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第32章 換毛期とブラッシング
しおりを挟む新しい我が家、神戸での暮らしもすっかり板について、幾度となく季節が巡ってきた。春の穏やかな陽気の中でベランダの草をかじり(第21章)、夏の暑さをひんやりマットでしのぎ、秋の深まりと共にゆうくんの穏やかな存在感に癒やされ、冬の寒さの中でききさんの温かい膝の上で眠った。それぞれの季節に、僕の体も、家族の僕への接し方も、少しずつ変化してきた。そして、季節が巡るたびに、僕の体にある「変化」が訪れる。それは、春と秋にやってくる、「換毛期」だ。
換毛期が始まる気配は、僕自身が一番最初に感じる。いつものように体をグルーミングしようと、舌で毛を舐めた時、異常にたくさんの毛が口の中に残るのだ。え? なんだこれ? 最初はびっくりしたけれど、もう何度か経験したことだから、すぐに分かった。ああ、またこの時期が来たんだ。
換毛期になると、体中がムズムズするような、落ち着かない感じになる。古い毛が新しい毛に押し出されているような、不思議な感覚だ。少し体を動かしたり、どこかに体を擦り付けたりするだけで、ふわふわと黒い毛が舞い散る。ケージの中も、部屋の絨毯の上も、すぐに僕の抜け毛だらけになってしまう。まるで、黒い雪が降ったみたいだ。
家族も、僕の抜け毛がひどくなってきたことにすぐに気づく。
「あらあら、くろのすけ、すごいことになってるねえ」とききさんが、僕の周りに舞い散った毛を見て言う。
ゆうさんも「お、また換毛期か。絨毯が黒くなるな」と笑いながら言う。
ともくんとさのちゃんも、僕の抜け毛を見て、「うわー、うさぎさんの毛がいっぱい!」と、少し興奮したような声を出す。
換毛期は、僕にとって少し不快な時期だけれど、それは同時に、僕にとって待ちきれない特別な時間が始まる合図でもある。それは、「ブラッシング」の時間だ。
ききさんが、僕のケージのそばで何か準備をしている気配がする。それは、あの小さな、歯がたくさん並んだ不思議なもの…「ブラシ」の匂いだ。ブラシの匂いを嗅いだ瞬間、僕の心はソワソワし始める。早く!早くブラッシングしてほしい!体のムズムズを取ってほしい!
ききさんがブラシを持って、僕のケージのそばにやってくる。あの優しい匂いと一緒に、ブラシの硬い匂いが混じり合う。ききさんはケージの扉を開け、僕を優しく抱き上げた。抱っこされるのは、少し苦手だけれど、これから始まるブラッシングのためなら我慢できる。
ききさんは僕を腕の中に抱き寄せると、優しく、そして丁寧に、ブラシを僕の体に当て始めた。それは、第16章で初めてブラッシングされた時の、戸惑いや警戒心はもうない。ブラシの感触は、もう僕にとってすっかり気持ち良いものになっている。
ブラシの歯が、僕の黒い毛皮の上をなぞる。背中から、お尻へ。体の側面、そして、自分ではなかなかグルーミングできないお腹の下や、足の付け根。ブラシが動くたびに、体の奥からスーッとした快感が広がっていく。まるで、体のムズムズを根こそぎ吸い取ってくれるみたいだ。
そして、ブラシが毛皮をなぞるたびに、たくさんの毛がブラシに絡め取られていくのが見える。ブラシを一度体に沿って動かすだけで、ブラシの歯にはごっそりと黒い毛が絡まっている。ブラッシングをしてもらう前は、体が古くて重い毛皮に覆われているような感覚だけれど、ブラッシングしてもらっている間、体の力が抜けて、どんどん軽くなっていくのが分かるんだ。
ききさんは、僕が気持ちよさそうにしているのを見て、嬉しそうに微笑む。「くろのすけ、気持ち良い?ここもかゆかったの?」と、優しく話しかけてくれる。その声を聞きながら、僕は目を閉じて、その優しい手に全身を預ける。ブラシの感触と、ききさんの手の温かさ。それが合わさって、最高の心地よさだ。
ブラッシングの時間は、僕とききさんの、大切なコミュニケーションの時間だ。ききさんは、僕の体の小さな反応を見ながら、どこをブラシで撫でてほしいのか、どこが特に痒いのか、読み取ろうとしてくれる。僕がブラシの当たる場所で体を揺らしたり、頭を押し付けたりすると、「ああ、ここが気持ち良いのね」と、その場所を重点的にブラッシングしてくれる。僕がききさんの手に顔を擦り寄せたり、鼻でツンツンしたりすると、「ありがとうって言ってるの?可愛いねえ」と、僕の気持ちを言葉にしてくれる。
ブラッシングを通して、言葉はなくても、僕とききさんの心が通じ合っているのを感じる。ききさんは、僕の体のケアをしてくれているだけじゃない。僕の心にも寄り添ってくれている。
ブラッシングの時間は、家族みんなが集まる時間でもあることが多い。ゆうさんは、僕がききさんにブラッシングされている様子を、穏やかに見守っている。「お、くろのすけ、スッキリした顔してるな」と、声をかけてくれることもある。
ともくんとさのちゃんは、ききさんが集めた抜け毛に興味津々だ。ききさんがブラシから抜け毛を外し、丸めて毛玉にすると、二人はそれをじっと見つめる。
「うわー、またこんなに取れた!くろのすけ、体軽くなった?」とともくんが言う。小学4年生になったともくんは、以前よりも落ち着いて、僕の体の変化にも、より関心を持ってくれるようになった。
さのちゃんは、いつもの澄んだ声で「もふもふさん、もふもふがいっぱいだね!」と、ききさんが丸めた毛玉を指差す。さのちゃんにとって、僕の抜け毛も僕の一部で、愛おしいものらしい。ききさんが毛玉を僕の鼻先で見せてくれると、さのちゃんは僕の鼻先を優しく触ってくる。「もふもふさん、これ、くろのすけだよ」と、僕と毛玉を繋げて認識しているらしい。
換毛期は、うさぎにとっては少し大変な時期だと、ききさんが話しているのが聞こえたことがある。毛をたくさん飲み込んでしまうと、お腹の中で毛玉が固まってしまって、体調が悪くなることがあるらしい。だから、ききさんはブラッシングをとても大切にしてくれる。僕の体をスッキリさせるためだけじゃなく、僕の健康を守るために、毎日、根気強くブラッシングしてくれるのだ。
ききさんの手から伝わる優しさ、家族みんなが見守ってくれる温かさ。そして、体が軽くなる気持ちよさ。ブラッシングの時間は、単なる体のケアの時間じゃない。それは、僕がこの家でどれだけ大切にされているのかを、全身で感じられる時間なのだ。
たっぷりブラッシングしてもらって、僕の体はすっかり軽くなった。古い毛皮が剥がれ落ちて、新しい毛が生えてくる準備ができたみたいだ。体中がスッキリして、ぴょんぴょんと跳ねたくなる気分だ。
ききさんが、集め終わった毛玉を僕に見せてくれた。大きな、黒い毛玉。それは、僕の体から出てきたものなのに、なんだか不思議な塊に見える。僕はその毛玉を鼻でツンツンしてみた。フワフワしていて、僕の匂いがする。
「こんなに取れたね。くろのすけ、偉かったね」
ききさんが、僕の頭を優しく撫でてくれた。その手は、僕を大切にケアしてくれた、愛情いっぱいの手だ。
ブラッシングが終わると、僕はケージの中に戻されるか、あるいは部屋んぽで自由に動き回る時間になる。どちらにしても、体は軽やかで、心は満たされている。換毛期という体の変化を、家族と一緒に乗り越えている。それが、僕には何よりも心強い。
換毛期は、これからも季節が巡るたびにやってくるだろう。そして、その度に、ききさんは僕のためにブラッシングをしてくれるだろう。ゆうさんも、ともくんも、さのちゃんも、僕の体の変化を気遣ってくれるだろう。
ブラッシングの時間。それは、僕のぴょん生において、体のケアという実用的な意味だけでなく、家族との温かい触れ合いや、言葉にならないコミュニケーションが生まれる、かけがえのない時間だ。ブラシの感触、ききさんの手の温もり、家族の声、そして毛が取れて体が軽くなる気持ちよさ。それら全てが、僕がこの家で愛されていることの証だ。
ケージの中で、僕はブラッシングしてもらった後の、スッキリした体で丸くなった。体は軽やかで、心は満たされている。換毛期は、僕と家族の絆を、毛糸のように紡いでくれる。
ありがとう、ききさん。ありがとう、家族のみんな。
僕は安心して、心地よい眠りについた。次に換毛期が来る時も、きっと家族は僕のために、この温かい時間を用意してくれるだろう。
換毛期とブラッシング。それは、僕のぴょん生を彩る、大切な、温かい出来事だ。
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