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第2話 和泉の社⑤
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「正確には、戻れないんだ。今の術を解いてしまえば、きっと和泉にはもう、あの姿に変化する力は残っていないから」
狭く湿っぽい路地裏に、宇迦さんの声の余韻が響いていた。壁に埋め込まれた小さな社を、伏し目がちに静かに見つめてしまう。
そんな静寂を打ち破るように、店から派手な音が起こる。
ただならぬ音に駆けていくと、店の中で和泉さんが倒れていた。
「和泉さん!?」
倒れる時に掴んだのか、周りにはボウルや泡立て器が散乱していた。
荒い呼吸を繰り返す和泉さんは、震える腕でどうにか立ち上がろうとする。手助けしようと隣に膝を折るも、彼が私を認識している様子はない。眼鏡越しに見える瞳はぼんやりとして、焦点があっていないようだった。
「和泉さん!」
再び名前を呼んで彼の肩に触れる。その瞬間、身体の熱さにはっとした。
「体調悪いんですか? すぐに休んだ方が……」
話しかけるも、そんな私の声は果たして届いているのだろうか。不安になりかけた時、ふっと彼の瞳がこちらへと向けられる。
「み、すず……?」
熱に浮かされてふやけそうな瞳の輪郭が、切なげに私を捉えた。両肩を痛いくらいに掴まれて、あまりの力強さに尻もちをつく。
「い、和泉さん……!?」
「おやおや、これは重症だね」
いつの間にか隣で様子を見ていたらしい宇迦さんがぽつりと零す。
和泉さんのうなじを白い指先でつんと突くと、和泉さんは糸が切れた人形のように私へと崩れ落ちてきた。
「何、したんですか?」
「ちょっと眠らせただけだよ。目覚めた頃には楽になってるんじゃないかな」
私にもたれかかるように倒れてきた彼の様子を窺う。確かに先ほどよりも呼吸は楽そうで、表情も幾分穏やかになっていた。
宇迦さんに手伝ってもらい、長身の和泉さんの身体をどうにか二階の祖父の家へと運び込んだ。
規則正しい寝息を立てる和泉さんの横で、六畳一間に正座する宇迦さんと向かい合う。和泉さんが散らかし、混沌とした部屋の中に凛と佇む宇迦さんは明らかに存在が浮いていた。
「すみません、私もあまりこの家の勝手が分からないのでお茶も出せず……」
「気にしてないよ。君が鍵を持っていてくれて助かった」
ふんわりと彼が微笑むと、火の粉のように輝く毛先がちりっと揺れた。その美しさはずっと見ても飽きず、気を抜けばすぐに見惚れてしまいそうになる。
そんな誘惑を振り切るように、気になっていた疑問を口にする。
「和泉さんは大丈夫なんでしょうか? 何かの病気とか?」
そもそも神様は病にかかるのだろうか、と分からないことだらけだ。そんな私の疑問を察してか、宇迦さんは丁寧に説明してくれる。
「これも信仰が薄れてる影響のひとつだよ。特に和泉は変化の術を使い続けて無理してるからね。おそらく、自浄がうまくいってないんだ」
「じじょう?」
「こう見えても一応、土地神なんだよ。その土地の穢れを引き受けて、清らかなものに還すのも仕事のうち。それを自浄って呼んでるんだけど、力が弱まるとこうして穢れが身の内に溜まって稀に体調を崩しちゃって……まぁ、人間で言う風邪みたいなものかな」
眉をハの字にしながら、宇迦さんは苦笑混じりに言った。それはもしかすると、私を安心させるための笑みだったのかもしれない。
「治す方法はあるんですか?」
「ひとまずは自浄に専念するための休息かな」
「ひとまず?」
「信仰が回復しない限り、根本的な解決にはならないからね」
──……信仰も、畏怖もなくていい。
和泉さんは倒れる前にそう言っていた。どこかその言葉の響きが投げやりだったのは、彼自身も解決にはならないことを悟っているからだろうか。
「じゃあ、僕はこれで」
すっと腰を上げた宇迦さんに、つい心細さを覚えてしまう。そんな気持ちが顔に出たのか、彼はほっそりとした手で私の頭を撫でた。まるで子供をあやすような手つきは、随分と懐かしい心地がする。
「寝かせていれば大丈夫だから。あとは美味しいものでも食べさせてあげて。綺麗な水で炊いたお米とか、瑞々しい野菜とか」
「本当に風邪ひいた時の看病みたいですね」
「うん。だから和泉のこと、よろしく頼むよ」
そんなことを言われてしまえば引き留めることはできなかった。宇迦さんが帰って静かになった部屋の中で、眠ったままの和泉さんを見つめる。
神様は、もっと優雅に暮らしているだけのものかと思っていたけれど、和泉さんを見ているとその姿は程遠い。
「……私、何してるんだろう」
私も生活を維持するために、自立するために働いていた。体も心もボロボロになりながら、なんで働かないといけないんだろう、なんて考え始めると底なし沼に落ちていくようで、必死に手足を動かしていた。
やがて力尽き、動くことをやめた身体はずぶずぶと何もない沼の底へと落ちていくだけなのだ。
でも、和泉さんと比べたら私は随分恵まれているらしい。休職中で、無為に一日を過ごしても体調が崩れることはない。貯金とちょっとの給付金で今のところ食い繋いでいる。
そんな私が、和泉さんから住処まで奪おうとしていたなんて……
ぐぎゅるるる~……
突然、特大のお腹の虫が鳴いた。私ではなく、眠っている和泉さんのお腹から。
「ご飯、作りますね……」
まだ眠ったままの和泉さんに言い残して、静かに家を出た。スーパーは目の前だ。
狭く湿っぽい路地裏に、宇迦さんの声の余韻が響いていた。壁に埋め込まれた小さな社を、伏し目がちに静かに見つめてしまう。
そんな静寂を打ち破るように、店から派手な音が起こる。
ただならぬ音に駆けていくと、店の中で和泉さんが倒れていた。
「和泉さん!?」
倒れる時に掴んだのか、周りにはボウルや泡立て器が散乱していた。
荒い呼吸を繰り返す和泉さんは、震える腕でどうにか立ち上がろうとする。手助けしようと隣に膝を折るも、彼が私を認識している様子はない。眼鏡越しに見える瞳はぼんやりとして、焦点があっていないようだった。
「和泉さん!」
再び名前を呼んで彼の肩に触れる。その瞬間、身体の熱さにはっとした。
「体調悪いんですか? すぐに休んだ方が……」
話しかけるも、そんな私の声は果たして届いているのだろうか。不安になりかけた時、ふっと彼の瞳がこちらへと向けられる。
「み、すず……?」
熱に浮かされてふやけそうな瞳の輪郭が、切なげに私を捉えた。両肩を痛いくらいに掴まれて、あまりの力強さに尻もちをつく。
「い、和泉さん……!?」
「おやおや、これは重症だね」
いつの間にか隣で様子を見ていたらしい宇迦さんがぽつりと零す。
和泉さんのうなじを白い指先でつんと突くと、和泉さんは糸が切れた人形のように私へと崩れ落ちてきた。
「何、したんですか?」
「ちょっと眠らせただけだよ。目覚めた頃には楽になってるんじゃないかな」
私にもたれかかるように倒れてきた彼の様子を窺う。確かに先ほどよりも呼吸は楽そうで、表情も幾分穏やかになっていた。
宇迦さんに手伝ってもらい、長身の和泉さんの身体をどうにか二階の祖父の家へと運び込んだ。
規則正しい寝息を立てる和泉さんの横で、六畳一間に正座する宇迦さんと向かい合う。和泉さんが散らかし、混沌とした部屋の中に凛と佇む宇迦さんは明らかに存在が浮いていた。
「すみません、私もあまりこの家の勝手が分からないのでお茶も出せず……」
「気にしてないよ。君が鍵を持っていてくれて助かった」
ふんわりと彼が微笑むと、火の粉のように輝く毛先がちりっと揺れた。その美しさはずっと見ても飽きず、気を抜けばすぐに見惚れてしまいそうになる。
そんな誘惑を振り切るように、気になっていた疑問を口にする。
「和泉さんは大丈夫なんでしょうか? 何かの病気とか?」
そもそも神様は病にかかるのだろうか、と分からないことだらけだ。そんな私の疑問を察してか、宇迦さんは丁寧に説明してくれる。
「これも信仰が薄れてる影響のひとつだよ。特に和泉は変化の術を使い続けて無理してるからね。おそらく、自浄がうまくいってないんだ」
「じじょう?」
「こう見えても一応、土地神なんだよ。その土地の穢れを引き受けて、清らかなものに還すのも仕事のうち。それを自浄って呼んでるんだけど、力が弱まるとこうして穢れが身の内に溜まって稀に体調を崩しちゃって……まぁ、人間で言う風邪みたいなものかな」
眉をハの字にしながら、宇迦さんは苦笑混じりに言った。それはもしかすると、私を安心させるための笑みだったのかもしれない。
「治す方法はあるんですか?」
「ひとまずは自浄に専念するための休息かな」
「ひとまず?」
「信仰が回復しない限り、根本的な解決にはならないからね」
──……信仰も、畏怖もなくていい。
和泉さんは倒れる前にそう言っていた。どこかその言葉の響きが投げやりだったのは、彼自身も解決にはならないことを悟っているからだろうか。
「じゃあ、僕はこれで」
すっと腰を上げた宇迦さんに、つい心細さを覚えてしまう。そんな気持ちが顔に出たのか、彼はほっそりとした手で私の頭を撫でた。まるで子供をあやすような手つきは、随分と懐かしい心地がする。
「寝かせていれば大丈夫だから。あとは美味しいものでも食べさせてあげて。綺麗な水で炊いたお米とか、瑞々しい野菜とか」
「本当に風邪ひいた時の看病みたいですね」
「うん。だから和泉のこと、よろしく頼むよ」
そんなことを言われてしまえば引き留めることはできなかった。宇迦さんが帰って静かになった部屋の中で、眠ったままの和泉さんを見つめる。
神様は、もっと優雅に暮らしているだけのものかと思っていたけれど、和泉さんを見ているとその姿は程遠い。
「……私、何してるんだろう」
私も生活を維持するために、自立するために働いていた。体も心もボロボロになりながら、なんで働かないといけないんだろう、なんて考え始めると底なし沼に落ちていくようで、必死に手足を動かしていた。
やがて力尽き、動くことをやめた身体はずぶずぶと何もない沼の底へと落ちていくだけなのだ。
でも、和泉さんと比べたら私は随分恵まれているらしい。休職中で、無為に一日を過ごしても体調が崩れることはない。貯金とちょっとの給付金で今のところ食い繋いでいる。
そんな私が、和泉さんから住処まで奪おうとしていたなんて……
ぐぎゅるるる~……
突然、特大のお腹の虫が鳴いた。私ではなく、眠っている和泉さんのお腹から。
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まだ眠ったままの和泉さんに言い残して、静かに家を出た。スーパーは目の前だ。
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