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吸血鬼の記憶
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わたしは後産の胎盤に包まって生まれてきたそうです。赤い羊膜に包まれて生まれた子は成長すると吸血鬼になるという言い伝えがあるそうで、そんなとき、産婆は生まれた子をすぐに外に連れだして、こう宣言しなければならないのだとか。
「魔物が生まれたよ。でも悪さをする魔物ではなくて、幸せを運んでくる子供だよ」
と。こう言うと、子供は大きくなっても吸血鬼にならないのだそうです。
けれど祖母は、ずっと欲しかった女の赤ちゃんを魔物だなんて呼ぶことができず、外には連れだしたものの、大きな声でこう言ってしまったのだとか。
「可愛い女の子が生まれたよ。たとえ魔物であったって、あたしたちに幸せをくれる可愛い孫だよ」
と。
わたしたちが暮らすのはノイシュガット連峰の山腹。祖父はなんとかいう領主さまから山を守る役目を仰せつかっていて、森のただなかの家にはわたしたちの家族だけが暮らしていました。
いつも草をふかしている祖父、家のなかにいるとき彼の背は曲がっていましたが、山に入ると家族のだれよりも大きい背中になるのです。祖母は尖った鼻をしていて、料理はとても上手なのですが、母とは互いにやることなすこと気に入らないらしく、いつも口論になります。
父は祖父母の息子で、五人兄弟のうち無事に育ったのは父だけだということでした。いつもおとなしく祖父の後ろについて歩き、家のなかでも滅多に口をききません。が、木を彫るのはとても上手で、わたしの見たところ、彼の作るものは彼の言葉よりも雄弁なようでした――とくに、怒った母の顔なぞが彫りあがったときは。母は父のことをとても好きなのですが、好きすぎるから祖母とは気が合わないのだそうです。つまり、取りあいになるのですね。母はきれいな金髪を自慢にしていて、小さな手鏡を覗きながらそれを梳いている様子を眺めるのが、わたしはとても好きでした。母は器用に編みもの縫いものをして、家のなかはいつも洒落た雰囲気に包まれていました。それがまた質素を旨とする祖母の気に入らないのですが、わたしは祖母の料理も母の縫いものも大好きだというと、二人とも一時休戦をしてくれます。
そして、兄が二人。わたしよりも五つと六つ年上なのですが、双子のように同じ顔をしています。二人とも父よりも祖父を尊敬しているのですが、たまに若者らしく無鉄砲なふるまいをするようです。けれどそうしたふるまいは、祖父がなにを言わなくとも彼らの身に報いを振りかけるので、そういうとき祖父は「これでわかったろう」と重々しく言うのでした。
幼いころ、わたしはよく一人で遊んでいました。いちばん古い記憶は、父が納屋で木彫りに夢中になっているそばで、木っ端で遊んでいたときのことです。外をいつもよりも明るく感じました。納屋の正面にある枝を広げた木の下に誰かいます。わたしはその人をじっと見つめました。はじめて見る、家族以外の人。体が大きく、黒く裾の長い衣装をまとっています。声をかけたら消えてしまいそう。わたしは父を見つめましたが、父はわたしに目をくれません。「お父さん」そっと声をかけましたが、返事もありませんでした。父は夢中になると、周りのことが目にも耳にも入らなくなってしまうのです。そこでわたしは木っ端を放りだして、外に向かいました。その人のそばに近づきます。その人は優しそうに目を細めて、わたしが来るのを待っていました。
「こんにちは」
わたしが声をかけると、その人は微笑みます。
「僕が見えるの」
「見えるわ。どっから来たの?」
「遠くのほう。きみは?」
「わたし、ここよ」
家を指さすと、その人は大きく頷きました。
「じゃあ、僕を招待してくれるかな。長く旅をしてきて、休みたいんだ」
「うん。おいで」
わたしには見知らぬ人を警戒するという気持ちがありませんでした。なにしろ、家族以外の人に会ったのははじめてだったのですから。それに、その人の目はとても優しくて、にこにこしていたので、ちっとも怖くなかったのです。
母屋の戸は、昼のあいだずっと開けっぱなしになっています。母と祖母がなかにいるはずでした。
「おばあさん、お母さん」
わたしは台所に飛びこみましたが、家のなかはしんとしています。空気はほのかに温かく、かまどでは鍋がコトコト煮立っていて、祖母は床に倒れていました。テーブルは粉だらけで、母はこねかけのパン生地に顔を突っ伏しています。とても静かでした。わたしはなぜみんなが寝ているのかわからず、倒れた祖母のそばにしゃがみこみました。すると、あの人が戸の外で言うのです。
「この、枝は外したほうがいい。棘があるから危ないよ」
その人が指さしたのは、鴨居に挿しているサンザシの枝でした。祖父が時おり山で折ってきて取りかえるのですが、ここしばらくは取り替えていなかったので、瑞々しさが失せてすっかり茶色くなっています。わたしは鴨居を見あげて、言いました。
「手が届かないわ。おじいさんが帰ってきたら、外してねってお願いする」
「きみでも手が届くよ。あの、椅子をとってくるといい」
その人がひょいと手を伸ばせば枝は取れるはずですが、わたしは頼りにされているようですっかり嬉しくなり、テーブルのそばにある自分の椅子をつかみました。ところがそれは、あとになって気づいたのですが、父はわたしが椅子ごと倒れたりしないようにと工夫して、脚を床に打ちつけておいたのです。わたしが動かない椅子と格闘していると、外で大きな声がしました。怒鳴りつけるような、怒っているような、怖い声です。わたしはびくりとして、とっさに椅子に隠れました。すると、明るい外から、サンザシの枝束をつかんだ祖父が大股に入ってきて、
「レジーナ! ミリア!」
祖母と母の名を叫びます。すると倒れていた祖母がむっくり起きあがりました。
「おや、おじいさん。ずいぶんはやいお帰りだね」
目を擦る祖母に呆れたように見つめ、祖父は母を振り向きました。母も目が覚めたようで、パン生地から顔をあげたのですが、顔が粉だらけで真っ白です。わたしがぷっと吹きだすと、おじいさんがわたしに気づいて、抱きあげてくれました。おじいさんの体から瑞々しい枝の匂いが強く香ります。
「おちびさん、かくれんぼかね」
「そうじゃないわ、おじいさん。あのね」
「うん?」
話すことはたくさんあったはずなのです。はじめて会ったよその人のこととか、鴨居の枝のこととか、動かない椅子のこととか。けれどわたしは幼すぎたのでしょうか、祖父に話すべきことをすっかり忘れてしまって、眠たげに目をこすりました。祖父が小脇に抱えている枝の棘が膝にちくちくと刺さります。
「痛いわ」
わたしが訴えると、祖父は枝を床に置いて、わたしを抱いて椅子に腰かけました。「おねむかね」と囁く祖父の口はやにの臭いがします。祖父が背を丸めて膝を揺らすと、皮脂の沁みたシャツの胸にすっぽり包まれたわたしの瞼は、次第に重くなってきました。
「おちびさん、夢魔に気をおつけ。あれはいつでも人の家にあがろうと狙っているからね、知らない人を家に招きいれてはいけないよ」
「夢魔ってなあに、おじいさん」
「魔物のことさ。人を眠らせて、心臓から血を吸うのだよ」
「怖いのね」
「心配ない。入口にサンザシを挿しておけば、魔物は家に入ってこられないものだよ。だからおちびさんも、ついうっかりでもサンザシを抜き取ったりなどしてはいけないよ」
祖父はまるで、わたしがなにをしようとしたのか知っていたように言います。わたしは頷いたものの、それ以上起きていられずに祖父の膝で眠ってしまいました。
その後も相変わらずわたしは家族のなかでいちばんおちびさんでしたが、自然と祖父がわたしを膝に抱きあげることはなくなりました。十歳の誕生日に父はわたしのためにベッドをつくり、それまで折り重なるように眠っていた兄たちの寝台から解放されることになったのです。家族のなかで、わたしだけが自分用の寝台。それは自分が特別になったようで、とても嬉しいことでしたが、はしゃいでいられたのは、母が刺繍をしてくれたカバーにもぐりこみ、家のなかがすっかり暗くなってしまうまでのことでした。
兄たちのベッドでは、真夜中までひそひそ話す声が聞こえていたものでしたが、自分のベッドのなかではそれがないのです。くすぐられたり、お腹に足をのせられたりすることもない代わりに、シーツはひどく冷たく、周りの闇はとても深く感じられました。目を閉じて、眠ろうと必死になるのですが、どうしても寝つけません。わたしは裸足で寝台からそっと降りました。
祖父母は台所で眠っていて、父母は納屋で眠っています。兄たちの寝台は、それまで部屋の真ん中にあったものを窓際に寄せて、わたしの小さな寝台は壁際にありました。数歩近づけば、兄たちの寝台に飛びこめるのです。ひたり、ひたり、わたしは足音を忍ばせて兄たちの寝台に近づきました。二人とも折り重なるように眠っていて、毛布は体にしっかり巻きついており、入りこむ隙が見つかりません。私は溜息をついて、ふと、窓に顔を向けました。
いつもよりずいぶんと明るいのです。いつもぴったりと閉ざしている板戸が、そのときは上のほうに持ちあがっていて、鹿の角を薄く削いで貼りつけている窓の向こうは黄色く透けて見えます。わたしは窓に額をつけて、向こう側に目を凝らしました。
すると、声がするのです。
「こんにちは」
兄たちと同じくらい、若い男の声です。
「いまはこんにちは、じゃないわ。夜中ですもの」
「昼と同じくらいに月が明るいよ。出ておいで」
「どなた?」
わたしは訊ねました。名乗りもしない相手のために窓を開けたりしないという、その程度の知恵はついてきたのです。すると、相手はこう言いました。
「僕が見えるかな、小さなきみ」
ぱあっと、それまで忘れていたことを思いだしたのです。まるで昔よく見た夢を、数年ぶりに見た瞬間に思いだすように。わたしは窓に口を寄せて、囁きました。
「サンザシの枝は外せないわ。魔除けだから、おじいさんが外しちゃだめって言うの」
魔除けだと、自分が口にした言葉にひっかかりを覚えましたが、相手は陽気に答えます。
「だったらきみが出ておいで。ベッドに入っていても眠れないんだろう、たくさん遊んで、疲れたらぐっすり眠れるようになるよ」
「だめ、台所にはおじいさんもおばあさんもいるから、戸を開けたらすぐに気づかれるわ」
「この窓を開けて。そうしたら、抱きあげて出してあげる」
わたしの心に、ふと不安が過ぎりました。
「待って。あなたは魔物じゃないかしら。この窓を開けたとたんに心臓から血を吸いとってしまうつもりでしょう」
すると、窓の向こうの人は軽やかな笑い声をたてます。
「そんなことはしないよ。ただ、きみと遊びたいだけなんだ」
「決して血を吸ったりしない?」
「――しない。約束する」
「あなたの名前を教えて」
「窓を開けてくれたら教えてあげる」
このときには、わたしの小さな心臓はどきどき鼓動を打ちながらも、気持ちを決めてしまっていたのです。目覚めているときは、祖父母と父母と、兄たちしかいない狭い世界。夜、眠りにつくときだけ知ることのできる世界がありました。それはとても広く、どこまででも行くことのできる世界です。そこでわたしを導いてくれるのはきまって、軽やかによく笑う、陽気な声の持ち主の青年なのでした。
わたしがなかなか窓を開けないので、ひとつ間をおいて、彼が言いました。
「僕の名前はオーエン。詩人のオーエンだよ」
わたしはもどかしく窓の掛け金を外しました。夜風がわたしの癖っ毛をそっと撫でます。オーエンは昔のまま――わたしが幼い頃に会ったときの姿とまったく同じ姿格好で立っていました。黒い、長い髪が風に吹かれて揺れています。家のだれよりも背が高く、面立ちはほっそりしていて白いのに、肩幅は広いのです。裾の長い外套もまた、闇に溶けるような黒色。年齢は、兄たちより年上なのは確かなのですが、どれくらいでしょうか。兄たちのベッドに膝立ちになって見とれていると、オーエンは両手を伸ばしてわたしを抱きあげました。あまりにも軽々と持ちあげるので、わたしは自分が一人で浮いているのではないかという錯覚を起こします。オーエンは両腕を高くあげてわたしを下から見つめます。少し欠けた月が彼の瞳に浮かんでいました。鮮やかな赤は、まるでわたしの大好きなナナカマドの実のようです。
「オーエン、なにをして遊ぶ?」
「そうだな。きみはなにをして遊ぶのが好き?」
「その木の向こうにぶらんこがあるわ」
二本の木の丈夫な枝に蔓をかけたぶらんこは、兄たちからの贈りものでした。なにしろわたしは家の仕事の手伝いにしじゅう追われていて、たまに兄たちの真似をして木登りをしようものなら、祖母と母がすかさず気配を嗅ぎつけて、やれ女の子は体に傷をつくってはいけないだの、マイアがこんなにおてんばなのはだれのせいだのとやかましいことになるので、兄たちからもすっかり憐れまれていたようです。家からは見えない木の陰に、ぶらんこ。わたしは祖母と母の目の届かないところで、いつそれで遊ぼうかとわくわくしていたのでした。
オーエンはわたしをいっぺんも地面に下ろさず、ぶらんこにそっと座らせました。彼は手袋をはめていて、黒い革の擦れあう指でブランコの蔓をつかみます。
「そっと揺らす? それとも、大きく揺らす?」
「はじめはそっとして。でもわたしが頼んだら、大きく揺らしてね」
オーエンはおかしそうに頷きました。わたしは蔓をしっかりつかんで、「行くわよ」と身構えます。ぶらんこが揺れはじめました。体がふわりと浮いて、引き戻され、今度は放りだされるような不思議な感覚。
「もっと高くして! もっと!」
わたしは夢中になって叫びました。仰向いて空に近づくとき、それまで見たこともないほど月が大きく見え、下を向いて引き戻されるときは、生まれてはじめての高さから濡れた地面を見つめているのです。オーエンは実に根気よくわたしの遊びにつきあってくれましたが、夢中になりすぎたわたしの意識がぼうっとしてきて、蔓をつかむ手の力が緩んだのに気づいたのでしょう。ぶらんこは次第に揺れを小さくして、完全に止まりました。わたしは夢見心地でオーエンに訊ねます。
「次はあなたね?」
「ほっぺたが真っ赤だよ。こうして休もうか、小さなきみ」
オーエンはわたしの頬から髪をのけると、そのままひょいと抱きあげて、わたしを膝にのせたままぶらんこに腰かけました。だれかの膝に座るなんて何年ぶりでしょうか。乱れた髪を手で撫でつけられているあいだ、わたしは頬を膨らませずにいられませんでした。
「子供扱いはしないで」
オーエンは手をとめて、わたしの目をじっと見つめます。
「大人の男が、きれいな女性をこんなふうに膝にのせたりすることもあるものさ」
「そうなの?」
すっかり自分がきれいな女性扱いされた気分になって、わたしは機嫌を直しました。オーエンの太股は硬くて、わたしの体を支える腕はぎこちないのですが、それが祖父や父との違いを感じさせて、わたしにとっては嬉しいのです。彼の胸にもたれて、ぶらんこのかすかな揺れに身を任せていると、歌声が聞こえました。
かわいいきみ、小さな子 僕はきみの生まれたばかりの姿を見た
年頃の娘になったきみを愛したい
ああ、でも、白髪のおばあさんになるまできみと年を重ねたいのに
それはかなわないのだ、悲しいことに!
オーエンの歌声は眠気を誘うほど心地よいのですが、歌詞がなぜなのか悲しく感じられたので、わたしはうとうとしそうになるのを堪えて言いました。
「オーエン、ぶらんこを漕ぐといいわ。いつもよりずっと高いところから周りを見たら、ちっぽけな悲しいことなんて忘れてしまいそうよ」
「ちっぽけな悲しいことって、どんなことだろう」
オーエンが笑いを含んだ声で問い返します。心を読まれてしまったような気がして、顔が熱くなるのを感じながら、わたしはオーエンの服の胸元をつかみました。
「……だれにも言わない?」
「もちろん、約束する」
窓を開ける前に約束したとおり、オーエンはわたしの心臓から血を吸っていません。だから、彼の約束という言葉に疑いは持ちませんでした。ただ、わたしの感じている悲しいことは漠然としすぎていて、言葉にしづらかったのです。
「あのね、わたし、一人用のベッドを貰ったの」
「十歳の誕生日に、お父さんが作ってくれたんだね」
なぜオーエンが、わたしの誕生日や父のことを知っているのかということを不思議に思わず、わたしは頷きました。
「お兄さんたちに押しつぶされて眠るのがいやで、わたしだけのベッドがほしいって、ずっとねだっていたの。だから、ベッドを貰ってとっても嬉しいはずなのに、もうお兄さんたちのところに戻れないんだなあってことが悲しいのよ」
「大人になったってことさ」
「おじいさんはわたしを抱っこすると腰が痛くなるから、もうできないんですって」
「大きくなったっていうことさ」
「それが悲しいのよ、わたし。おかしい?」
「おかしくはないよ。大きくなったらもう、幼くなれない。みんなは年をとっていく。赤ん坊のように甘えられるときは二度とこない。それは悲しいだろうね」
オーエンはぶらんこの蔓を握っていた手も外して、わたしを両腕で抱きしめました。足だけでゆらり、ゆらり、とぶらんこを揺らします。まるで彼の腕に抱かれながら、水の上を漂っているよう。彼はいつまでこうしていてくれるんだろう。不安になりかけたわたしに、オーエンが囁きました。
「大人にならない世界に連れていってあげようか?」
キィ、キィ、と蔓と枝が擦れあいます。オーエンの胸に耳をあてても、おじいさんのような鼓動が聞こえてきません。わたしは首をよじり、彼の顔を見あげました。
「そんなところ、ないわ」
「あるんだよ。お空をずっと越えていったところに」
「オーエンはお空を飛べるの?」
「飛べるさ。連れていってほしい?」
「うん」
わたしが頷くと、オーエンは嬉しそうに笑いました。「しっかりつかまっていて」と、片腕でぶらんこの蔓をつかみ、揺らしはじめます。ふわりと浮いて、引き戻され、どんどん空が近くなっていきます。とうとうぶらんこの高さが木の枝を越えてしまった瞬間、オーエンは蔓から手を離し、空に飛びあがりました。
ぶらんこから放りだされた勢いのまま、わたしたちは木々のてっぺんを超え、ぐんぐん遠ざかる黒い緑を見おろします。家の屋根が小さくなっていきます。空には月、それから細かい星が月を囲んで、瞬いていました。ノイシュガッテンの山の峰を越えてしまうと、わたしたちはちょうど空と地上の真ん中あたりを漂っているのです。
「あれはなに、オーエン」
ほのかに月光に照らされた塔をわたしは指さしました。オーエンは肩越しに振り向いて、いやな顔をします。
「あれはノイシュガット城さ。できそこないの吸血鬼が寝床にしている」
「あれはなに、オーエン」
遠くの山の峰が、ちらちらと赤く光っています。
「魔女の宴さ。ああやって火を焚いて、一晩じゅう踊りつづけるんだ」
「行ってみたいわ、楽しそう」
「おおせのままに」
オーエンが空を軽く蹴ると、わたしたちは弧を描くようにその山頂に近づきました。枯れ木をそのまま組みあわせたような大きな焚火がめらめらと燃えています。その周りで踊るのは、裸足の女たち。長い髪を振り乱し、両手をあげたり下げたりしながら火の周りを飛び跳ねるのです。
燃えろ、燃えろ、夜空を焦がせ
お月さまを焦がせ、闇夜を好むおかたのために!
目を凝らすと焚火にくべられたものの影が見えます。丸のままの豚に山羊、羊と……なんだかわからない四足の生きもの。タールの臭いが鼻や口にまとわりついてきました。魔女たちはけらけら笑いながら、それが焼きあがるのを待っているらしいのです。わたしは顔を背け、オーエンにしがみつきました。
「もういいわ、お家に帰る」
「これから、大人にならない世界に行くんだよ?」
「それは明日にするわ。今日はもう帰りたい」
「僕のお城で眠るといい。従順な百人の召使がきみの世話をしてくれるよ。強い百人の兵隊がきみを守ってくれる。王様はぼく。お妃さまはきみ。ねえ、きみが僕のお城に来てくれたら、僕はきみのためになんでもするよ」
オーエンの言葉はとても優しいのですが、わたしは悲しくなるいっぽうで、眦に涙を滲ませました。
「ねえ、かわいいきみ、お願いだから……」
すっかり困り果てた様子のオーエンが、手袋をはめた手でわたしの涙をすくいます。わたしはいやいやと首を横に振りました。
「お父さんのベッドで眠りたいの。ほかのベッドじゃいや」
「じゃあ、きみのベッドを僕の城に運ぼう。それでどう?」
彼は、わたしを家に帰してくれる気なんてないのです。もう二度とあのお家には帰れないのです。とうとうわたしは大きな声で泣きだしました。わたしの頬を伝い落ちた涙は小さな雨雫となって、魔女たちの焚火の上に振りかかります。魔女たちが踊りをやめて、わたしたちを見あげ、ひそひそと話をはじめました。木を爪でひっかくようなきいきい声の合間から、一つの言葉が耳に飛びこんできました。
「クドラク!」
魔女たちは尖った爪でオーエンを指さし、そう言ったようです。わたしは泣くのを忘れて、濡れた目を瞬かせました。
「クドラク……?」
オーエンの腕にぎゅっと力がこもります。まるでわたしに顔を見られるのを恐れるように、彼はわたしの顔を胸に押しつけました。手袋越しに、彼の爪が寝間着に食いこみます。とても尖っていて、固い爪。下に引っぱられるような感覚があって、気がつくと、わたしはオーエンの膝でぶらんこに揺られていました。
わたしたちはずっとぶらんこに乗っていて、わたしが夢を見たのか、彼が見せてくれた夢だったのか。あくびをするわたしを抱きしめ、揺らしながら、オーエンはわたしの頬にキスしました。
「ねえ、きみ、小さな子。きみの涙は塩辛くて、色がついていないんだね」
「ええ、そうよ。だって涙ですもの」
わたしが言うと、オーエンは困ったように微笑みました。
「きみはまだ幼かったんだものね、泣かせてごめんよ。もしも僕を許してくれるのなら、またこんなふうに、ぶらんこに乗って遊んでくれる?」
「ええ、いいわ。オーエン、クドラクってなあに?」
何気なく訊ねただけなのに、オーエンはぶるりと身を震わせました。「クドラクは……」と、説明をしかけたものの、急に口を噤んで立ちあがります。わたしは一人、ぶらんこの上に残されました。オーエンはわたしに背を向けて、遠ざかろうとします。
「オーエン! 訊いちゃいけないことだったのなら、もう言わないわ。また遊びましょうよ、どこへ行くの?」
「……迎えにくる」
オーエンは黒い革手袋で顔を隠したまま、わたしを振り向き、うなるようなくぐもった声で言いました。
「五年待ち、五年待った。もう五年待てる。小さなきみ、五年たったら僕のお城に来て、お妃になってくれる?」
わたしはお妃の言葉の意味も知らなかったのですが、オーエンがずいぶん苦しそうだったので、これ以上苦しめたくなくて言いました。
「ええ、約束するわ」
そのときのわたしにとって、五年は遠い未来のことだったのです。けれど、こう付け加えるのは忘れませんでした。
「でも、血を吸ったりするのはなしよ」
「わかった。約束する」
手袋に隠れて、オーエンは笑ったようでした。わたしが惹かれた陽気な声。けれどそれは少し困ったようでもあるのです。わたしは自分でぶらんこを揺らしながら、オーエンの背中を見送りました。彼にとっての『ちっぽけな悲しいこと』はなんだろう、と考えているうちに眠ってしまったようです。夜中に、用を足すために目を覚ました祖父が、わたしがいないことに気づいて家族みんなを起こしました。そしてぶらんこに絡まりながら眠っているわたしを見つけてくれたのです。
「まったく。十歳にもなると女の子は、こんなにも人騒がせな真似をしでかすのか」
怒りながらわたしを抱きあげてくれたのは、おじいさんの腕です。昔のように軽々とではなく、節くれだった指には痛いくらい力がこもっていました。おじいさんの鼓動が、とく、とく、と聞こえます。わたしは家族みんなが心配しているのにも関わらず、夢うつつで訊ねました。
「おじいさん、クドラクってなあに?」
祖父がひゅうっと息を吸いました。父と兄たちに、灯りを持って家の周りを見回るように命じると、祖父自身はわたしを抱いたまま家のなかに入ります。冷たい寝台にわたしを横たわらせた祖父の目は、とても厳しく光っていました。
「おじいさん……クドラクって……」
「しっ。口を閉じなさい。おまえが呼んだのは、悪い魔物のなかでもいちばん強い親玉のことなのだよ」
それから祖父は心配そうに、わたしの額を撫でました。
「おまえはその名をどこで知ったのだい」
「山のてっぺんで、焚火を囲んだ魔女たちが呼んだのよ」
「それはサバトというものだ。魔女たちが親玉へのいけにえに、動物や、人の子供を捧げたりするのだよ。おまえはその集まりに加わらなかったろうね」
「ええ。だって、とても眠かったのだもの」
わたしは小さくあくびをしました。そのとき、見周りを終えた父たちが戻ってきて、窓の板戸のかんぬきが外れてしまっていたと言います。それから兄の一人は、大きな黒い狼の影を見たのだと言い張りましたが、父はそれは灯りのせいで自分の影を見たのだろうと、相手にしませんでした。その口論のときには、わたしはすっかり寝入っていて、オーエンやクドラクや魔女の集まりの記憶などはすべて、新しい夢に塗りこまれてしまったのでした。
それからの日々は淡々と過ぎました。周りのものは幼い頃のように眩しくはなくなり、朝は水汲み、山羊の乳を搾り、チーズをつくり、パンをこね、糸を紡ぐだけで一日は終わります。ほんのときたまぶらんこに座ってみるものの、いくら揺らしても自分の望むくらいに高くあがらないのにがっかりして、すぐにやめてしまうのでした。
わたしが十四歳になったとき、二十歳になる上の兄にお嫁さんがくることになりました。山をひとつ越えたところにある村の、粉ひきのお嬢さんだそうです。いまある家だけでは手狭なので、父と兄とで協力しあって離れを建てることになりました。祖母も賛成しましたが、母は家族が離れて住むなんて、とぶつぶつ言っています。
それは、暑い夏のこと。離れは四方の壁ができあがって、屋根をかけはじめたところでした。日中の仕事を終えた父が、ふらふらしながら家に戻ってきます。無精髭を生やした頬は真っ赤で、目は焦点が合わず潤んでいました。
「今日は寒いな」
家のなかもお湯に浸かっているようなのに、父は肘をさすりながら言いました。
「そりゃあ屋根の上よりは、家のなかのほうが涼しいのかもしれないわ、お父さん」
「ひどく寒いんだ」
父は体を小さくして身を震わせています。彼の周りに陽炎のようなものが見えた気がして、わたしは父の背に触れました。シャツはぐっしょり濡れそぼっています。そして、体は燃えるように熱いのです。
「大変だわ、お父さん、病気なのじゃないの。お母さん、おばあちゃん来て!」
台所から飛びだしてきた祖母と母が、あっというまに父を着替えさせて寝かしつけました。お父さんったら張りきりすぎたのね、すぐに治るわ。その晩はそんな会話が交わされましたが、翌日になると、今度は祖母が同じように体を震わせて起きられなくなったのです。その午後には母が熱を出しました。母が倒れたとき、そばにいた上の兄がいきなり外に飛びだしました。
「どこへ行くの、お兄さん」
「伝染病だ!」
兄は叫びました。
「ここにいたらみんな死ぬ。だめだ、おれはカトリーヌのところへ行く!」
カトリーヌとは、兄の婚約者のことです。
「でも、お兄さんがいなくなったら、どうしたらいいの……」
祖母も母も父も病気なのです。祖父と下の兄は新居に必要なものを買うために出かけていて、あと数日は帰らないはずでした。
「どうでもいい……いや、そうだ、助けを呼んでくる。おまえはいい子で待っていろよ、ついてくるんじゃないぞ、いいな!」
兄は強く言いおいて、駆けていってしまいました。追って行こうにも、わたしは森の抜けかたを知りませんし、もちろん父たちをおいてはいけません。しょんぼりと家のなかに戻り、祖母が風邪のときに飲ませてくれる薬草を煎じて、みんなの口に少しずつ含ませました。
絶望という言葉の意味を知ったのは、その夜のことです。真夜中に、戸を叩く音がしました。のぞき窓から確かめると、祖父が帰ってきたのです。
「おじいさん!」
戸を開くなり、わたしは祖父に抱きつきました。祖父は一人きりで、下の兄はいないようです。祖父は難しい顔をして、祖父や母や父の顔を一人一人覗きこむと、溜息をついて椅子に腰を下ろしました。
「黒死病だ」
祖父は節くれだった指を組みあわせ、顔を埋めます。
「おじいさん。小さいお兄さんは一緒じゃないの……?」
「こんなことならば、連れて帰ってやればよかった」
祖父は首を大きく横に振ると、手を伸ばして、わたしをそばに引きよせました。
「おまえはまだ元気なのだね。布団を持って新しい家に行きなさい。おばあさんたちの世話はわしに任せて、わかったね?」
「おじいさん、手が熱いわ」
「気のせいだ」
祖父は慌てたようにわたしから手を離すと、手のひらに顔を埋めて、うめくように言いました。
「気のせいだとも……」
次の朝、祖母が死にました。埋葬する穴を掘る祖父を手伝うために父が起きてきて、二人で堀り広げた穴は、祖母一人を埋葬するにはあまりに大きすぎるものでした。体のあちこちを黒ずませた祖母の遺骸を、母とわたしできれいに拭き、とっておきの服を着せかけましたが、棺をつくろうとはだれも言いだせませんでした。
翌々日に母が亡くなり、その夜に父が。父が亡くなったときは、わたしと祖父は視線を交わしただけで、遺骸をシーツにくるんでそれぞれのベッドに引きとりました。
十歳の誕生日に、父が贈ってくれたベッド。父はわたしがあまり大きくならないと知っていたのでしょうか、十四歳になったいま横たわると、頭の先と爪先とでぴったり長さが収まるのです。
服を脱いだわたしは、腕に黒い班ができているのに気づきました。首がずっと絞められているように息苦しかったのは、やはり気分のせいだけではなかったようです。わたしは寝間着に着換えると、そっと父母の部屋に忍びこみ、母の櫛と、祖母が母に贈った手鏡を拝借してきました。兄たちのベッドに腰を下ろすと、窓を開け、月明かりを頼りに手鏡に姿を映し、髪を梳かします。祖母譲りの薄茶色の髪は櫛に従ってごっそりと抜けました。それでも、曇った鏡に映るわたしの顔は、月明かりの助けもあってとてもきれいなのです。わたしは毛布をかけずに寝台に横になり、胸のまえで手を組みあわせました。こんなふうに死んだわたしを、だれがいちばん先に見つけてくれるでしょうか。閉じた瞼から涙が溢れ、頬を伝います。
あとからあとから溢れる涙を拭う指の存在を感じたのは、どれほどの時間が過ぎたときだったでしょう。
「なんてことだ……」
その声を聞いた瞬間に、わたしは子供の頃に見た夢のことを思いだしました。
「オーエン……?」
組んだ手を解いて、頬に触れる手に重ねます。革手袋の感触は忘れようのないものでした。さらり、と長い髪が瞼を撫ぜたので、わたしは目を瞬かせました。視界を覆う顔が、月明かりに照らされています。わたしはすべてを思いだしましたので、彼に微笑みかけます。
「ごめんなさいね。五年たったらあなたと行く約束をしていたのに、もう、無理みたい」
「わかるとも、きみの命の火は消えかけている。なぜなんだ、どうして、人はこんなにも脆いんだ」
「なぜかしらね……」
急に、わたしの鼓動が乱れはじめました。胸がどんどん苦しくなってくるのです。わたしはオーエンの手を突き放しました。
「もうだめよ。行って。あなたまで病気になってはいけないわ」
「きみは死ぬつもりなのかい。だめだよ、逝かせない」
「もう無理なの。でも、最後にあなたに会えてよかった……」
祖父も病気で、兄たちも帰ってこないのです。たった一人で死ななければならないはずだったのに、オーエンが来てくれたのでどんなに励まされたことか。彼がそばにいるうちに、わたしは急いで死にたかったのです。
オーエンは絶望した目でわたしを見おろしていましたが、突然、手袋を外しました。顔と同じくらい白い手の爪は、銀色をしていて鋭く尖っています。オーエンはいきなり、その爪で彼自身の左手首を掻き切ると、血が溢れ出てきた傷口をわたしの口にあてがいました。息苦しさに喘いでいたわたしの喉を、苦い血が流れくだっていきます。すると、よく効く薬を飲んだかのように、乱れていた鼓動が静まりました。視界が鮮明になり、すぐ近くにあるオーエンの顔がくっきりと見えます。わたしはそれまで、彼の顔を見たことがあったのでしょうか。まるで夢から覚めたように、間近で見つめる彼の顔は、思いがけず若いものでした。二十歳と十九歳の兄たちよりも年下かもしれません。少年のような顔立ちなのですが、彫りは深く、尖った鼻や赤い唇が色香を漂わせていました。
「オーエン……」
「黙って」
吐息をこぼすわたしの唇を、彼の爪が撫でました。オーエンの赤い瞳には悲しみが満ちています。
「僕の小さな子。きみを眷属にするつもりはなかったのに、もうこれ以外に方法はない」
「なにを言っているの……手、血が出ているわ」
わたしは自分の手のひらで彼の止血をしようとしましたが、オーエンはその手を振り払って、代わりにわたしの両手をベッドに押しつけます。オーエンがわたしの首筋に顔を伏せた直後、熱い痛みが肌を貫きました。
「きゃあ……っ」
悲鳴をあげかけた口に、再び彼の手首があてがわれます。口腔に溢れてくるオーエンの血がわたしのうめきを消してしまいます。オーエンの口がわたしの首筋を挟んでいました。肌を貫いているのは、彼の歯なのでしょうか。めまいがするほど痛いのに、彼の喉がわたしから溢れた血を飲みくだすにつれ、じんとした痺れが体のなかから沸き起こってきます。病気のせいではない熱が、わたしの意識をもうろうとさせました。
「ん……ん……っ」
わたしにできることは、オーエンの血を飲みくだすことだけ。オーエンは空いているほうの手をわたしの指に絡ませます。わたしは自由になる腕を彼の背にまわし、膝を立てました。なにが起こっているのか理解できないくせに、夢中だったのです。
うねりのような興奮が過ぎ、オーエンが体を離しました。わたしは死んだように横たわりながら、彼がなにか言葉をかけてくれるのを待っていました。けれど彼は黙ったまま、着衣を整えています。なにか取り返しのつかないことをしてしまったような、悲しい気持ちに襲われたわたしの眦を、熱いものが伝いました。オーエンがそれに気づき、わたしの枕元に手をつきます。
「泣くのはおやめ」
彼がそう命じると、瞼の熱さがすうっと引いていきました。わたしはようやく腕をもたげて、オーエンの袖をつかみます。
「行かないで」
「……だめだ」
オーエンがだめだというと、それ以上、わたしは連れていってほしいと言えなくなるのです。ぴったりと口を閉ざしてしまったわたしを、彼は憐れむように見ていました。
「僕がいまどんな無茶な命令を下しても、きみは逆らえないだろう。眷属になるとは、そういうことなんだ。だからきみの血を吸いたくなかったのに」
彼はなにを言っているのでしょう。わたしにとって彼の命令に従うことは喜び以外のなにものでもないのに。オーエン、と呼びかけそうになり、わたしは自分から口をつぐみました。それよりも、こう呼びたいのです。「ご主人様」と。
「ご主……」
オーエンがわたしの唇を指で押さえました。
「黙って」
もちろんわたしは黙ります。胸の苦しさはとっくに消え、体の熱さもなくなっています。視界は澄みわたり、夜だというのに昼と同じくらいに周りがよく見えるのです。聴覚は、納屋を走りまわるネズミの鳴き声さえ捉えていました。もう死なないのだ、ご主人様が永遠の命をくださったのだということが、心から実感されます。わたしの表情はきっと輝いていたでしょうが、オーエンはそんなわたしの頬を両手で挟み、目を覗きこみました。
「従順なしもべなんか、いらないんだ」
真っ赤な瞳は底なし沼のように、奥が見通せません。
「僕の小さな可愛い子。十五歳になったら城に来るという約束をきみが破る前に、決して血を吸わないという約束を、僕が破った。だから僕はきみを連れていかない。きみが僕に縛られないよう、ここに生まれた血のつながりは、僕のほうから断とう」
「ご主人様……?」
「僕は消える。僕が消えたら、きみは僕を忘れる。そこで僕たちの約束は反故になる。きみはこれから一人ぼっちの吸血鬼として生きていかなければならないけれど、もしも運命が再び僕たちを巡りあわせてくれるなら、そのときには」
オーエンが消える。消えてしまう。彼にすがりつきたいのに、指一本動かせず、瞳を見つめることしかできないのです。オーエンが身を屈めて、わたしの額に口づけたとき、にいっと笑った彼の唇のあいだから白い牙が覗きました。
「今度こそ僕の城においで。きみのためにつくったぶらんこで遊ぼう。これは約束ではなくて、僕の希望だけれどね」
「一人にしないで……」
「それも、僕の希望だ。きみの希望でもあるなら、いつか叶うかな」
オーエンはためらいなく体を離すと、ぱちりと指を鳴らしました。すると、いきなり現れた青い炎が彼を包み、黒い髪を焦がし外套を燃やして、消してしまったのです。燃え滓がひらひらと宙を舞い、それも夜風に吹かれて散ると、わたしの記憶からオーエンは消え去りました。
そして翌朝目覚めたとき、祖父もまた、ベッドの上で冷たくなっていたのです。
クドラクが死んだ、魔王が消えた
次の魔王になるのは、いったいだれだ!
しきりに騒ぐカッコウ鳥を手づかみにして、口に押しこみました。ぱりぱりした骨の内側から溢れだす血を余さず吸い尽くすと、体が少し温まりました。なにしろ祖父と父の埋葬を一人で済ませたので、お腹がすいたのです。まだ足りなくて辺りに耳を澄ますと、すっかり忘れていましたが、我が家には山羊も鶏も、納屋のネズミもいるのでした。
当分、渇くことはない。ほっとしたわたしは嬉しさに笑いだしましたが、肩を震わせているうちに、なぜだか涙が溢れてくるのです。どうしてわたしだけが家族のなかで生き残り、こんなふうに血をすすって生きているのでしょう。顎を伝ってエプロンに滴った涙は、真紅の血の色をしていました。頬を拭おうとした手のひらは、すでにカッコウの血に染まっています。
わたしはいつからこんなふうに、血だらけで生きていたのでしょうか。そのときわたしは、わたしが生まれたときの様子について、祖母がよく語ってくれたことを思いだしました。赤い羊膜に包まれて生まれた子は、成長したら吸血鬼になるのだと。きっと祖母が言うべきことを間違えたせいで、わたしは吸血鬼になってしまったのでしょう。だけれど、たとえ魔物であったって可愛いと言わずにいられなかったという祖母を恨んだりできません。いまのわたしは家族に愛されたという記憶だけにすがって、さ迷う魔物にならずに済んでいるのですから。
「魔物が生まれたよ。でも悪さをする魔物ではなくて、幸せを運んでくる子供だよ」
と。こう言うと、子供は大きくなっても吸血鬼にならないのだそうです。
けれど祖母は、ずっと欲しかった女の赤ちゃんを魔物だなんて呼ぶことができず、外には連れだしたものの、大きな声でこう言ってしまったのだとか。
「可愛い女の子が生まれたよ。たとえ魔物であったって、あたしたちに幸せをくれる可愛い孫だよ」
と。
わたしたちが暮らすのはノイシュガット連峰の山腹。祖父はなんとかいう領主さまから山を守る役目を仰せつかっていて、森のただなかの家にはわたしたちの家族だけが暮らしていました。
いつも草をふかしている祖父、家のなかにいるとき彼の背は曲がっていましたが、山に入ると家族のだれよりも大きい背中になるのです。祖母は尖った鼻をしていて、料理はとても上手なのですが、母とは互いにやることなすこと気に入らないらしく、いつも口論になります。
父は祖父母の息子で、五人兄弟のうち無事に育ったのは父だけだということでした。いつもおとなしく祖父の後ろについて歩き、家のなかでも滅多に口をききません。が、木を彫るのはとても上手で、わたしの見たところ、彼の作るものは彼の言葉よりも雄弁なようでした――とくに、怒った母の顔なぞが彫りあがったときは。母は父のことをとても好きなのですが、好きすぎるから祖母とは気が合わないのだそうです。つまり、取りあいになるのですね。母はきれいな金髪を自慢にしていて、小さな手鏡を覗きながらそれを梳いている様子を眺めるのが、わたしはとても好きでした。母は器用に編みもの縫いものをして、家のなかはいつも洒落た雰囲気に包まれていました。それがまた質素を旨とする祖母の気に入らないのですが、わたしは祖母の料理も母の縫いものも大好きだというと、二人とも一時休戦をしてくれます。
そして、兄が二人。わたしよりも五つと六つ年上なのですが、双子のように同じ顔をしています。二人とも父よりも祖父を尊敬しているのですが、たまに若者らしく無鉄砲なふるまいをするようです。けれどそうしたふるまいは、祖父がなにを言わなくとも彼らの身に報いを振りかけるので、そういうとき祖父は「これでわかったろう」と重々しく言うのでした。
幼いころ、わたしはよく一人で遊んでいました。いちばん古い記憶は、父が納屋で木彫りに夢中になっているそばで、木っ端で遊んでいたときのことです。外をいつもよりも明るく感じました。納屋の正面にある枝を広げた木の下に誰かいます。わたしはその人をじっと見つめました。はじめて見る、家族以外の人。体が大きく、黒く裾の長い衣装をまとっています。声をかけたら消えてしまいそう。わたしは父を見つめましたが、父はわたしに目をくれません。「お父さん」そっと声をかけましたが、返事もありませんでした。父は夢中になると、周りのことが目にも耳にも入らなくなってしまうのです。そこでわたしは木っ端を放りだして、外に向かいました。その人のそばに近づきます。その人は優しそうに目を細めて、わたしが来るのを待っていました。
「こんにちは」
わたしが声をかけると、その人は微笑みます。
「僕が見えるの」
「見えるわ。どっから来たの?」
「遠くのほう。きみは?」
「わたし、ここよ」
家を指さすと、その人は大きく頷きました。
「じゃあ、僕を招待してくれるかな。長く旅をしてきて、休みたいんだ」
「うん。おいで」
わたしには見知らぬ人を警戒するという気持ちがありませんでした。なにしろ、家族以外の人に会ったのははじめてだったのですから。それに、その人の目はとても優しくて、にこにこしていたので、ちっとも怖くなかったのです。
母屋の戸は、昼のあいだずっと開けっぱなしになっています。母と祖母がなかにいるはずでした。
「おばあさん、お母さん」
わたしは台所に飛びこみましたが、家のなかはしんとしています。空気はほのかに温かく、かまどでは鍋がコトコト煮立っていて、祖母は床に倒れていました。テーブルは粉だらけで、母はこねかけのパン生地に顔を突っ伏しています。とても静かでした。わたしはなぜみんなが寝ているのかわからず、倒れた祖母のそばにしゃがみこみました。すると、あの人が戸の外で言うのです。
「この、枝は外したほうがいい。棘があるから危ないよ」
その人が指さしたのは、鴨居に挿しているサンザシの枝でした。祖父が時おり山で折ってきて取りかえるのですが、ここしばらくは取り替えていなかったので、瑞々しさが失せてすっかり茶色くなっています。わたしは鴨居を見あげて、言いました。
「手が届かないわ。おじいさんが帰ってきたら、外してねってお願いする」
「きみでも手が届くよ。あの、椅子をとってくるといい」
その人がひょいと手を伸ばせば枝は取れるはずですが、わたしは頼りにされているようですっかり嬉しくなり、テーブルのそばにある自分の椅子をつかみました。ところがそれは、あとになって気づいたのですが、父はわたしが椅子ごと倒れたりしないようにと工夫して、脚を床に打ちつけておいたのです。わたしが動かない椅子と格闘していると、外で大きな声がしました。怒鳴りつけるような、怒っているような、怖い声です。わたしはびくりとして、とっさに椅子に隠れました。すると、明るい外から、サンザシの枝束をつかんだ祖父が大股に入ってきて、
「レジーナ! ミリア!」
祖母と母の名を叫びます。すると倒れていた祖母がむっくり起きあがりました。
「おや、おじいさん。ずいぶんはやいお帰りだね」
目を擦る祖母に呆れたように見つめ、祖父は母を振り向きました。母も目が覚めたようで、パン生地から顔をあげたのですが、顔が粉だらけで真っ白です。わたしがぷっと吹きだすと、おじいさんがわたしに気づいて、抱きあげてくれました。おじいさんの体から瑞々しい枝の匂いが強く香ります。
「おちびさん、かくれんぼかね」
「そうじゃないわ、おじいさん。あのね」
「うん?」
話すことはたくさんあったはずなのです。はじめて会ったよその人のこととか、鴨居の枝のこととか、動かない椅子のこととか。けれどわたしは幼すぎたのでしょうか、祖父に話すべきことをすっかり忘れてしまって、眠たげに目をこすりました。祖父が小脇に抱えている枝の棘が膝にちくちくと刺さります。
「痛いわ」
わたしが訴えると、祖父は枝を床に置いて、わたしを抱いて椅子に腰かけました。「おねむかね」と囁く祖父の口はやにの臭いがします。祖父が背を丸めて膝を揺らすと、皮脂の沁みたシャツの胸にすっぽり包まれたわたしの瞼は、次第に重くなってきました。
「おちびさん、夢魔に気をおつけ。あれはいつでも人の家にあがろうと狙っているからね、知らない人を家に招きいれてはいけないよ」
「夢魔ってなあに、おじいさん」
「魔物のことさ。人を眠らせて、心臓から血を吸うのだよ」
「怖いのね」
「心配ない。入口にサンザシを挿しておけば、魔物は家に入ってこられないものだよ。だからおちびさんも、ついうっかりでもサンザシを抜き取ったりなどしてはいけないよ」
祖父はまるで、わたしがなにをしようとしたのか知っていたように言います。わたしは頷いたものの、それ以上起きていられずに祖父の膝で眠ってしまいました。
その後も相変わらずわたしは家族のなかでいちばんおちびさんでしたが、自然と祖父がわたしを膝に抱きあげることはなくなりました。十歳の誕生日に父はわたしのためにベッドをつくり、それまで折り重なるように眠っていた兄たちの寝台から解放されることになったのです。家族のなかで、わたしだけが自分用の寝台。それは自分が特別になったようで、とても嬉しいことでしたが、はしゃいでいられたのは、母が刺繍をしてくれたカバーにもぐりこみ、家のなかがすっかり暗くなってしまうまでのことでした。
兄たちのベッドでは、真夜中までひそひそ話す声が聞こえていたものでしたが、自分のベッドのなかではそれがないのです。くすぐられたり、お腹に足をのせられたりすることもない代わりに、シーツはひどく冷たく、周りの闇はとても深く感じられました。目を閉じて、眠ろうと必死になるのですが、どうしても寝つけません。わたしは裸足で寝台からそっと降りました。
祖父母は台所で眠っていて、父母は納屋で眠っています。兄たちの寝台は、それまで部屋の真ん中にあったものを窓際に寄せて、わたしの小さな寝台は壁際にありました。数歩近づけば、兄たちの寝台に飛びこめるのです。ひたり、ひたり、わたしは足音を忍ばせて兄たちの寝台に近づきました。二人とも折り重なるように眠っていて、毛布は体にしっかり巻きついており、入りこむ隙が見つかりません。私は溜息をついて、ふと、窓に顔を向けました。
いつもよりずいぶんと明るいのです。いつもぴったりと閉ざしている板戸が、そのときは上のほうに持ちあがっていて、鹿の角を薄く削いで貼りつけている窓の向こうは黄色く透けて見えます。わたしは窓に額をつけて、向こう側に目を凝らしました。
すると、声がするのです。
「こんにちは」
兄たちと同じくらい、若い男の声です。
「いまはこんにちは、じゃないわ。夜中ですもの」
「昼と同じくらいに月が明るいよ。出ておいで」
「どなた?」
わたしは訊ねました。名乗りもしない相手のために窓を開けたりしないという、その程度の知恵はついてきたのです。すると、相手はこう言いました。
「僕が見えるかな、小さなきみ」
ぱあっと、それまで忘れていたことを思いだしたのです。まるで昔よく見た夢を、数年ぶりに見た瞬間に思いだすように。わたしは窓に口を寄せて、囁きました。
「サンザシの枝は外せないわ。魔除けだから、おじいさんが外しちゃだめって言うの」
魔除けだと、自分が口にした言葉にひっかかりを覚えましたが、相手は陽気に答えます。
「だったらきみが出ておいで。ベッドに入っていても眠れないんだろう、たくさん遊んで、疲れたらぐっすり眠れるようになるよ」
「だめ、台所にはおじいさんもおばあさんもいるから、戸を開けたらすぐに気づかれるわ」
「この窓を開けて。そうしたら、抱きあげて出してあげる」
わたしの心に、ふと不安が過ぎりました。
「待って。あなたは魔物じゃないかしら。この窓を開けたとたんに心臓から血を吸いとってしまうつもりでしょう」
すると、窓の向こうの人は軽やかな笑い声をたてます。
「そんなことはしないよ。ただ、きみと遊びたいだけなんだ」
「決して血を吸ったりしない?」
「――しない。約束する」
「あなたの名前を教えて」
「窓を開けてくれたら教えてあげる」
このときには、わたしの小さな心臓はどきどき鼓動を打ちながらも、気持ちを決めてしまっていたのです。目覚めているときは、祖父母と父母と、兄たちしかいない狭い世界。夜、眠りにつくときだけ知ることのできる世界がありました。それはとても広く、どこまででも行くことのできる世界です。そこでわたしを導いてくれるのはきまって、軽やかによく笑う、陽気な声の持ち主の青年なのでした。
わたしがなかなか窓を開けないので、ひとつ間をおいて、彼が言いました。
「僕の名前はオーエン。詩人のオーエンだよ」
わたしはもどかしく窓の掛け金を外しました。夜風がわたしの癖っ毛をそっと撫でます。オーエンは昔のまま――わたしが幼い頃に会ったときの姿とまったく同じ姿格好で立っていました。黒い、長い髪が風に吹かれて揺れています。家のだれよりも背が高く、面立ちはほっそりしていて白いのに、肩幅は広いのです。裾の長い外套もまた、闇に溶けるような黒色。年齢は、兄たちより年上なのは確かなのですが、どれくらいでしょうか。兄たちのベッドに膝立ちになって見とれていると、オーエンは両手を伸ばしてわたしを抱きあげました。あまりにも軽々と持ちあげるので、わたしは自分が一人で浮いているのではないかという錯覚を起こします。オーエンは両腕を高くあげてわたしを下から見つめます。少し欠けた月が彼の瞳に浮かんでいました。鮮やかな赤は、まるでわたしの大好きなナナカマドの実のようです。
「オーエン、なにをして遊ぶ?」
「そうだな。きみはなにをして遊ぶのが好き?」
「その木の向こうにぶらんこがあるわ」
二本の木の丈夫な枝に蔓をかけたぶらんこは、兄たちからの贈りものでした。なにしろわたしは家の仕事の手伝いにしじゅう追われていて、たまに兄たちの真似をして木登りをしようものなら、祖母と母がすかさず気配を嗅ぎつけて、やれ女の子は体に傷をつくってはいけないだの、マイアがこんなにおてんばなのはだれのせいだのとやかましいことになるので、兄たちからもすっかり憐れまれていたようです。家からは見えない木の陰に、ぶらんこ。わたしは祖母と母の目の届かないところで、いつそれで遊ぼうかとわくわくしていたのでした。
オーエンはわたしをいっぺんも地面に下ろさず、ぶらんこにそっと座らせました。彼は手袋をはめていて、黒い革の擦れあう指でブランコの蔓をつかみます。
「そっと揺らす? それとも、大きく揺らす?」
「はじめはそっとして。でもわたしが頼んだら、大きく揺らしてね」
オーエンはおかしそうに頷きました。わたしは蔓をしっかりつかんで、「行くわよ」と身構えます。ぶらんこが揺れはじめました。体がふわりと浮いて、引き戻され、今度は放りだされるような不思議な感覚。
「もっと高くして! もっと!」
わたしは夢中になって叫びました。仰向いて空に近づくとき、それまで見たこともないほど月が大きく見え、下を向いて引き戻されるときは、生まれてはじめての高さから濡れた地面を見つめているのです。オーエンは実に根気よくわたしの遊びにつきあってくれましたが、夢中になりすぎたわたしの意識がぼうっとしてきて、蔓をつかむ手の力が緩んだのに気づいたのでしょう。ぶらんこは次第に揺れを小さくして、完全に止まりました。わたしは夢見心地でオーエンに訊ねます。
「次はあなたね?」
「ほっぺたが真っ赤だよ。こうして休もうか、小さなきみ」
オーエンはわたしの頬から髪をのけると、そのままひょいと抱きあげて、わたしを膝にのせたままぶらんこに腰かけました。だれかの膝に座るなんて何年ぶりでしょうか。乱れた髪を手で撫でつけられているあいだ、わたしは頬を膨らませずにいられませんでした。
「子供扱いはしないで」
オーエンは手をとめて、わたしの目をじっと見つめます。
「大人の男が、きれいな女性をこんなふうに膝にのせたりすることもあるものさ」
「そうなの?」
すっかり自分がきれいな女性扱いされた気分になって、わたしは機嫌を直しました。オーエンの太股は硬くて、わたしの体を支える腕はぎこちないのですが、それが祖父や父との違いを感じさせて、わたしにとっては嬉しいのです。彼の胸にもたれて、ぶらんこのかすかな揺れに身を任せていると、歌声が聞こえました。
かわいいきみ、小さな子 僕はきみの生まれたばかりの姿を見た
年頃の娘になったきみを愛したい
ああ、でも、白髪のおばあさんになるまできみと年を重ねたいのに
それはかなわないのだ、悲しいことに!
オーエンの歌声は眠気を誘うほど心地よいのですが、歌詞がなぜなのか悲しく感じられたので、わたしはうとうとしそうになるのを堪えて言いました。
「オーエン、ぶらんこを漕ぐといいわ。いつもよりずっと高いところから周りを見たら、ちっぽけな悲しいことなんて忘れてしまいそうよ」
「ちっぽけな悲しいことって、どんなことだろう」
オーエンが笑いを含んだ声で問い返します。心を読まれてしまったような気がして、顔が熱くなるのを感じながら、わたしはオーエンの服の胸元をつかみました。
「……だれにも言わない?」
「もちろん、約束する」
窓を開ける前に約束したとおり、オーエンはわたしの心臓から血を吸っていません。だから、彼の約束という言葉に疑いは持ちませんでした。ただ、わたしの感じている悲しいことは漠然としすぎていて、言葉にしづらかったのです。
「あのね、わたし、一人用のベッドを貰ったの」
「十歳の誕生日に、お父さんが作ってくれたんだね」
なぜオーエンが、わたしの誕生日や父のことを知っているのかということを不思議に思わず、わたしは頷きました。
「お兄さんたちに押しつぶされて眠るのがいやで、わたしだけのベッドがほしいって、ずっとねだっていたの。だから、ベッドを貰ってとっても嬉しいはずなのに、もうお兄さんたちのところに戻れないんだなあってことが悲しいのよ」
「大人になったってことさ」
「おじいさんはわたしを抱っこすると腰が痛くなるから、もうできないんですって」
「大きくなったっていうことさ」
「それが悲しいのよ、わたし。おかしい?」
「おかしくはないよ。大きくなったらもう、幼くなれない。みんなは年をとっていく。赤ん坊のように甘えられるときは二度とこない。それは悲しいだろうね」
オーエンはぶらんこの蔓を握っていた手も外して、わたしを両腕で抱きしめました。足だけでゆらり、ゆらり、とぶらんこを揺らします。まるで彼の腕に抱かれながら、水の上を漂っているよう。彼はいつまでこうしていてくれるんだろう。不安になりかけたわたしに、オーエンが囁きました。
「大人にならない世界に連れていってあげようか?」
キィ、キィ、と蔓と枝が擦れあいます。オーエンの胸に耳をあてても、おじいさんのような鼓動が聞こえてきません。わたしは首をよじり、彼の顔を見あげました。
「そんなところ、ないわ」
「あるんだよ。お空をずっと越えていったところに」
「オーエンはお空を飛べるの?」
「飛べるさ。連れていってほしい?」
「うん」
わたしが頷くと、オーエンは嬉しそうに笑いました。「しっかりつかまっていて」と、片腕でぶらんこの蔓をつかみ、揺らしはじめます。ふわりと浮いて、引き戻され、どんどん空が近くなっていきます。とうとうぶらんこの高さが木の枝を越えてしまった瞬間、オーエンは蔓から手を離し、空に飛びあがりました。
ぶらんこから放りだされた勢いのまま、わたしたちは木々のてっぺんを超え、ぐんぐん遠ざかる黒い緑を見おろします。家の屋根が小さくなっていきます。空には月、それから細かい星が月を囲んで、瞬いていました。ノイシュガッテンの山の峰を越えてしまうと、わたしたちはちょうど空と地上の真ん中あたりを漂っているのです。
「あれはなに、オーエン」
ほのかに月光に照らされた塔をわたしは指さしました。オーエンは肩越しに振り向いて、いやな顔をします。
「あれはノイシュガット城さ。できそこないの吸血鬼が寝床にしている」
「あれはなに、オーエン」
遠くの山の峰が、ちらちらと赤く光っています。
「魔女の宴さ。ああやって火を焚いて、一晩じゅう踊りつづけるんだ」
「行ってみたいわ、楽しそう」
「おおせのままに」
オーエンが空を軽く蹴ると、わたしたちは弧を描くようにその山頂に近づきました。枯れ木をそのまま組みあわせたような大きな焚火がめらめらと燃えています。その周りで踊るのは、裸足の女たち。長い髪を振り乱し、両手をあげたり下げたりしながら火の周りを飛び跳ねるのです。
燃えろ、燃えろ、夜空を焦がせ
お月さまを焦がせ、闇夜を好むおかたのために!
目を凝らすと焚火にくべられたものの影が見えます。丸のままの豚に山羊、羊と……なんだかわからない四足の生きもの。タールの臭いが鼻や口にまとわりついてきました。魔女たちはけらけら笑いながら、それが焼きあがるのを待っているらしいのです。わたしは顔を背け、オーエンにしがみつきました。
「もういいわ、お家に帰る」
「これから、大人にならない世界に行くんだよ?」
「それは明日にするわ。今日はもう帰りたい」
「僕のお城で眠るといい。従順な百人の召使がきみの世話をしてくれるよ。強い百人の兵隊がきみを守ってくれる。王様はぼく。お妃さまはきみ。ねえ、きみが僕のお城に来てくれたら、僕はきみのためになんでもするよ」
オーエンの言葉はとても優しいのですが、わたしは悲しくなるいっぽうで、眦に涙を滲ませました。
「ねえ、かわいいきみ、お願いだから……」
すっかり困り果てた様子のオーエンが、手袋をはめた手でわたしの涙をすくいます。わたしはいやいやと首を横に振りました。
「お父さんのベッドで眠りたいの。ほかのベッドじゃいや」
「じゃあ、きみのベッドを僕の城に運ぼう。それでどう?」
彼は、わたしを家に帰してくれる気なんてないのです。もう二度とあのお家には帰れないのです。とうとうわたしは大きな声で泣きだしました。わたしの頬を伝い落ちた涙は小さな雨雫となって、魔女たちの焚火の上に振りかかります。魔女たちが踊りをやめて、わたしたちを見あげ、ひそひそと話をはじめました。木を爪でひっかくようなきいきい声の合間から、一つの言葉が耳に飛びこんできました。
「クドラク!」
魔女たちは尖った爪でオーエンを指さし、そう言ったようです。わたしは泣くのを忘れて、濡れた目を瞬かせました。
「クドラク……?」
オーエンの腕にぎゅっと力がこもります。まるでわたしに顔を見られるのを恐れるように、彼はわたしの顔を胸に押しつけました。手袋越しに、彼の爪が寝間着に食いこみます。とても尖っていて、固い爪。下に引っぱられるような感覚があって、気がつくと、わたしはオーエンの膝でぶらんこに揺られていました。
わたしたちはずっとぶらんこに乗っていて、わたしが夢を見たのか、彼が見せてくれた夢だったのか。あくびをするわたしを抱きしめ、揺らしながら、オーエンはわたしの頬にキスしました。
「ねえ、きみ、小さな子。きみの涙は塩辛くて、色がついていないんだね」
「ええ、そうよ。だって涙ですもの」
わたしが言うと、オーエンは困ったように微笑みました。
「きみはまだ幼かったんだものね、泣かせてごめんよ。もしも僕を許してくれるのなら、またこんなふうに、ぶらんこに乗って遊んでくれる?」
「ええ、いいわ。オーエン、クドラクってなあに?」
何気なく訊ねただけなのに、オーエンはぶるりと身を震わせました。「クドラクは……」と、説明をしかけたものの、急に口を噤んで立ちあがります。わたしは一人、ぶらんこの上に残されました。オーエンはわたしに背を向けて、遠ざかろうとします。
「オーエン! 訊いちゃいけないことだったのなら、もう言わないわ。また遊びましょうよ、どこへ行くの?」
「……迎えにくる」
オーエンは黒い革手袋で顔を隠したまま、わたしを振り向き、うなるようなくぐもった声で言いました。
「五年待ち、五年待った。もう五年待てる。小さなきみ、五年たったら僕のお城に来て、お妃になってくれる?」
わたしはお妃の言葉の意味も知らなかったのですが、オーエンがずいぶん苦しそうだったので、これ以上苦しめたくなくて言いました。
「ええ、約束するわ」
そのときのわたしにとって、五年は遠い未来のことだったのです。けれど、こう付け加えるのは忘れませんでした。
「でも、血を吸ったりするのはなしよ」
「わかった。約束する」
手袋に隠れて、オーエンは笑ったようでした。わたしが惹かれた陽気な声。けれどそれは少し困ったようでもあるのです。わたしは自分でぶらんこを揺らしながら、オーエンの背中を見送りました。彼にとっての『ちっぽけな悲しいこと』はなんだろう、と考えているうちに眠ってしまったようです。夜中に、用を足すために目を覚ました祖父が、わたしがいないことに気づいて家族みんなを起こしました。そしてぶらんこに絡まりながら眠っているわたしを見つけてくれたのです。
「まったく。十歳にもなると女の子は、こんなにも人騒がせな真似をしでかすのか」
怒りながらわたしを抱きあげてくれたのは、おじいさんの腕です。昔のように軽々とではなく、節くれだった指には痛いくらい力がこもっていました。おじいさんの鼓動が、とく、とく、と聞こえます。わたしは家族みんなが心配しているのにも関わらず、夢うつつで訊ねました。
「おじいさん、クドラクってなあに?」
祖父がひゅうっと息を吸いました。父と兄たちに、灯りを持って家の周りを見回るように命じると、祖父自身はわたしを抱いたまま家のなかに入ります。冷たい寝台にわたしを横たわらせた祖父の目は、とても厳しく光っていました。
「おじいさん……クドラクって……」
「しっ。口を閉じなさい。おまえが呼んだのは、悪い魔物のなかでもいちばん強い親玉のことなのだよ」
それから祖父は心配そうに、わたしの額を撫でました。
「おまえはその名をどこで知ったのだい」
「山のてっぺんで、焚火を囲んだ魔女たちが呼んだのよ」
「それはサバトというものだ。魔女たちが親玉へのいけにえに、動物や、人の子供を捧げたりするのだよ。おまえはその集まりに加わらなかったろうね」
「ええ。だって、とても眠かったのだもの」
わたしは小さくあくびをしました。そのとき、見周りを終えた父たちが戻ってきて、窓の板戸のかんぬきが外れてしまっていたと言います。それから兄の一人は、大きな黒い狼の影を見たのだと言い張りましたが、父はそれは灯りのせいで自分の影を見たのだろうと、相手にしませんでした。その口論のときには、わたしはすっかり寝入っていて、オーエンやクドラクや魔女の集まりの記憶などはすべて、新しい夢に塗りこまれてしまったのでした。
それからの日々は淡々と過ぎました。周りのものは幼い頃のように眩しくはなくなり、朝は水汲み、山羊の乳を搾り、チーズをつくり、パンをこね、糸を紡ぐだけで一日は終わります。ほんのときたまぶらんこに座ってみるものの、いくら揺らしても自分の望むくらいに高くあがらないのにがっかりして、すぐにやめてしまうのでした。
わたしが十四歳になったとき、二十歳になる上の兄にお嫁さんがくることになりました。山をひとつ越えたところにある村の、粉ひきのお嬢さんだそうです。いまある家だけでは手狭なので、父と兄とで協力しあって離れを建てることになりました。祖母も賛成しましたが、母は家族が離れて住むなんて、とぶつぶつ言っています。
それは、暑い夏のこと。離れは四方の壁ができあがって、屋根をかけはじめたところでした。日中の仕事を終えた父が、ふらふらしながら家に戻ってきます。無精髭を生やした頬は真っ赤で、目は焦点が合わず潤んでいました。
「今日は寒いな」
家のなかもお湯に浸かっているようなのに、父は肘をさすりながら言いました。
「そりゃあ屋根の上よりは、家のなかのほうが涼しいのかもしれないわ、お父さん」
「ひどく寒いんだ」
父は体を小さくして身を震わせています。彼の周りに陽炎のようなものが見えた気がして、わたしは父の背に触れました。シャツはぐっしょり濡れそぼっています。そして、体は燃えるように熱いのです。
「大変だわ、お父さん、病気なのじゃないの。お母さん、おばあちゃん来て!」
台所から飛びだしてきた祖母と母が、あっというまに父を着替えさせて寝かしつけました。お父さんったら張りきりすぎたのね、すぐに治るわ。その晩はそんな会話が交わされましたが、翌日になると、今度は祖母が同じように体を震わせて起きられなくなったのです。その午後には母が熱を出しました。母が倒れたとき、そばにいた上の兄がいきなり外に飛びだしました。
「どこへ行くの、お兄さん」
「伝染病だ!」
兄は叫びました。
「ここにいたらみんな死ぬ。だめだ、おれはカトリーヌのところへ行く!」
カトリーヌとは、兄の婚約者のことです。
「でも、お兄さんがいなくなったら、どうしたらいいの……」
祖母も母も父も病気なのです。祖父と下の兄は新居に必要なものを買うために出かけていて、あと数日は帰らないはずでした。
「どうでもいい……いや、そうだ、助けを呼んでくる。おまえはいい子で待っていろよ、ついてくるんじゃないぞ、いいな!」
兄は強く言いおいて、駆けていってしまいました。追って行こうにも、わたしは森の抜けかたを知りませんし、もちろん父たちをおいてはいけません。しょんぼりと家のなかに戻り、祖母が風邪のときに飲ませてくれる薬草を煎じて、みんなの口に少しずつ含ませました。
絶望という言葉の意味を知ったのは、その夜のことです。真夜中に、戸を叩く音がしました。のぞき窓から確かめると、祖父が帰ってきたのです。
「おじいさん!」
戸を開くなり、わたしは祖父に抱きつきました。祖父は一人きりで、下の兄はいないようです。祖父は難しい顔をして、祖父や母や父の顔を一人一人覗きこむと、溜息をついて椅子に腰を下ろしました。
「黒死病だ」
祖父は節くれだった指を組みあわせ、顔を埋めます。
「おじいさん。小さいお兄さんは一緒じゃないの……?」
「こんなことならば、連れて帰ってやればよかった」
祖父は首を大きく横に振ると、手を伸ばして、わたしをそばに引きよせました。
「おまえはまだ元気なのだね。布団を持って新しい家に行きなさい。おばあさんたちの世話はわしに任せて、わかったね?」
「おじいさん、手が熱いわ」
「気のせいだ」
祖父は慌てたようにわたしから手を離すと、手のひらに顔を埋めて、うめくように言いました。
「気のせいだとも……」
次の朝、祖母が死にました。埋葬する穴を掘る祖父を手伝うために父が起きてきて、二人で堀り広げた穴は、祖母一人を埋葬するにはあまりに大きすぎるものでした。体のあちこちを黒ずませた祖母の遺骸を、母とわたしできれいに拭き、とっておきの服を着せかけましたが、棺をつくろうとはだれも言いだせませんでした。
翌々日に母が亡くなり、その夜に父が。父が亡くなったときは、わたしと祖父は視線を交わしただけで、遺骸をシーツにくるんでそれぞれのベッドに引きとりました。
十歳の誕生日に、父が贈ってくれたベッド。父はわたしがあまり大きくならないと知っていたのでしょうか、十四歳になったいま横たわると、頭の先と爪先とでぴったり長さが収まるのです。
服を脱いだわたしは、腕に黒い班ができているのに気づきました。首がずっと絞められているように息苦しかったのは、やはり気分のせいだけではなかったようです。わたしは寝間着に着換えると、そっと父母の部屋に忍びこみ、母の櫛と、祖母が母に贈った手鏡を拝借してきました。兄たちのベッドに腰を下ろすと、窓を開け、月明かりを頼りに手鏡に姿を映し、髪を梳かします。祖母譲りの薄茶色の髪は櫛に従ってごっそりと抜けました。それでも、曇った鏡に映るわたしの顔は、月明かりの助けもあってとてもきれいなのです。わたしは毛布をかけずに寝台に横になり、胸のまえで手を組みあわせました。こんなふうに死んだわたしを、だれがいちばん先に見つけてくれるでしょうか。閉じた瞼から涙が溢れ、頬を伝います。
あとからあとから溢れる涙を拭う指の存在を感じたのは、どれほどの時間が過ぎたときだったでしょう。
「なんてことだ……」
その声を聞いた瞬間に、わたしは子供の頃に見た夢のことを思いだしました。
「オーエン……?」
組んだ手を解いて、頬に触れる手に重ねます。革手袋の感触は忘れようのないものでした。さらり、と長い髪が瞼を撫ぜたので、わたしは目を瞬かせました。視界を覆う顔が、月明かりに照らされています。わたしはすべてを思いだしましたので、彼に微笑みかけます。
「ごめんなさいね。五年たったらあなたと行く約束をしていたのに、もう、無理みたい」
「わかるとも、きみの命の火は消えかけている。なぜなんだ、どうして、人はこんなにも脆いんだ」
「なぜかしらね……」
急に、わたしの鼓動が乱れはじめました。胸がどんどん苦しくなってくるのです。わたしはオーエンの手を突き放しました。
「もうだめよ。行って。あなたまで病気になってはいけないわ」
「きみは死ぬつもりなのかい。だめだよ、逝かせない」
「もう無理なの。でも、最後にあなたに会えてよかった……」
祖父も病気で、兄たちも帰ってこないのです。たった一人で死ななければならないはずだったのに、オーエンが来てくれたのでどんなに励まされたことか。彼がそばにいるうちに、わたしは急いで死にたかったのです。
オーエンは絶望した目でわたしを見おろしていましたが、突然、手袋を外しました。顔と同じくらい白い手の爪は、銀色をしていて鋭く尖っています。オーエンはいきなり、その爪で彼自身の左手首を掻き切ると、血が溢れ出てきた傷口をわたしの口にあてがいました。息苦しさに喘いでいたわたしの喉を、苦い血が流れくだっていきます。すると、よく効く薬を飲んだかのように、乱れていた鼓動が静まりました。視界が鮮明になり、すぐ近くにあるオーエンの顔がくっきりと見えます。わたしはそれまで、彼の顔を見たことがあったのでしょうか。まるで夢から覚めたように、間近で見つめる彼の顔は、思いがけず若いものでした。二十歳と十九歳の兄たちよりも年下かもしれません。少年のような顔立ちなのですが、彫りは深く、尖った鼻や赤い唇が色香を漂わせていました。
「オーエン……」
「黙って」
吐息をこぼすわたしの唇を、彼の爪が撫でました。オーエンの赤い瞳には悲しみが満ちています。
「僕の小さな子。きみを眷属にするつもりはなかったのに、もうこれ以外に方法はない」
「なにを言っているの……手、血が出ているわ」
わたしは自分の手のひらで彼の止血をしようとしましたが、オーエンはその手を振り払って、代わりにわたしの両手をベッドに押しつけます。オーエンがわたしの首筋に顔を伏せた直後、熱い痛みが肌を貫きました。
「きゃあ……っ」
悲鳴をあげかけた口に、再び彼の手首があてがわれます。口腔に溢れてくるオーエンの血がわたしのうめきを消してしまいます。オーエンの口がわたしの首筋を挟んでいました。肌を貫いているのは、彼の歯なのでしょうか。めまいがするほど痛いのに、彼の喉がわたしから溢れた血を飲みくだすにつれ、じんとした痺れが体のなかから沸き起こってきます。病気のせいではない熱が、わたしの意識をもうろうとさせました。
「ん……ん……っ」
わたしにできることは、オーエンの血を飲みくだすことだけ。オーエンは空いているほうの手をわたしの指に絡ませます。わたしは自由になる腕を彼の背にまわし、膝を立てました。なにが起こっているのか理解できないくせに、夢中だったのです。
うねりのような興奮が過ぎ、オーエンが体を離しました。わたしは死んだように横たわりながら、彼がなにか言葉をかけてくれるのを待っていました。けれど彼は黙ったまま、着衣を整えています。なにか取り返しのつかないことをしてしまったような、悲しい気持ちに襲われたわたしの眦を、熱いものが伝いました。オーエンがそれに気づき、わたしの枕元に手をつきます。
「泣くのはおやめ」
彼がそう命じると、瞼の熱さがすうっと引いていきました。わたしはようやく腕をもたげて、オーエンの袖をつかみます。
「行かないで」
「……だめだ」
オーエンがだめだというと、それ以上、わたしは連れていってほしいと言えなくなるのです。ぴったりと口を閉ざしてしまったわたしを、彼は憐れむように見ていました。
「僕がいまどんな無茶な命令を下しても、きみは逆らえないだろう。眷属になるとは、そういうことなんだ。だからきみの血を吸いたくなかったのに」
彼はなにを言っているのでしょう。わたしにとって彼の命令に従うことは喜び以外のなにものでもないのに。オーエン、と呼びかけそうになり、わたしは自分から口をつぐみました。それよりも、こう呼びたいのです。「ご主人様」と。
「ご主……」
オーエンがわたしの唇を指で押さえました。
「黙って」
もちろんわたしは黙ります。胸の苦しさはとっくに消え、体の熱さもなくなっています。視界は澄みわたり、夜だというのに昼と同じくらいに周りがよく見えるのです。聴覚は、納屋を走りまわるネズミの鳴き声さえ捉えていました。もう死なないのだ、ご主人様が永遠の命をくださったのだということが、心から実感されます。わたしの表情はきっと輝いていたでしょうが、オーエンはそんなわたしの頬を両手で挟み、目を覗きこみました。
「従順なしもべなんか、いらないんだ」
真っ赤な瞳は底なし沼のように、奥が見通せません。
「僕の小さな可愛い子。十五歳になったら城に来るという約束をきみが破る前に、決して血を吸わないという約束を、僕が破った。だから僕はきみを連れていかない。きみが僕に縛られないよう、ここに生まれた血のつながりは、僕のほうから断とう」
「ご主人様……?」
「僕は消える。僕が消えたら、きみは僕を忘れる。そこで僕たちの約束は反故になる。きみはこれから一人ぼっちの吸血鬼として生きていかなければならないけれど、もしも運命が再び僕たちを巡りあわせてくれるなら、そのときには」
オーエンが消える。消えてしまう。彼にすがりつきたいのに、指一本動かせず、瞳を見つめることしかできないのです。オーエンが身を屈めて、わたしの額に口づけたとき、にいっと笑った彼の唇のあいだから白い牙が覗きました。
「今度こそ僕の城においで。きみのためにつくったぶらんこで遊ぼう。これは約束ではなくて、僕の希望だけれどね」
「一人にしないで……」
「それも、僕の希望だ。きみの希望でもあるなら、いつか叶うかな」
オーエンはためらいなく体を離すと、ぱちりと指を鳴らしました。すると、いきなり現れた青い炎が彼を包み、黒い髪を焦がし外套を燃やして、消してしまったのです。燃え滓がひらひらと宙を舞い、それも夜風に吹かれて散ると、わたしの記憶からオーエンは消え去りました。
そして翌朝目覚めたとき、祖父もまた、ベッドの上で冷たくなっていたのです。
クドラクが死んだ、魔王が消えた
次の魔王になるのは、いったいだれだ!
しきりに騒ぐカッコウ鳥を手づかみにして、口に押しこみました。ぱりぱりした骨の内側から溢れだす血を余さず吸い尽くすと、体が少し温まりました。なにしろ祖父と父の埋葬を一人で済ませたので、お腹がすいたのです。まだ足りなくて辺りに耳を澄ますと、すっかり忘れていましたが、我が家には山羊も鶏も、納屋のネズミもいるのでした。
当分、渇くことはない。ほっとしたわたしは嬉しさに笑いだしましたが、肩を震わせているうちに、なぜだか涙が溢れてくるのです。どうしてわたしだけが家族のなかで生き残り、こんなふうに血をすすって生きているのでしょう。顎を伝ってエプロンに滴った涙は、真紅の血の色をしていました。頬を拭おうとした手のひらは、すでにカッコウの血に染まっています。
わたしはいつからこんなふうに、血だらけで生きていたのでしょうか。そのときわたしは、わたしが生まれたときの様子について、祖母がよく語ってくれたことを思いだしました。赤い羊膜に包まれて生まれた子は、成長したら吸血鬼になるのだと。きっと祖母が言うべきことを間違えたせいで、わたしは吸血鬼になってしまったのでしょう。だけれど、たとえ魔物であったって可愛いと言わずにいられなかったという祖母を恨んだりできません。いまのわたしは家族に愛されたという記憶だけにすがって、さ迷う魔物にならずに済んでいるのですから。
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