあき)に相馬家の切り崩しを頼む。
結婚の一番の目的だった。
清顕もわかっており、知恵を絞る。
清顕は、愛姫の母、於北の実家であることから、長く親しくしていた相馬方重臣の取り込みを図る。
愛姫のために、於北と共に、説得を繰り返し、切り崩しに成功する。

 一五八三年、輝宗はついに天文の乱以降最大の懸案、丸森城の奪還に成功し、相馬氏を追い詰め、翌年には伊具郡全域を取り戻し、思い通り有利に和睦する。
祖父、稙宗隠居領のうち伊具郡を伊達領とし、宇多郡を相馬領とし譲ることで和議となった。
愛姫を迎えた価値があったと心から笑う。
 
 ここで伊達家は稙宗の頃の伊達家最大勢力圏一一郡余をほぼ回復した。
輝宗は、清顕の奮闘で、戦力を温存しながら、勢力圏を広げた。
愛姫は、父母が伊達家に尽くす様子をうれしく知る。
早く子を産み、田村家を安泰としたいと胸が膨らむ。

 一五八四年、政宗は家督を継ぐ。
愛姫は、田村家が伊達家に果たした役割を詳しく聞き、父母を改めて誇りに思う。
ただ、結婚したと言っても政宗と顔を合わすこともまれだった。
ここでもまた、悔しさで涙する日々が続く。
それでも、喜多がそばにいて励ましてくれて心落ち着けた。
当主、政宗の妻として、伊達家の女主になったのだ、今からは、堂々と夫婦生活が送れるはずだと願う。

 父、清顕(きよあき)は、伊達家に嫁がせ五年が過ぎても、待ち望んでいた愛姫に子が生まれないとがっかりしていた。
それどころか、不仲だと聞き「愛姫ほどよくできた姫はいない。大切にされていないのだ。約束が違う」と輝宗・政宗に対し激しくいらだっていく。

 一五八五年一一月二九日、輝宗が殺される。
清顕は、伊達家は動揺し弱体化すると見て、愛姫の為、田村家の力を示す時が来たのだと奮い立つ。
 伊達家を潰す好機と、佐竹氏を中心とし岩城氏、二階堂氏、蘆名氏、白河氏、石川氏らが反伊達連合を組み、一五八六年一月六日、人取橋の戦いが始まる。
伊達軍四千の兵に対し連合軍三万の兵であり政宗に勝機はなく、政宗絶体絶命の危機となったが、田村勢は政宗に与し総力を挙げて戦う。
ここで、佐竹勢が撤退し、政宗はどうにか生き残った。

 まもなく、清顕が倒れる。
病の床に就いた清顕は、愛姫に子が生まれず、後継が決められないもどかしさの中で、一五八六年一一月一九日家中に「政宗を頼りとせよ」との遺言を残し亡くなる。
政宗の力量を見込んでおり、愛姫の賢さは比べようもないほどで、きっとうまくいくと信じ、逝った。

 だが、愛姫の母、於北御前は、愛姫を信じながらも、政宗を信じることはできなかった。
田村家の実権を、実家の相馬家と共に握る。
伊達家の愛姫や相馬家への仕打ちを怒っていたのだ。
だが、遺言通り、伊達家を頼るべきだと思う重臣も多く、伊達派対相馬派に分かれて対立が始まり、家中は混乱する。

 この時、愛姫は一八歳。
結婚後、七年が経ち、子が居れば田村家中の混乱はないはずだと自責の念に苦しむ。
父、清(きよ)顕(あき)の早すぎる死を嘆き、母が実家、相馬氏の支援で田村家を守ろうとする様子に悩む。
相馬派は、今までの田村家の伊達家への支援に対し、見返りは少なく、また政宗が愛姫を軽んじるゆえに、子が生まれないと、政宗の田村家・愛姫への不実を責める。

 愛姫も、政宗の激しい鋭い感性を見続け、愛されていないと感じていた。
政宗にとって愛姫はあくまでも田村家の娘であり、父、清顕(きよあき)の死後は相馬家の娘でしかなかった。
 愛姫は、もっともっと政宗に愛され、二人の男子を産みたいし、生まなければならなかった。
伊達家・田村家を継ぐ子達の母になることが、父の愛に応えることであり不仲になった母の愛を取り戻すことだから。

 政宗との愛を深める為に、努力したつもりだったが、愛を深めることはできなかった。
喜多も自分の力ではどうにもならない現実に悩む。
喜多はあくまで、伊達家に仕える身だ。
愛姫のために尽くし、政宗との仲睦まじい暮らしを創っていきたいが思うようにならない。
それどころか、相馬氏の影が愛姫の近習にちらついてくる。

 政宗も愛姫の熱い目を感じたが、田村家の在り様は許し難かった。
そんな時、喜多から愛姫の近習の不審な動きを聞かされた。
短気で決めつける癖のある政宗は、愛姫の周りは相馬氏に近い侍女ばかりだと信じた。
 愛姫の侍女達は、政宗への不信感を募らせていた。
そこに、於北御前から政宗を亡き者にするようにとの命令が愛姫老女にもたらされた。
 その動きを感じ、身の危険を知った政宗は、田村家から付き従った主だった侍女全員を誅殺した。
愛姫が関知したことではなかったが、政宗は愛姫の指示だと決め付ける。
たとえ、知らなかったとしても妻なれば、夫に危険をもたらす侍女を遠ざけるべきだと。

 愛姫は子を生めない悲しみ、父の思いを果たせない悲しみ、母と離れていく寂しさ、政宗の愛がますます遠のくさびしさに、苦しく耐える日々となる。
 その上、政宗から夫殺害を企てた悪女の汚名まで着せられた。
田村家嫡流の唯一の姫として、多くの家臣・侍女にかしずかれてきたが、もう終わったのだと悟る。
田村家での暮らしは遠い思い出となり相馬家に親しみはなく、戻る家はなくなった。
立場を鮮明にしなければいけないと決意する。
過去を振り返ってばかりいては、未来はない。
何があっても、伊達家の嫁、政宗の妻として生きていくと覚悟を決める。

 幼い時から付き従った侍女は皆、いない。
側には、結婚以来、ずっと見守って来てくれた喜多が居るだけだ。
喜多の温かい目をみると、ほっとする。
結婚以来いつもそばにいて、多くを教えてくれた師でもあった。
怖い母のような人だと思う時も多かったが。

 喜多は、打ち続く悲しみにひしがれている愛姫に「これほどの苦難など気にすることではありません。私には家もなく、嫁ぎ先もなく、生きることをあきらめた時が何度もあります。輝宗様・義姫様に拾われて、政宗様の乳母になって生きる目的ができたのです。政宗様を伊達家の後継として育てました。政宗様は私を母とも呼んで下さいます。私も政宗様のすべてを知っています。これからは、政宗様と愛姫様の仲を取り持つことを生きがいとします。自信もあります。伊達家の女主は、愛姫様だけです。きっとうまく行きます」と豪快に笑いながら軽く言ってのけた。
 愛姫は目が覚めた思いだ。
ここで、喜多との政宗が脱帽する最強コンビが出来る。
 
 政宗の苦しい状況を見て、喜多は動いた。
義姫に、政宗に対峙する最上家への働きかけを願った。
義姫も伊達家を守りたい思いは強い。
だが、政宗は最上家と親戚の塩松氏、本家筋になる大崎氏に攻め入り、義姫の兄、義光を怒らせ、対峙させていた。
田村家の内紛に乗じ、政宗を打ち倒す勢いだった。
 
 一九八八年、田村家中の内紛をあおり、時期が来た、好機だと見た相馬義胤は、娘、於北の要請を受けて三春城に侵攻する。
ここから、佐竹氏・蘆名氏が加わり、田村家の主導権を巡る戦い、郡山の戦いが起きる。
政宗は、清顕(きよあき)の信頼厚かった田村一門家老、橋本(はしもと)顕徳(あきのり)を取り込み、連絡を取り合って居り、城方の伊達派が鉄砲を撃ちかけ撤退させた。
政宗は、前面に出て受けて立つ構えを見せるが、四面楚歌の状況で戦う力はなかった。

 そして、六月、義姫は、動いた。
伊達政宗軍と大崎義隆・最上義光連合軍との戦い、大崎合戦の只中に入った。
政宗勢は最上勢に押されていた。
そこで、義姫は、最上家の陣の前に陣取り一歩も引かない態度で居座った。
兄、義光に、陣を引くか、義姫を殺すか、どちらかを選ぶことを迫り動かなかった。
伊達家対最上家との戦いを休戦に持ち込むことで、政宗を助けようとしたのだ。
すさまじい義姫の迫力に、兄、義光は、陣を引くと了承した。
義姫が勝った。
義姫の存在の大きさを、政宗は思い知る。

 こうして、義姫の功もあり、大崎氏・最上氏と和議の交渉を始めることができた。
小競り合いが続くが、うち続く戦いの傷跡は大きく、それでも意地を張りながら、郡山合戦を和議に持ち込む。
佐竹氏も、秀吉から惣無事令を申し渡され、戦いを自粛せざるを得ない立場にあった。
結局、全面対決は避け、秀吉の裁定を仰ぐしかないと和議を結ぶ。
政宗は救われた。

 ほっとした政宗に大義となる朗報が届く。
愛姫の祖母であり、政宗の祖父晴宗の妹、屋形御前が、田村月斎・田村梅雪斎・橋本顕徳の家老三人に書状を持たせ、政宗の元に送ってきた。
於北が、田村清顕の死に関わっているという内容だった。
ここで、政宗は、重大事であり、於北の隠居と、愛姫のいとこ、宗顕(父の弟の子)が名代として家督引き継ぐことを決め、家中の同意を得るよう言い渡す。
 於北は何も言わず、宗顕一四歳は、受け入れた。
こうして田村家中の大勢はまとまった。
 於北は、船引城(福島県田村市船引)で隠居。
 変わって、宗顕が三春城に入る。
 
 確認した政宗は、三春城に入って田村氏の家臣団の挨拶を受けた。
城内東館に住む屋形御前を訪ね、労をねぎらう。
屋形御前の弟、亘理元宗(伊達稙宗の子)ら伊達一族の諸将も城内に入り、屋形御前と共に、宗顕を中心とした田村家の新体制づくりに取り込む。
第一にすべきことは、田村家中の相馬派排除であり、手際よく、成し遂げた。

 愛姫の功も大きい。
父の死以来、親しかった田村家重臣や宗顕への働きかけを続けた。
田村家を守らなければならないと必死だった。
政宗も認める働きだった。
それでも愛姫を信じきれないところもあり、まだまだ、夫婦仲は距離を置いたままだったが。

 母の思いを裏切ることになったが、田村宗顕(1574-1648)が、田村家を受け継ぎ肩の荷を下ろした。
宗顕は、政宗・愛姫の意向を重んじると言明した。
田村家の支柱、愛姫の存在があり、政宗は決戦を回避し、勝利したのでもある。

 この時、愛姫は誠意を持って「私に子が生まれる可能性は少ないけれど、もし私に次男が生まれて田村家を継ぐことになっても、宗顕殿を父とし、宗顕殿に養育を任せ、あなたの考えを尊重します。あなたは、あたしの子の父となるのです」と伝えた。
宗顕は、うなずいた。
 愛姫は、喜多と固い絆で結ばれていると心から感謝する。
何としても田村家を守ると、責任の重さに震えるが、自信も出てくる。
また、政宗がぎりぎりまで佐竹勢に一歩も引かず対峙し、田村家を守りきった手腕に感心する。

 まもなく、政宗が同盟を結んでいた北条氏と秀吉の関係が緊迫する。
そして、一五九〇年、秀吉は北条攻めを始め、圧倒的勝利だった。
秀吉が参陣を命じたにもかかわらず、小田原に駆けつけなかった奥羽周辺の国人領主らの所領を没収する。
政宗は、奥州の多くを押さえており、皆、政宗の動くなとの命令に従っただけだ。
政宗は、遅れたが急遽形だけだが参陣し、安堵された。
周辺国人衆を犠牲にし、政宗だけが、生き残った。


六 愛姫実家、田村家取りつぶし
 田村家は参陣せず改易だ。
その時、清顕の遺言を盾にした政宗に、秀吉は田村氏領有の一部を政宗に与えた。
 驚いたのは、田村家、宗顕だった。
政宗が、宗顕に小田原参陣を差し止め、それに従っただけなのに、改易されたのだから。
政宗の領地が安堵されれば、宗顕の領地も当然安堵されると考えていた。
宗顕は、北条氏との縁はなく、それどころか、早くに秀吉への臣従を決めて居り、秀吉への献上品を用意し政宗に預けていた。
だが、政宗は握りつぶした。

 宗顕は激怒し、政宗による田村家乗っ取りの謀略だったと、秀吉に訴えた。
そして、領地を取り戻したいと願ったが、効果はなく、手段はないとあきらめる。
政宗から、所領回復の為に協力するとの申し出があったが、裏切りを許すことはできない。
名を牛縊定顕と改めて、伊具郡金津に隠棲した。
その後、愛姫の必死のとりなしがあり、田村家再興を願い受け入れ、政宗の庇護下に入る。
憎んでも憎みきれない政宗から得た宗顕の名を、定顕とすることしか恨みを晴らすことは出来なかったが。

 ここで、田村家は政宗によって潰された。
愛姫は、この間の政宗の動きを理解できなかった。
とても信じられないことだった。
政宗はいつも「伊達家と田村家は支え合い守り合う近しい関係を続ける」と明言していた。
その為、母を裏切ることになっても、宗顕(1574-1648)を支え続けたのだ。
だが、田村家は改易された。
宗顕の怒りを思うと言葉もなく、我が身が情けない。
どうして、政宗が、宗顕を連れて、秀吉の元に行かなかったのか、わからない。

 何の為の結婚だったかと思い悩み、父母に会わせる顔がないと悲しみに打ちひしがれる。
喜多は、平然と「政宗様が考えた以上に、秀吉様の力が強かったのです。伊達家を守り、田村家を守る為に最善の道だと信じて決意されたことです。愛姫様の思いに応える日が来ます。それまで辛抱してください」と言ってのけた。
 愛姫も吹っ切れた。
父母が必ず見守ってくれる。
役目は果たすと。
喜多に「宗顕を任せます」と命じる。
 ここで、喜多は、母代わりで育てた片倉景綱(1557-1615)に牛縊(うしくびり)定顕を見守ることを厳命し、政宗に田村家当主の誇りを保てる暮らしを保障することを約束させる。

 奥州仕置きの後、愛姫は秀吉の命令で、豊臣秀吉の人質として京都の聚楽第に移ることが決まった。
あわただしく田村家の今後を気にしながら出立する。
側には喜多がぴったり寄り添っており、国元でのことは片倉景綱が取次ぐことになっている。
 この時、愛姫は、伊達家・田村家を守ると覚悟を決めていた。
秀吉と良い関係を築き、田村家を復権するのだ。
政宗との愛のない緊張ばかりの暮らしは、疲れた。
京で秀吉と良い関係を築けば、新しい政宗との関係を築けると信じた。


七 愛姫と政宗、愛の始まり
 愛姫・喜多が聚楽第の伊達屋敷に落ち着いてまもなく、大崎・葛西一揆が発生する。
政宗が参陣を止めたために改易となった大崎氏・葛西氏の旧臣が、秀吉の決めた新領主に反抗して起こした一揆だ。
大崎氏は、義母、義姫の兄嫁の実家であり、葛西氏は、伊達一門から養子入りした当主が率いた。
どちらも、最上家と縁戚であり政宗の配下だった。
一揆を煽動したのは政宗だ。

 田村家の改易と同じように、政宗にも責任がある大崎氏・葛西氏の改易だった。
そこで、蜂起を促し、支援した。
 愛姫・喜多が秀吉・ねねに挨拶を済ませ、誠心誠意忠誠を誓いますと表明し、にこやかに受け入れられた直後だ。
愛姫・喜多も驚くが、秀吉への敵対行為に怒りは押さえようがないほどだった。
政宗改易を念頭に、政宗を呼び出し、厳しく追及しようする。

 愛姫は、すぐに、ねねに面会を申し入れ、釈明に奔走する。
そして、覚悟を決めた愛姫は、政宗を思いやり手紙を書く。
「天下は未だ定まるところを知らず、殿は公儀に従って去就をお決め下さい。私のことはご懸念なさいますな」と。
また、この頃の心境を表した歌
 二世まで ちぎる心は まことにて 今は生死を へだつものかは
政宗の危機を救いたい想いが溢れている。
 
 愛姫は、義母、義姫の心中を思い、心痛める。
喜多は義姫と良い関係を築いており、義姫のためにも大崎氏・葛西氏の再興を秀吉に働きかけようとしていた。
一揆により再興が難しくなったと嘆く。
それでも、まず、伊達家の存続だ。

 まもなく、喜多の弟、鬼庭綱元が、政宗の秀吉への裏切りはないと弁明の使者となり愛姫の下に来る。
喜多と共に才知を尽くし、秀吉に謝罪し、怒りを静めるよう弁明する。
愛姫たちの努力で、改易の危機は逃れたと政宗に報告。
 ようやく一五九一年、政宗二四歳、死を覚悟し、直接弁明に来た。
愛姫は、政宗を屋敷に迎え一年ぶりの逢瀬に心ときめくが、政宗は伊達家存亡の危機に、緊張していた。

 政宗は、情勢を分析し、ただひたすら秀吉への忠誠を誓う。
秀吉は態度を変えていく。
そこには、愛姫の死を覚悟し、豊臣家への忠誠を誓う潔さに心打たれた秀吉・ねねがいた。
 愛姫の活躍ぶりに、大藩の正室がここまでできるはずがないと、愛姫替え玉説が飛び交うほどだった。
愛姫が秀吉・ねねに気に入られたことにより、策謀が露呈し窮地に陥った政宗の言い訳を秀吉が認めたのだ。
領地が削減され、すべきことが増えたが、伊達家の存続が叶った。

 政宗は納得したわけでなく「豊臣家との関係は繋がった。だがこのままでは終わらせない」と目をすえて言った。愛姫は、頼もしくもあるが、何をするかわからない野望に満ちた政宗に不安もある。
それは政宗らしさであり、変えることは出来ないと見つめ返す。
 愛姫に出来ることは、現状を受け入れつつ伊達家を守り、田村家の復活を果たすために、京で伊達家の顔として外交を担うことだと改めて心する。
 
 政宗は愛姫の働きに感謝し、抱きしめる。短い間でしかなかったが、夫婦生活を送る。
久しぶりに夫に抱かれ、至福の時を過ごす。
出来れば子を授かりたいと思ったが出来なかった。

 政宗は、秀吉の勘気をどうにかかわしたが、苦労して平定した米沢城七二万石から大崎・葛西氏の旧領を含む玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)五八万石に減らされ国替えとなった。
 そこには、政宗に裏切られたと憎しみを抱く葛西・大崎勢がいたが、容赦なく一掃する。
一揆関与の証拠など一切をなくす必要があり、徹底的に痕跡をなくす。

 続いて、秀吉は朝鮮の役を始める。
政宗に千五百人の兵を出すよう軍役を命じた。
ここで政宗は、一五九二年春、秀吉の想像を超える三千人を引き連れて名護屋城に着陣する。
政宗の意地であり、忠誠心を表した。
 伊達家の軍装は絢爛豪華で、京の人々は歓声を上げた。
これ以来、派手な装いを好み着こなす人を「伊達もの」と呼ぶようになる。

 愛姫は秀吉の命令に嬉々として従う政宗に、伊達家を守った自信が満ち溢れているのを見て安堵する。
愛姫にも優しかった。
同時に、その久しぶりに見る穏やかな笑顔に、側室、新造の方に男子、秀宗が生まれた喜びがあるのを見てしまう。伊達家後継が生まれ、責任を果たしたうれしさのなかに、政宗はいた。
それではいけない。私の子でなければと、胸が苦しくなり、寂しくせつない。

 愛姫は、思いを隠して、名護屋に向かう政宗が屋敷に立ち寄った時、長男の誕生を喜び、政宗に祝いを述べた。
政宗は「愛姫が京で伊達家を、守ってくれるおかげで今日があり、その寛容さで秀宗が生まれた」と、愛姫を抱きしめながら礼を言った。
まもなく旅立ち、この時も子が授からなかった。
愛姫、二四歳。
「私には子は生めないのかもしれない」とため息を行く。
 
 愛姫の周辺はあわただしく変わって行く。
秀吉は、一五九二年二月十日、関白職を甥、秀次に譲り、秀次が関白になる。
愛姫は、政宗と話し合い、次期秀吉政権を担うのは秀次だと考え、秀吉と同じように秀次に礼を尽くしていた。
思い通りの展開になったと、より一層、秀次との関係を深める。
 だが、一五九三年八月二九日、秀吉嫡男、秀頼が誕生する。
 
 翌年、愛姫は、朝鮮から戻った上機嫌の政宗と、久しぶりの夫婦の暮らしを送る。
愛姫は、聚楽第の伊達屋敷で、豊臣家や諸大名・朝廷・公家と親交を深め程良い関係を保ち、種々の情報を得て、政宗に知らせていた。
その情報に政宗は満足しており、愛姫の近所付き合いに感心していたのだ。
この頃は、以前にも増して、愛姫への愛を深めていた。
 
 喜多や鬼庭綱元がもたらす情報の方が緻密だと愛姫は知っており「いつもの事だけれど、殿は口がうまい」と含み笑いしつつ、愛される喜びに浸る。
 そして、一五九四年八月二日、待望の初めての子、五郎(いろ)八(は)姫を聚楽第伊達屋敷にて産む。
側室に先を越され、結婚生活一五年目で始めて授かったと、長かったつらい日を思い起こす。
政宗は懐妊の報せを聞いて喜び、男子の名前しか考えていなかった為、次子への願掛けの意味も込めて五郎(いろ)八(は)姫と名付けた。
 
 だが、秀吉は、秀頼の近習に主だった大名の子弟を集め始めた。
そこで、政宗に、秀宗を伊達家嫡男の扱いで、秀頼に仕えさせるようにと命じた。
愛姫が出産後まもなく、秀吉への人質として秀宗・新造の方母子が伏見屋敷に共に入る。
 政宗の力を認めた秀吉は、秀宗を秀吉の養子的扱いで歓待した。
愛姫は、住まいが違うが、無念の思いだ。
秀吉は、新造の方をもてなすことで、愛姫と新造の方を張り合わせ、伊達家の内紛を企んでいるのが明らかだ。
 愛姫なりに気にしない風を装い、秀吉・ねねに礼を尽くすが、自然、伏見城は遠のき、秀次との関係を深めていくことになる。

 秀次は北条征伐の副将として戦い、その後、奥州平定に向かった。
奥州仕置に納得できない南部一族、九戸氏らが南部信直・秀吉に対して九戸政実の乱を起こしたからだ。
総大将として、伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣・宇都宮国綱、上杉景勝、徳川家康を従え、鎮圧する。
 この遠征には、政宗が関わった葛西大崎一揆の裁定も含まれて居り、政宗はあらん限りのもてなしをした。
伊達実元が取り次ぎとなり、秀次に近侍し接待した。
この時、秀次は、山形城に立ち寄り、駒姫に会っている。

 また、お種の方(1577-1641)の存在が伏見城内や伊達家で大きなうわさになっていた。
お種の方は、高田次郎右衛門の娘で安楽院(香の前)とも呼ばれる。
秀吉が隠居城を伏見城とすると決めた時、その地には伏見宮御所があった。
高田次郎右衛門は、伏見宮親王に仕えていた。
その為、伏見宮御所の移転・引き渡しの調整役の一人となる。
朝廷を重んじる秀吉は御所の移転先にも十分配慮した。

 高田次郎右衛門らが取次、伏見城築城が始まる。
その取次役と伏見宮邦房(くにのぶ)親王の対応に満足した秀吉は、伏見城築城後、伏見宮邦房(くにのぶ)親王(1566-1622)の第一皇子、貞清親王(1596-1654)と養子、宇喜多秀家と豪姫との娘の結婚を決めた。
伏見宮家を豊臣一門とし親交を深め、惜しみなく援助する。
そして、引き継いだ伏見城で、終生暮らすつもりだ。

 続いて、正親町天皇の皇太子、誠仁親王の皇子、智仁親王を秀吉の猶子とする。
後に天皇になるはずの誠仁親王の皇子の父となり、天皇家とも親戚となった。
秀吉は、天皇家を大事にし、親交を深めていた。

 築城が進むと、御所に仕え才色兼備と評判の高い高田次郎右衛門の娘、お種の方一七歳に目を留める。
伏見城に仕えるよう求めると、一五九四年、高田次郎右衛門は喜んで秀吉に仕えさせる。
 秀吉は、お種の方の教養に目を見張りとても気に入り、慈しみ、側室とする。
すでに秀吉は老体となって居り、茶々・秀頼が最愛の人であり、多くの女人は必要なかった。
そこで、秀吉にもお種の方にも価値ある今後を考える。

 お種の方をまぶしそうに見ている伏見城普請に熱心に取り組む伊達家家老、茂庭綱元(1549-1640)に目を留める。鬼庭綱元と名乗っていたが、茂庭綱元と名乗るように命じ、よく側に呼んだ。
綱元を直臣にしたかった秀吉は、そのための良い土産になると考え、お種の方を妻とするよう命じる。
国元に妻がおり、側室として迎えることになるが、天下人、秀吉の命令であり、喜んで受けた。
 
 綱元には思いもよらない、天から舞い降りてきたかのようなまぶしい美女だった。
訳のわからないまま、側室でもある妻として迎えてしまう。
それほどの存在感があった。
夢中になり愛した。
人生を変えるほどの愛の暮らしが始まり、生きている喜びを感じる。

 そこで、秀吉は直臣になるよう、綱元に命じる。
驚いた綱元は、主君は政宗しか居ないとはっきり秀吉に断った。
それでも、お種の方を迎えることができ秀吉に恩を感じ、今まで以上に熱心に秀吉の意向に沿って伏見城普請に励む。

 喜多の弟、茂庭綱元は、愛姫との取次役だったが、愛姫に気に入られ、愛姫・政宗と秀吉との取次ぎ役となった。
姉・弟が力を合せ秀吉に尽くし伊達家の名誉を保つことになり、喜多は張り切った。
秀吉は気に入り、綱元を伏見城普請の伊達家責任者とした。
こうして、綱元が伏見城普請に熱心に取り組んだ結果、お種の方との結婚となったのだ。。
誠心誠意、伏見城普請に取り組み、秀吉も政宗も満足していたはずだった。
 だが、政宗は、綱元が秀吉と予期していた以上の親しさになっているのに気分を害した。
その上、秀吉の指示でお種の方を妻に迎えたと聞き、怒る。

 綱元は秀吉と距離を置いて仕えているつもりだった。
だが政宗は秀吉との親密な関係は裏切りに等しいと責めた。
秀吉の奥羽仕置きで最終的に、領地を大幅に没収され五八万石となった。
しかも生誕の地、米沢城、ようやく手に入れた黒川城(会津若松城)まで取り上げられ、表面的には従いながらも怒りを持ち続けていたのだ。
政宗は東国の覇者であり、秀吉に勝るとも劣らないとの自負があった。
 
八 愛姫の力
 愛姫と喜多は、秀吉との良好な関係を続けながらも、秀宗が秀頼に仕えるようになると秀吉と距離を置く。
我が子でない秀宗には愛情が湧かない。
秀宗に秀吉を任せ、秀次との親しさを増していく。
そして、駒姫との結婚を推し進める。
政宗の策謀でもあった。

 愛姫主従は、秀次の目に留まった駒姫と秀次の結婚に向けて話し合いを始める。
最上家の姫であり、義姫の意向を重んじ、裏方に徹し、表に出ないようにするが。
だが、近くに屋敷があり、よく行き来する義光の妻、釈妙英は、外交が得意ではなく、愛姫に任せ、何も言わない。
 釈妙英は、最上家の主君筋になる奥州探題、大崎義直の娘。
奥州探題は、鎌倉幕府に命じられ陸奥国を統括した。
奥州とは陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指す。

 大崎義直は、兄、高兼が若死にしたため、家督を継ぎ奥州探題となったが、大崎家の勢力は落ちていた。
伊達氏が台頭したからだ。
一五二二年、幕府は、伊達稙宗を陸奥国守護とした。
陸奥国は、守護と探題が並び立つが、幕府が定めた守護が上だ。

 周辺の国人衆に侵攻されていた大崎家だが、伊達家の支配力が強まると、家中は騒然とする。
そして、大崎家中に内紛が起きる。
義直では押さえられず、伊達稙宗に支援を願う。
代償として、稙宗の子、義宣が、義直の兄の娘へ婿養子として入り、家督を継ぐことになる。
伊達氏が実権を握り、支配下に入った。

 義直は、納得できず、義宣追放と大崎家の独立化を進める。
無理な戦いだったが、伊達家の内紛、天文の乱が始まった。
ここで、晴宗に味方することで、勢力を回復、義信を追い詰め、ようやく一五五〇年、殺した。
大崎家は、勢力では伊達家に比べられないほど弱体化したが、当主としての名誉と、大崎家の独立化は果たした。
伊達氏との関係は伊達氏が伊達輝宗に代替わりし、大崎氏が義隆に代替わりしても、そのままの状態が守られた。
 
 そこで、大崎家を守るため、最上義光に娘、釈妙英を嫁がせ、同盟を結ぶ。
出羽国の最上氏は大崎氏と始祖を同じくする同族だ。
 政宗が伊達家を引き継ぐと、黙ってはいなかった。
大崎家は、伊達家の影響下にあるべきだと確信している。
陸奥国守護と奥州探題は並び立つ幕府の重要職だ。
そこで、陸奥国守護が伊達氏となると、奥州探題、大崎氏を無力化していった。
ところが、まだ大崎氏が存在しているのだ、許せない。

 政宗は、大崎家中の内紛に乗じて圧力を強めた。
義隆は、妹婿、最上義光の支援を受けて、政宗と和議を結び、一応、大崎家を守った。
だが、一五八九年、摺上原の戦いで政宗に敗れ、従うしかなかった。
 続いて、秀吉の北条攻めが始まるが、政宗の意に添うしかないと、動かなかった。
動かないことが秀吉への反抗とみなされた。
その結果、政宗は生き延び、大崎氏は改易。

 釈妙英も大崎家の再興を願う。
政宗は信用できなかったが。
 政宗の母、義姫の兄が、最上家当主、義光。
義光・義姫の父、義守は、伊達植宗に推されて最上義定の養子となり最上家を継いだ。
家督引き継ぎには内紛があった。
 最上義定は、伊達家に敗れ、伊達植宗の妹と結婚し、最上氏は伊達氏の影響下に入った。
だが、子が生まれず、後継者を誰にするか、家中はもめた。
結局、伊達氏の推す、義定の甥の子、義守に決まる。
伊達氏の影響が強まるばかりだと、家中には反対も多かった。

 義守の嫡男、義光が生まれると、家中の信望を得たい父、義守は、伊達氏からの独立化の道を進めていく。
伊達氏は許さず、介入を深め、義守は、やむなく受け入れた。
 だが、義光は、受け入れず、新たに内紛が起きる。
義光は踏ん張り、伊達氏を排除し、義光有利で家督引き継ぎを父に認めさせ、最上家当主として家中の大勢を握り、独立化の道を進む。
 そして、政宗の影響を排除すべく、家康・秀吉とのつながりを大事にしていく。
秀吉の小田原征伐には、遅れながらも、参陣し、宇都宮城で、秀吉に礼を尽くし、二四万石を安堵された。

 一五九一年、家康が九戸政実の乱の制圧のため秀次に従い山県城に入ると、次男、家親を諸大名に先駆けて家康に仕えさせた。
 家康が、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州を得ると、友好関係を結ぶことが最上家生き残りに必要と見極めたのだ。
家康に臣従する証でもあった。

 この時、秀次が、駒姫に目を留めた。
秀吉との仲も大切にすべきだと、三男、義親を秀吉に仕えさせた。
家康との親交を第一に、秀吉・秀次とも親交を深め、最上家を守り発展させるのだ。
その後、秀次方との話し合いで、駒姫を秀次に仕えさせることを了解した。

 その仔細を聞いた愛姫は、聚楽第屋敷を本拠とし、隣家の最上家と密接に連絡を取りつつ、伊達成実(1568-1646)を責任者とし秀次側と交渉を始める。
秀次との結婚は、側室ではあるが、大藩の正室の娘として、相応の待遇をすると確認した。
秀次には多くの女人が仕えているが、実家の武将としての家格では圧倒的に駒姫が、一番高い。
それゆえ、正室相応に迎えるという交渉をして、受け入れられた。

 政宗の母、義姫も最上家居城、山形城に入り、姪、駒姫の嫁入り支度を整える。
駒姫と秀次との結婚は最上家にも利ありと祝い、京に居る兄嫁に成り代わり、駒姫に婚礼のあれこれを教え、京に送り出す。
 ところが、秀吉は、秀次に謀反ありと処罰する。
駒姫は、京に着いたばかりだったが、連座責任を取らされ処刑だ。

 ここで、政宗は、秀次との連座を追及される。
政宗は、駒姫と連絡を取り合っていた喜多・綱元・伊達成実らを伊達家から引き離し、無関係を主張した。
 愛姫は表に出ることはなく、ねねとの良好な関係を続けていた。
駒姫に関しては、一切関知せずと、断言し、追及を受けることはない。
秀次事件の後、聚楽第が破却され、愛姫は伏見の伊達屋敷に移る。

 翌一五九六年、秀吉は、伊達家を取り潰しに出来るほどの秀次謀反への関わりはないと、判断した。
秀頼の将来を考え、政宗への対決押さえ込み路線から懐柔路線に変えた。
愛姫が、秀宗との関係もうまくこなし、愛姫・秀宗は秀次と一切の関係はないこと、秀吉・ねねに忠誠を誓い仕えていることを、にこやかに表明したからでもある。
 秀吉は条件を出した。
 政宗長子、秀宗(1591-1658)に家督を継がせること。
 秀吉の養子とし、傍近くに置くこと。
 秀頼の側近とし、政宗も秀頼の補佐をすること。だった。
政宗が丁重に謹んで承諾すると、罪を問わなかった。

 愛姫は、まだ、嫡男が生まれる可能性はあるのに、秀吉から生まず女の烙印の推され、尊厳を踏みにじられた。
秀宗はあくまで、政宗の長子であるべきだ。
今まで、秀吉に尽くしたが、裏切られた思いだが、悠然と受け入れた。
 政宗も、秀次に公私共に取り入ろうとした事などなかったように、豊臣政権内で重職を与え加増も匂わす秀吉からの優遇の数々に応え、誠意を持って低姿勢で秀吉に仕える。
愛姫は、いつものことながら政宗の変わり身の早さに、涙する。

 翌一五九七年、秀吉の勘気が解けたと見た政宗は綱元を許す。
お種の方を政宗に差し出し、許される日を待ち望んで謹慎していた綱元は、喜んで改めて忠誠を誓う。
政宗は以前からお種の方の知性教養の高さに目を見張り、心惹かれ、国元に伴い側室とした。
愛姫は、秀次との縁が深くはなかった綱元を隠居させ、出奔させたのはこういうことだったのかと苦笑いする。

 喜多にも戻ってきて欲しいと思うが、政宗は京に呼ぶことはなかった。
喜多は政宗の思いを実行しただけだが、表面的ではあるが、切って捨てたような態度を取り続けた。
六〇歳になろうとしている喜多だ、やむを得ないとも思うが、愛姫は、もう一度会って自ら判断したかった。
 田村宗顕を預けており、その様子も詳しく聞きたい。
 
 喜多(1557-1615)は弟、片倉景綱のもとで、片倉家の奥にきっちりと目配りし、景綱も母とも慕う喜多の言うことに逆らうことはない。
片倉家に必要な大切な存在となっている。
 秀吉死後の京大坂は不穏な空気が漂っている。
知りたい情報も多い。喜多がいないの不自由で困った。
愛姫は、腹心の喜多を引き離した政宗の愛情を疑う。

 それでも、秀吉死後、家康に近侍することが増えた政宗は、愛姫と過ごすことが増えた。
ついに、一六〇〇年一月二三日、虎菊丸(伊達忠宗)を産む。
心から待ち望んだ嫡男の誕生である。
 秀吉の死、続く家康との蜜月に政宗は機嫌がよかった。
家康から百万石のお墨付きを得て、愛姫に自慢し、しばらく側に居た。
そして嫡男の誕生。
今までの鬱積した思いが消え去った。
嫡男が生まれた次は、どうしても次男、田村家を相続する男子が欲しかった。
政宗との夫婦関係は保ち続けたい。

 茶々・秀頼が大阪城入りすると、伊達家の屋敷も大阪城下に築かれ、愛姫も移る。
秀元も秀頼に近侍しており、大阪城に移る。

 関ヶ原の戦いが終わる。
屋敷で、自決も決意して行く末を見守っていた愛姫にはうれしい結果だった。
 一五九〇年から一〇年近く、秀吉・ねねに仕えた。
身近だった豊臣家の凋落ぶりは悲しい。
その間、付き合いを深めた豊臣恩顧の大名たちが改易されるのを見るのもつらかった。
 秀吉は田村家を改易し、政宗を苦しめ、愛姫の尊厳を奪った、許されざるものでもある。
豊臣政権が自滅したのは当然だとの思いもある。
 
 政宗は、愛姫の外交手腕に感心した時や、側室に子が誕生し罪悪感を感じたときなどに、興奮して愛姫を訪れ抱く。
関ヶ原の戦いでの達成感・挫折感を味わい、ようやく仙台藩主として落ち着きを得たとき、伏見に長く滞在した。
ここで、愛姫は、夫婦の交わりを復活させ、一六〇三年、京都伏見から江戸の仙台藩外桜田上屋敷に移った後、次男、卯松丸(伊達宗綱)(1603-1618)を産む。
愛姫は、子を抱きしめながら、涙を流し続けた。
三十五歳だった。
高齢出産に苦しみながらも無事に成し遂げ、父母の悲願を果たしたのだ。

 忠宗が生まれた時「奇跡です。これが最後の出産となのでしょう」と御仏の加護に感謝した。
次の子を願うのは、無理な願いだと思っていた。
それでも願った。
そして生まれた。
「また奇跡が起きた」と自身の業を笑う。
嬉しくて笑いが止まらない。
そして「出来うるならば、もう一人授かりたい」と祈る。
政宗とも夫婦関係を続けたいと願いながら。

 政宗は、宗綱守役を、京で長く側近として仕えた茂庭綱元とする。
喜多の弟であり、愛姫にも兄であり父だった。
愛姫は、宗綱は田村家の後継であり、元気で健やかに育ってくれれば十分だと、よくよく頼み預ける。
 喜多に面倒を見て欲しかったが、もう六五歳。
便りがあり、田村宗顕の側近くに居る、それで十分だ。

 忠宗が伊達家嫡男である事は当然のことだが、九歳年上の長子、秀宗が秀吉から嫡男として認められ、家中にもそのように扱われていることを心に深く受け止める。
伊達家の内紛を防ぐ為にも、秀宗から忠宗への後継変更を慎重に行う必要があった。
 そこで、愛姫は、正室として徳川家に忠誠を誓う外交努力を行い、幕府のお墨付きを得て、忠宗に家康ゆかりの姫を迎えた後に後継とすべきだと考え、その為に全精力を注ぐ決意をした。

九 愛姫の養子、田村宗顕
 喜多(1538-1610)は愛姫を主君とし、弟、茂庭綱元(1549-1640)・片倉景綱(1557-1615)の面倒を見た。
喜多の薫陶を受け、政宗側近となった茂庭綱元は、宗綱を預けるのに最適だった。

 愛姫は、多くの豊臣系武将とその家族と親しくした。
関ケ原で敗軍となった武将の多くは、浪人となり、徳川家に対し復讐の機会を待っていた。
愛姫は彼らの想いが良く分かり「少しでも助けたい。伊達家で召し抱えるべきだ」と考える。
政宗も同じ思いであり、慎重に西軍に属し浪人となった武将を召し抱える。

 だが、伊達家も豊臣恩顧とみなされる外様大名だ。
厳しい幕府の目を逃れるために、愛姫と政宗は、必死の嘆願で、忠宗と家康の姫との縁組を願う。
家康の婿となることで、家康の信頼を得て、伊達家を安泰とするのだ。
また、豊臣恩顧の優秀な武将を救い、仙台藩に役立てることもしたい。

 一六〇七年、家康に五女、市姫が生まれると、忠宗との婚約を願い叶えられるまで動かないと政宗は決意を示した。
家康は、その必死さを喜び、婚約を許した。
だが、市姫は三歳で亡くなった。
政宗の呆然とし、がっかりと落ち込む姿に家康は、心打たれた。
 ここで、家康の次女、督姫の娘、振姫を養女として嫁がせると、政宗を力づけた。
愛姫も政宗も天にも昇る思いで、喜び合った。

 忠宗が後継となることを確信した愛姫は、余裕で政宗に接する。
愛姫と政宗の間もまだ熱かった。
忠宗・宗綱に加え一六〇九年には竹松丸も生まれた。
四〇歳を過ぎての子で信じられないほどだが、二人の仲睦まじさの現れだ。
幸せを感じる。

 子を産む時期が過ぎ、愛姫は、政宗の子たちに目を配るようになる。
すべての子を伊達家の宝とするために、優秀な侍女が必要だと召し抱えていく。
西軍に与したり、豊臣恩顧だと冷遇されている女人を少しでも救いたかったためだ。
 かって親しくしたねねに縁ある女人を次々召し抱える。
ねねの側近、東殿と連絡を取り合うと、嫡男、大谷吉継の娘、竹林院と夫、真田信繁の一家と結びついていく。

 越前敦賀城(福井県敦賀市)主、大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘、竹林院。
東殿の孫になる。
秀吉が取り持ち、竹林院と真田(幸村)信繁は結婚した。
真田(幸村)信繁は家康に与せず、一途に秀頼に尽くす。
 竹林院と真田(幸村)信繁は、豊臣家に迫る危機を感じ、今後の対策をわかる限り取ろうとする。
愛姫も力を貸す。

 こうして、大坂の陣が始まる。
大坂城入りし、華々しく戦った真田(幸村)信繁は討ち死にする。
ここから、幸村の子たちを保護するため伊達家中はひそかに動く。
 幸村が大阪城入りした時、妻、竹林院(1580-1649)と子達は、それまで住まいした高野山付近に隠れたが、戦後、浅野家家臣に見つけられる。
信繁との間に生まれた子達は、あぐり姫・真田幸昌大助・菖蒲・おかね・片倉守信。
一緒にいた子たちと共に、捕らわれの身となるが、紀伊藩主、ねねの甥、浅野長晟(1586-1632)は、旧知の竹林院と子達をしばらく留め置いた後、解放する。
 秀頼は、長晟のいとこでもあり、主君でもあり、豊臣家の滅亡はつらく悲しいことだった。
豊臣家に与した縁者に過酷な処罰はできない。
徳川幕府の世は安定しており、幕府にうまく報告すれば、縁者に対し厳しく追及されることはないと解放する。
 
 真田(幸村)信繁(1567-1615)には子が多い。
竹林院と結婚する前、堀田興重の娘、すへと結婚し、死別したが、長女、阿菊が生まれていた。
阿菊は、大坂の陣が始まる前、信濃国長窪宿(長野県小県郡長和町)の本陣、石合十蔵に嫁いだ。
堀田興重は、真田家重臣で、幸村と共に討ち死にした。
 
 次いで、高梨内記の娘と結婚。
次女、於市が生まれるが夭折。
三女、梅(1599-1682)が生まれる。
ここで、竹林院との結婚となり、重臣、高梨内記の娘は側室とされる。
 
 お梅は、一六一四年、父とともに大坂城へ入る。
落城後は、白石城(宮城県白石市)主、片倉重長(重綱)が保護する。
事前に打ち合わせされていたことだった。
幸村が旧知の片倉重長(重綱)に、子達の行く末を見守って欲しいと頼んでいた。
 東殿・幸村と愛姫・片倉重長との連携で、無事保護することができた。
伊達家が豊臣家大坂方に近かったことをとがめられないように細心の注意を払い、お梅を守った。

 お梅は長く、白石城(宮城県白石市)主、片倉重長(重綱)の名もなき侍女として仕えた後、一六二六年、先妻の死後、先妻の侍女であり後を託されたと幕府の了解を得て、晴れて、再婚する。
 家康は亡くなり、幕府が絶対的となった家光の世となっており、幸村の娘であると言うことだけでとがめだてされる時代は過ぎていた。
この経緯で、真田幸村の旧臣の多くが片倉家に召抱えられる。
 
 お梅は、子供に恵まれなかった。
そこで、重長と前妻との間に生まれた娘、喜佐が松前安広に嫁いで生まれた景長を引き取る。
養子とし我が子のように養育した。
お梅は、置かれた立場をよく理解し、真田家を隠し景長を細心の気配りで育て上げ、白石城主、片倉家当主とする。
 
 景長は、お梅を母とも思い慕った。
そして、政宗の指示で、古内重広(伊達氏一門、国分盛重の子)の娘久(鑑照院)を妻に迎える。
生まれたお松の方は、伊達宗房と結婚し、第五代藩主、伊達吉村(1680-1752)の母となる。
 愛姫の子、忠宗の八男が、伊達宗房。
母は、愛姫が娘のように育て忠宗に配したおたけの方。
愛姫はすでに亡くなっていたが、片倉家との縁を結ぶよう伝えており、愛姫の意向が強く反映された結果だ。
伊達吉村の誕生には、愛姫の想いが籠っている。

 愛姫と連絡を取り合っていた東殿の娘、竹林院。
愛姫は守りたかった。
 竹林院の子たちで、愛姫が救えたのは。次男、片倉守信と六女、阿菖蒲。
あぐり姫は、すでに、叔母、滝川氏(幸村の妹、滝川一積と結婚)に引き取られていた。
そして、陸奥会津藩主、蒲生忠郷の重臣、三春城(四万五千石)を預かる蒲生郷喜と結婚する。
ところが、主君、蒲生家は藩主が次々変わり、国替えもあり、家中は乱れる。
蒲生郷喜も出奔したり再仕官したりと波乱に満ちていた。

 松山藩二四万石藩主に国替えされた蒲生家の筆頭家老となった蒲生郷喜。
だが、家中内紛を押さえられず、一六三〇年、蟄居となる。
 続いて一六三二年、逆臣の娘、あぐり姫と幕府の許しを得ず結婚したと言いがかりを付けられる。
ここで、叔母一家は改易。
あぐり姫は、叔母に申し訳なく、蒲生家で難しい立場となるが、一六三四年、蒲生家も改易される。
郷喜は、一六三五年亡くなる。
あぐり姫は、そのまま仏門に入るしかなかった。
 
 嫡男、大助(真田幸昌)は大坂城で戦死。
 
 七女、おかねは、東殿の娘婿、石川貞清に預けられ、嫡男、貞清に嫁ぐ。
石川貞清は、秀吉の側近で、犬山城を預かったが、忠義の将であり関ヶ原の戦いで改易。
以後、商人となり、成功し、竹林院母子を支え続けた。
浅野家を出た竹林院とおかねは、石川貞清に迎えられ、京で静かで裕福な暮らしを得る。
おかねは、結婚で、石川家を守り?栄させる。

 愛姫は、残った竹林院の子、六女、阿昌蒲(おしょうぶ)・次男、片倉守信を保護した。
愛姫・政宗は、幕府の意向に沿いながら、幸村の子たちの面倒を見ている。
 愛姫には、意志を通す才知と心意気があり、あぐり姫のような不幸を避けることができた。
京に居ては、幕府の詮索を受けると、すぐに、国元に行かせる。
すべて事前に話し合われていたことだった。
 
 一〇歳以上年上のお梅は、幼い弟、片倉守信、妹、阿菖蒲の世話をする。
片倉重長(重綱)は、お梅を気に入っておりすべて任せる。
 成長した阿菖蒲は、片倉定広(喜多の養子となり田村姓からと名乗りを変えた)と結婚させる。
田村定広とは、愛姫がわが子と思い、思うように引き延ばせず悔いながら生涯見守った従兄弟であり、田村家を引き継がせた田村宗顕の嫡男だ。
愛姫の考えだ。
 田村宗顕は、愛姫の意思で忠宗三男、宗良を後継として迎えた。
宗良は一関藩(当初は陸奥岩沼藩)三万石藩主となり、愛姫の田村家を再興させた。

 こうして、伊達家は我が子、忠宗。
 支藩、田村家は忠宗の子、宗良に引き継がせ、愛姫の思い通りの後継とした。
直接血は繋がらないが、喜多を母とも思い、弟たちを腹心とした愛姫の心意気が現れている。
片倉家・鬼庭家を大きく引き立てた。
譜代の臣の家系で一万石以上を得たのはこの二家だけだ。
武門の誉れの高い真田家に、田村家に共通するところを見て保護した。

 喜多の母、本沢直子は、伊達家家臣ではあるが目立たない片倉景重に嫁いだ。
片倉家嫡流ではなく次男の家であり、しかも再婚で嫡男がすでにいた。
 だが、喜多があまりに優秀で、片倉景綱が生まれたことで陽が当たった。
嫡流の家系は絶え、景重の嫡男は景綱に家督を譲り、家臣となった。
景綱が、片倉家を率いた。

 愛姫・喜多に支えられたゆえに片倉景綱の嫡男、重長は、才女、阿梅と出会った。
そして重長の養子、景長は、阿梅に育てられ、才知が開花し、忠宗の側近となる。
景長の娘、お松の方は、忠宗の子、伊達宗房の妻に迎えられ、吉村が生まれる。
愛姫が思い描いた筋書き通りになったのだ。

 また愛姫がとても大切にした養子、田村宗顕(むねあき)の子たちを、喜多の養子とし、一家を興させ片倉一門とし、田村宗顕の子を守るとともに、伊達家での片倉家の家格を高めた。
田村宗顕を取り込んだ功績で、忠宗が片倉家を一門に次ぐ一家の家系とした。
これもまた、愛姫が思い描いた筋書き通りとなったのだ。
 片倉家は、伊達家家格の中で、一門に継ぐ一家としては法外な一万八千石を得ることになった。
藩主の母の実家となり、幕末まで続く。


一〇 政宗が愛した女
 政宗は恋多き武将だった。
愛姫だけを愛したのではない、いくつかの愛があり彩る女人がいた。
 それでも、始まりは、愛姫。
愛姫一一歳は、一五七九年、政略結婚で、政宗一二歳に嫁いだ。
政宗と愛し合い仲睦まじく子に恵まれるとうきうきとして嫁いだ。
 三春を出て北上し川俣から梁川(伊達市梁川町)に着く。
そこで、甲冑の上に礼服を着た伊達成実、遠藤基信らが出迎えた。
愛姫はびっくりだ。
結婚とはお祝い事であり、多くの人たちが華やかな衣装で待ち受けていると思っていたからだ。
少数精鋭の物々しい雰囲気に身が縮む。

 ここで田村家からの従者は引き上げさせられた。
愛姫の乗った輿は、輝宗が選んだ従者に引き継がれた。
物々しい雰囲気の中で、愛姫は、わずかな侍女近習になったことを知る。
心細く落ち込みながら、四〇㎞以上を見知らぬ人に担がれた輿にいた。
それでも、休憩地点で見る景色は、三春と変わらず美しく、きっと素敵な結婚生活になると自らを元気づけた。
そして米沢に到着。
 
 すぐに米沢城に入ると思っていたが入れず、用意されていた城下の屋敷に入った。
幼いゆえ、喜多らから、しばらく、伊達家の女主となるために、学問教養を身に付ける必要があるとのことだった。
人質でしかないのだと周囲に不満を言い続けたが「今しばらく辛抱ください」と言うばかりで、何も変わらない。
やむなく、勉強中心の暮らしに入る。
喜多は厳しかった。
それでも、仙台と三春との違い、伊達家と田村家の違いを教えられ、今まで小さな世界しか知らなかった、いろんな国があり人々の暮らしがあることに驚きつつ面白いと学んだ。

 ようやく一五八一年初め、結婚式を挙げた。
時々、政宗が訪れる程度だが、結婚生活が始まり、父母へ新婚の暮らしのあれこれを文で報告できた。
輝宗と義姫は、隠居城に移り、愛姫は、米沢城の女主となったと聞かされるが、思い描いた結婚生活ではなかった。
 ただ、父、清顕が田村家のため、愛姫のため、伊達家に尽くし、大きな働きをしていることがわかっていく。
父が誇らしく、いつか伊達家の女主として、両家に尽くすと決意だけは固める。

 一五八五年、輝宗が亡くなる。
 一五八六年、父、清顕が亡くなる。
政宗が名実ともに伊達家を率いると、政宗にとって田村家の価値がなくなる。
次は、田村家の内紛をあおり、完全に配下とするだけだ。
そんな時、政宗暗殺未遂事件が起き、愛姫を首謀者と見た政宗は、愛姫を訪ねることがなくなった。

 愛姫は、また、絶望の淵に立った。
田村家は政宗に翻弄され、生き残りさえも難しい状況だ。
母がどうしているかを想うと心痛め、仲睦まじい結婚生活は不可能と諦めた。
そんな愛姫の姿を知る母は、政宗を許せず、実家、相馬氏を頼り、内紛はますます高じる。
 政宗は強く、伊達家に都合の良い決着となる。
愛姫は、愛姫に忠実な宗顕が田村家後継となり、政宗に従うと言ってくれて、ほっとする。

新造の方(-1612)と飯坂の局(1569-1634)
 政宗との不仲が続いた頃、政宗に二人の女人の影があるのを感じる。
一人は新造の方、もう一人が飯坂の局だ。
 新造の方(猫御前)は、仙北郡六郷邑を領した新庄(秋田県山北郡美郷町六郷)城主、六郷伊賀守道行の娘。
政宗の母、義姫に仕えた。
 六郷氏は二階堂氏の分家になる。
二階堂氏には輝宗の姉が嫁ぎ、一時は友好関係にあったが、一五八九年、政宗に滅ぼされる。
 六郷道行も、生き残るため苦心する。
出羽国横手城主、小野寺氏に従ったり、敵対する最上家と友好の時もあった。
 そんな時、義姫の願いで、美人の誉れ高い新造の方(猫御前)が、伊達家に呼ばれ義姫に仕える。
その後、義姫に推されて政宗に仕えた。
 
 六郷道行が亡くなり、新造の方の兄、嫡男、政乗(1567-)が後継となり、秀吉に従う。
北条攻めに参陣し、秀吉から仙北中郡の内四五一八石(蔵入地を含め一万三八〇〇石余)の本領を安堵された。
関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、六郷政乗は、家名を守り、出羽本荘藩二万石藩主で続く。
 
 飯坂の局の父は伊達庶流、信夫(しのぶ)郡飯坂(いいざか)(福島市)を本拠とする飯坂城主、飯坂宗康。
母は、伊達庶流の出羽国長井郡小松城主、桑折景長(こおりかげなが)(1506-1577)の娘で、当主、桑折宗長(1532-1601)の妹。
 
 天文の乱では、両家とも晴宗側に従ったが、勝利後の待遇は満足の行くものではなかった。
以来、次第に輝宗に従うようになり、晴宗を隠居に追い込む。
その功で、輝宗の重臣となり希望通りの勢力を回復する。
 桑折宗長は、政宗(1567-1636)が家督を引き継ぐとき、輝宗により政宗に付けられ、奉行(家老)となる。
飯坂宗康(-1589)は、輝宗死後の人取橋の戦いで政宗を守り奮闘し重臣の地位を引き継ぐ。
両家の思惑が一致し、才色兼備を謳われた飯坂の局を政宗に推し、仕えるようになる。

 政宗には、新鮮で心ときめく女人だった。
母や重臣に推された二人は、共に、政宗に仕える。

 北条征伐で政宗は出遅れ、秀吉から冷たい叱責を受け、愛姫が京で人質となることが決まる。
愛姫は、政宗の元を離れることとなり、国元で仕える女人を認めるよう願われる。
見知らぬ土地での人質に不安が高まっている中で、追い打ちをかけるように政宗の側室を認めるのだ。
余りに理不尽な仕打ちだと、こみ上げるものがあった。
それでも、政宗に、立ち向かうことができず、出立の時、不本意だったが、二人と対面し、認めた。

 淡々と政宗や近しいものとの別れの儀式をこなす。
「二度と米沢城に戻れない。(政宗と)永遠の別れになるかもしれない」と涙があふれる。
喜多の教えを受け、米沢城の奥ですべきことを知り、奥の要となりつつある時だった。
 側室に迎えた二人とも、相応の出身だ。
嫡男の母となっても、おかしくない家柄だ。
これから起きることを思うと、不安でたまらない。

 喜多は、まったくたじろがなかった。
愛姫は、田村家と伊達家が和議を結び、決められた結婚だ。
正室は重くかけがえのない存在であり、政宗は大義を貫き正室を重んじると、さりげなく言うだけだ。
その姿に、愛姫は、自分の心の狭さを感じ「田村家の唯一の姫だ。負けることはない」と自信なく胸を張る。

 愛姫は、秀吉・ねねに歓待され、恐怖は杞憂だった。
だが、一五九一年一一月一一日、新造の方が陸奥国柴田郡村田城(宮城県柴田郡村田町)で政宗長子、秀宗(1591-1658)を生む。
 心騒ぐ。
政宗は京に常駐することはなく、秀吉と距離を保ち、外交は愛姫に任せた。
国元ですべきことが多かったからだ。
 愛姫は、妻としての役目を果たすことができない。これでは子は生まれないと、情けない。
秀宗を認めるしかなかった。

 政宗は秀吉を心底は認めることはできなかった。
それでも、秀吉の元、天下が統一され秀吉の天下は揺るぎないのは明らかになる。
国元での働きより、秀吉の意向に添うことが伊達家の存続に、最も大切なこととなった。
 そして天下人の後継、秀頼が生まれ、秀吉は秀頼を中心に政務を執るようになった。
一五九四年、秀宗が秀頼の小姓に決まる。

 秀宗は、秀頼に近侍することになった。
政宗は「(秀宗は)まだ三歳。母と共にこちらに呼びたい」と愛姫に言う。
許すしかない愛姫は、唇をかみしめた。
 こうして、新造の方は、秀宗と共に国元から移り伏見屋敷に入る。
秀吉への人質として、愛姫に加えて秀宗が望まれたのだ。
 愛姫は、自分の存在が軽く扱われ、腹立たしくどうすべきか悩む。
伊達家を改易したいと考えている秀吉だ。
家中不和を見せてはならないと厳しく自分に言い聞かせ、にこやかに受け入れる。
 
 愛姫は、結婚以来の政宗の愛姫への扱い、田村家への仕打ちなどなど、つらい思い出ばかりで許すことができない。
それでも、政宗の正室の座を守り続けることしか、田村家の復興はできないと心に決め、役目を果たしてきた。
 時には、もう耐えられないと叫ぶ時もあった。
喜多の毅然とした言葉で思いとどまるが。
 ところが、政宗から離れて、京の伊達屋敷に入り、すべてが変わった。
秀吉・ねねが伊達家の顔として女主として認め、笑顔で付き合うのだ。
気さくな二人であり、愛姫も気安く接することができた。
秀吉に近い公家・武将と付き合うのも面白かった。
 
 以来、事細かに相手に応じて贈り物を繰り返し、一五九一年から伊達家居城となった岩出山城(宮城県大崎市)の名品を取りよせる。
さりげなく、故郷三春(福島県田村郡三春町)の素敵な品々を贈るのも、たまらない。
直接会ったり出かけることは少なく縁者を招いたり、たまの儀式で挨拶するだけだが、効果は十分にあるとわかる。
 田村家の祖、英雄、征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績はよく知られており、誇り高く外交儀礼を行うことができた。
京に移り来てよかったと思う日々となる。

 政宗も、秀吉との緊迫した状況が緩和されていくのを感じていた。
愛姫の功だ。
おかげで、余裕をもって、秀吉の隠居城、伏見城普請を指揮することができた。
こうして、政宗は、京に在住することが増え、愛姫に寄り添うようになった。
一五九四年、結婚一五年目に、五郎八姫が誕生。
愛姫は、政宗をまだ許すことはできないが、結婚して良かったと思えるようになっていく。
 
 秀次事件などがあり、秀吉から遠のくこともあり、愛姫との蜜月も遠のいたが、一五九八年、秀吉が亡くると政宗は家康に近侍することが増える。
今後を想定し、京に在することが増え、伏見の屋敷に入ると愛姫の元を訪れ、楽しい時を過ごす。
一五九九年、嫡男、忠宗が誕生。

 続いて、新造の方が、一六〇〇年、伊達(飯坂)宗清(1600-1634)を生む。
ここで、愛姫「嫡男の母は私であり、それ以外の子は必要ない」とはっきり言う。
新造の方を認めることが出来ない。
政宗も了解し、伊達氏庶流、飯坂宗康の養子とすると決め、飯坂の局に預けた。
飯坂の局には子が生まれず、感謝し、母となる。

 関ケ原の戦いが終わり、天下は家康の考えで動くようになった。
政宗は、百万石を得るために京伏見に在し、家康の側近くに居ようとする。
 そこで、政宗は、愛姫に側室を置きたいと願う。
愛姫は子を生む適齢期とされた三〇歳を過ぎたこと。
伊達家は子だくさんで権勢を保ってきており、側室が必要なこと。など理由をつけた。

 愛姫には忠宗が生まれており、正室としての尊厳が守られていた。
それでも、政宗が、楽しく付き合う女人の存在が必要だというのは寂しい。
子は望めないと思いつつも、子は産まれている。
愛姫の生む子たちで満足してほしいと思う。
 それでも、政宗の精力の強さは良く分かっており、願われると認めざるを得ない。
こうして政宗は側室を置く。

祥光院(1583-1656)塙氏(ばんし)
 側室となる祥光院(1583-1656)塙氏の父は、塙団右衛門直之(1567-1615)。
摂津国西成郡で生まれた。
愛姫も同情する女人であり、認めざるを得ない。
 天下分け目の戦いが終わると西軍で戦った多くの大名・武将が改易となった。
だが、東軍で戦いながら、命令を無視したと主君に嫌われ浪人となった武将が、塙(ばん)直之だ。
余りに個性の強い、勇猛な武将だった。

 政宗が、朝鮮の役で、共に戦った伊予松山藩主、加藤嘉明の重臣だ。
伊達家と加藤家は聚楽第での屋敷が隣接し、愛姫も親しくしていた。
伊達屋敷は、伏見屋敷・大阪屋敷そして再び、伏見屋敷と次々変わり、行き来は少なくなっていたが、塙直之が愛姫の元を訪れ、娘、祥光院塙氏を召抱えて欲しいと願い出た。
聞けば、加藤嘉明に仕えることを辞すという。
身軽になって次の仕官先を探したいので、娘を召し抱えて欲しいと願われたのだ。

 愛姫は事情を聞き快く引き受けた。
個性的で自己主張の強い美しい顔立ちの祥光院はよく目立った。
家康に振り回されやり場のない思いがあった政宗の目をくぎ付けにした。
愛姫も了解し側室となる。

 幕府には知られたくないと身分は伏せ、伏見屋敷でひそかに仕えた。
愛姫は、祥光院が、子を身ごもったことを知ると、屋敷での出産の手配をした。
一六〇二年、政宗四男、宗泰(1602-1638)が生まれる。

 江戸屋敷・仙台城(青葉城)が急ピッチで築かれており、伏見屋敷を引き払うため、愛姫は、忙しい。
そんな時、祥光院の面倒を見るのは疲れる。
愛姫付きの奉行、山岡重長に母子の面倒を見るよう任せる。
山岡重長は、安積重遠と共に守役となる。
祥光院は、実家を伊達家重臣としたく、弟を宗泰付きとする。

 愛姫は、政宗の女好きを冷たく見る。
政宗のはかり知れない野望も理解できず、目指す世界は謎に包まれていると不快だ。
その才知に感心することばかりだが。
政宗は現実も良く見ているが自分の美意識の世界で生きているところもあり、ひらめきを感じると一直線に突き進む。
 女人に対しても同じところがあった。
胸打つ想いを感じると止まらない。一瞬の愛にかけるのが好きだった。
だが、長続きはしない。

 祥光院塙氏との仲も短かった。
愛姫は、宗泰の母として手厚く遇し、宗泰の側を離れず生きるよう諭す。
宗泰は、岩出山伊達氏を興し、一万四千六百四十三石を得て、続いていく。
塙(ばん)直之は大坂の陣で豊臣方として勇猛な戦いぶりを見せたが討たれた。

お山の方(1587-1668)
 次に認めた側室が、お山の方。
小山(結城)氏庶流になる重臣、柴田城(船岡城)(宮城県柴田郡柴田町大字船岡字舘山)主 柴田宗義の娘だ。
愛姫に次男、宗綱が生まれてまもなく、一六〇三年、宗信(1603-1627)を生む。

 柴田城は、一二〇〇年頃に芝田氏によって築かれた。
交通の要所にあり軍事的に重要な地だったため、争奪戦が繰り広げられたが、どうにか守り代々支配を続けた。
弱肉強食の戦いが続く戦国の世となると、守り切れなくなる。
 一五七六年、芝田氏一族、四保定朝は伊達輝宗に敗れた。
以後、定朝から嫡男、宗義へと引き継ぐも、伊達氏に従い仕えることになる。
輝宗死後政宗に仕えた。
 一五九三年、政宗から志田郡桑折邑に領地変えを命じられ、名を柴田と変える。
宗義の娘がお山の方。嫡男が柴田宗朝。

 柴田城(船岡城)は、新造の方を預かり政宗長子、秀宗(1591-1658)を生んだ村田城(宮城県柴田郡村田町)の隣にあった。
 村田城は、下野国を支配した小山一族が村田に移り住み、居館を築いたのが始まり。
その後、伊達氏に仕えた。
代々続くが、当主、村田近重に子がなく、政宗の祖父、晴宗の弟、宗殖(1542-1604)が養子入りし、三万石を引き継ぎ、村田城主となった。

 ところが、宗殖は、政宗の弟、政道を擁し、政宗と対立。
政宗は許さず、村田城を取り上げ、桃生郡長井にわずか三百石を与えただけで、移らせた。
 その時、隣地を得ていた柴田宗義が村田城代となり預かる。
宗殖が追い出され、柴田宗義が預かったのが、一五九〇年、秀吉の北条征伐の最中であわただしい時だった。
それでも、政宗の命令に応えて、新造の方の産所を整え、心安く生まれるよう手を尽くした。
一五九一年一一月一一日、秀宗が生まれた。

 この間、柴田城で新造の方に仕え、出産を手伝ったのが、柴田宗義の妻ら柴田一族だった。
そのまま、秀宗の乳母となった。
一五九四年、秀宗が伏見城伊達屋敷に入ると、宗義の娘、お山の方(1587-1668)は、遊び相手に選ばれ付き従った。
秀宗をかいがいしく、かつ、てきぱきと世話するお山の方の姿に政宗は目を留めた。

 その時はまだ幼かったが、政宗は自らの侍女とし召し抱えた。
政宗好みの美貌と賢さを併せ持つ女人に成長し、側室とする。
 愛姫は、宗綱を身ごもり、きつかったが、伏見から江戸屋敷に移る。
体力的にも精神的にも疲れた。
伊達家江戸屋敷に移ってまもなく、一六〇三年、宗綱が生まれる。

 お山の方も、同じく子を身ごもっており、まもなく宗信(1603-1627)を生む。
愛姫が、屋敷のしつらえに悪戦苦闘し、神経をすり減らしていた時、お山の方と政宗は愛をはぐくみ、仲睦まじくしていたのだ。
腹立たしい思いだ。
子が生まれたこともあり、お山の方を側室にしたいと改めて願われるが、お山の方を認めても、江戸屋敷で共に暮らすことはできないと、拒否した。

 お山の方は国元に戻らされ、宗信を仙台で育てる。
お山の方は、控えめながら、頭の回転が速く、その場の状況把握が早い。
愛姫に嫌われたことを恥ずかしく思い、以後、愛姫に忠誠を誓う。
 愛姫の指示に従い、仙台城の奥を守ることに徹し、国元に戻った政宗に安らぎの時を創ることのみ考えた。
政宗は、分相応につつましく仙台城の奥を守る、お山の方を愛しく思う。

 一六〇七年、国元で、宗高(1607-1626)が生まれる。
続いて国元で、一六〇八年、牟宇姫(むうひめ)(1608-1683)が生まれる。
お山の方は、政宗との間に三人の子を儲けた。
 
 三人の子を生むほど政宗はお山の方を愛し信頼し国元の奥を任せた。
その意に応えて、愛姫と連絡を取りながら、奥を守り、政宗に仕える。
かけがえのない二人の男子は、若くして亡くなってしまい、牟宇姫(むうひめ)だけが大人になる。

 お山の方は、一六三六年、政宗が亡くなるまで、仙台城の奥を守る。
死後、仙台城を出て、牟宇姫の嫁ぎ先の伊具郡角田邑に移る。
牟宇姫は母のために御堂、八竜性院を建てて迎えた。
お山の方はここで余生を過ごし一六六八年、八一歳の長寿を全うした。
この御堂は、菩提寺、妙安寺となる。
 
 柴田宗義は、お山の方が一六〇三年、宗信を生むと、志田郡桑折から伊具郡金津に領地を得る。
ついで、一六〇七年、宗高を生むと、伊具郡金津から胆沢郡水沢城に移り、二〇〇〇石を得る出世をした。
 お山の方の兄、柴田宗朝が引き継ぎ、兄も順次出世する。
後継のなかったお山の方の兄、柴田宗朝が、政宗の命で、弟、柴田実信の娘、申を養女とし、娘婿養子として、柴田外記朝意(とももと)を迎え、家督を引き継がせる。
領地替えが続くが、柴田郡船岡城五千石余りを得て仙台藩一家、柴田家として続く。
 
 柴田外記朝意(1606-1671)は、大坂の陣で、豊臣家に殉じた長宗我部元親の孫。
大坂城に一族で入るが、落城まじかとなると、母、阿古姫と兄と共に逃げた。
政宗は、母子を見つけ捕らえた。
取り調べるうち、元親の血を引く母、亜子姫の才能に惹かれ、召し抱えることにした。
 朝意は、伊達騒動で、伊達宗勝に対峙し殺された忠臣だ。

 お山の方が、九歳の柴田朝意を預かり、我が子のように教え、政宗に仕えさせた。
柴田朝意は、政宗が褒める働きをし、その功で、柴田家を継いだ。
 お山の方が、政宗・伊達家に尽くし、伊達家の奥をまとめた功で、柴田家を後世に有名な忠臣の家系とした。
 
荘厳院(しょうごんいん)弘子(阿茶の局)(-1644)
 荘厳院弘子(阿茶の局)芝多氏。
お山の方に仕え、お山の方に推され、政宗に仕えた。
一六一三年、仙台で、政宗九男、宗実(1613-1665)を生む。

 弘子の父、芝多信恒は、柴田氏の一門だ。
宗家、柴田氏と同じ名では紛らわしいと名を芝田に変える。
お山の方が、政宗に引き合わせ、政宗の心をつかんだ。

 愛姫は四〇歳を過ぎ、一六〇九年、竹松丸を生み、女人としての役目は終りますと政宗に言った後のことだ。
笑顔で、弘子を認めた。
政宗は一時夢中になるも、次第に熱が冷める。
そのため、弘子との愛も長くはなかったが、弘子は仙台城でお山の方を支えつつ、宗実を育てた。

 一六三九年、宗実は、亘理郡亘理城主二万四千石、亘理(わたり)伊達(だて)氏、伊達成実の後継になる。
弘子の兄、常弘は、宗実の守役となり仕えた。
弘子も、常に、宗実の側におり、共に亘理へ移る。
後に、常弘の嫡男、常元は伊達宗家に戻り、柴田郡村田邑に二千石を領し奉行(家老)となり続く。
柴田氏の分家ながら、着座として一家をなしたのは、お山の方・荘厳院(しょうごんいん)弘子の功だ。

勝女姫(?-1669)
 数奇な運命を持った勝女姫。
政宗は、妖しげな勝女姫に魅せられ側室とする。
 勝女姫の父は、多田伊賀吉広。
愛姫は、田村家にも似ている多田家に同情し、大切にして欲しいと、側室にすることに賛成した。
 
 秀吉の小田原攻めに政宗は、遅れてしまったが、少数部隊を率い参陣をした。
配下の国人衆に参陣するなと命じたが、ぎりぎりまで迷い政宗は、形だけでも行くしかないと決め、急ぎ参陣した。
戦いが始まる前で、命拾いする。
 動かないようにと指示されていた配下の国人衆は惨めだった。
中には、時勢を見て独自に参陣した国人衆もいたが、ほとんどが政宗の命令に従った。

 奥州国人、和賀氏は政宗の指示に従い参陣しなかった。
当主、和賀忠親は、秀吉に屈するのは潔しとはしなかったが、敵対する気はなかった。
秀吉は見せしめのように、参陣しなかったと責め、弁明を一切認めず、改易した。
納得できない改易された和賀氏や国人衆は、葛西大崎一揆をおこし、秀吉に反乱を起こすが、鎮圧されてしまう。
 当主、和賀義忠は戦死。
嫡男、和賀忠親は、政宗に納得できないと訴え、再興を願う。
政宗も機会を見て再興させると約束し、一族をひそかに庇護した。
まずは、伊達家の生き残りが一番で、応える機会はなかったが。

 一〇年が過ぎ、秀吉は亡くなり、関ヶ原の戦いとなる。
政宗は和賀忠親に、花巻方面に向けて国境侵略を命じた。
かっての和賀氏の領地を取り戻すようにと。
伊達勢をひそかに援軍とし付けた。
岩崎一揆の始まりだ。
 我が領地として長年支配していた地に侵攻された盛岡藩主、南部利通は迎え討つ。
ここから、あしかけ二年にわたって戦いを続け、追い返す。
この間、南部利通は、政宗の関与を幕府に訴え、政宗への制裁を願う。

 幕府の追及を受け窮地に追い込まれた政宗。
南部勢は強く、幕府の監視が厳しくなり、勝利はないと悟った政宗は、毒沢義森を含む和賀忠親主従を仙台に呼ぶ。国分尼寺に集め、謀殺した。
幕府に「和賀忠親は責任を取り自害した。わが藩とは無縁」と言い切った。

 この時、和賀忠親一門の筆頭家老、毒沢義森の嫡男、多田伊賀吉広が、和賀忠親主従を仙台に連れて来ることに、関わり成功した。
政宗は、岩崎一揆を早急に収束させないと伊達家の存続に関わると焦り、和賀家中に味方を増やそうと調略する。
その時、追い詰められていく戦いに疲弊していた多田伊賀吉広が乗ってきた。
そこで、和賀勢・毒沢一族のためだと、謀殺に関与させ、父、毒沢義森を殺すことになった。
多田伊賀吉広には、逃げ道はなく、政宗に従うしかない。
多田伊賀吉広の裏切りで、首謀者を一掃し、成功後、伊達家臣に迎え入れた。

 政宗は、自分の命令で南部領に侵攻した和賀氏を征伐するのは心苦しかったが、やむを得なかった。
秘策を用い父や身内の和賀忠親主従を殺し、岩崎一揆と伊達家の関係を断った多田伊賀吉広に恩義を感じた。
 多田伊賀吉広は、自責の念に駆られていた。
そこで、忠誠心を褒め、その恩に報いたいと、吉広の子、勝女姫と勝吉(只野作十郎)を召し抱える。
二人の容姿性格才知を気に入ったからでもあるが。

 ここから、勝女姫は側室となる。
 勝吉(只野作十郎)はお気に入りの小姓となり政宗の側近くで仕える。
姉、勝女姫に推され、永代着坐千二百石重臣となる。

 和賀氏は、岩手県北上市や和賀郡一帯(東和町、湯田町、沢内村)、花巻市笹間、宮守村達曽部、江刺市稲瀬、秋田県仙北郡および平鹿郡を約四百年間統治し続けた。
その統治は、安定せず、内紛と戦いが続いたが。
 和賀氏は、源頼朝の庶子を始まりとし、陸奥国和賀郡(岩手県北上市周辺)を得た多田忠明が、和賀を名とし続く。
また、源義朝の庶子、八田知家の養子となった中条家長の父、中条兼綱を始まりとする説もある。
中条家長の生母と八田知家の姉、寒河尼が、姉妹だったゆえ、養子となった。
 寒河尼は、頼朝の全幅の信頼を得た乳母である。
頼朝の父、義朝や頼朝の側近くで仕え、恋愛も生まれ、なんでも起こりうる入り組んだ愛があった。
和賀氏は滅び、確定はできないが、どちらにしても源家嫡流に近い家柄である。

 室町時代、奥州の地は、奥州管領、斯波氏が支配した。
和賀氏も、斯波氏一門、大崎氏・最上氏との通婚があり、伊達氏に繋がる稗貫(ひえぬき)氏も一門だ。
千葉氏に繋がる葛西氏も一門になる。
歴史は長く続き、血縁は入り組んでいくが、和賀氏の支配は続く。

 隣国に強力な軍事力を持つ南部氏が現れ、侵攻を受ける。
守勢になりながらも、伊達氏らの支援も受け守った。
 だが秀吉の奥州仕置きで改易となり、すべてが変わった。
政宗に支えられながら暮らしたが、政宗により絶え、只野氏として続くことになる。

 多田吉広は、父、毒沢義森の毒沢氏から姓を変え、政宗に仕えた。
政宗が、あまりにも美しく育った勝女姫に目を奪われる日が来る。
政宗の問いかけに、時に応じて的確に応える頭の良さにも心奪われた。
こうして、一六歳になると、仙台城の奥に勤める。

 多田吉広一族を預けられたのが、佐々若狭元綱。
政宗の側近で、仙台の街づくりに貢献し、信頼篤い。
 宮城郡南目村の開墾では、川村重吉と共に、目覚ましい実績を上げ、政宗を感嘆させた。
この地は、今では東北地方最大の流通拠点だ。

 佐々若狭元綱も、勝女姫・只野勝吉の並外れた美貌に感心し、政宗との出会いを創った。
そして、是非召し抱えて欲しいと願った。
政宗は、勝女姫に心奪われ、溺愛する日々が来る。
佐々元綱は、嫡男、元定と勝女姫の妹との結婚を実現し、国家老としての地位を固める。
佐々家は、着座、三〇三六石となり、続く。

 一六一六年、勝女姫は、岑姫(みねひめ)(1616-1635)を生む。
涌谷伊達家、宗実(1611-1639)と結婚するも、十九歳で亡くなる。

 一六二二年、一〇男、宗勝(1622-1678)が生まれる。
政宗は、宗勝を溺愛した。
晩年の子であり、行く末を決める前、一六三六年、宗勝一四歳の時、亡くなってしまうが。
それでも、あまりに優秀だと後継、忠宗を支える重要な腹心とすべく、自ら武将としてのあるべき姿を教えた。
宗勝は、伊達騒動の中心人物、伊達兵部となる。

妙(1604?-1664)
 最後の側室が、妙。
妙の父は、村上水軍(瀬戸内海で活躍した水軍海賊衆)の一族であり、周防定重・雅定と続き、当主となった、村上正重だ。
 秀吉の天下となると毛利家を離れ摂津に在し秀吉に仕える。
大坂の陣で大阪城入りし、秀頼と共に戦い、豊臣家滅亡の後、付き合いのあった隣地の支配者、池田輝政に仕えた。
 弟が、村上利重。
妙に呼ばれ、一六二四年から政宗に仕える。
 
 妙は、一六一七年、忠宗と結婚した振姫の侍女として従い、伊達家に仕える。
江戸詰めだったが、政宗が、洗練された美貌と鍛えられた体格に目を奪われ、仙台に伴なう。
そして、側室とする。
愛姫は六〇歳近い政宗からの側室にしたいとの申し出に、苦笑いしながら、了解した。
 
 一六二六年、千菊姫(1626-1655)が誕生。
政宗最後の子だった。
とても可愛がった。
 一六三五年、振姫(1607-1659)の姉の子、丹後宮津藩三代藩主 京極高国(1616-1676)に嫁ぐ。
死を前にした政宗が、嫁ぐ姿を見ておきたいと決めたのだった。
妙は、千菊姫に付き添い京極家に行くも、千菊姫が亡くなると、伊達家に戻り、振姫に仕える。
一六五九年、振姫を看取る。
振姫を弔う暮らしに入り、一六六四年、振姫の菩提寺、孝勝寺(仙台市)に葬られることを願い亡くなる。

 振姫に仕え、政宗に愛され、素晴らしい人生を送れたと感謝する日々だった。
池田家の姫、振姫は、表立っては分からないが、伊達家の隅々にまで影響力をもたらした。
伊達一門衆が恐れるはずだ。

お種の方(安楽院 香の前)(1577-1641)
 お種の方(安楽院 香の前)。
謎に包まれている。
七年間ほど政宗に仕えたが、形式的には茂庭綱元の妻だったため、側室ではない。
それでも、政宗が心ときめき愛した女人だ。

 父は、御香宮に仕える高田次郎右衛門。
一五九二年、秀吉は、伏見(京都市伏見区桃山町泰長老)に隠居城を築く。
伏見は、京、聚楽第と大坂城に中間地点にあり、古くから風光明媚な別荘地で気に入っていたからだ。
城地としたのは広大で、種々の手続きが必要だった。
その中に、伏見宮邸があり領する伏見荘もあり、移転が必要だった。
秀吉は、伏見宮邦房親王と親しく、移転の取り決めも順調に進む。

また、伏見宮家が産土(うぶすな)神(かみ)として崇敬する御香宮(京都市伏見区御香宮門前町)を、秀吉も尊んだ。
一五九〇年、頭に描いていた朝鮮の役の戦勝を祈念して、願文と備前長光作の太刀を御香宮に奉納している。
そこで、伏見城築城にあたって、城郭鬼門の守護神として御香宮神社を選んだ。
御香宮神社の移転建立が必要となる。
伏見宮家に縁があり、御香宮神社に仕える高田次郎右衛門が、取り次ぐことになる。
御香宮神社の移転は慎重に丁寧に行われた。

この時、秀吉は、高田次郎右衛門と出会い、才色兼備と評判の娘、お種の方一七歳の接待を受ける。
一目で気に入り、一五九四年、秀吉は、高田次郎右衛門にお種の方を召し抱えたいと話す。
高田次郎右衛門に異存なく、お種の方は伏見城に入る。
まず、侍女として召し抱えられ、すぐに側室となる。
秀吉は「目に狂いはなかった。素晴らしい」と称賛し可愛がった。

翌年、直臣にしたかった伊達藩家老、茂庭(おにわ)綱元(1549-1640)に下げ渡す。
綱元は、天下普請、伏見城築城に積極的に関わり、主君、伊達政宗に成り代わり見事な采配で普請を進めていた。
高田次郎右衛門・お種の方とも顔見知りとなっていた。
秀吉が茂庭(おにわ)綱元を直臣にする策を考えていた時、綱元のあこがれの女人が、お種の方だと知る。
そこで、結婚させたのだ。

 綱元(つなもと)の主君、伊達政宗(1567-1636)は野心の塊だった。
秀吉は北条攻めに際して関東の諸大名に臣従し、参陣するよう命じた。
政宗は臣従を表明しつつもなかなか出陣せず、結局、参陣は遅れた。
天下を狙う政宗は、北条氏との協力で勢力を伸ばしていた。
その為、北条氏に勝って欲しいと念じていたのだ。
見込みは外れ、秀吉の圧倒的勝利を見せつけられた。
急遽、秀吉に臣従すべく出向いたが遅かった。
遅れた責任を厳しく追求され、改易するとまで言われ、平身低頭で誤り、謹慎した。
政宗の妻、愛姫を秀吉の元に送り、人質とし臣従の証とした。

それだけでは収まらない。
陸奥の有力戦国大名、大崎氏・葛西氏は、政宗に動くなと命じられ、秀吉の元に参陣しなかった。
秀吉は、許さず改易し、領土を取り上げた。
大崎氏・葛西氏は、あまりに惨い仕置だと大崎・葛西一揆を起こす。
政宗が企んだのだ。
秀吉は、政宗の野心を見抜き、度重なる裏切りだと、本気で怒った。

政宗は「これはまずい。伊達家存続の危機だ」と、すぐに弁明の使者として家老、綱元を京に遣わした。
綱元は聚楽第に出向き、
一揆と政宗は、関係がないこと。
伊達家に二心はないこと。
政宗は秀吉に誠心誠意忠誠を尽くすこと。
を理路整然と訴えた。

秀吉は感心し、優秀な家臣を持つ政宗を改めて見直す。
そして、戦うよりも当面は豊臣政権に取り込むのが得策と一応、許す。
政宗は秀吉の怒りを抑えた綱元の働きを褒めた。
以来、綱元は京で秀吉の側近くに仕え、政宗との連絡を取り持つ。
秀吉の命令に、誠心誠意応え、有能ぶりを発揮し秀吉への忠誠心を見せた。
朝鮮の役では、名護屋城に在し、朝鮮に渡った政宗らの兵糧その他の補給物資責任者として、力を発揮した。

伏見城築城が始まると、率先陣頭指揮し、秀吉にますます気に入られた。
その頃「すごい美人で、才知で溢れている」と噂され注目の的だったのがお種の方。
綱元も魅せられていた。
秀吉は、そのお種の方を、妻とするよう下げ渡したのだ。
綱元は、ただただびっくりするばかり、あこがれの高根の花だと思い込んでいた女人が妻になるのだ。
夢のような話に舞い上がり、有難く受けいれた。

上洛し、弁明の使者となり役目を果たした綱元。
その頃は政宗も「綱元の頑張りで命が助かった」と秀吉への説得ぶりを褒めた。
だが、次第に、秀吉との親密ぶりに気分を害し不信感を持つまでになっていた。
そんな時、秀吉の指示でお種の方を妻に迎えたと知り、怒りが噴き出る。
綱元も秀吉の申し出があった時、政宗の了解を得るべきだったが、急なことであり、舞い上がっていた。
そして、側室として迎えており、政宗は国元に戻り居なかったのだから、今度上洛した時に了解を得ればよいと軽く考えてしまった。
秀吉の策に乗せられたのだ。

政宗は「裏切りだ。秀吉の元に走った」と、厳しく責めた。
綱元は、秀吉と距離を置いて仕えており、主君は伊達家であり、それ以外考えたこともなかった。
それでも政宗は執拗に攻めた。
我慢できなくなった綱元は「主君への忠誠心に一点の曇りもない」と宣言した。
そして、お種の方を政宗に差し出し、蟄居謹慎する。

 政宗は正室、愛姫も含めて京に人質として送った面々が豊臣家と親しくしすぎると不満だった。
破竹の進撃を続け勢力を伸ばし東国の覇者となりつつあった時、秀吉が北条征伐だと侵攻してきた。
北条氏と共に勢力を広げた政宗には納得できず、北条氏の踏ん張りを期待したが、北条氏は簡単に敗れた。
 万が一を考え、秀吉とは敵対せず、臣従の意志は示していたが、参陣には出遅れてしまった。
慌てて、秀吉の元に駆け付け、忠誠を誓った。
どうにか、改易は免れたものの、せっかく得た領地を半分没収され五八万石とされてしまった。
しかも生誕の地、米沢城やようやく手に入れた念願の居城、黒川城(会津若松城)まで取り上げられた。
以後、表面的には神妙に従いながらも、怒りを持ち続けていた。
 京に在住している家中は、政宗の思いを理解せず、秀吉に取り込まれていくと怒りが増していた時の綱元の跳ね上がった行動だった。

お種の方を残し、綱元を追い出した政宗は、お種の方をじっくり見る。
その美貌に関心を持ちながらも、関心のない風を装った。
お種の方は気にすることなく、優美な梅の花を好み、一輪を見事に活け、香道(こうどう)遊びに興じた。
香りそのものを楽しんでいる優しい笑顔が素敵だった。
「香木は生き物です」と、その一つ一つに魂が宿っているように敬い話しかけていた。
大自然の恵みに礼をし、語りかけてくる香木の香りを嬉しそうに受け入れている。
その姿は神々しいほどで、その席に招かれ、その造詣の深さに驚いた。

香(こう)あそびは香を聞き(香道では香りをかぐこと)香りを当てる遊びだ。
朝廷公家から始まり、選りすぐりの道具を用い高価な輸入品の香木を用いる、贅沢で深い知識が必要な伝統芸術だ。
心をくつろがせ、香りを取り込んで、心を遊ばせて楽しむ。

そこには、多くの修練が必要だった。
答えを書くための書道の素養と、積み重ねて生み出し表現する字体の創造が必要だが、見事にこなした。
そしてその思いを、数多くの古典文学で学んだことをちりばめ、和歌で表現することも完ぺきだった。
茶道の席では、香木が煉り香に用いられる。
天然香料と配合の妙で醸される香りは静かに空気を清め人の心を和ませる。
茶席を儲け、好みの練り香でもてなすこともあり、茶道の道にも造詣が深い。
華道の心得も必要だが、極意を得ていた。
心を癒やす花があることで、香を聞く心がより一層生まれる。
場に相応しい花があることで花は生き、見る人の心を打つ。

このような幅広い教養のどれも控えめながらも、目を見張るほど行き届いて習得していた。
どれほどの学びの時を過ごしたのか、表に出さない懸命な努力を感じる。
言葉に出せないほどの達人だった。

政宗も教養においては誰にも引けを取らないと自負していたが、お種の方を前にして、戦や権力闘争に時間を注ぎすぎたと反省するほどだった。
匂いたつ、きめ細かい肌と指先で醸し出される優美な世界、驚くほどの芸術的素養に感動した。
「香の前」と呼び溺れるように愛し始める。
御香宮神社に仕えた上品なたたずまいの京女、お種の方は浮きたつ光を発し、政宗を喜ばせた。
無視しようとしたお種の方に、夢中になってしまった自分が恥ずかしいほどだった。

秀吉が政宗への押さえとすべく、会津若松城に入れたのが蒲生氏郷。
氏郷は政宗を牽制しつつ押さえ込もうとしたが、縦横無尽に策謀を企てる政宗を押さえ込むまでには至らない。
それでも、秀吉の名のもとに、たじろぐことなく、対峙し押さえようとした。
ところが氏郷は、一五九五年三月一七日、亡くなった。
政宗は、煙たい存在が亡くなり、非常に気分が良い。

それだけでは終わらず、まもなくの一五九五年八月二〇日、関白、秀次が謀反の動きありと処罰を受け、殺された。
氏郷の嫡男、秀行との親密な仲を疑われたのでもある。
政宗は、秀吉とは違う秀次となら新しい何かが出来ると親しい関係を築いており、連座を追求される。
政宗は再び追い詰められ、何とか追求を逃れようとする。
だが、優秀な仲介役、綱元がおらず、窮地に陥る。

やむなく、関係者をすべて処分し、政宗が無実あることを証明していく。
愛姫がすべてに頼っていた腹心、喜多が、秀次との親しい関係を責められ国元での蟄居近臣を命じられた。
愛姫は、政宗が自らの不徳の責任を転嫁し、喜多や茂庭綱元の不忠を責めたのだと許せなく、訴えたが、政宗の意志は固かった。
 それでも事態は好転せず、秀吉の思い通りになったと、運の悪さを嘆いた。
そんな時、秀吉が折れた。
氏郷を亡くし、秀次を罰し、嫡男、秀頼が育つのを見て、政宗への対決押さえ込み路線から懐柔路線に変えたのだ。
一五九六年、政宗長子、秀宗(1591-1658)が秀吉の養子になることで、政宗を許した。
秀宗は、人質でもあるが、信頼の証でもあり、秀頼の小姓となり、側近く仕えた。

秀頼の補佐役を政宗に命じると共に、秀頼を支えて欲しいと丁寧に頼む。
豊臣政権内で重職を与え、加増も匂わす優遇の数々に、政宗も「しばらくは様子見するしかない」とほっとしつつ受け入れた。
秀次に傾きすぎていたと反省し、低姿勢で誠意を持って秀吉に仕える従順な政宗に変貌する。
 
秀吉と協調路線を取り始めた政宗は、綱元が必要で許すしかなかった。
愛姫が、許しを願い、秀吉も望み、茂庭綱元は必要な人材だと、呼び戻した。
喜多も呼び戻したかったが、片倉家ですべきことが多く、高齢だった。
しかも、田村宗顕を任せ、田村家と愛姫の取次も頼んでおり、あきらめた。

一五九七年、綱元も秀吉に信頼され、舞い上がっていたと反省し、改めて政宗に忠誠を誓い仕える。
この間、政宗も変わった。
猛々しくギラギラした野性的な豪傑が、三〇歳近くになり、分をわきまえる大人の武将に変っていった。
お種の方を愛したゆえでもある。

秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが終わるまで蜜月は続いた。
一五九八年、津多(慶月院)を生む。
一六〇〇年、亘理(わたり)宗(むね)根(もと)(1600-1669)を生む。
お種の方は、政宗との間に二人の子を生んだが、茂庭綱元の妻であり、父は、綱元とされた。

愛姫は、亘理(わたり)宗(むね)根(もと)が生まれる前に、忠宗を生む。
嫡男の母となった喜びで胸が一杯の時だった。
それでも、政宗が亘理(わたり)宗(むね)根(もと)をわが子とは認めないとはっきり言うのを、むなしく聞く。
愛姫は、お種の方の才知を気に入っており、幸せにしたかった。
政宗は傲慢だと、生き方に疑問を持つ。

 政宗は、忠宗の誕生をこれ以上ないほどの喜びようで祝い、愛姫を褒めた。
家康も、秀吉の養子となった秀宗に嫌悪感を持っており、正室、愛姫の子、忠宗の誕生を喜んだ。
激動の時代が始まっており、政宗の血は騒ぎ、輝きを増し、政争に身を投じた。
そして豊臣家は一大名になり下がる。

この間の家康の見事な調略ぶり戦いぶりを見て、政宗は「家康は勝てる相手ではない」と悟る。
家康への忠誠心を示すのが、伊達家存続と更なる飛躍のために最も大切なことと覚悟を決めた。
秀吉との関わりの深いお種の方を側近くに置けば、あらぬ疑いをかけられる。
お種の方との蜜月は終わったと、綱元の元に戻す。

 お種の方は、まだ二三歳だったが、何事もなかったように綱元の妻として元に戻った。
このようなことで動じることはない。
秀吉にも綱元にも政宗にも愛された日々を心に秘めて、ずっと綱元の妻だったかのように振舞う。
幼い時から周囲の注目の的だったお種の方。
誰と結婚するのか皆が興味を持って眺めていたが、天下人に見染められ側室となった。
皆が当然のこととうなづいた。
ところが、すぐに下げ渡され、伊達家の家老、茂庭(おにわ)網元の妻となった。
周辺はあれほどの女人がそうなるのかとがっかりしながら、興味本位に、それほどの氏素性じゃないし当然だ。
身振りたたずまいに、傲慢さがあったなど言われるようになった。
そして政宗と網元の確執のうわさが広まり、やはり魔性の女だと。
続いて、政宗の側室となり、愛され恵まれた暮らしをしているとささやかれた。

そして、国元に行き、京から消え、飛び交う噂はなくなるはずだ。
ほっとして、とても、良いことのように思え受け入れることが出来た。
愛姫にもきちんと挨拶して別れることが出来た。
愛姫も国元で楽しく幸せに暮らすように、綱元と仲良くできるよう手配すると励まし、送り出した。

このような変遷を経てお種の方は、徳川の世を生きる。
秀吉・綱元・政宗と相手は変わったが、自分が変わったわけではない、そのままの自分で接し、愛された。
それぞれ恵まれた暮らしであり不満はなかった。
伊達家を守るために動く政宗の生き方を理解でき、国元に行くことも納得できた。
何も言わず、網元の元に戻り、ひたすら芸の道を進んだ。
みやびな雰囲気と、洗練された深い教養に、仙台で親しくなった皆が目を見張る中、学ぶことを楽しみ、没頭した。

また、大事な宝、二人の子を得て、育てる楽しみを知った。
茂庭(おにわ)家では、主君の側室だった女人として、篤く遇された。
お種の方は、網元の正室を立てつつ、思うように自由に子たちを教える。

 今まで、羨望の目に包まれて育ち、幸せにならなくてはならない強迫観念があった。
だが、周囲の希望に添い生きることに、どこか違っているとの思いがあった。
天下人・奥州の雄としばらく暮らしたが、流れに身を置いただけだ。
一族のため力を持つべきというものもいたが、自然のままで親しくし、別れた。
それで良かった。
再び、綱元の元に行き、愛され、充分幸せだった。

お種の方には、通常、出会うことのないような格上の武将に出会い、愛された。
そんなこともあり、情熱的に愛するより、愛を受け入れるだけの淡々とした暮らしをするようになった。
それでも、皆、好きなことをすればよいと学ぶ場を作ってくれた、素晴らしい恩人でもあった。
主君の預かり者だと大切にされ、引き連れた子たちと笑い育てる日々となる。
政宗はその様子を、頼もしく見た。

そこで、一六〇四年、網元は、政宗と愛姫の次男、宗綱(1603-1618)を預けられ、屋敷で育てることになる。
一六〇三年、愛姫は、身重の身体で嫡男、忠宗を伴い、伏見から築き始めた江戸屋敷に移った。
まもなく、宗綱が生まれた。
同時期、以前から屋敷に居た側室、お山の方が宗信を生んだ。
 伊達家江戸屋敷は建築途中で、まだ手狭だった。
愛姫は、三五歳での高齢出産であり、身体を休める必要があり、宗綱の養育を信頼する網元に預けたのだ。

まもなく、宗綱は、国元の網元屋敷に移り、育てられることになる。
政宗は、国元に居る時は再々、綱元の屋敷を訪れ、お種の方や子たちと団欒を楽しむ姿が見られた。
政宗は、お種の方とその子に会いたかったために、口実を付けたのでもある。
こうして、政宗はお種の方の二人の子を我が子と実質認める。

一六〇六年、宗(むね)根(もと)は、栗原郡高清水城主、伊達家一門、亘理(わたり)重宗の娘婿養子となる。
後に、亘理(わたり)家を興し、五千石を得て続く。
津多は四千石家老、原田宗資(1582-1623)と結婚する。

子たちの行く末も決まり落ち着いたお種の方は、政宗・綱元に支えられ、報恩の思いを表す。
深く帰依する良恩を開基とし、浄土宗円鏡寺(宮城県栗原市栗駒岩ケ崎茂庭町)を建立。
菩提寺とするつもりだ。
続いて、猿(さっ)飛来(ぴらい)(宮城県栗原市栗駒猿飛来)に青雲地蔵堂。
稲屋敷(宮城県栗原市栗駒稲屋敷)に阿弥陀堂を建立。
一六一三年には、大崎八幡宮(仙台市)に金灯籠を奉納。

一六一五年、宗綱は元服し、自らの屋敷を構える。
ここで、政宗は、綱元を伊予宇和島藩一〇万石を得た政宗長男、秀宗の筆頭家老とし、秀宗に従い宇和島に行かせる。
綱元は、最後の御奉公と渾身の力を振り絞り、秀宗に仕えた。

三年後、宗綱が亡くなる。
正室、愛姫の次男、宗綱は、次期藩主、忠宗に次いで伊達藩では大切な存在であり、綱元にはわが子以上の大切な人だった。
その死を悼み、国元、仙台に戻り、出家し菩提を弔う暮らしに入る。

綱元が宇和島に行くと、お種の方は、茂庭家から離れ、宗根の屋敷(栗原市)に移ることに決める。
二人の子が、政宗の子として公然と認められることを望んでいたが、ご落胤として認められただけだった。
政宗の他の子たちに比べ、待遇や行く末に不満もあった。
子たちに正直な思いを話し、申し訳ないと謝る。
二人は何も不満を言わない。
母思いの優しい子に育った。

宗根は、伊達一門の亘理家(わたりけ)の娘婿養子となり、伊達一門に加えられた。
これで良いと思う。
お種の方は、三五歳での隠居の暮らしとなった。
広大な屋敷とは言えないが、宗根の屋敷は居心地がよかった。
以後、趣味三昧の暮らしを送り、孫の誕生から育っていくのを見守り続け、結婚にも立ち会った。
一六四一年、悠々自適な暮らしを送り六三歳で大往生だ。

 不本意な境遇に置かれてもめげず、自由に自分らしく生きた人生だった。
天性の美貌と、状況判断の的確さで、秀吉・政宗・綱元と三人の男を虜にした。
まあまあうまくいった人生だと微笑みながら、近しい人たちに見守られ亡くなる。

宗(むね)根(もと)は、母の菩提を弔うために、法名から取った安養寺を建立し、亘理(わたり)家の菩提寺とする。
茂庭家は、綱元次男、良元が後を継ぎ一万三千石重臣として続く。
譜代の臣としては異例の出世だ。
綱元の父、良直の壮絶な死で重臣の地位を得た茂庭家だが、破格の高禄の重臣となったのは政宗と綱元を繋いだお種の方の功が大きい。



一一 政宗の子たち
 愛姫は、政宗を冷静に見続け、生きた。
一五七九年、一一歳で結婚。
以後、数々の愛姫を悲しませる出来事が政宗との間に起きた。
 それでも、政宗の最後の子の誕生する一六二六年、政宗、五九歳のころから、おとなしくなり、愛姫と静かで豊かな時間を過ごすようになる。
愛姫も驚くほど精力絶倫だった政宗が、この頃から女人へのあくなき想いがなくなっていく。

 政宗の子の行く末について思いを話すようになる。
政宗は、愛姫の決めたことに口出しはしない。
愛姫の想いを先取りして、喜ばすこともないが。
伊達家当主、政宗と伊達家の奥を仕切る伊達家の女主、愛姫としての会話が多い。

 国元、仙台城の奥は、お山の方が仕切っている。
それでいいと思う。
お山の方は愛姫の指示どおりに動く。
喜多は亡くなったが、五郎八姫はいつも愛姫を気にかけて、愛姫のために動いてくれる。
江戸と国元を行き来する愛姫近習もおり、意思の疎通はできている。
 
 第一子、秀宗(1591-1658)は、一六一四年、宇和島藩十万石藩主となり、生母、新造の方も共に行く。
秀吉に伊達家嫡男として扱われ得意満面だったが、忠宗の誕生に心穏やかでなかった秀宗。
苦しかったと思う。
関ヶ原の戦いでは、人質となり宇喜多秀家の屋敷にいた。
秀家に可愛がられており、大切に遇されたが、九歳の秀宗にとって苦しい経験だった。

 それから、家康は秀宗を秀吉に近いと見なし明らかに嫌い、嫡男からただの長子となり、周囲の扱いが変わるのに耐えるしかなかった。
 愛姫は、秀宗の成長と悲しい定めを受け止める姿をまじかに見ている。
秀吉が亡くなるまでのはつらつとし元気いっぱいの顔。
忠宗が生まれ自分の立場を知った時のがっくりとした顔。
次第に落ち込み、政宗の後継にはなれないとあきらめていく顔。
そして一六〇七年、忠宗が家康の五女、市姫と婚約し、打ちのめされたとがっくり来た顔。
秀宗にはまだ、結婚相手は決まらない。
一六〇九年、徳川四天王の一人として高名な井伊直政の娘、亀姫と結婚する。
忠宗は家康の実の娘と婚約している。大違いだ。
秀宗は、伊達家では望まれない子なんだとひがみすねた顔。

 政宗は、必ず、名誉ある待遇とすると説得し、表面上、心落ち着けるが。
大坂の陣が始まると、政宗は、深く決意した。
秀宗を伴い、必死で豊臣家と戦う。
秀宗に数数えられないほどの戦勲をつけ、家康に報告する。
家康はうなづき、伊予宇和島一〇万石藩主とした。

 愛姫も、責任を感じており、相応の待遇となることを願い、江戸屋敷で、外交を続けていた。
秀宗が宇和島藩主となり心から喜んだ。

 第二子、伊達(飯坂)宗清(1600-1634)。
新造の方との間に生まれた二番目の子だ。
子の生まれない飯坂の局に願われ、飯坂の局の養子となる。
長じて、養母、飯坂の局の実家、飯坂家の養子となり、家督を引き継ぐ。

 一門、水沢伊達氏、宗利の娘と結婚。
子なく亡くなり、飯坂の局の母の実家、桑折家から養子、飯坂定長を迎え引き継がす。
飯坂定長は、原田宗輔の妹と結婚したことで、絶家となるが。

 愛姫との接点はないが、すぐに養子に出すことを願い、実現した。
以後、嫡男、忠宗を第一に、他の男子は養子に出すのが当たり前となる。

 愛姫の子
 第三子、天隣院五郎八姫(1594-1661)は、松平忠輝の改易で別れ、実家に戻り、母子の絆は強い。
 第四子、忠宗(1599-1658)は、愛姫の宝であり、伊達家宗家を継ぎ仙台藩主となる。
 
 第五子、宗綱(1603-1618)は、愛姫の後継であり田村家を継ぐはずだった。
父母の宿願を果たし田村家の宝となると可愛くてならず、溺愛する。
 江戸屋敷で育てるが、愛姫が選んだ茂庭綱元を守役とする。
 
 元服し、仙台に屋敷を持つ。
田村家再興の布石として、岩ヶ崎伊達家三万石を起こす。
 幼い時から、病弱だったが、一五歳で亡くなってしまう。
愛姫を悲しませた。

 第六子、竹松丸(1609-1615)。
愛姫最後の子だったが夭折。

 生母、祥光院が生んだのが
 第七子、宗泰(1602-1638)。
水沢伊達家、留守宗利の長女、池照院と結婚。
池照院の妹が、政宗三男、伊達(飯坂)宗清の妻。

 一門、岩出山伊達氏一万五千石を興す。
玉造郡岩出山城主となり生母、祥光院も共に行く。
政宗は、宇和島藩のように分家させたくて江戸屋敷に住まわせ、願い続けたが一門で終わる。

 生母、お山の方が生んだのが
 第八子、宗信(1603-1627)。
異母兄、宗綱が一六一八年、亡くなると、養子となり後継となる。
守役は、茂庭綱元が引き継ぐことになる。
岩ヶ崎伊達家当主となるが、二四歳で子なく亡くなり絶家。

 第九子、宗高(1607-1626)。
柴田郡小泉を領した伊達氏庶流、田手氏の養子となる。
伊達氏初代、伊達朝宗の子を初代とする歴史ある家系だ。
領地替えされ、柴田・刈田二郡に合わせて三万石を得て、村田城を居城とした。
名も、村田伊達氏と変えるが、一九歳で子なく亡くなり絶家。

 殉死者は一〇人。
乳母、御阿知也五四歳と夫、斎丹波六一歳も含まれる。

 第一〇子、牟宇姫(1608-1683)。
一六一九年、一門筆頭、伊具郡角田要害主二万千石、石川駿河宗敬に嫁ぐ。
お山の方の三人の子のうち、唯一長生きし、子を産む。
それどころか、政宗の子、十四人のうち一番長生きした。

 石川家後継を生み、一門筆頭の立場を確立し、兄弟姉妹をまとめきっちりとつなげる。
伊達家の要の役目も果たす。
 政宗からの手紙三二八通、五郎八姫からの手紙六二通、忠宗からの手紙五六通、と記載された資料が残り、他の兄弟姉妹からの手紙を入れると、膨大な文が行き来していたことがわかる。
母、お山の方が仙台城の奥の要として凛と存在し、政宗死後、牟宇姫の元に身を寄せたことも大きい。
お山の方を引き取ったゆえ、政宗時代の奥をそのまま守ったのが、牟宇姫だ。
特別ではない日常がほほえましくつづられている。
愛姫は、五郎八姫・お山の方と数多くの文のやり取りをしている。

 結婚の時付き従った近習、小桧山佐藤佐衛門と太田休佐衛門は、生涯、牟宇姫と伊達家を繋いだ。
そして、石川家家臣となり、一門筆頭としての役目を果たす。

 生母、弘子阿茶の局(荘厳院)が生んだのが、
 第一一子、宗実(1613-1665)。
元服後、亘理(わたり)伊達氏二万四千石、伊達成実の養子となり、継ぎ、亘理郡亘理城主となる。
剛力で武芸に優れ、忠宗に習った銃術を得意とした武勇の人だった。
 生母、弘子も共に行く。

 生母、勝女姫が生んだのが。
 第一二子、岑姫(1616-1635)。
一六一六年、生まれた岑姫(みねひめ)(1616-1635)。
涌谷伊達家二万二千石、宗実(1611-1639)と結婚する。
宗実の父、涌谷伊達家、初代、伊達定宗の母は、愛姫のいとこ、真如院。
愛姫の母、於北の弟、相馬顕胤の娘が、真如院だ。

 岑姫(みねひめ)は、子なく一九歳で亡くなる。
続いて、宗実も亡くなり、宗実の弟、宗重(伊達安芸)が継ぐ。
天童家を継いでいた宗実の弟、宗重が、戻り、涌谷伊達家の家督を継いだ。
 伊達騒動の一方の主役となる。
主役、宗勝(伊達兵部)は義理弟でもある。

  第一三子、宗勝(伊達兵部)(1622-1678)。
一六二二年、五五歳で生まれた晩年の子であり、溺愛した。
行く末を決める前、一六三六年、宗勝一四歳の時、政宗は亡くなる。
それまで、あまりに優秀だと、忠宗を支える腹心とすべく、側に置き、自ら生きる道を教えた。

宗勝とは、伊達騒動の中心人物、伊達兵部のことだ。
父、政宗の遺志を重んじ、忠宗は側近とする。
生母、勝女姫は、宗勝と共に暮らし、伊達騒動の前に亡くなった。

 二二年もの長きにわたり忠宗に忠誠を尽くし才知を発揮した。
そこで、忠宗は、一六五八年亡くなる時、嫡男、綱宗の後見を託す。
以後、江戸家老として圧倒的力を持つ。
大老、酒井忠清の養女を嫡男、宗興の妻に迎え、幕府との連携よく藩政を取り仕切る。
一六六〇年、三万石を分地され一関藩主となる。
 自分もしくは宗興が伊達家を継ぐにふさわしいと自負するまでになる、
だが、伊達騒動の首謀者となり、土佐藩に預けられ、配所、土佐郡小高坂の屋敷で亡くなり、絶家。

 生母、妙が生んだのが。
 第一四子、千菊姫(1626-1655)。
一六二六年、母、妙二二歳、父、政宗五九歳で生まれた政宗最後の子。
最後の子ゆえ、可愛がった。
一六三五年、忠宗の妻、振姫の姉の子、丹後宮津藩三代藩主 京極高国(1616-1676)に嫁ぐ。
池田家・京極家と共に、忠宗を支え、伊達家の安泰を目指すために決めた結婚だ。
伊達家が、池田家・京極家を支え、大きく羽ばたく思いも強かったが。
 
 死を前にした政宗が、嫁ぐ姿を見ておきたいと、急がせ、結婚となる。
千菊姫九歳、高一九歳の結婚式が宮津城で執り行われた。
 翌一六三六年、政宗危篤との知らせが、宮津城に届く。
見舞いが間に合わないと千菊姫は、心を込めて文を書き届ける。
その書状を読み、涙を流し喜んだ政宗は、届いた翌日亡くなる。

 千菊姫と京極高国の間に、一六四三年、嫡男、高規(たかのり)が生まれ、仲睦まじかった。
だが、結婚一九年後、一六五五年、千菊姫二九歳は、京極家江戸屋敷で亡くなる。
 ここで、結婚に付き従った守役、斉藤勝成とその子、斉藤勝則らの内、生存しているものは伊達家に呼び戻される。
千菊姫に付き添い京極家に行った妙も、伊達家に戻り、振姫に仕える。

 妙は、一六五九年、振姫を看取り、一六六四年亡くなる。
振姫の菩提寺、孝勝寺(仙台市)に葬られることを願い、眠る。

 高国の妻、伊達家の姫、千菊姫が亡くなったのち、一六五九年、高国の母、池田家の姫、茶々姫も亡くなる。
庇護者、伊達家・池家を失った京極家は、弱かった。
高国と父、高広の親子争いを幕府が責め、一六六六年、改易だ。
嫡男、高規(たかのり)は、藤堂家に預けられたのち、伊達家が、赦免を願い許されると預かった。
伊達家の後ろ盾で、旗本となる。
 
 生母、お種の方が生んだのが。
 第一五子、津多(1598-1671)。
家老(奉行)、桑折宗長の子で、原田家を継いだ柴田郡船岡城主四千石、原田宗資に嫁ぐ。
原田甲斐宗輔を生み、伊達騒動の首謀者として罰せられ一家断絶。
津多七三歳は許されるも自害した。
 
 第一六子、宗根(1600-1669)。
亘理重宗の娘、榮頌院の婿養子となり、佐沼(高清水)亘理家を興す。
生母、お種の方は、晩年、共に暮らし、一六四一年、看取られて眠る。
宗根は法名から名付けた菩提寺、安楽寺を建立し篤く弔う。

 宗根は伊達一族亘理(わたり)家の婿養子となり政宗の一字を与えられた。
津多は家老、原田宗資(むねすけ)(1582-1623)に嫁ぎ、伊達騒動で有名な原田甲斐宗(むね)輔(すけ)(1619-1671)を生む。
二人とも政宗の子として公には認められなかったが、庶子としてふさわしい待遇をされた。
津多の最後は悲惨だったが、宗根は伊達騒動の前、一六六九年、亡くなっていた。
ただ、嫡男、亘理宗廣は伊達騒動の後、若くして隠居し、許されても、表には出ず、子、宗喬に家督を譲る。

 愛姫は、亡くなる一六五三年まで、政宗の子たちすべてに目を配る。
江戸屋敷で伊達家の奥を差配し、仙台に戻ることはなかったが。 

一二 愛姫の心意気
 政宗は、秀吉政権下では、力を発揮することは出来ないと、限界を感じ悶々としていた。
愛姫がいかに秀吉・ねねと親しくしても、秀吉の猜疑心を払しょくできなかったからだ。
 そして秀吉の死。
秀吉死後、重しが取れたように生き生きと、家康に従う。
家康に忠誠を誓い、秀吉により没収され上杉領となっていた旧領六郡四九万石の領土の自力回復を許す旨の書状「百万石のお墨付き」を得た。

 ようやく新しい時代が来たと希望に燃えた。
家康が会津の上杉景勝討伐を決定。
参陣を求められると勇んで参陣し、同時に、旧領の奪還を始める。
まず白石城を取り戻した。
だが、上杉勢の抵抗は大きく、関ヶ原の戦いが終わり、翌春が来ても奪還できたのは陸奥国刈田郡二万石程度だった。
政宗は焦る。

 やむなく、秀吉に改易された和賀忠親に「政宗が支える。旧領を取り戻すように」と命じ岩崎一揆を起こさせた。秀吉が南部利直に与え南部領内になっていた地であり、南部勢との戦いになる。
南部勢は強く、必死の反撃を受け、和賀勢は勝てない。
 ここで、南部利直は、政宗が白石宗直らに命じ忠親を支援し一揆を煽動したことを、家康に訴える。
家康は政宗を厳しく追及。
政宗は関係者すべて殺し無罪を訴えるが、家康は罪を問わない代わりに望んだ恩賞を却下する。

 結局、天下分け目の戦いで得たのは、陸奥国刈田郡(白石)二万石の加増だけだった。
それでも、懇願を続け、近江国と常陸国に飛び地二万石の加増を勝ち取るが、領地は六〇万石になっただけだ。
百万石が夢と終わり、五郎八姫の結婚も持ち越された。
 愛姫は、伊達家を守るため、政宗の家康への忠誠心がどれほど強いかを家康・秀忠に訴え続けた。
功を奏し、伊達家は守られた。
政宗に「これで良いのです。十分です」と納得するように言う。

 だが、政宗はがっくりだった。
ただ秀吉と家康の違いを身をもって感じ、情勢判断がより正確になった。
家康の方が緻密な情報で説得力を持って押し切り、秀吉より手ごわい。
家康は叶う相手ではない、従うしかないと思い定める。
 百万石が夢となり、怒りを抑え、心を入れ替えたかのように忠臣としてめざましい働きぶりを見せる。
幕府の手伝い普請に励む。

 家康の疑いは解けないが、努力は認められ一六〇六年一二月、ようやく五郎八姫と忠輝の結婚式が執り行われた。
次に、政宗は、前田家と同じ道、将軍家との縁を結ぼうとする。
将軍家縁戚として外様第一の藩になりたいと、嫡男、忠宗と徳川の姫との結婚を願う。
運よく、一六〇七年、家康最後の子、市姫が生まれ、政宗は懇願し、婚約となる。

 家康との縁を深めることが出来たと、愛姫と政宗は、成し遂げた喜びの中で久しぶりに熱い時を過ごす。
また、政宗は娘婿、忠輝の野心を見抜き助長し、勢力の拡大を目指していた。
天性の野望がある政宗には、最高の婿であり、血がたぎっていた。
 家康の子の義父となり、家康一門として堂々と江戸城入りすることが増える。
愛姫との語らい、共に過ごす時間も多かった。

 そして、愛姫は、一六〇九年、竹松丸(1609-1615)を出産。
予想外の子であり、四一歳の高齢出産だった。
苦しくつらい出産だったが、乗り切った。
四人の子に恵まれ、伊達家の女主としての責任を果たしたと、ようやく心落ち着いた日々となる。
 五郎八姫と忠輝の仲は睦まじく、忠宗は家康の娘婿となるのだ。
愛姫は「父上母上の思いを果たしました。次男には必ず、田村家を再興させます」と微笑んで霊前に報告する。
 
 ところが一六一〇年、市姫は亡くなる。
政宗は、がっくりし、大げさに嘆いた。
すると、家康は、池田輝政と家康次女、督姫との娘、振姫を養女とし嫁がせたいと申し出た。
政宗と愛姫は、それで十分だと、家康に礼を言い、家康の娘婿となることは間違いないとほっとする。

 すべて順調と政宗は意気軒高だった。
そんな中、一六一四年、政宗は忠輝の居城、高田城を築城するために総奉行となり越後で陣頭指揮をしていた。
その合間に、詩三十首、和歌三百首をまとめた随筆草紙(伊達の松陰(まつかげ))を愛姫に贈った。
長年の愛姫の苦労に報いたいと愛が詰まっていた。
愛姫と政宗の仲は、この頃までとてもよかった。

 その翌年、一六一五年、竹松丸は、六歳で亡くなってしまった。
あってはならないことで、悲しみは深い。
ずっと側で慈しみ、多くの喜びを与えてくれたことに感謝しつつ弔う。
 そして、豊臣家は滅亡した。
秀吉やねねとの親しい付き合いを思い起こす。
茶々や秀頼とはそれほど親しくなかったが、豊臣家の滅亡は悲しい出来事だった。
 
 この間も、政宗は元気だった。
念願を成し遂げて、秀宗を大名にし、ほっとした。
 だが、娘婿、忠輝は、大坂の陣で、秀忠の希望に添う働きをしなかった。
一六一六年、家康の死後、秀忠は改易した。
政宗の野望がまた壊れた。
愛姫は、時勢をわきまえない政宗にも責任があると心痛める。

 まもなく、離縁された五郎八姫(1594-1661)二二歳が江戸下屋敷に戻った。
悲しい定めに涙するが、愛姫の周辺ではよく起きることで、前向きに思うように生きるよう抱きしめる。
五郎八姫も覚悟をしていたようで、傷心ながらも、毅然としていた。
我が子ながら、よくできた姫だとまた涙する。
しばらく、二人で、心ゆくまで話し、母子のきずなを深める。
次いで、江戸での思い出作りだと寺社へ参拝したり、名所を訪ねたり、充実した時を持つ。

 一六一七年、家康は亡くなり、将軍、秀忠の養女となった振姫と忠宗が結婚。
愛姫は、将軍の娘婿になったと胸張る忠宗を愛おしく見守る。
五郎八姫には、再婚を願うが、五郎八姫は答えなかった。
 一六一八年、田村家を引き継がせるはずだった宗綱が亡くなった。
幸あれば不幸あり、しばらく泣きくれた。
何のために政宗に嫁いだのか、何のため苦しくても意地を張り生きて来たのか、自問自答を繰り返し嘆き悲しんだ。
生きる希望をなくすほどだった。
 愛姫の分身であり、心許せる唯一の娘、五郎八姫が近くに居り、支えとなってくれ、心強かった。
次第に、平静を取り戻す。

 この思いは母、於北も同じだったようだ。
宗綱の死後、急に力を落とし一六一九年、仙台で亡くなった。
 母、於北は、田村家のために政宗と戦い続け七〇歳半ばまで生きた生涯だったが終わった。
船引城に隠居し、奥州仕置の後、政宗領となりしばらくは留まったが、秀吉が蒲生領としたため、政宗が引き取った。
その後は政宗の居城にいたが、愛姫の配慮で、不自由させることはなかった。
仙台城内に母のための屋敷をしつらえ、晩年は穏やかな暮らしだった。

 宗綱が田村家を再興することを楽しみにしていた。
田村家は、一五八八年までは伊達氏の影響下にあるも、愛姫の存在もあり、意地を見せ、一定の独立を保ち続けた。
だが、後継が、政宗の指示で宗顕に決まると、政宗の配下になってしまった。
そして秀吉の北条攻めが始まると、宗顕は政宗の指示に従い動かなかったために、反秀吉と見なされた。
田村家は、秀吉との縁を大切にし、贈り物もしていたはずだったが、政宗に握りつぶされていたのだ。
ここまで、母、於北は、宗顕と親しい関係にはなれないながらも、相応の付き合いを続けた。
 だが、田村家は、伊達氏の家臣であると主張しても、独立した国人と見なされ改易だ。
以来、政宗の庇護下となるが、田村家をつぶしたのは政宗と言い続けた。

 愛姫は、母として尊厳のある扱いをするようにと政宗に願った。
政宗もよくわかっており、愛姫の思い通りに於北の暮らしを保証した。
於北は政宗を誹謗しつつ自由に余生を過ごした。
愛姫は、於北の唯一の子でありすべての愛情を注がれ育ち、母を想う気持ちは強い。
母の喜ぶ顔を見たくて、宗綱に田村家を継がせると約束したが果たせなかった。
母への申し訳なさが残る。
 母のように激しく生きることはできないし、世も変わったが、その気概・責任は受け継ぎたい。
長寿を全うし、納得していたようだが、最後まで自分らしくかたくなで、愛姫への感謝の言葉はなかった。
必ず、田村家を再興させると決意を新たにし、冥福を祈る。

 ここから新たな田村家再興の道を探し続ける。
伊達藩江戸屋敷に仕える家中に気を配り、幕府や大名との伊達家の付き合いをこなす役目が第一だ。
そして、田村家再興の責任を果たさなくてはならない。
 一六一七年、伊達家、外桜田上屋敷に、忠宗のための本屋敷を築く。
将軍の姫を迎える屋敷であり、絢爛豪華だ。
その時、愛姫の屋敷も建てた。
 以後、愛姫は、政宗と別の屋敷で過ごす。
伊達家の家臣は政宗と忠宗の屋敷に配し、田村家縁の家臣を引き連れ、愛姫屋敷に住まう。

 政宗が江戸屋敷にいる時は、毎月一日、一五日、二八日と各節句の日に、正装で愛姫の元を訪ねる。
愛姫は、軍神、坂上田村麻呂の血筋を受け継ぐ子孫として、上座に座り、縁側近くの下座に政宗が座る。
食べ物や飲み物も愛姫が最初に食べ、その次に政宗に廻り食する。
政宗を茶の間口まで迎えに出て、帰る時は門送りして一礼の後、名代を残し、屋敷に戻る。
 このような格式ばった行事を繰り返した。

 同じ伊達家桜田上屋敷に住むが田村家を引き継ぐことを最優先し、伊達家の奥を仕切る心意気を見せたのだ。
政宗の住まいに、愛姫が訪れ、談笑し、家中の決めるべきことを話し合い、外交や情報など知らせることもある。
だが、私的な付き合いは減り、公的な伴侶として会うことが増えていく。
寝所を共にすることはない。
 細かいことは、それぞれの侍女近習を通した手紙での対話だ。
近習に囲まれ、夢や野心を語るのが好きな政宗と、静かで落ち着いた雰囲気の中で、文化的サロンを好む愛姫の生き方の違いから生まれた暮らしだ。
五郎八姫が仙台に戻ると、政宗と私的に面会することは少なくなる。

 五郎八姫は離縁し忠輝との縁は切れたのだが、誰が何を言おうが、罪人の妻であると自負した。
反将軍家とみなされる立場であり、伊達家に迷惑がかかると言い続けた。
国元に戻りたいと言い、政宗も再婚しない五郎八姫をいつまでも江戸屋敷に置けないと、一六二〇年、仙台に帰る。
政宗は、仙台城本丸に、五郎八姫のために西屋敷を造り迎えた。
隣が、亡くなった弟、宗泰の屋敷だった。
 ここから、五郎八姫は自由に思いのままに暮らす。
愛姫と連絡を取りながら、お山の方とも親しくし、政宗長女として忠宗の相談相手となり重きをなす。
 政宗死後、忠宗が、拡張整備し二の丸とする。

 この年、支倉常長が戻ってきた。
一六一三年、政宗の命令を受け、フランシスコ会宣教師ソテロと共に慶長遣欧使節を率いメキシコ経由でスペイン・ローマへと向かった。
スペイン滞在中、常長はキリスト教の洗礼を受け、通商交渉をするも、日本のキリスト教弾圧政策が伝わっており、成功しなかった。
やむなく帰国したのだが、五郎八姫の国元入りと、同時期になった。

 愛姫の付き合いは広かった。
聚楽第屋敷・伏見屋敷・大坂屋敷と住まいは移るが、近隣の大名屋敷にはキリシタンに理解のある人が多かった。
細川ガラシャとも親しい付き合いをしていた。
その為、愛姫もキリシタンに理解を示した。
実際に手にした海外の品々は素晴らしく、情報は面白く、キリシタンに対して違和感はない。
 
 愛姫が、心を込めて慈しんだ五郎八姫も自然に、キリシタンに理解があり、関心をもっていた。
支倉常長の帰国談を熱心に聞き、同情するとともに、自分の考え・存在を伊達家に役立たせたいと思う。
そこで、五郎八姫は、江戸と仙台を二年から三年に一度ぐらいの頻度で往復し、愛姫に国元の状況を伝えたり、愛姫から国元への用事を頼まれたりする。
普段は、乗馬や煙草をたしなみ、忠宗に姉としていろんな経験を話し頼りにされる。
また、弟妹達とも連絡を取り合い、政宗の子たちを繋ぐ役目を果たす。
 天下をも狙おうとする忠輝の側で一部始終を見て、大久保長安の財宝と錬金術を学び、幾多の経験を積んだ五郎八姫は、堂々とした生き方を貫きつつ、分相応を心掛ける分別も持ち合わせていた。

 愛姫は京に入って以来、田村家縁の品々を中心に、ふんだんに贈り物をしてきた。
豊臣家から朝廷・公家・近隣の大名らまで幅広く親しくし、伊達家の人脈を創り続けた。
縦横無尽に人脈を創り、政宗を助けた。
 洗練された美意識を磨いて、衣装へのこだわりも普通ではない。
政宗のこだわりの衣装も愛姫がデザインしている。
軍神、坂上田村麻呂を引き継ぐ姫として独特のセンスと自意識があった。
 江戸幕府が開府され、江戸屋敷に落ち着くと、伊達家や近しい人にはもちろん、将軍家への正月や節句等のお祝いに欠かさず手の込んだ衣装を届ける。
 刺繍をふんだんに使った大量の服を仕立てるため、広大な裁縫座敷を建て、多くの女中たちを集めたほどだ。
そして、分業で縫い物をさせ、その正面中央に鎮座し指揮した。
 
 火事など危急の時が時にある。
その時、脱出用の乗り物を待機させた上で、脇に長刀(なぎなた)を立て、守り刀を持って挟箱(はさみばこ)(外出時の物品箱)に腰を掛け、陣頭指揮した。
危急の時ほど、先頭に立ち、恐ろしいほどの威光を漂わせた。
伊達家の家刀自として家中の尊厳を得る。
 政宗も、忠宗も、仕える近習も皆、愛姫が漂わせる佇まいを、恐れ敬う。
坂上田村麻呂の威光を引き継いでいると、ひれ伏するほどだった。
普段は慈愛深い伊達家の家刀自として、穏やかな笑顔を浮かべているだけだが。

一三 政宗の死
 政宗は、一六一七年、忠宗と振姫の婚儀を終えると、覇気がなくなっていく。
秀忠の娘婿となりほっとしたのと、もっと暴れ天下取りに加わりたかったがもうできない悔しさと今までの生きざまを想い複雑で、弱気になった。
 すると、幕府は、将軍の婿となった忠宗に家督を譲るよう迫る。
幕府は政宗に表舞台から立ち去ることを望んでいるのだ。
幕府の言いなりにはならないと、政宗に闘志が蘇る。
幕府の申し出に耳を貸さないどころか、藩主としての意地で内政に取り組む。

 政宗は、関ケ原の戦いや大坂の陣で敗軍となった武将の中で、才知を見込んだ武将を積極的に登用してきた。
いつか役に立つと野望を捨てきれなかったのだ。
 その一人が、築城・土木工事に詳しい武将、川村重吉だ。
西軍総大将、毛利家に仕えていたが、毛利家は敗軍の将となり大きく石高を減らされ、川村重吉は浪人となった。
政宗が土木に詳しい家臣を求めているのを知り、政宗領近江で待ち、政宗と出会う。
政宗はその知識に感心し千石の高禄で召し抱えた。

 東国武将は、築城が苦手だ。
政宗も同じだ。
仙台藩の領地が確定し、家康の意向もあり、居城を仙台城と決め築城を開始した。
ところが、任せるに相応しい奉行が見つからない。
 そんな時、出会ったのが、川村重吉だ。
すぐに仙台に送り、郷早股邑(岩沼市)に領地を与えた。
川村重吉は、予想を上回る働きで築城に関わり、その能力に満足し、以後、仙台藩内の土木工事の指揮を任す。

 政宗は、伊達藩は加賀前田藩に次ぐ外様藩だと評価されたが、納得できなかった。
外様第一の藩であるべきだと自信を持っており、そのために家康のお墨付きを得たのだ。
実質、外様第一の藩とすることで、家康のお墨付きを実現するしかなかった。
 藩主として力を見せると、政宗の仙台藩のあるべき姿の構想を川村重吉に伝え、意見を聞く。
すると、重吉は、胸を張り、壮大な提言をさりげなく申し出る。

 仙台藩が大きく飛躍する構想を持っていた。
感心する政宗だが、莫大な資金が必要で、しり込みしそうになる。
ここで、奮起し藩主としての意地を見せると、川村重吉の才能を思う存分生かさせる。
 広瀬川の上流から支流を作り、その水を地中に染み込ませ地下水を確保、仙台城の水不足を解消する。
北上川の流れを変える治水工事を行ない、莫大な新田を開発、石高を飛躍的に伸ばす。
塩釜湾から阿武隈川河口に至る長大な運河、貞山堀を創り、米の流通に活かす。
などなど、土木事業の常識を変える、壮大な構想だった。
実現できるとは、思えなかったが、どうにか資金を工面し、思うように任せた。

 一六二六年には、北上川・迫川・江合川の合流工事を成し遂げ、水運が繋がった。
新田は、予想通り増えており、物流の大動脈が出来、豊かな藩政に一歩近づく。
肥沃な地でできた米や農産物が江戸に送られ、六二万石が一〇〇万石となっていく。
こうして攻めに強い政宗だったが、守りも強い名藩主だと見せつけた。

 政宗は、一六一三年、スペインとの通商交易をおこなうための使節団、慶長遣欧使節を派遣した。
その布石となったのが、一六〇九年、スペイン領フィリピンを統括するフィリピン総督の乗る船が座礁難破し、上総岩田村(千葉県御宿町)にたどり着いたことだった。
幕府は、彼らを救助し、送り返した。
一六一一年、その礼に、スペイン国王から派遣されたのが、冒険家の外交官、セバスティアン・ビスカイノ。
多くの進物を持ってきた。
家康や秀忠と面会し友好を深めより多くの通商を願うが、オランダとの通商に比重を置く幕府の対応は冷たかった。

 幕府に失望しつつ一六一二年、帰国の途に就くが、船が難破し戻れなくなる。
政宗は海外との交易にとても関心があり、セバスティアン・ビスカイノを呼び、話を聞いていた。
冒険家の外交官だと、気に入り意気投合した。
そんなことがあり、セバスティアン・ビスカイノは、政宗を頼り、難破した船の修繕を願った。

 政宗は、震えるほど興奮した。
そこで、家康にセバスティアン・ビスカイノを送り届ける了解を得る。
家康は許した。
 ここから、船の修復は難しく、セバスティアン・ビスカイノの指導を受けながらの大型船の建造が始まる。
一六一三年、完成した大型船で、スペインからの使節団を送り届けるため出航する。
スペイン国王との親交を深めたい政宗は、政宗からの親書を持たせ日本の使節団を編成し、セバスティアン・ビスカイノに同行させた。
ここまでの経緯を家康に話し、了解を得た。
 
 使節団は、支倉(はせくら)常長(つねなが)ら三〇名の伊達家家臣と、通商を担う商人ら一五〇名で編成出発した。
彼らは、スペイン国王・ローマ教皇に会い役目を果たしたが、日本の情勢は伝わっており、親書を得て、通商を実現するまでにはならなかった。
やむなく一六一八年、フィリピンルソン島に戻る。

 政宗に報告する。
だが、家康は亡くなり、禁教令が実施され、南蛮貿易は平戸と長崎に制限され、戻れる状況ではなく二年間、待機するようにと政宗は、苦渋の命令を出す。
 秀忠の世となるが、規制はますます厳しくなるばかりだった。
通商貿易はあきらめ、帰国させるしかなかった。
それでも、長年の見聞を幕府に報告し善処を求める。
だが、キリスト教禁教令を厳しく施行するよう命じられただけだった。
政宗のすべての目論見は否定された。

 帰国したものは、皆、洗礼を受けており、幕府は認めない。
キリシタン、支倉家らを、隠すしかなかった。
それでも幕府の追及は厳しく、後に処刑、断絶させた。
進歩発展を好み、冒険心・野望に満ちていた政宗にはつらく厳しい出来事だった。
 秀忠を引き継いだ家光も、政宗はキリシタンに甘いと決めつけ、キリシタン一掃を強く求める。

 このような情勢となってしまい、幕府からの隠居の求めは続き、逃れようがないと覚悟を決める。
一六二八年、六二歳になった政宗は、若林城(仙台市若林区)を隠居所として築城する。
幕府には隠居屋敷として届け、幕府は喜んだが、まだ、隠居はしなかった。
正月の行事などに仙台城を訪れるほかは、日常生活の大部分は若林城で過ごし、政務を執った。

 愛姫は、政宗に複雑な思いがあり、早く隠居することを願う。
意地を張らずに忠宗に家督を譲るべきだと。
だが、政宗は、隠居を恐れた。
伊達家代々の当主は、隠居後、思うような暮らしをしていなかったからだ。
忠宗が、政宗を尊敬し重んじるとは思えない。

 それでも、実質隠居はしないまでも、いつでも隠居する覚悟が出来て、余裕が生まれおとなしくするようになる。
秀忠・家光もそれ以上は望まず、好々爺となったと、温かく見る。
変幻自在の話し上手の政宗は武将の中の武将として経験も教養も十分で、秀忠・家光は、政宗との語らいを面白がる。
特に家光は、尊敬する祖父、家康の生きざますべてを成り代わったかのように語る政宗の話術にはまってしまう。
尊敬すべき偉人だと、政宗をもてはやし、話を聞きたがった。

 こうして日が過ぎ、なすべきことは何もなくなったかのように、一六三四年から体調を崩し、寿命を知ったように、死ぬまでにすべきことを終え、引継ぎも終わらせる。
愛姫は、ついに時が来たと覚悟する。
 結婚以来、数多くの軋轢を繰り返した。
仲睦まじい関係に慣れたのはわずかだし、共に暮らした時も少ない。
それでも、伴侶として相携えて伊達家を守った戦友だった。
想いは高じ、胸が詰まるが、静かに政宗の最後の時を見守る。

 政宗は、家光との逸話を数々話し、笑う。
家光が鷹狩に没頭し外泊を頻繁に行うのを心配した幕閣に説得を頼まれる。
そこで、政宗は真面目に真剣に「外泊は危険で、止められた方が良いです。私も家康様の御首を何度か狙ったことがございます」とさらっと言い切った。
驚いて、苦笑いした、家光は、外泊を止めた。
忠誠心と存在感を併せ持ち、変幻自在だった。

 伊達家安泰のため大見得を切ったこともあった。
一六三五年、家光が参勤交代制を決め、諸大名を前に発布すると、費用・陣容などなど異議をはさみそうな諸大名がいた。
その動きを見て、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、討伐を仰せ付けくだされ」と申し出た。
政宗の芝居がかった大きな動きに、他の大名は誰も反対できなくなった。

 一六三六年四月、政宗は母の菩提寺、保春院の落慶を終え、自分の墓所を経が峰に決め、江戸に向け出発。
四月末、江戸に到着、家光に謁見。
五月二一日、家光が伊達藩桜田屋敷に政宗を見舞う。
この時まで、政宗は弱りつつも服装を正して迎えることが出来たが、ここで、緊張の糸が切れ、死の床に付く。
五月二十四日、六九歳で死す。
 
 愛姫は、江戸に着いた政宗と対面し、弱っていることに驚く。
政宗は、隙のない身づくろいで、緊張しながら威厳を持って、愛姫と向き合い、挨拶した。
心をさらけ出すことは誰に対してもなく、自分の美意識で自分を演じつつ生き抜いている。
 それから一か月余り、愛姫が看護することも見舞うこともなかった。
政宗は、伊達家当主としての威厳を持った愛姫の伴侶であり、盟友だった。
無様な姿は見せられない。

 愛姫は、死後化粧を施した政宗に会っただけだ。
「後継、忠宗の母として生きます。安心してください」と政宗の顔を見つめた。
それは一瞬の出来事だった。
すぐに仙台に向けて、政宗の亡きがらは出立した。

 愛姫は自分の屋敷に戻り、動かない。
一区切りがついたと、気持ちが暖かくなる。
葬儀の後、その報告に来た、雲居禅師の導きによって仏門に入り陽徳院と号する。


一四 愛姫と忠宗
 愛姫が忠宗を生んだのが、一六〇〇年一月二三日。
愛姫三二歳。
 秀吉死後の動乱の時が始まり、世の行く末に心痛めていた時だ。
政宗は、家康に乗り換え次の時代に向けて動いていたが、愛姫は豊臣家との関係を維持したく、政宗の野望を理解できなかった。

 それでも、伏見で、来るべき時代に備えお互いの役割を果たすことは確認した。
愛姫は、家康に従い、伊達家を飛躍させると熱く語る政宗に賛同する。
顔を合わすときが増え夫婦としての関係も蘇った。
そして、身ごもったのだ。
 
 一五九四年、五郎八姫が生まれてはいたが、年齢や政宗との関係で、皆が嫡男の誕生をあきらめていた時、忠宗が生まれたのだ。
予想外のうれしい、奇跡だった。
 政宗も驚きつつ、喜んだ。
家康と良好な関係を築き、かって支配したが秀吉に削られた陸奥一〇〇万石を取り戻す時が来たと勇んでいた時であり、勇気を与えた誕生だ。

 ただ対外的には誕生を秘した。
長子、秀宗が、嫡男として、大坂城の秀頼に近侍しており、忠宗誕生が分かれば騒動になるからだ。
秀宗は、三成らが出陣の時、宇喜多秀家の屋敷で伊達家嫡男として人質となった。
政宗後継としての役目を果たしていた。

 そのため、忠宗に乳母は付けられたが、侍女近習は最低限しか付かなかった。
その分、愛姫は、忠宗を思う存分抱きしめ、育っていくのを見守ることが出来た。
忠宗誕生の時から忠宗と強い縁で結ばれ、伊達家を受け継ぐ子を生んだ喜びで光り輝いた。
秀宗との内紛を起こすことなく、忠宗を政宗後継とするために慎重に動く。

 そして、予想通り家康の天下となった。
政宗は、前田家と外様第一の藩の座を競っていた。
外様第一の藩になりたかった。
前田家嫡男が秀忠の姫と結婚しており、同じように忠宗と家康嫡男、秀忠の娘との結婚を望んだが、秀忠は、答えを出さなかった。

 一六〇三年、江戸に伊達屋敷が出来、愛姫・五郎八姫・忠宗は移る。
ここから愛姫の外交が始まる。
政宗の世を見る目は確かだ。
天下人、家康が誕生したことを受け入れるしかない。
まだまだ江戸は、槌音が聞こえるばかりで、天下人の城、江戸城の威容は出来上がってはいなかった。

 秀吉・ねねに気に入られたように、頻繁に心を込めた書いた文を添えて贈り物をする。
政宗を伊達者にしたように、センスには自信があり、祝儀の衣装や軍神、田村氏を彷彿させる衣装が得意だ。
将軍家から付き合うべき諸大名にと、広く届ける。
侍女らを使い、手づから作ることもあった。
愛姫の交際上手は、有名だ。
 
 一六〇六年、五郎八姫(1594-1661)が、越後高田(上越市)七五万石藩主、松平忠輝の元に嫁いだ。
秀吉死後まもなくの遺命に背いて婚約した政略結婚だった。
だが、関ケ原の戦い後、家康に不信感を持たせる政宗の動きがあったため、結婚が延びていた。
愛姫は、家康の政宗への不信感を解くため、懸命に思慮深く、徳川家との付き合いをした。
五郎八姫の幸せは、何としても守りたく、家康への忠誠心を見せ続け、成果が出たのでもある。
伊達家の姫として、絢爛豪華な嫁入り支度を整え、嫁がせる。
五郎八姫は、家康の嫁になった。

 一六〇七年一月二八日、家康の末の姫、市姫が生まれた。
すぐに、政宗は嫡男、忠宗との婚約を懇願した。
忠宗は生後二ヶ月の市姫と婚約した。
愛姫と政宗は、家康の実の娘との結婚は願ってもかなわない慶事と喜んだ。

 ところが、市姫は三年後に夭逝。
代わりに池田輝政と家康次女、督姫との間に生まれた振姫(家康の孫娘)が家康の養女となり婚約。
市姫と同じ年に姫路城で生まれ、身代わりに相応しかった。
 忠宗の兄、秀宗は、一六一四年、大坂冬の陣に父と共に参陣し、戦後、伊予宇和島一〇万石を与えられ別家を興し、忠宗は、幕府からも、正式に、伊達宗家の後継と認められた。
 
内紛を起こすことなく、秀宗が生きる道を創り、忠宗が伊達藩主となるのが、第一の役目と肝に銘じていた愛姫だ。
江戸を動くことなく裏方としての外交に徹し、伊達家の存在を示す丁寧な心配りを続け、認められたのだと涙を流す。
 婚約を喜び、振姫を伊達家江戸屋敷に迎え入れる支度を始める。
伊達家上屋敷内に、忠宗・振姫の新居、本屋敷の建築を始める。

 それからは、時々、振姫(孝勝院(こうしょういん))(1607 -1659)を招き、忠宗と幼馴染となり仲良くなっていく。
忠宗と五郎八姫と愛姫は、とても気が合う、仲の良い親子だった。
それが、忠宗と振姫と愛姫との親子関係に代わるが、仲の良さは変わることない。
 愛姫と政宗のような緊張した関係にはしたくなかった。
仲睦まじく、嫡男が生まれ、末永く伊達家が安泰であるように願った。

 家康が亡くなり、振姫は秀忠養女となり、一六一七年、将軍養女、振姫が輿入れした。
忠宗が、将軍の婿になり、愛姫は肩の荷を下ろした。
仙台藩江戸屋敷は華やいだ。
後は嫡男の誕生を待つばかりだ。

 続く一六一八年、宗綱の死。
仙台城の屋敷で亡くなった。
愛姫は、報を聞き、堪えられないほどの苦しみを味わう。
戻っていた五郎八姫に支えられた。

 一六二〇年、五郎八姫は仙台に戻った。
忠宗と振姫と愛姫の江戸屋敷での暮らしが続く。
忠宗は、嫡男でしかなく、江戸詰めで、参勤はない。
政宗が江戸詰めのとき、しばらく国元に戻ることが許される程度だ。
 
 忠宗は、早く藩主になりたくてうずうずしていく。
幕府の意向に逆らい続け隠居しない政宗に、待ちくたびれて、イライラした目線を送るようになる。
それでも、藩政を学ぶことは面白く、勉学の日々は嫌いではなく、熱心に学ぶ。
その姿に愛姫は「仙台藩藩主として申し分のない賢さを持っています。もう少し辛抱するように」と話す。
 忠宗は、愛姫と共に過ごすのが好きだった。
愛姫の話す、伊達家・田村家の変遷は面白かった。

 一六二三年、長女、法雲院鍋子姫が誕生。
忠宗二三歳。振姫一六歳。
仲睦まじい結婚生活で、初めての子が生まれ、将来、嫡男が生まれる可能性を皆が信じた。
 後一六四四年、筑後柳河藩十万九千石藩主 立花忠茂に嫁ぐ。
島原の乱で功を挙げた立花忠茂の元に、秀忠養女として嫁ぐ。
家光の特命だった。
家光は、忠宗が貝姫を側室とし、一六四〇年、綱宗が生まれたことが気に入らなかったからでもある。
 伊達騒動の芽が出始めた。

 忠宗と振姫の仲はその後も睦まじく、
 一六二四年、虎千代丸(1624-1630)が嫡男として誕生するが、六歳で夭折。
 一六二七年、嫡男、光宗(1627-1645)が誕生。
振姫は、二人の男子を生み、伊達家嫡男の妻として役目を果たした満足感で一杯だった。
愛姫も振姫に祝いと感謝の文を送る。
将軍の孫の誕生に、伊達家は華やいだ。
虎千代丸は夭折したが、光宗は元気に育った。


一五 忠宗の藩政
 忠宗は、一六三六年、父、政宗が亡くなると、家督を継ぐ。
愛姫六八歳。忠宗三六歳。振姫二九歳。
偉大で、思うがままに仙台藩を率いた政宗をそれぞれの想いで見送る。
 政宗は、将軍から、隠居を言われても、応じない、気骨のある生き方を貫いた。

 忠宗は、母から聞く伊達藩・田村家・奥州の勢力図の変遷の歴史が好きだった。
そして父とは違う藩主像を描き、日夜学んでいた。
父の愛姫に対する愛情が、あまりに形式的すぎると許せない思いもあった。
父からの種々の押し付けに反発しつつ、藩主になるのを待ち続けた半生だった。
 こうして、長く待ち続け藩主となり、藩政への心構えは出来すぎていた。
すぐに国元入りの準備をし、仙台に向かう。

 ここで、藩政の執行体制を、改めて決定した。
政宗の体制を引き継ぐことを一門以下に明言し、大きく変えることはない真面目な藩主となる。
 政宗が藩政を執らせた奉行職(他藩の家老)六人。
 石母田宗頼(1584-1647)。
小早川秀秋家臣だったが、名ある朝倉旧臣の出であり気に入って政宗が貰い受けた。
家老、石母田景頼の娘婿養子とし抜擢した。
 石母田氏は、甲斐武田氏から始まり、伊達家初代、伊達朝宗に従い、以後、譜代の重臣として続く。
景頼の嫡男は、桑折重長だったが、桑折家を継いだ。
そのため、宗頼が、家督を継ぎ、栗原郡岩ヶ崎城主五千四百石となる。
忠宗は、そのまま、引き継がせた。

 中島意成
中島家はもともと伊達氏分家、懸田氏(かけだし)の家臣だったが、天文の乱後、晴宗と戦う懸田氏に従わず、直臣となる。
晴宗は喜び、金山中島家二千石とし、伊具郡金山要害を預けた。
 中島意成の上口内中島家ではない。
 
 刀術や手裏剣等の武術に通じた家柄の上遠野氏がいた。
下野守護、小山氏の流れで、岩城氏に従った一族だが、政宗が召し抱えた。
そして、上遠野久成の長男、常成を中島意成と名乗らせ、家を興させた。
武勲数知れないほどの武者で、侍大将とし、政宗お気に入りの家臣となる。
行政力もあり抜擢し奉行とした。
上口内中島家千八百八十石、江刺郡上口内要害を預けた。
忠宗も、引き継がせた。

 茂庭良元(1579-1663)。
茂庭綱元の嫡男であり、喜多の甥になる。
茂庭綱元は、政宗の指示に見事に従い成果もあげたが、言いたいことも言い緊張関係もあった。
数々の戦勲がある茂庭綱元は、愛姫のお気に入りであり、良元が引き継いだ。
五郎八姫と親しくし、愛姫にも父と同じように仕えた。
 松山茂庭家一万三千石、志田郡松山城を預かる。
一六一六年以来、三五年間奉行(家老)を務める。

 奥山(おくやま)常(つね)良(とき)。
相馬氏一門で武勇を誇った目々沢氏が伊達氏に仕え、政宗が、奥山氏と名乗らせた。
娘、屋形御前の婿、相馬顕胤家臣で、武勇を誇った目々沢盛清(常清)がいた。
屋形御前・相馬顕胤を信頼した稙宗が気に入り、直臣にしたいと婿に願った。
実現できないうちに、目々沢盛清(常清)が亡くなり、その嫡男、常基を稙宗を継いだ晴宗が召し抱えた。
常基は、一五七四年、最上氏の内紛、天正最上の乱で、輝宗に従い、奮闘し戦死。
その功に報いたく、嫡男、兼清を政宗小姓に選び、伊達家重臣の道を創る。
政宗に付き従い、気に入られ、奉行(家老)に抜擢された。

 兼清が亡くなり、弟、奥山(おくやま)常良(つねとき)が、引き継ぐ。
忠宗も引き継いだ奥山(おくやま)常良(つねとき)を、引き続き奉行(家老)とした。
奥山家は、本家、兼清の家系が、磐井郡藤沢一八一三石。
弟、奥山常良の家系が、加美郡小野田一六六六石。として続く。
 
 津田頼康。
政宗が命じた奉行(家老)は津田景康(1564-1638)だったが、高齢のため、嫡男、津田頼康に引き継ぎを命じる。
政宗側近、津田景康は、秀次との縁がないことを秀吉に直訴し、政宗の危機を救う大活躍で、政宗が高く評価した。
以後も、政宗に忠実で、戦力でも秀で、大坂の陣で素晴らしい軍事力を発揮し、奉行(家老)となった。

 もう一人、遠藤玄信に代えて、忠宗近習の古内重広(1588-1658)を奉行(家老)に選ぶ。
忠宗が信頼し抜擢した。
古内重広は、晴宗と久保姫の子、国分盛重の子。政宗のいとこになる。
父、国分盛重は佐竹氏の元に出奔したが、重広は伊達家に残り、姉婿、伊達家重臣、古内に育てられる。
そして、古内家へ養子入りし家督を継いだ。
 古内氏は、盛重が継いだ国分氏の一門重臣だった。
古内重広の才知を気に入り、政宗が忠宗に付け、忠宗は全幅の信頼を置き、側近としていた。
どうしても奉行(家老)としたかった。
 
 また、政宗が重用した家臣団を自らの家臣団に取り込むため、奉行を指導・監督する評定役を設け五名選ぶ。
 前奉行、津田景康。
 前奉行、遠藤玄信。輝宗に殉死した基信の子。
 片倉重長(1585-1659)。
 古内義重。
古内実綱の嫡男であり古内義如の父。
古内義如は、酒井屋敷での伊達騒動の唯一の生き残りとなり、後始末に奔走する。
 鴇田周如(ときたかねゆき)(1588-1654)。
秀吉の奥州仕置で、主君、黒川郡三万九千石を領し大崎氏に従う黒川晴氏(月舟斎)が改易され浪人となった信濃国近の嫡男。
清和源氏から始まる歴史ある名門だ。
新領主となった政宗に召し抱えられることを願い、旧知の古内重広・奥山常良に取次を頼む。
一五九一年、政宗が葛西大崎一揆を制圧すると、対面が叶い、召し抱えられ、旧領、吉田村と宮床村と鴇田館(宮床館・宇和多手城)を取り戻す。
信濃国近の嫡男、周如も召し抱えられ、忠宗の小姓となり、次いで、側近となり重用された。
優れた行政手腕を発揮する。
 鴇田家は、出世し、二二三〇石まで知行を増やしたが、伊達兵部宗勝に近かったため、七二六石にまで減らされる。

 忠宗は国元のいる時が少ないままに、一六三六年、三六歳で家督を継いでおり、国元で藩主として受け入れられるために、政宗の家臣団をうまく引き継ぐことに細心の注意を払う。
 
 仙台藩の家格は一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出、平士(番士)、組士が決められていた。
忠宗が、整備し、構成を決めていくが、できうる限り政宗を踏襲した。
まずは、外様、仙台伊達藩を盤石にすることが一番で、内紛を起こさないよう慎重だった。
あまりに有名な政宗の後を引き継いだのであり、家康を引き継いだ将軍、秀忠の生きざまを見習った。

 政宗を引き継ぐことを大義とし、徐々に自分らしさを発揮していく。
 翌一六三七年、政宗を祀るため瑞鳳殿・瑞鳳寺(ずいほうじ)を建立。
 一六三九年、本丸は不便だとの政宗の遺命だと政庁・住まいとして仙台城二の丸普請を始める。
忠宗の意向に沿った政庁とする。
 一六四〇年から一六四三年にかけて寛永総検地を実施。
それまでの一反=三六〇歩での計算を全国標準の一反=三〇〇歩に合わせ、貫高制の換算基準を一貫=一〇石で固定して石高制とする。
さらに家臣団の知行地の大規模な再編を行った。

 また、領内の余剰米を藩が買い上げ、江戸に運んで売捌く買米制を実施。
買米制は非強制で代金先払いとし、農民に有利なよう決めた施策だ。
そのため、農民は張り切って新田開発に取り組み、田畑が増え、皆の収入が増える。
などなど矢継ぎ早に、考え抜いた藩政を行う。

 政宗も愛姫もキリシタンには寛容だった。
忠宗も引き継いだ。
 伊達藩での灌漑技術・鉱山技術・造船技術など先進技術は、キリシタンに負うところが多く力を認めていたからだ。
製鉄は、キリシタンに任せていたほどだ。
だが、家光は忠宗に厳しいキリシタン弾圧を命じる。

 忠宗には、苦しい決断だったが、時代が変わったことを肝に命じ、伊達藩を守ることを第一とする。
徹底した取り締まりを進めていく。
一六三九年、三百人以上のキリシタンを処刑した。
製鉄業には大きな損失となった。

 一六四五年、嫡男、光宗(1627-1645)が亡くなる。
将軍の孫であり、将軍と縁続きの伊達家となる為に最高の嫡男だったが、十八歳で急死した。
愛姫も忠宗も振姫も泣き崩れた。
 菩提寺を臨済宗妙心寺派円通院(宮城県宮城郡松島町)とし、霊廟、三慧殿(さんけいでん)を建立した。
厨子(ずし)(位牌を安置する仏具)の中には白馬にまたがる光宗の像が祀られた。
厨子には金色鮮やかに支倉常長が持ち帰ったバラの絵、キリシタンに通じるユリを描いた。
 毒殺とも言われ、誰の犯行か特定できないが幕府とそれに与する重臣の関与を疑った。
精一杯の怒りを表した霊廟だった。
 幕府が望んでも、伊達家の霊廟だと扉を開けることはない。

 一六四九年、火災で焼失した法華宗、孝勝寺(仙台市宮城野区榴岡)を再建。
法華宗に帰依する振姫の願いだった。
振姫が、菩提寺とした。
 振姫はまた、光宗を家康のひ孫であると、力強く残したく東照宮の建立を願い、幕府の了解を得る。
六年かけて仙台東照宮を勧請・遷宮し一六五四年、完成。

 忠宗の藩主としての取り組みに満足し、一六五三年、愛姫は亡くなる。

 続いて、一六五八年、藩主になって二二年、忠宗が亡くなる。
愛姫と終生、以心伝心の母子として、また、将軍娘婿として、仙台藩の地位と基盤固めに務め、功績を残し「守成の名君」と称される。

 一六五九年、振姫は、五二歳で亡くなり、建立された菩提寺、孝勝寺に眠る。
 
一六 忠宗と側室の子たち
 愛姫には、忠宗と共に田村家の後継を決める、大きな仕事があった。
政宗との話し合いは進まなかったが、忠宗には思うことが言え、決めなければならない。
 竹松丸も宗綱も亡くなり、我が子はもう望めないとあきらめた時から、忠宗の子に継がせると決意していたからだ。
だが、振姫に多くの子は生まれない。
振姫は、将軍の姫であり、思うように側室を置けば、幕府に不忠を働いたと見なされる。

 伊達家存亡の危機となることは避け、慎重に忠宗の側室選びを始める。
振姫が子を産む限界の時とされていた三〇歳に、近づく頃から、忠宗の側室を具体的に探し始める。
 愛姫は、振姫に誠意を込めて、田村家の後継者がどうしても必要と願う。
振姫の尊厳を奪うことは絶対にしない、ただ、仙台城に忠宗の国元妻を置く許しを得たいと。

 振姫は幼いころから愛姫に可愛がられ、愛姫を母と思い、共に暮らしている。
愛姫の思いはよくわかった。
承知してくれた。
こうして、政宗が一六三六年、亡くなると、まもなく仙台城に国元妻を置く。
もちろん、振姫が納得した女人だ。
振姫は二九歳だったが。

 側室、三田村氏、おふさの方(祥雲院)。
愛姫も政宗も、聚楽第で親しくした秀吉側室、松の丸殿に仕える京極氏旧臣、三田村又右衛門の娘だ。
将軍秀忠の御台所、お江・秀頼の母、茶々の実家、浅井氏の一族でもある。
 三田村又右衛門政宗は、秀吉の死後、秀頼に仕え、大坂の陣を戦い抜く。
だが、敗軍の将となり、浪人となった。
 そこで、政宗が、旧知であると召し抱える。
その娘、おふさの方は、愛姫が召し抱えた。

 才知、氏素性問題なく、愛姫は気に入り、忠宗に引き合わせ、側室としたのだ。
忠宗は、愛姫の審美眼を信じており、よほどでない限り拒否せず、素直に受け入れた。
実家、池田家・姉の嫁ぎ先、京極家と親しい付き合いを続けている振姫は、我が分身でもあると承諾した。
 
 一六三七年、忠宗三男、田村宗良(1637-1678)を仙台城で生む。
将軍家の姫、振姫に遠慮し、すぐに養子として出し伊達家を離れさせた。
 政宗の参謀であり、秀吉との取次役だった鈴木元信(1555-1620)の子、重臣、鈴木重信の養子とした。
鈴木元信は、政宗の描いた天下人への野望を実現するために召し抱えられ、千五百石国家老となった。
行政や財務の能力に優れ、天下人政宗のための法律も用意し、禄高も増やされ、順調に出世した。
一六二〇年、死ぬ間際、政宗が謀反を疑われることのないよう関係書類をすべて焼いた忠臣だ。
 三田村又右衛門を政宗と愛姫に取り次いだのが、鈴木元信だった。
 
 愛姫は、田村宗良の成長を見守り、才知を見定め、田村氏の再興を託すことにする。
この時点では、光宗が生きており、次男だった。
 愛姫の死後、遺志通り、鈴木家を引き継いだ形で、田村宗良を名乗り、岩沼藩初代藩主となり、後、一関藩三万石藩主として続く。
田村氏は伊達六二万石のうちに三万石の領地を分与された内分分家大名、支藩となる。

 一六四三年、七男、伊達宗規(1643-1685)を仙台城で生む。
岩谷堂伊達家五千石の養子となり継ぐ。
 岩谷堂伊達家は、岩城常隆と岩城御前(二階堂盛義と伊達晴宗の娘、阿南姫との間に生まれた娘)の子、政隆から始まる。
政宗が、政隆を一門として迎え、その子、国隆が引き継いだ。
そして、その娘婿養子になった宗規が、引き継ぐ。

 次に、側室、長田氏瑞昌院を迎える。
父は、長田忠重。
織田信長の弟、織田有楽斎長益(1547-1622)の孫になる。
織田信忠に仕え、後、徳川家に仕え旗本となる。
 
 愛姫の側近、白石宗貞の祖父、宗実は、伏見で秀吉との折衝役となり、名護屋城に詰め、朝鮮の役が始まると渡海し戦った。伊達氏一門でもある猛将だった。
嫡男は生まれず、父、伊達宗直(1577-1629)を、宗実の娘、心月院の娘婿養子とし、白石家後継とする。
 宗直は、稙宗の八男、梁川宗清(梁川家に養子入り)の嫡男になる。
娘婿養子で継いだ宗直は、数々の戦で手柄を立て、大坂の陣でも活躍。
宗直の嫡男が、白石宗貞(1597-1644)。
この後、白石宗貞は愛姫と共に、旧知の豊臣系武将に手を差し伸べる。
その中に、長田忠重がいた。

 愛姫も喜んで忠重を伊達家家臣とし、娘、瑞昌院を召し抱えた。
忠宗に引き合わせ、仙台城で仕えることになる。

 一六三八年、四男、伊達五郎吉(1638-1644)を仙台城で生む。
白石宗貞の長女、龍雲院の娘婿養子となり、登米伊達氏を継ぐ。
六歳で亡くなってしまうが。

 一六四〇年、五男、伊達宗倫(1640-1670)を生む。
亡くなった兄、五郎吉を継ぎ、白石宗貞の次女、霊光院の娘婿養子となり、登米伊達氏二万石を引き継ぐ。

 宗倫は、成長と共に、登米伊達氏を盤石にしたいと、内政・新田開発に励む。
すると同じく新田開発に励んだ隣地の領主、涌谷伊達氏、宗重(伊達安芸)と境界を巡り争いとなる。
 ここから伊達騒動が始まる。
宗倫は、意図しない紛争に心痛め、伊達騒動が起こる前、一六七〇年三月三〇日、三〇歳で亡くなる。

 瑞昌院は、一六五八年、忠宗が亡くなると、宗倫の元に行く。
宗倫は領地の喜庵館(宮城県登米市登米町寺池館山)を再建し住まいとし暖かく迎える。
 宗倫が亡くなると、藩主、綱宗の四男、村直(1666 -1709)が後を継ぐ。
瑞昌院は、生きており、村直に庇護され、また、支える。
一六九四年、八四歳で村直に見守られ亡くなる。
遺言で、菩提寺を、本覚寺(登米市)とし、一周忌に村直は、一貫文の寺領を本覚寺に寄進し、恩に報いた。

 愛姫は、京に在していた時の旧知から側室二人迎え、子たちも生まれ、正室、振姫の子、光宗も育っており、仙台藩は安泰だとほっとした。
だが、江戸詰めが、三五年を過ぎ、政宗も亡くなると、伊達家だけを見ていたのでは伊達藩が安泰ではないと考える。
 前田家や毛利家、島津家、黒田家、細川家・上杉家等々大大名は、朝廷・公家と親しい縁を繋いでいる。
将軍家・徳川家も同じだ。
家光の御台所は、鷹司氏から迎えている。
伊達家も朝廷公家との縁を大切にすべきだと。
そこで、忠宗に公家の娘を迎え、公家の血を引き継ぐ子が生まれれば、伊達家の役に立つはずだと考えた。
 
 愛姫は、一五九一年以来、京に住み、多くの縁者がいる。
一五九五年、五七歳まで仕えた腹心、片倉喜多(1538-1610)が築いた貴重な人脈もある。
弟、鬼庭綱元(1549-1640)・片倉景綱が、喜多の人脈を繋いでいた。
 また、伏見屋敷で何度か会った香の前お種の方(1577-1641)とも親しくした。
お種の方は、教養深く、晩年に住んだ栗原郡高清水城(栗原市)に京から趣味の友や識者を招いて、過ごしていた。
京の情報に詳しく、忠宗に相応しいのは誰かを聞いた。

 多くの情報を集め、次第に、誰が相応しいか、絞っていく。
そして、不思議な縁が繋がった。
秀次に仕えるため上洛するいとこ(政宗の母と最上義光が兄妹)、駒姫(最上義光の娘)の嫁入りの支度をしていた時、同じ秀次の側室、おつまの方の実家、四条家の当主、隆致と知り合っていた。
駒姫もおつまの方も無念の死となったが、四条家との交友関係は続いた。

 一六〇一年、徳川の世となり、家康は、家督を追われていたおつまの方の実父、四条隆昌を当主に復帰させ、今まで当主だった四条隆致には新たに、櫛笥(くしげ)家を起こさせることとした。
隆致の兄、隆憲が、隆昌の養子だったが、すでに一五九一年亡くなり、弟、隆致が継いでいた。
行く場をなくした隆致のために、家康が櫛笥(くしげ)家を創ったのだ。
櫛笥隆致(くしげたかちか)は家康に感謝し、出来うる限り意向に沿う。

 櫛笥隆致(くしげたかちか)の子は。
 嫡男、櫛笥隆朝(1607-1648)。
 次男、園池宗朝(1611-1661)。和子中宮に仕え、認められ、幕府に頼み、公家、園池家を創り、初代となる。
 長女、櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)。後西天皇の生母となる。
 次女、貝姫(1624-1642)伊達綱宗の生母となる。
 三女、土佐藩主、忠豊の父、山内忠義に嫁ぐ。
それぞれ華やかな生涯を送る。

 抜群の才女、長女、隆子は、後水尾天皇(1596-1680)に仕え、天皇と宮中内外との取次をする高級女官、勾当内侍(こうとうないし)となる。
後水尾天皇の和子中宮には、皇子皇女が生まれるが、皇子は次々亡くなってしまう。
そこで、やむなく後水尾天皇に近侍する女人を認めた。
選ばれたのが、隆子。

 隆子は、天皇との間に九人の皇子・皇女を生む。
愛が最も深く、長く続いた。
一六三一年、皇女が生まれて以来、次々生まれ一六三七年、第八皇子、後の後西天皇(1637-1685)が生まれる。
後水尾天皇にはすでに皇子が二人生まれており、皇位を継ぐ可能性は少ないが宮家の創設はありえた。

 いろいろの情報を集約し、愛姫は、親しくした四条家縁の貝姫が、最も相応しいと考える。
天皇家と繋がることも魅力だった。
そこで、一六三九年、仙台藩伊達家、京都留守主居、佐藤市兵衛に櫛笥(くしげ)家との話し合いを命じる。
佐藤市兵衛には荷が重く、伊達家にも櫛笥(くしげ)家にも出入りする商人、象牙屋茂兵衛に間に立つように命じる。

 伊達家は、櫛笥(くしげ)家への多額の資金援助を申し出る。
櫛笥(くしげ)家は、貝姫の出生を隠し象牙屋茂兵衛に縁ある女人として、仙台に行くことで了解した。
隆子は、実家、櫛笥(くしげ)家に戻り皇子皇女を生んでいる。
それは、櫛笥(くしげ)家には名誉なことだが、経済的負担は大きかった。

 伊達家の支援を得ることは、とても価値があり、必要なことだった。
だが、天皇の皇子皇女の母である隆子の妹が側室では釣り合わないと、貝姫は、象牙屋茂兵衛に縁ある女人となった。
 江戸で愛姫と会い、歓迎され激励されて仙台に行く。
待っていた忠宗は、思い通りの女人だと気に入り、すぐに側室とする。

 翌一六四〇年、巳之助丸(綱宗)を仙台城二の丸で産む。
だが、慣れない地での気苦労が大きく一六四二年、一八歳の若さで亡くなる。
残された綱宗を正室、振姫が引き取り育てる。

 和子中宮の皇子二人は育たず、和子中宮が後水尾天皇の子から次期天皇を選ぶ。
 第一皇子、賀茂宮(1618-1622)。四歳で夭折。
 第二皇子、高仁親王(1626-1628)二歳で夭折。
 第三皇子、若宮(1628)。生後間もなく夭折。
 第四皇子、後光明天皇(1633-1654)一六五四年、二一歳で皇子なく亡くなられた。
 第五皇子、某(1633)生後間もなく夭折。 
 第六皇子、守澄法親王(1634-1680)天台座主。
 第七皇子、性承法親王(1637-1678)仁和寺御室。
 第八皇子、後西天皇(1637-1685)。
 第九皇子、性真法親王(1639- 1696)東寺長者。
 第十皇子、尭恕法親王(1640-1695)天台座主。
 第十一皇子、穏仁親王(1643-1665)八条宮。
 第十二皇子、尊光法親王(1645-1680)徳川家光猶子・知恩院宮門跡。
 第十三皇子、道寛法親王(1647-1676)聖護院宮門跡、園城寺長吏。
 第十四皇子、眞敬法親王(1649-1706)一乗院宮門跡、興福寺別当。
 第十六皇子、尊證法親王(1651 1694) 天台座主。
 第十八皇子、盛胤法親王(1651-1680)天台座主。
 第十九皇子、霊元天皇(1654-1732)。
と後水尾天皇の皇子は多い。

 長幼を重んじ僧籍を得た皇子を除外すると、後光明天皇となり、即位する。
だが、二一歳で亡くなられた。
亡くなられる直前、父、後水尾天皇の皇子の弟、母方の甥でもある後の霊元天皇を指名したが生まれたばかりだった。
和子姫は余りに幼すぎると、繋ぎとして、すぐ下の弟、後西天皇を選ばれた。
ここで、一六五五年、後西天皇の即位となる。

 網宗(1640-1711)は、天皇のいとことなる。
伊達家中には降ってわいた幸運だった。
政宗のいつか天下を獲る夢は実現できなかったが、天皇との縁で幕府に対峙できる伊達家となるかもしれないのだ。忠宗は、幕府と対峙することが伊達家にとって益があるかどうか悩む。
 振姫は、わが手で育てた網宗を、嫡男とし、後継としたいと譲らなかった。
忠宗は、その意に添い、一六五八年亡くなった。
こうして、網宗が藩主になる。
 後西天皇と網宗は連絡を取り合い、次の世を作る気概に燃える。
ところが、わずか二年の藩主で終わり、一六六〇年四月一八日隠居を命じられる。

 幕府大老、酒井忠清と伊達宗勝(忠清養女と嫡男が結婚)が主導し、
 忠宗の妻の実家、備前岡山藩主、池田光政。
 鍋姫(忠宗の娘)の夫、筑後柳川藩主、立花忠茂。
 千菊姫(政宗の四女)の夫、丹後宮津藩主、京極高国ら伊達家と縁戚関係にある大名が賛同し決まった。
伊達家の内紛を面白がるように、伊達騒動の始まりとなる。

 同じように、後西天皇にも退位が願われた。
仙台藩主という後ろ盾を失い、立場が弱くなるが、しばらく踏みとどまる。
後西天皇には、次々皇子が生まれており、後西天皇の皇子で天皇家が続くことを恐れた幕府の圧力は高まる。
ついに和子姫が動き退位を求めると力尽き、一六六三年三月五日、譲位。
 幕府主導で事は収まった。


一七 藩主、吉村の祖母
 もう一人、忠宗の最後の側室、山戸氏おたけの方がいる。
愛姫が我が子のように慈しみ育て、我が子、忠宗の側室とした。
忠宗の子を産むのに、最もふさわしいと自信を持って勧めた。

 仙台藩は、陸奥国内六十万石、加えて常陸に一万石余、近江に一万石余の領地があった。
政宗は、一六〇六年、家康から得た常陸国の飛び地、龍ヶ崎を、国元と江戸への経路とし、よく利用した。
龍ヶ崎(茨城県龍ヶ崎市)に陣屋を築き、山戸土佐勝重と諸岡長門を代官とし、治めさせた。
 山戸土佐勝重の妻は蓮沼右近衞の妹で、二人には久三郎という男子が生まれたが、妻は亡くなった。
後妻に迎えたのが、諸岡長門の妹、まさで、勝重との間に一六一二年、おたけの方が誕生。

 師岡(諸岡)まさは、龍ケ崎城主、土岐左兵尉胤倫の家臣、諸岡筑前守の嫡男、長門の妹。
師岡(諸岡)家は、武蔵国多摩郡師岡(東京都多摩地区)を本拠としたが、土岐胤倫に仕え、龍ケ崎城に移り住んだ。
土岐氏に繋がる家柄だったが、北条氏に与し改易されてしまう。
それでも、支配者の変遷があっても、この地を動かなかった。
仙台領となると、伊達家に仕えた。

 この地を伊達領にしたいと、望んだのは政宗だった。
百万石が夢に終わり、安堵された領地を活用するために、常陸国河内郡龍ヶ崎村を中心とした一万石あまりの領地が必要だった。
伊達家発祥の地に繋がり、伊達家と争った蘆名氏が領した肥沃な地だった。
 大久保長安が代官頭として支配した幕府直轄領だった。
そこで、大久保長安に思いを話し、取次ぎを願った。
長安は了解し、家康に取次ぎ、長安の名で、知行目録が政宗宛に出された。
長安の働きで、龍ヶ崎村周辺に一万石の領地を得たのだ。

 豊かな常陸龍ヶ崎領は伊達藩江戸屋敷の賄い地となる。
政宗は、江戸への廻米(かいまい)のために、石巻(宮城県石巻市)から北茨城(ひたちなか市)に米を荷揚げする東廻航路を利用していた。
その中継地点として、龍ヶ崎は不可欠だと欲しかったのでもある。
思い通り、仙台から江戸へ、江戸から仙台への物資の通り道として、大いに賑わった。
陣屋を築き、流通する物資の管理もする。

 だが、大久保長安は罰せられ、縁故の者も次々、次々罰せられた。
五郎八姫の婿、忠輝の付け家老、長安と政宗は、盟友とも言えるとても親しい関係になっていた。
追及を受けることは避けられない。
やむなく、その前、縁ある者を次々隠し、処罰し、政宗と長安の関係はなかったとしていく。
その動きの中で、一六一六年、山戸土佐勝重の処罰を決め、殺す。

 龍ヶ崎は長安なくしては手に入れることは難しく、この地の伊達家臣は恩義を感じていた。
長安の代官領と隣接しており、共に対処することも多かった。
そんなことで、山戸土佐勝重と諸岡長門らは、長安関係者との親密な関係を続けた。
長安の助言を受けたり、支援されることもたびたびだった。
 
 愛姫は、経緯を知り、残された妻子を不憫に思い、江戸屋敷にひそかに引き取る。
妻、まさと四歳のおたけの方は江戸行き、愛姫に仕え、育てられる。
久三郎は、隣村の八代村(八代町)にある桂昌寺に逃れ、下総国印旛郡手賀村(千葉県我孫子市)の親類を頼り、そこで亡くなる。

 五郎八姫が仙台に戻ると、おたけの方が成り代わったように愛姫に可愛がられ、厳しい教育を受けていく。
そして、愛姫がにっこり笑うほど、思い通りに成長した。
氏素性・才覚・養子・才知すべてに満足し、忠宗に推すことを決める。
おたけの方の子に、田村家を引き継がせたいと思うほどだった。
忠宗も気に入った。

 一六四六年、忠宗八男、宗房(1646-1686)が生まれる。
伊達一門、田手高実の娘、法林院の婿養子となり田手家を継ぐが、新たに宮床伊達氏八千石(宮城県黒川郡)を興す。
法林院は、子が生まれることなく亡くなる。
ここで、愛姫は、宗房と片倉景長の娘、まつ(貞樹院)との再婚を決める。

 まつ(貞樹院)は、喜多が我が子のように育てた弟、景綱の嫡男、重長の後継、景長の娘だ。
愛姫も重長を可愛がり、その娘婿、景長を引き立てた。
そこで藩主、忠宗の子、宗房と、まつ(貞樹院)の結婚となったのだ。
 片倉家にとって素晴らしい名誉なことだ。

 もう一人、一六四八年、忠宗九男、飯坂宗章(1648-1663)が生まれる。
政宗三男、宗清を継いだ飯坂定長に預けられる。
だが、一六六三年、一五歳で亡くなり、子がなかった。
そこで、原田甲斐宗輔の子、輔俊を養子とし後継とした。
伊達騒動が起き、絶家となる。
 
 おたけの方は、姪と姪の子、甥の子を呼び寄せ、宮床伊達家に仕えさせる。
一六五九年、忠宗が亡くなると出家して慶雲院を称した。
晩年は、宗房の住む宮床(宮城県大和町)に移り住む。

 まつ(貞樹院)と宗房の間に、吉村(村房)と村興の二人の子が生まれた。
吉村(村房)は、伊達四代藩主、綱村の養子となり、後に伊達五代目藩主、伊達吉村となる。

 愛姫は、田村家後継を誰にするか決めかねていた。
伊達家での地位を思うと、忠宗の嫡男、次男、光宗に次ぐ一六三七年生まれの三男の宗良だ。
生母との縁を思うと、わが手で育てたおたけの方の子、一六四六年生まれの八男、宗房に田村家を継がせたい。
だが、八〇歳に近づき、いつまでの命かわからない状態だ。
幼子、宗房ではなく宗良に田村家を引き継がせると決め、忠宗に頼む。

 愛姫が田村家後継を決めるまでの中継ぎが、田村宗顕だった。
だが、田村家を改易させた政宗に、耐えがたい思いがあり出奔し、愛姫に招かれ、白石に落ち着いた。
嫡男、片倉定広は白石の地で育つが、次男、良種は、愛姫が引き取り、江戸で育てた。
田村家後継を宗良と決め、田村宗顕の子たちの行く末を、喜多の後継とし、片倉一門家を起こさせると決める。
 一六四八年、田村宗顕が亡くなる時、子たちは片倉一門家とし、名誉ある家とすることを約束した。
宗顕は、愛姫に礼を言い逝った。

 一六五三年、愛姫が亡くなると、田村家を宗良が引き継ぎ、忠宗が亡くなると加増され田村家は、陸奥岩沼藩三万石となる。
その子、建顕に引き継がれ、陸奥一関藩へと国替えになる。
ところが、建顕に男子が生まれない。

 ここで、建顕(たつあき)は、愛姫の想いを重視し、宗房と貞樹院の間に生まれた吉村を後継にすると決める。
ところが、男子の生まれない藩主、綱村も後継を決めかねていた。
綱村の弟、村和の子を養子としたいが、母が三沢初子であり、幕府が認めようとしない。

 幕府は、伊達家一門との血縁を大事にし、いとこもしくはいとこの子から選ぶよう圧力をかけた。
藩主としての資質は圧倒的に吉村だった。
ここで、吉村一五歳を、綱村の後継と決めた。
そこで、田村家は、一門、誠顕(のぶあき)(田村顕当の子)を後継とする。

 おたけの方は、吉村が一七〇三年、仙台五代藩主になったのを見届け、吉村の弟、宮床伊達家を継いだ村興に看取られ一七〇六年亡くなる。
 おたけの方の菩提を弔うために、宗房は、法名から名づけた慶雲寺(宮城県黒川郡大和町宮床)を建立した。
吉村が両親と祖母・慶雲院の霊廟を建てて、寺号を大義山覚照寺とし、宮床伊達氏の菩提寺とする。

 忠宗の側室は、ほとんど愛姫の見識眼で選んだ。
政宗とは価値観にずれがあったまま、結婚生活を送り、唇を噛むことが多かった。
だが、忠宗との親子関係は、これ以上はないほどよかった。
田村家の父母の怨念を晴らし、良き側室を配したと満足だ。
 忠宗の子に田村家を継がせる約束と、次代以降の後継者を万全にし、愛姫は八五歳で大往生だ。
めんこい姫からは想像できないほど、強く激しく伊達家を支えた生涯だった。


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