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ぼくはこんなに好きなのにⅠ

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 古めかしいアパートの階段を、吉田よしだすすむは深夜にリズムよく降りていた。もちろん他7つの部屋の住民にカンカンカンカン音が響く。
 しかし彼の独善的な足のリズムはそう言った外的要因を受け付けない。手すりが錆び付いている事もお構いなしに吉田は陽気に仕事場に向かおうとしていた。
 顔は朗らか、足はステップを踏むように、彼は全身で今を楽しんだ。彼は恋をしているのだ。
 夜の歩道に彼の鼻声が鳴る。汚れきった彼の青い清掃服は皺が無くなり、心なしか色まで鮮やかになった様だ。
 その吉田は5歩ごとにスマートフォンをチェックしていた。恋人からの返信待ちだ。意中の相手とはLINEを使って連絡している。
 吉田のLINEの友達リストに登録されているのはわずか5人。
 1父親、2母親、3職場、4公式アカウント
 そして5番目が恋焦がれるあの人だった。
 返信はまだない。
 吉田は彼女が有名企業に勤めていて多忙であることを知っている。それなのに深夜にレスポンスがあるのではないかと期待していた。
 清掃バイトの自分と美しい彼女は釣り合わない。
 しかし彼女の事が好きなのだ。この気持ちは必ず伝わる。吉田は常々そう考えていた。
 大股で歩道を歩く吉田に向かって視線が飛んだ。正面から向かってくる長髪の男の視線だった。
 背は175㎝程で吉田より遥かに大きい。薄く開いた目は鋭くこちらを睨み、口元を微かに痙攣させている。
 吉田は背中に冷や汗をかいた。殴り合いのケンカなどしたことの無い男であるから、こういった場面には慣れていない。
 それでも吉田は堂々と歩いた。
 結果としてすれ違いざま小さく舌打ちされただけで事は済んだ。
 吉田は困難に打ち勝ったことを喜んだ。恋の力が自分を成長させたのだ。恋、万歳! この出来事をLINEで彼女に報告しようか? そんな風に考えて今度はスキップ交じりにバイト先へ向かって行った。
 現場に着くと先輩が手を振って挨拶をしてくれた。
「アラ、吉田くん髪型変えた? 似合うわよ」
 この独身の中年女性は吉田を可愛がってくれていたので、以前の生えるまま生えたみすぼらしい髪形から現在の爽やかなツーブロックに変えた事を褒めたのだ。息子や甥っ子を見る目で吉田の事を気にかけているのかもしれない。
「そうですか? 良かった。自信が付きましたよ」
 当然、例の彼女に見てもらうための自信である。この髪型にしたのも彼女を意識しての事だった。
 彼女はどのように褒めてくれるだろう?
 吉田は先輩と共にモップを取って仕事を始めた。
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