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ぼくはこんなに好きなのにⅡ

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 彼氏と別れてから何年経っただろう。
 山崎やまざきハルは自分の企画が採用されるのを確信した後、一人でこっそり考えた。そして一人で考える事に慣れている自分を見つけて心の中で自分を笑った。
 女に彼氏は必須だろうか? 否である。
 働くことを楽しいと感じつつも、休日は美術館や書店をめぐりワークライフバランスにも気を遣えている。
 自分をコントロールするためには自分ひとりで生きる方が良い。これがハルの人生に対する回答だった。
「じゃあ、ハルさんの企画でいってみましょう」
 ハルにとってこの瞬間こそ最大の快楽だった。
「ありがとうございます。先輩方の力もあって企画を出せました。上手くいくか分かりませんが頑張ります」
 当然のことながら、上手くできる確信があった。それなの下手したてに出るのは自分が25歳であり、この点が先輩連中に攻撃されやすいと分かっているからだ。
 トイレへ行くと「ハルって子、若いのにバリキャリって感じね。きっと処女だわ」と洗面台で化粧を直している3人組に笑われていた。
 あれほど気を使っても敵はできてしまうものだった。往々にしてその敵は徒党を組んだ無能な恋愛至上主義者たちだ。     
 ハルは堂々とトイレに入った。するとアリの群れはどこかに逃げた。
 終業が近づくとハルはいつもノートを付ける。タスクの達成度や同僚の反応などを書き留めるためだ。
「今日もハル・ノート?」
 話しかけてきたのは清水明人しみず あきとというハルと仲の良い同僚だった。彼は背が高く清潔感があり仕事もできるので社内での評判が良い。
「やめてよ。なんだか私、悪者みたい。名前は同じだけど良い文書じゃなかったはずよ」
 ハル・ノートというのは第2次大戦前、アメリカのハル国務長官が日本に向けて書いた覚書で、日米開戦の原因の一つだった。
 清水は日本史が好きでハルは西洋美術史が好きだった。
 この2人に恋愛感情は全くない。
「今日もどこかで飲む?」
 自然な流れでハルが誘った。
「うん。飲もう。最近気になる絵画とか教えてよ」
 爽やかな笑顔で清水が答えた。彼は今年で29になる。
「あっ、ちょっといい?」
 通知音がした。連絡してきたのは吉田進だ。
 適当にメッセージを返しているうちに会話が続いてしまっていた。
 清水が以前、連絡を完全に無視されるのはやはり悲しいと言っていた。その事を思い出し、ハルは“いいね!”と書いて笑顔の絵文字を付けて返した。
 いい年をした男なら、その気が無い事に気付くだろう。
 終業後、ハルと清水は居酒屋へ向かって歩いて行った。
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