刃に縋りて弾丸を喰む

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Episode〈1〉春雷 ⑵

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 風馬の家に行く日取りが決まってから、私の毎日は忙しくなった。
 無意識のうちにカレンダーを見る回数が増え、気がつけばスケジュール手帳を開いている。町を歩けば、いつもは気にもしないブティックのショーウィンドーや通りすがりのカップルの服装が目に入る。
 いつも通り『くずの家』で風馬と飲んでいる間にも、浮き足だった感覚はずっと私につきまとっていた。

 “意識させてやればいいじゃない”、光さんの言葉が頭の中をぐるぐる回る。
 目の前には、新品のワンピースにパンプス、デパートの一階で揃え直したコスメ。それから……。
 「……」
 白いレースとリボンがあしらわれた上下セットの下着を、おそるおそる持ち上げる。部屋の照明の下、ブラジャーの中央に据えられた白いビジューが控えめに輝いている。
 昨日、下着専門店の前を通りすがった私の頭に“意識させてやればいいじゃない”の言葉がよぎった。気づけばそこは店内だった。
 あとは歩み寄ってきた店員さんのなすがまま、バストを測られ好みを聞かれ、無事ワンセットをお買い上げ。
 「……そんなんじゃ、ないよなあ」
 持ち上げた下着を薄目で見ていたら、思わずため息が出た。
 風馬はそんな目で私を見ていない。きっと服だって靴だって化粧だって気にしない。ましてや、下着なんて、どうでもいいに決まって……。
 「……や、でも。髪切ったら毎回気づいてくれるじゃん」
 口をついて出た自分から自分へのよく分からない励ましに、なんだか自分で傷ついた。

 ……でも、だって。
 「そんなんじゃない、そんなんじゃない」と何度かぶりを振っても、心の中の自分が自分にエールを送る。
 ───風馬は、人生で一番好きになった人なんだもん。
 私にとって、こんなに距離が縮まった異性は初めてだった。学生時代は好意を自覚した途端距離を取ってしまっていたし、社会人になってからは好意を寄せた相手がそもそもいなかった。
 きっと、いつのまにか諦めていたのだと思う。学生時代の経験から、「誰かを好きになっても仕方がない」と自分で自分の恋心に蓋をするようになったのだと思う。
 風馬と初めて会った夜だって、私は二つも席をあけてカウンターに座っていた。横目に「きれいな人だな」と彼のことを認識してはいたが、関わるつもりは毛頭なかった。
 そんな私に、風馬は自然なそぶりで声をかけた。
 「ねえ、お姉さん。タバコ大丈夫?嫌ならやめるから、言ってね」
 ───思えばあのとき、既に恋心は芽生えていたのだと思う。
 “行きつけ”をつくらなかった私は、毎晩のように『くずの家』へ通い始めた。そして、同じく毎晩のようにカウンター席にいる風馬と話をするようになった。
 踏み入った話が出来ない分、他愛もない話をした。最近食べた美味しいものの話だとか、海派か山派か猫派か犬派か、だとか。
 そこにいつのまにか光さんが混ざって彼女が『風くん』と彼のあだ名を口にして、「ふうってお名前なんですか?」と私が聞いた。光さんが目を丸くして「あんたたち、もしかしてお互いの名前知らないの?」と驚いていたのが懐かしい。
 そうして知った、貴重な彼の情報。樫野風馬、という名前。
 「風馬でいいよ」と笑った彼へ、とっさに「じゃ、私も星子でいい」と返して、私たちは名前で呼び合うようになった。
 二人でお酒を飲んだもの、長い時間話したのも、名前で呼び合ったのも……そして、3年間も恋心を抱いたのも。私にとっては全部、風馬が『はじめて』だった。

 もし、カラダの『はじめて』も、相手が風馬になってくれたなら……。

 自然と浮かんだよこしまな考えに気づいてカァッと頬が火照った。いてもたってもいられず、下着から視線をそらしてカレンダーを見る。明日の日付には、赤い丸がついていた。
 ───ついに、明日かあ……。
 お好み焼き作りは得意だ、といつだったか誇らしげに言った風馬の顔を思い出す。なんでも昔は関西に住んでいて、そこで作り方を覚えたようだった。
 「絶対美味いのつくるから、楽しみにおいで」
 昨晩、風馬はあのときと同じく自信ありげな笑顔を見せて私にそう言った。

「……少しは、期待しても、いいよね」
 自然と下着を握る手に力を込めながら、私はまた、自分から自分にエールを送った。
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