24 / 25
第二十三話 石の記憶
しおりを挟む
胸に鋭い冷たさと、次いで痛みを伴う熱さを覚えた。
(あぁ――刺されたのか)
そう、不思議と他人事のような納得する。
だからこそ、不意に頭の中で再生し始めたそれを、よく聞く走馬灯というものだと思って疑わなかったのだが。
だがそれは、走馬灯にしてはどこか遠い出来事で。しかし遠い出来事にしては――懐かしく、苦しかった。
※※※
その日も、特にいつもと変わりがあったわけではなく。城を抜け出した私は、一人で川原を散策していた。
大した目的があったわけではなかった。ただ、本来自分がいなければならない場所は、いつからか息苦しさを覚えるようになっていた。
向けられる多大な期待も、羨望も、敬意も――もしなにかの拍子に裏切ってしまったなら、それだけ失望も大きなものとなるのだろうと。そう考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
そんなときだった。彼女を見つけたのは。
まだ水の冷たい季節であるにも関わらず、腰まで川に浸かった彼女は、酷く鋭い眼差しをしていた。
思えば――最初は、その目に惹かれたのだろう。
気がつけば、私は彼女に声をかけていた。
「なにをしているの」とか、そんな間の抜けた質問だったかと思う。
だが結果的に――それが、彼女と後の君の命を救ったのだから、間抜けもたまには役に立つものだ。
彼女は僕を見るなり、顔をくしゃりとさせ、剣呑な目からは涙を流した。そして言った。
「貴方みたいな綺麗な化け物に食べられるなら。冷たい川より、そっちの方が幸せかも」
と。
とにかく、彼女を川から引き上げると、そのまま彼女の家まで送った。彼女は少し興奮していて、「どうして助けたの」、「貴方、魔物でしょ? 食べてくれるんじゃないの?」と、口早に問いかけてきた。
家につき、服を着替えて温かいものを飲む頃には、彼女は落ち着きを取り戻していた。
彼女は身重だった。もっと親しくなってから聞いた話ではあったが、良い家柄に生まれた彼女は、釣り合わない男と恋に落ち――そして彼女が身ごもったことを知った途端、尻込みした男に逃げられてしまったらしい。特に頭の固い父親は激怒し、堕胎するよう迫ってきたが、それを逃れるために単身、家を飛び出したのだとか。
「でも、お腹が大きくなるほどにね。不安の方が強くなっちゃって。村ではなかなか打ち解けられないし、なんだか、うまくやっていける自信がなくなって……。魔が差した、ってやつかな」
「その魔に助けられちゃったけど」と、彼女は笑った。
彼女は、魔物の私を怖れなかった。それどころか歓迎し、食事まで振る舞った。
「私のことが、怖くない?」
そう訊ねると、彼女は薄く笑った。
「独りぼっちの方が、ずっと怖い」
私は、彼女に名前も身分も明かさなかった。彼女も特に訊かず、また自分の名前も言わなかった。「貴方」、「君」と、私たちは互いに呼び合い、それ以上は特に必要と感じなかった。
私は時折、彼女を訪ねるようになった。幸い、彼女の家は村の外れであるため、滅多に人目にはつかなかった。
特になにをするわけでもなかった。強いて言えば、段々と腹が大きくなる彼女の、ちょっとした身の回りの手伝いだとか、一緒に食事をしながらとりとめのないことを語らうだとか、その程度だ。
その程度が、何故だかとてつもない幸せだった。
彼女は弱い女性だった。あの日、川の中で見た剣呑な目は、危うさを薄皮ぎりぎりで包み込んだものだった。独りを怖がり、私が帰るときには拗ねたりしてもみせた。
同時に、とても強くもあった。ほとんどの時間を、村外れで孤独に過ごしながら、腹の中に話しかけ、子守唄を歌い、そして作業になりがちな独りでの食事を、厭わずしっかり摂っていた。
あんなにも弱いはずなのに、それを圧し殺して日常を送ることができる強さは、敬意を表するに値した。
腹が大きい彼女は、よく煮込み料理を作った。日もちがするため、一度多目に作れば楽なのだと、そんなことを言っていた。
彼女の作る、たっぷりの野菜と、腸詰めの肉が入ったポトフが、私は気に入っていた。
「私にとって、君とこの家は、腸詰めみたいなものかな」
ポトフを食べながら私がそう言うと、彼女は怪訝な顔をした。
「それって褒めてるの?」
もちろん、と私は大いに頷いた。
「君といない日は、腸詰めの入っていないポトフみたいに、味気なくて仕方ないからね」
私はいつの間にか、城での生活よりも彼女と過ごす時間に、重きを置くようになっていた。
季節が巡り、彼女は臨月を迎えた。
私は、偶然にも出産という奇蹟に居合わせることができた。彼女に頼まれ、人間に変装をして産婆を迎えに行きながら――ふと、ぞっとした。
もし、自分がたまたま居合わせなかったら、彼女は産婆を呼ぶこともできず、独り出産に臨まなければならなかったのだろうかと。
産婆は私を訝しげに見たが、彼女が産気づいた旨を告げると、急いで支度をしてくれた。
彼女の家に戻ると、産婆に指示されながら部屋を暖め、布を準備し、清潔な水を汲みと、目が回るようだった。
物の準備が終わると、男は出ていくようにと指示を受けた。それを止めたのは、彼女だった。
「怖いから……手を、握っていて」
波のように何度も襲ってくる痛みに、彼女の顔は既に蒼白だった。
私は言われるがままに、彼女の手を握り、汗を拭き、水を飲ませた。だが、徐々に大きくなる悲鳴を聞いていると、その場から逃げ出したくなるのも事実だった。彼女のどこに、そんな力があったのだろうという程の力強さで、手を握られる。それをなんとか握り返しながら、自分の無力さを思わずにはいられなかった。
夕方から始まった戦いは、夜中になっても終わらず、終わりが見えてきたのは、新しい日が昇り始めた頃だった。
彼女はすっかり疲れ果て、痛みと痛みの間の極短い間隔の中で微睡みながら、悲鳴を上げることを繰り返していた。
「そろそろじゃな」
産婆が、産道を確認しながら頷く。
彼女が上げる、悲鳴の音が変わった。声に力強さが増し、私の手を握る強さも増した。
頭が出てきたと、産婆が言う。それを幾度も繰り返し――赤ん坊がとうとう、ずるりとこの世に引き出された。
真っ赤に濡れた小さな身体は、だが産声を上げなかった。産婆が刺激を与えても泣かず、その場の空気に焦りが生まれてきた。握る彼女の手が震え、力が抜けるのを感じ、私は酷く焦った。
私はそのとき――自分が正気だったのか、自信がない。彼女の手をその日、初めて振りほどき、産婆から赤ん坊をもぎ取るようにして抱いた。
とても小さな身体だ。とても弱々しい身体だ。だが、必死の思いで、生まれてきた命だ。
気がつけば、私はその小さな身体を抱き締め――そして、魔王としての力を、その身体に注いだ。
それは、赦されないことだろう。魔王の力は、世界の理だ。それを、人間の赤ん坊に一部でも与えるだなんて。
だが――それ以上に、これだけの苦しみと、願いと、祈りとを込めて生まれてきた命が。始まる前に終わってしまうことを、私はそれ以上に赦せなかった。
「君を……愛している」
小さな身体に、そう呼びかける。彼女の中で育ち行くのを、ずっと見守ってきたのだ。この奇蹟に立ち会えたのだ。この小さな命愛する理由なんて、それだけで充分だった。
「だから大丈夫。私が、君を守ってみせる」
だから、と。私は精一杯の祈りをぶつけた。
「だから……生きてッ」
――産声が上がった、その瞬間。
世界が幸福に満ちていることに、私は気がついた。
私がずっと苦しかったことも、彼女が川で命を投げ出そうとする程に追い詰められていたことも。今、このとき全て報われたのだと、そう思った。
彼女は泣いて、言葉もなかった。産婆は奇蹟だと呟いた。赤ん坊は――赤ん坊だった君は、大声を上げて元気に泣いていた。
私は彼女に君を抱かせ、その長い髪を撫でた。
「おつかれさま」
すると彼女は、泣き顔をはにかませて、「ありがとう」と囁いた。きっと、私が赤ん坊になにかをしたと、察したのだろう。私は黙って、彼女の頬に口づけた。
「貴方は……この子の、お父さんね」
そう涙ぐむ彼女に、私は頷いてみせた。
「私も、そうありたいって願うよ」
その日から、私は城へは戻らず、彼女と君から離れなかった。まだ横になっている彼女の代わりに、君を行水させたり、外の景色を共に眺めたりした。君の温かな体温が、愛しくて仕方がなかった。小さな背中に耳をあて、慌ただしくトクントクンとなる心音を聞けるのが、ただただ嬉しかった。
でも、分かっていた。その幸せに、終わりが来ることも。だからこそ、私は君との短い日々を精一杯に楽しんだ。「まだ、あまり振り回さないでよ」と、彼女に呆れられる程に。
城からの遣いがやってきたのは、君が私の顔を、じっと見つめるようになった頃だった。おそらく、なにかを察した〈調停者〉が、城に働きかけたのだろう。
私は一度、城へ戻ることにした。あれ程までに恐れていた、魔物たちが向けてくる不審な目も、もう不思議と怖くなかった。
弟にだけは、事実を話した。案の定、なじられ、責められた。赦されないことだと断罪された。
だが、それらの言葉が、私の胸に刺さることはなかった。私は、私がすべきことをしただけだと、自信をもっていた。君と彼女が幸せであること以外、望むことなどなにもなかった。
ただ、こうなればもう、長くは君たちと共にいられないことが哀しかった。だがそれも、君の父として、君を守れたからこそだと思えば、後悔なんてなかった。
君たちに害が及ぶ前に、私は君たちの前から姿を消さねばならない。魔王としての、けじめもつけなければならない。
だからせめて、この記憶を君に伝えるために。私は弟に、全てを託すことにする。心優しい彼のことだ。裏切り者の私を今は怒っていても、いつかは赦してくれることだろう。
特に、魔王の座を譲ることを、もしかしたら彼は、誤解し、傷つくかもしれない。だが、君に魔王の力の一部がある限り、次の魔王は信用に足る相手でなければ困る。
あぁ、この記憶を見る頃、君はどんな男になっているだろうか。広い世界を、心行くまで味わっているだろうか。
彼女は、君がいればもう独りぼっちで泣くこともないだろう。そう、惜しむことがあるなら――彼女の名前を、私は知らないまま、いかなければならないことだ。
でも、彼女は私の名前を知っている。ただ、それとは知らないだろうけれど。今も幸せそうに、その名を呼んでいるに違いない。
リュース――君に名前を贈ることができたのを、私は光栄に思うよ。
※※※
「――リュースさんっ!」
名前を呼ばれて、リュースはゆっくりと目を開いた。アレフィオスとエリシアが、心配そうに顔を覗き込んでいた。
一瞬、頭の中が混乱しかける。落ち着いて周りを見ると、ここが魔王の玉座の間で、自分が倒れていることに気がついた。床に散らばったガラスの破片が、背中にちくちくと当たって痛い。
「……っ」
起き上がろうとすると、胸にずきりと痛みが走った。手をやると、ぬめりとした血と――粉々になった石の首飾りの残骸とに触れた。
「傷が浅くて、本当に良かった」
泣きそうな顔で、アレフィオスが言う。
そうか――と思う。
どうやら自分は、また父親というものに助けられたのかと、ぼんやりと察した。
首を回して周囲を確認すると、状況が少し変わっていた。
気を失っている〈剣聖〉は、いつの間に来たのか、ドクターとシオンが介抱していた(エネトがシオンに背負われているのは、もはやどうでも良かった)。
自分の身体を取り戻した警護長は、アレフィオスの側に立っている。そして、彼を操っていた〈調停者〉の元には、アーティエがいた。
「あぁ、起きたのかい」
こちらに気がついたアーティエが、にこりと笑いかけてくる。その身体は、文字通り片割れの上に乗り、暴れる彼女を抑え込んでいた。
「連れが、やり過ぎたようだ」
「なにがやり過ぎよ。アタシは、仕事をしようとしただけじゃない」
噛みつくように唸る片割れに、アーティエは首を振ってみせた。
「気絶している人間まで操って、直接誰かを殺そうとしたら、そんなのは流石にこっちのルール違反だ」
「ルール違反を先にしたのは、アッチでしょ? そのために来たのに――」
「そのために僕らがルール違反をしたんじゃ、本末転倒だろ?」
片割れはますます不満げな顔をして、リュースを睨んだ。リュースが黙って見返していると、やがて「ふん」と顔を背け、力を抜いた。
「魔王殿」
「は……はい」
びくりと震えながら、アレフィオスが頷く。そう言えば、アレフィオスはずっと、アーティエに対しどこか怯えていたなと、ふと思い出す。
「僕らは、今回は退かせてもらうよ。君の言った通り――取り敢えずは、支障がなさそうだからね。でも、支障が起きたならば、そのときはまた……来るけどね」
最後はリュースに向けて、アーティエが笑いかけた。それに、「へっ」と小さく笑い返す。反動で胸が痛み、小さく呻くとエリシアが慌てて傷口を布で押さえた。
「どうせ……俺があと数十年後にぽっくり逝けば、俺の力はこいつに戻るんだろ?」
「君の寿命に関しては確証がなかったから、今回動いたのだけれど――まぁ、たぶんきっと、そうだろうね」
頷いたアーティエの視線は、リュースの胸元に向けられていた。こいつ、とリュースは呆れて笑った。傷が引きつって痛みを覚えるが、笑わずにはいられなかった。本当に、抜け目がない。
「ちょっと、なに急に笑ってんのよ」
エリシアが口を尖らせ注意してくるのに、リュースは片手を挙げて従った。
「それから――ソーディア王国の第一王子殿」
「うん?」
急に話を振られ、エネトはシオンの背で首を傾げた。シオンの目が、警戒に光る。
「君らの疑問に答えてあげようと思ってね。――魔王は残念ながら、不死じゃない。もし……不死についてそれでもまだ興味があるなら、僕ら〈調停者〉について調べることだね」
自分の腕を示しながら言うアーティエに、エネトは見るからに嫌そうな顔をした。
「別に、父上を化け物にしたいわけではないからな。遠慮しておく」
明け透けな言いように、アーティエはくすくすと笑った。
「それじゃ――皆、さよならだ。一先ずね」
言うなり。
パッと。〈調停者〉らの姿は消えた。まるで、はじめからそこになど、いなかったかのように。
「……ったく」
リュースはまた小さく笑った。胸の痛みも、かえって心地よかった。
割れた天窓の先では、まるで笑い顔のような三日月が、暗くなった空にくっきりと白く輝いていた。
(あぁ――刺されたのか)
そう、不思議と他人事のような納得する。
だからこそ、不意に頭の中で再生し始めたそれを、よく聞く走馬灯というものだと思って疑わなかったのだが。
だがそれは、走馬灯にしてはどこか遠い出来事で。しかし遠い出来事にしては――懐かしく、苦しかった。
※※※
その日も、特にいつもと変わりがあったわけではなく。城を抜け出した私は、一人で川原を散策していた。
大した目的があったわけではなかった。ただ、本来自分がいなければならない場所は、いつからか息苦しさを覚えるようになっていた。
向けられる多大な期待も、羨望も、敬意も――もしなにかの拍子に裏切ってしまったなら、それだけ失望も大きなものとなるのだろうと。そう考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
そんなときだった。彼女を見つけたのは。
まだ水の冷たい季節であるにも関わらず、腰まで川に浸かった彼女は、酷く鋭い眼差しをしていた。
思えば――最初は、その目に惹かれたのだろう。
気がつけば、私は彼女に声をかけていた。
「なにをしているの」とか、そんな間の抜けた質問だったかと思う。
だが結果的に――それが、彼女と後の君の命を救ったのだから、間抜けもたまには役に立つものだ。
彼女は僕を見るなり、顔をくしゃりとさせ、剣呑な目からは涙を流した。そして言った。
「貴方みたいな綺麗な化け物に食べられるなら。冷たい川より、そっちの方が幸せかも」
と。
とにかく、彼女を川から引き上げると、そのまま彼女の家まで送った。彼女は少し興奮していて、「どうして助けたの」、「貴方、魔物でしょ? 食べてくれるんじゃないの?」と、口早に問いかけてきた。
家につき、服を着替えて温かいものを飲む頃には、彼女は落ち着きを取り戻していた。
彼女は身重だった。もっと親しくなってから聞いた話ではあったが、良い家柄に生まれた彼女は、釣り合わない男と恋に落ち――そして彼女が身ごもったことを知った途端、尻込みした男に逃げられてしまったらしい。特に頭の固い父親は激怒し、堕胎するよう迫ってきたが、それを逃れるために単身、家を飛び出したのだとか。
「でも、お腹が大きくなるほどにね。不安の方が強くなっちゃって。村ではなかなか打ち解けられないし、なんだか、うまくやっていける自信がなくなって……。魔が差した、ってやつかな」
「その魔に助けられちゃったけど」と、彼女は笑った。
彼女は、魔物の私を怖れなかった。それどころか歓迎し、食事まで振る舞った。
「私のことが、怖くない?」
そう訊ねると、彼女は薄く笑った。
「独りぼっちの方が、ずっと怖い」
私は、彼女に名前も身分も明かさなかった。彼女も特に訊かず、また自分の名前も言わなかった。「貴方」、「君」と、私たちは互いに呼び合い、それ以上は特に必要と感じなかった。
私は時折、彼女を訪ねるようになった。幸い、彼女の家は村の外れであるため、滅多に人目にはつかなかった。
特になにをするわけでもなかった。強いて言えば、段々と腹が大きくなる彼女の、ちょっとした身の回りの手伝いだとか、一緒に食事をしながらとりとめのないことを語らうだとか、その程度だ。
その程度が、何故だかとてつもない幸せだった。
彼女は弱い女性だった。あの日、川の中で見た剣呑な目は、危うさを薄皮ぎりぎりで包み込んだものだった。独りを怖がり、私が帰るときには拗ねたりしてもみせた。
同時に、とても強くもあった。ほとんどの時間を、村外れで孤独に過ごしながら、腹の中に話しかけ、子守唄を歌い、そして作業になりがちな独りでの食事を、厭わずしっかり摂っていた。
あんなにも弱いはずなのに、それを圧し殺して日常を送ることができる強さは、敬意を表するに値した。
腹が大きい彼女は、よく煮込み料理を作った。日もちがするため、一度多目に作れば楽なのだと、そんなことを言っていた。
彼女の作る、たっぷりの野菜と、腸詰めの肉が入ったポトフが、私は気に入っていた。
「私にとって、君とこの家は、腸詰めみたいなものかな」
ポトフを食べながら私がそう言うと、彼女は怪訝な顔をした。
「それって褒めてるの?」
もちろん、と私は大いに頷いた。
「君といない日は、腸詰めの入っていないポトフみたいに、味気なくて仕方ないからね」
私はいつの間にか、城での生活よりも彼女と過ごす時間に、重きを置くようになっていた。
季節が巡り、彼女は臨月を迎えた。
私は、偶然にも出産という奇蹟に居合わせることができた。彼女に頼まれ、人間に変装をして産婆を迎えに行きながら――ふと、ぞっとした。
もし、自分がたまたま居合わせなかったら、彼女は産婆を呼ぶこともできず、独り出産に臨まなければならなかったのだろうかと。
産婆は私を訝しげに見たが、彼女が産気づいた旨を告げると、急いで支度をしてくれた。
彼女の家に戻ると、産婆に指示されながら部屋を暖め、布を準備し、清潔な水を汲みと、目が回るようだった。
物の準備が終わると、男は出ていくようにと指示を受けた。それを止めたのは、彼女だった。
「怖いから……手を、握っていて」
波のように何度も襲ってくる痛みに、彼女の顔は既に蒼白だった。
私は言われるがままに、彼女の手を握り、汗を拭き、水を飲ませた。だが、徐々に大きくなる悲鳴を聞いていると、その場から逃げ出したくなるのも事実だった。彼女のどこに、そんな力があったのだろうという程の力強さで、手を握られる。それをなんとか握り返しながら、自分の無力さを思わずにはいられなかった。
夕方から始まった戦いは、夜中になっても終わらず、終わりが見えてきたのは、新しい日が昇り始めた頃だった。
彼女はすっかり疲れ果て、痛みと痛みの間の極短い間隔の中で微睡みながら、悲鳴を上げることを繰り返していた。
「そろそろじゃな」
産婆が、産道を確認しながら頷く。
彼女が上げる、悲鳴の音が変わった。声に力強さが増し、私の手を握る強さも増した。
頭が出てきたと、産婆が言う。それを幾度も繰り返し――赤ん坊がとうとう、ずるりとこの世に引き出された。
真っ赤に濡れた小さな身体は、だが産声を上げなかった。産婆が刺激を与えても泣かず、その場の空気に焦りが生まれてきた。握る彼女の手が震え、力が抜けるのを感じ、私は酷く焦った。
私はそのとき――自分が正気だったのか、自信がない。彼女の手をその日、初めて振りほどき、産婆から赤ん坊をもぎ取るようにして抱いた。
とても小さな身体だ。とても弱々しい身体だ。だが、必死の思いで、生まれてきた命だ。
気がつけば、私はその小さな身体を抱き締め――そして、魔王としての力を、その身体に注いだ。
それは、赦されないことだろう。魔王の力は、世界の理だ。それを、人間の赤ん坊に一部でも与えるだなんて。
だが――それ以上に、これだけの苦しみと、願いと、祈りとを込めて生まれてきた命が。始まる前に終わってしまうことを、私はそれ以上に赦せなかった。
「君を……愛している」
小さな身体に、そう呼びかける。彼女の中で育ち行くのを、ずっと見守ってきたのだ。この奇蹟に立ち会えたのだ。この小さな命愛する理由なんて、それだけで充分だった。
「だから大丈夫。私が、君を守ってみせる」
だから、と。私は精一杯の祈りをぶつけた。
「だから……生きてッ」
――産声が上がった、その瞬間。
世界が幸福に満ちていることに、私は気がついた。
私がずっと苦しかったことも、彼女が川で命を投げ出そうとする程に追い詰められていたことも。今、このとき全て報われたのだと、そう思った。
彼女は泣いて、言葉もなかった。産婆は奇蹟だと呟いた。赤ん坊は――赤ん坊だった君は、大声を上げて元気に泣いていた。
私は彼女に君を抱かせ、その長い髪を撫でた。
「おつかれさま」
すると彼女は、泣き顔をはにかませて、「ありがとう」と囁いた。きっと、私が赤ん坊になにかをしたと、察したのだろう。私は黙って、彼女の頬に口づけた。
「貴方は……この子の、お父さんね」
そう涙ぐむ彼女に、私は頷いてみせた。
「私も、そうありたいって願うよ」
その日から、私は城へは戻らず、彼女と君から離れなかった。まだ横になっている彼女の代わりに、君を行水させたり、外の景色を共に眺めたりした。君の温かな体温が、愛しくて仕方がなかった。小さな背中に耳をあて、慌ただしくトクントクンとなる心音を聞けるのが、ただただ嬉しかった。
でも、分かっていた。その幸せに、終わりが来ることも。だからこそ、私は君との短い日々を精一杯に楽しんだ。「まだ、あまり振り回さないでよ」と、彼女に呆れられる程に。
城からの遣いがやってきたのは、君が私の顔を、じっと見つめるようになった頃だった。おそらく、なにかを察した〈調停者〉が、城に働きかけたのだろう。
私は一度、城へ戻ることにした。あれ程までに恐れていた、魔物たちが向けてくる不審な目も、もう不思議と怖くなかった。
弟にだけは、事実を話した。案の定、なじられ、責められた。赦されないことだと断罪された。
だが、それらの言葉が、私の胸に刺さることはなかった。私は、私がすべきことをしただけだと、自信をもっていた。君と彼女が幸せであること以外、望むことなどなにもなかった。
ただ、こうなればもう、長くは君たちと共にいられないことが哀しかった。だがそれも、君の父として、君を守れたからこそだと思えば、後悔なんてなかった。
君たちに害が及ぶ前に、私は君たちの前から姿を消さねばならない。魔王としての、けじめもつけなければならない。
だからせめて、この記憶を君に伝えるために。私は弟に、全てを託すことにする。心優しい彼のことだ。裏切り者の私を今は怒っていても、いつかは赦してくれることだろう。
特に、魔王の座を譲ることを、もしかしたら彼は、誤解し、傷つくかもしれない。だが、君に魔王の力の一部がある限り、次の魔王は信用に足る相手でなければ困る。
あぁ、この記憶を見る頃、君はどんな男になっているだろうか。広い世界を、心行くまで味わっているだろうか。
彼女は、君がいればもう独りぼっちで泣くこともないだろう。そう、惜しむことがあるなら――彼女の名前を、私は知らないまま、いかなければならないことだ。
でも、彼女は私の名前を知っている。ただ、それとは知らないだろうけれど。今も幸せそうに、その名を呼んでいるに違いない。
リュース――君に名前を贈ることができたのを、私は光栄に思うよ。
※※※
「――リュースさんっ!」
名前を呼ばれて、リュースはゆっくりと目を開いた。アレフィオスとエリシアが、心配そうに顔を覗き込んでいた。
一瞬、頭の中が混乱しかける。落ち着いて周りを見ると、ここが魔王の玉座の間で、自分が倒れていることに気がついた。床に散らばったガラスの破片が、背中にちくちくと当たって痛い。
「……っ」
起き上がろうとすると、胸にずきりと痛みが走った。手をやると、ぬめりとした血と――粉々になった石の首飾りの残骸とに触れた。
「傷が浅くて、本当に良かった」
泣きそうな顔で、アレフィオスが言う。
そうか――と思う。
どうやら自分は、また父親というものに助けられたのかと、ぼんやりと察した。
首を回して周囲を確認すると、状況が少し変わっていた。
気を失っている〈剣聖〉は、いつの間に来たのか、ドクターとシオンが介抱していた(エネトがシオンに背負われているのは、もはやどうでも良かった)。
自分の身体を取り戻した警護長は、アレフィオスの側に立っている。そして、彼を操っていた〈調停者〉の元には、アーティエがいた。
「あぁ、起きたのかい」
こちらに気がついたアーティエが、にこりと笑いかけてくる。その身体は、文字通り片割れの上に乗り、暴れる彼女を抑え込んでいた。
「連れが、やり過ぎたようだ」
「なにがやり過ぎよ。アタシは、仕事をしようとしただけじゃない」
噛みつくように唸る片割れに、アーティエは首を振ってみせた。
「気絶している人間まで操って、直接誰かを殺そうとしたら、そんなのは流石にこっちのルール違反だ」
「ルール違反を先にしたのは、アッチでしょ? そのために来たのに――」
「そのために僕らがルール違反をしたんじゃ、本末転倒だろ?」
片割れはますます不満げな顔をして、リュースを睨んだ。リュースが黙って見返していると、やがて「ふん」と顔を背け、力を抜いた。
「魔王殿」
「は……はい」
びくりと震えながら、アレフィオスが頷く。そう言えば、アレフィオスはずっと、アーティエに対しどこか怯えていたなと、ふと思い出す。
「僕らは、今回は退かせてもらうよ。君の言った通り――取り敢えずは、支障がなさそうだからね。でも、支障が起きたならば、そのときはまた……来るけどね」
最後はリュースに向けて、アーティエが笑いかけた。それに、「へっ」と小さく笑い返す。反動で胸が痛み、小さく呻くとエリシアが慌てて傷口を布で押さえた。
「どうせ……俺があと数十年後にぽっくり逝けば、俺の力はこいつに戻るんだろ?」
「君の寿命に関しては確証がなかったから、今回動いたのだけれど――まぁ、たぶんきっと、そうだろうね」
頷いたアーティエの視線は、リュースの胸元に向けられていた。こいつ、とリュースは呆れて笑った。傷が引きつって痛みを覚えるが、笑わずにはいられなかった。本当に、抜け目がない。
「ちょっと、なに急に笑ってんのよ」
エリシアが口を尖らせ注意してくるのに、リュースは片手を挙げて従った。
「それから――ソーディア王国の第一王子殿」
「うん?」
急に話を振られ、エネトはシオンの背で首を傾げた。シオンの目が、警戒に光る。
「君らの疑問に答えてあげようと思ってね。――魔王は残念ながら、不死じゃない。もし……不死についてそれでもまだ興味があるなら、僕ら〈調停者〉について調べることだね」
自分の腕を示しながら言うアーティエに、エネトは見るからに嫌そうな顔をした。
「別に、父上を化け物にしたいわけではないからな。遠慮しておく」
明け透けな言いように、アーティエはくすくすと笑った。
「それじゃ――皆、さよならだ。一先ずね」
言うなり。
パッと。〈調停者〉らの姿は消えた。まるで、はじめからそこになど、いなかったかのように。
「……ったく」
リュースはまた小さく笑った。胸の痛みも、かえって心地よかった。
割れた天窓の先では、まるで笑い顔のような三日月が、暗くなった空にくっきりと白く輝いていた。
0
あなたにおすすめの小説
最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である
megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
王女様は聖女様?おてんば姫の大冒険~ペットのドラゴンが迷子なので冒険者になって探しに行きます!~
しましまにゃんこ
ファンタジー
アリシア王国の第3王女ティアラ姫には誰にも言えない秘密があった。
それは自分が全属性の魔力を持ち、最強のチート能力を持っていた「建国の賢者アリシア」の生まれ変わりであること!
8才の誕生日を境に前世の記憶を取り戻したものの、500年後に転生したことを知って慌てる。なぜなら死の直前、パートナーのドラゴンに必ず生まれ変わって会いにいくと約束したから。
どこにいてもきっとわかる!と豪語したものの、肝心のドラゴンの気配を感じることができない。全属性の魔力は受け継いだものの、かつての力に比べて圧倒的に弱くなっていたのだ!
「500年……長い。いや、でも、ドラゴンだし。きっと生きてる、よね?待ってて。約束通りきっと会いにいくから!」
かつての力を取り戻しつつ、チートな魔法で大活躍!愛する家族と優しい婚約者候補、可愛い獣人たちに囲まれた穏やかで平和な日々。
しかし、かつての母国が各国に向けて宣戦布告したことにより、少しずつ世界の平和が脅かされていく。
「今度こそ、私が世界を救って見せる!」
失われたドラゴンと世界の破滅を防ぐため、ティアラ姫の冒険の旅が今、始まる!
剣と魔法が織りなすファンタジーの世界で、アリシア王国第3王女として生まれ変わったかつての賢者が巻き起こす、愛と成長と冒険の物語です。
イケメン王子たちとの甘い恋の行方もお見逃しなく。
小説家になろう、カクヨムさま他サイトでも投稿しています。
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる