刃に縋りて弾丸を喰む

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Episode〈1〉春雷 ⑶

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 「えーっと、この角を右に……あ、あれかな」
 一昨日、思い出すように風馬がくれた紙切れには彼の住所が書かれていた。丸っこい、ちょっと女性的な字が書かれたそれとスマホを何度も見比べながら住所を検索し、辿り着いたのは綺麗なマンションだった。
 整然としたエントランスを前にして、緊張しながら部屋番号を押す。呼び出しボタンをおしてしばらく後、インターホンが繋がる音がした。
 「こ、こんばんは。星子です」
 言い始めからつっかえてしまい、恥ずかしさに顔が火照る。
どぎまぎしながらインターホンの返事を待っていると、目の前の自動ドアが静かに開いた。

 これは、入っていいってこと……?
 返答のないインターホンに少し違和感をおぼえたが、ドアの閉まらぬうちに、と建物の中へ足を踏み入れた。

 メモに記載されているとおり、エレベーターに乗って2階の部屋の前までやってくると、いよいよ身体中が緊張につつまれた。
 指の震えを感じながらやっとの思いで呼び鈴を押しきって、大きく深呼吸をする。
 この日のために新調したワンピース、パンプス、化粧品、それから……下着。風馬はどんな反応をしてくれるだろう。
 「平常心、平常心……」
 期待と不安にざわつく胸に、小さな声で活を入れる。
 目の前のドアが開くのを今か今かと待ちわびながら、私はじっと部屋の前に立っていた。

 「……?」
 ……しかし、待てど暮らせど、鍵が開く音はしなかった。

 先ほどの、応答のないインターホンといい、開かない部屋の鍵といい。
 ───なんだか、おかしい気がする。
 もしかして、日程を間違えた?……でも事前に何度も確認したし、そんなことはないはずだ。最後に風馬に会ったのは一昨日の夜で、あの日はお好み焼きの話題で持ちきりだったのだから、彼が予定を忘れているとも思えない。

 「……もしかして、寝てる?」
 頭に浮かんだ最後の可能性が、思わず口をついて出る。
 夜も浅い時間帯だが、あとはもう、そうとしか考えられなかった。

 はぁ、と重たいため息がこぼれ出た。
 風馬の電話番号もSNSも知らない私が今から起こせるアクションといったら、呼び鈴の連打かドアノブをガチャガチャ回してみることか。
 しかしそんな無遠慮な行為は、到底私には出来ない。
 ───せっかく、準備したのになあ。
 思わず視線を落とした先に見える、真新しいワンピースとピカピカのパンプス。その内側には、これまたまっさらな下着が控えている。
 今この瞬間目的を失ったそれらを認めて、余計に気が滅入った。

 「帰ろ……」
 幾度目かのため息とともに、開かずの扉に向かって小さく呟いた───その時だった。
 「入って」
 足取り重く帰路へつこうとした私の耳に、ノイズのかかった男の声が飛び込んできた。
 とっさに声のした方へ振り向くと、先刻押した呼び鈴が目に入った。どうやら部屋と呼び鈴を繋ぐインターホンを介して、先ほどの声は私にかけられたようだった。
 「か、鍵ってあいてるの?」
 すぐさま呼び鈴に駆け寄って返事をするが、スピーカーからは小さなノイズ音がするばかりで、そのうちプツンと切れた。

 「……あ!」
 私の中に、新たな可能性が浮かび上がってきた。
 「お好み焼き作ってて、手が離せないんだ!」
 そうか、そうに違いない。だからエントランスでも返事がなかったし、ドアの鍵も開けっぱなしにしていたに違いない。私が入ってこないから、料理の片手間にインターホンで入室を促したのだろう。
 口に出してその可能性の説得力を確認して、そうだそうだ、と一人で何度も頷いた。
 今まさに、キッチンに立って私のために調理に集中しているのであろう風馬の姿を妄想すると自然と口元が緩む。
 「……それじゃ、お邪魔しま~す」
 緩んだ口元をなんとか引き締め直し、そっとドアノブに手をかけた。

 やはりドアに鍵はかかっていなかった。
 すんなりと回ったドアノブを引いて、そろそろと中をのぞき込む。
きちんと整頓された玄関には、一足の革靴が脱ぎ散らかされていた。
 ───革靴?
 それをみて、少し不思議に思った。私は風馬が革靴を履いている姿を見たことがない。いつもラフな服装で、その足元は大体スニーカーだったように思う。
 はて、と首をかしげたが、すぐに風馬の職業が『会社員』だと聞いていたことを思い出す。
 きっと、普段は家で着替えてから『くずの家』に来ているのだろう。三和土の上で乱雑に散らばった革靴に、新たな風馬の一面を垣間見た気がしてまた顔がゆるんだ。

 「お邪魔しま~す」
 ドアを開けるときよりも、少し大きな声で同じ挨拶をしながら靴を脱ぐ。板張りの床に上がって脱いだパンプスと散らばった革靴を揃えながら「あ、靴は脱ぐから見てもらえないじゃん」と気がついた。
 並べ終わったパンプスを少し残念な思いで見つめて、「まあ帰り、見送ってくれるかもしれないし」と気を取り直した。

 ───さて、いよいよだ。
 玄関と反対方向、廊下の先の扉に目を向ける。玄関から続く一本の廊下には、途中途中に浴室やお手洗いとみられるいくつかのドアがあったが、リビングとおぼしきドアは最奥にあるそれ一つきりだった。
 ごくりとつばを飲み込んで、目的のドアに向かってゆっくり歩き出す。
 左手に持ったビニール袋、その中にはいくつかの缶ビールや缶チューハイが入っている。ここに辿り着くまで他に気を取られっぱなしで、存在すら忘れていたそれらの重みを今思い出した。

 とうとうリビングの前に行き着いた。
 ひとつ、大きく深呼吸をしながら考える。
 入るときの挨拶はどうしよう。やっぱり「お疲れ~」かな?もっと明るいほうがいい?「やっほー」とか?あ、「よっ」はどう?っていうか私って、いつも風馬にどうやって声かけてたんだっけ!?
 考えれば考えるほど混乱してきた頭を大きく横に振る。ここまで来たんだ、もう深く考えるな、自分!
 ───ええいままよ!
 目の前のドアノブを掴んで回し、勢いよく手前に引いた。

 「イエーイ!」
 私の陽気な第一声が、ドアの先にこだました。
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