死せる聖堂とガーゴイル

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ケルベロス(2)

「そんなことはどうでもいいから、聞いてくれる? 一郎」
 一郎の長話を一言で切り捨てると、妻はお腹を押さえながら言った。
「子どもの名前、決めたんだ。私に一任してくれるって話だったよね」
「う、うん。気に入った名前があるなら付けていいよ。文句つける気はないから」
 一郎は自分のこだわりよりと、お腹を痛める妻の意思を尊重したいとおもっていた。
「いろいろ考えたんだけどさ、ひとまわりして日本らしい、普通の名前にしようと思って」
「うん。いいと思うよ」
「それでね、あなたが一郎だから次郎にしようと思う」

 次郎……?

 何かに殴られたようなショックを感じ、一郎は言葉に詰まってしまった。
 かつて同名の友人を病気で亡くしたことを、妻に伝えた覚えはない。父の死と違って極めて個人的なことで話す機会もなかった。だから、妻がこの名前を付けたいと言い出したのは偶然だ。偶然に違いない。
「いい名前だね。とてもいい名前だと思うよ」
 一郎は動揺を隠しながら、そんな言葉を絞り出す。
『そなたらはいつか巡りあうであろう』
と、一郎の頭の中に、昔聞いた誰かの声が響いた。
「まさかね」
 後ろを向きながら、妻には聞こえないように呟いた。

 ドイツの夜は静かだ。夜は静けさを守るべきという習慣と規則が存在するからだ。
 一郎もそれにならい、ドイツ滞在時は静かに夜を過ごすことしている。妻も同様だ。やることがないので寝るのも早い。
「今日も早く寝よ。赤ちゃんいるとビールも飲めないしさ」
 ブツクサ言いながら、妻はベッドに横になった。まもなくすーすーと可愛い寝息が聞こえてくる。
 妻が寝静まったのを確認すると、一郎はスーツケースの奥から古ぼけたスケッチブックを取り出し机に置いた。
 パラパラとめくると、やがて父の死顔と、次郎の死に顔が出てくる。そして閻魔大王の顔も。
 死んだ人はまた人の世に生まれ変わると閻魔大王は言った。輪廻思想だ。
 一郎は生まれ変わりなど信じない。むしろ死ぬことで訪れるのは無だと信じている。
「でも愛しい人が死んだときは、みんな願ってきたんだよね。またこの世界に戻ってきて欲しいって」
 母に会いたくて黄泉路を降ったスサノオも、輪廻を信じた仏教徒も。妻を迎えに冥府に向かったオルフェウスという詩人もいる。
 一郎も今だけは、次郎の冥府からの帰還できることを祈りたいと思った。
 久しぶりに絵を描きたい。
 一郎はテーブルの上に転がっていたサインペンを手に取った。
 スケッチブックに絵を描いてみる。元気に黄泉路をかけ戻ってくる次郎の絵を。
 しかし、次郎の胸元あたりまで描いたところで、スケッチブックをはみ出した。一郎が描きたいものを描ききるには、スケッチブックでは小さすぎる。
 顔を上げると、白い漆喰の壁が見えた。
 躊躇したのも一瞬のこと。怒られることは覚悟の上で、一郎はサインペンを壁の上に走らせた。
 厳しい顔の地獄の王。そして牙を剥き出しにする地獄の番犬たち。それらを躱しながら力強く黄泉路を駆け上る次郎の姿。
 いろいろなイメージが一郎の中で混ざり合う。西洋なのか東洋なのか、写実的なのか幻想的なのか定かではない不思議な世界が白い壁の上に展開されていく。
 10年振りのブランクを気にすることもなく、一郎は渾身の力で絵を描き続けた。
 やがて夜が明ける。窓から燐光が差し込み次郎の顔を照らす。
 その目は強い意志に満ちて、まっすぐに正面、つまりこの世の方向を向いていた。
「死なずに戻ってこいよ、次郎」
 ペンを置いた一郎は、絵の中の次郎に語りかける。答えなど期待していなかったが、
「まかせとけ。待ってろよ、理杏」
と、絵の中の次郎がはっきりと答えた。
「待ってるよ。楽しみにしてる」
 一郎もはっきりと答えた。
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