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序章
3幕 ゼルキアンの悪名
しおりを挟む思わず、魔族の男は苦い声で吐き捨てた。だが、肉袋には気にした様子もない。
「説教か。どうせ、同じ穴の狢のくせに。それに」
肉に埋もれた小狡い目が、優位に立つ者の余裕を浮かべる。
「それをオレに話すということは、何らかの形でオレが必要だということだろう。でなければ」
にやり、たるんだ口元が不気味な笑みを浮かべた。
「わざわざオレに話したりせず、勝手に奪っていくはずだ、あんたなら」
魔族の男は、どうでもよさげに肩を竦める。その身は既に、階段の真下にあった。
「それで、マナの流れがどうしたって?」
「見ればわかるだろう?」
空気の流れを掴むように、魔族の男は片手を伸ばす。
「現在、ゼルキアン領のマナは、結界内にとどまっている。驚くべきことに、その広大な領域一帯すべてのマナが、一つの意思に基づいた動きを見せていた」
魔族の男は、一歩一歩階段を踏みしめ、上がり始めた。
肉袋が、わずかに警戒をにじませる。
それを見上げながら、魔族の男は言葉を続けた。
「オズヴァルト・ゼルキアンの身体を、この地に縫い留めるような動きをな」
魔人たちは、ハッと顔を上げた。
彼らは知らなかった。即ち、災厄は。
―――――オズヴァルト・ゼルキアンの肉体に封じられているということ。
だが驚いたのは、魔人たちばかりではない。
「な、なんだとっ」
怖じ気づいた態度を見せていた肉袋が、思わずと言った態度で再度身を乗り出した。
「馬鹿を言うな、いくらオレが探っても、そんな気配は」
「不思議には思わなかったのか?」
腹を立てたような肉袋に対し、魔族の男は冷静に返す。
「どう努力したって、お前はこの城からすら出られなかっただろう。その理由を」
次いで吐き捨てられたのは、心からの侮蔑。
「一度も考えなかったのか、阿呆が」
「ではっ、では、この身体に災厄が…!」
恐怖などどこかへ行った様子で、肉袋が広げた自身の両手を見下ろす。
手はぶるぶると震えていた。恐怖ではない。
歓喜ともいえる興奮で。
「だが本当に、そんな気配は…」
気の抜けた声で肉袋が言うのに、
「間抜けだな」
その頭上に、影が落ちる。と思った時には。
「―――――がっ!」
肉袋が階段から転がり落ち、エントランスの真ん中で止まった。
戸惑った魔人たちが、その光景を横目に次々と起き上がる。
魔族の目的が分からない以上、主人を守るべきなのか、単なる魔族同士の喧嘩、と放置すべきなのか判断がつかない。
なにより、主人からはやはりまだ何も命令がなかった。
最初の、客人の魔族の嬲り者になれ、というもの以外は。
ただ彼らが案じているのは、主人の肉体の無事だ。
憑依している魔族がどうなろうと知ったことではない。
階段の上にいる魔族が、せせら笑った。
「無様極まる」
「なんだと…!」
「精神を支配する魔族…精神体にしかすぎないが、心を支配する能力は他のどの一族より秀でているはずなのに、人ひとりすら支配できなかったのか」
しかし、すべては今更だ。
支配すべき、すべてを知る相手オズヴァルト・ゼルキアンは、もうこの世にいないのだから。
「その姿を見る限り」
魔族の男は、冷酷な目を、転がり落ちた肉袋に向けた。
「肉体を得ることで、そこから感じる悦楽に溺れたか」
嘲りに、肉袋が真っ赤になってぶるぶる震える。
「ああそれとも、称えるべきはオズヴァルト・ゼルキアンの能力か…いずれにせよ」
階段の上から、エントランスを見渡し、魔族は勝ち誇った態度で告げた。
「魔人ども、そいつがなんで、自由がないと癇癪を起しながらも、その身体から出ていかないと思う? そもそもそいつの目的は何だ? 知っている者は」
舌打ちした肉袋は跳ね起き、背を向けて駆け出した。扉の外めがけて。
階段上で、その背を掴むように手を伸ばし、魔族の男が言った。
「もう気付いているだろうが、そいつの目的は災厄だ。見つけてどうすると思う?」
尋ねた直後に、魔族の男は自分で答える。
「食うのさ」
魔人たちはぎょっとした。意表外の話だ。
彼等にとって災厄とは、破滅をもたらすだけの力。それを、どうやって。
食う、という発想になるのか。
魔族の男は、平然と続けた。
「人間は知らないだろうな。災厄を食らえば、魔族の能力は飛躍的に上がる」
魔人たちの思考がいっとき、完全に停止する。直後。
―――――呻くような息を吐く音とともに、奇妙な沈黙が場を支配した。
何かを噛み締めるように、一人の男が呆然と呟く。
「では…では、我が君が、五年前、災厄を前に、あの魔族が憑依した奥さまと坊ちゃんを…躊躇なく斬り捨てたのは」
「ふん、あの噂、事実だったか」
大きな角を生やした魔族は、軽蔑しきった目を肉袋へ向けた。
「ご馳走を目前にしながら、残念だったな。ゼルキアン家門の妻と子の身体なら、貴様が災厄を食らう間くらい保ったろうに。妻子に先に憑依したのは考えたものだが、迷わず斬り捨て、魔族が災厄を食らうのを阻止したか。さすがはゼルキアン」
それとも貴様が間抜けなのかな、と魔族の男はせせら笑う。
「まあ、精神体の魔族が憑依した時点で、人間の魂は消滅し、心臓は鼓動を止める。一つの肉体には、一つの魂…オズヴァルト・ゼルキアンが斬り捨てたのは、ただの死体だ」
その言葉に希望を得た態度で、魔人たちが顔を見合わせた。
彼等の態度が腑に落ちず、ふと眉をひそめた魔族の男の脳裏で、ある噂がよぎる。
―――――オズヴァルト・ゼルキアンは、悪魔に憑依された妻子を、彼等が生きているにも関わらず無情に斬り捨てた。
憑依した精神体の悪魔の生態を知る者は、それが間違いだと知っているだろう。
だが、世間はそう見ない。
ゆえに、オズヴァルトはその帰還を心待ちにされると同時に、妻子を斬り殺した『冷酷な男』という印象と悪名がとどまるところなく大陸中に広がっていた。
それを覆す言葉を、魔族の男は口にしたわけだ。
思わず舌打ちしながら、魔族の男は逃げる肉袋の背中を見遣る。
もたもた逃げる相手は彼等の会話を聞いていなかった。
正直な話。
多くの魔族にとって、この事態は期待外れもいいところだった。
魔族の多くはオズヴァルトという個人を警戒して、彼に近寄ることを最初から断念していた。
だが、あの精神体の魔族だけは、何を思ったか、災厄が迫る国の中、オズヴァルトのそばにいたのだ。
その際、オズヴァルトの隙を突き、彼に憑依した。
オズヴァルト・ゼルキアンは家族をとても愛していたという。
ならば隙ができたのは、死んでいたとはいえ、妻子を斬り捨てた時だろう。
その上、いくら捕食対象とはいえ、頸木から逃れ暴れる災厄に近づくのは、魔族にとっても危険だ。
誰もそのような蛮勇は持てない。
だがそれらすべてを、あの魔族はやってのけたのだ。
結局彼が災厄を独り占めするのだろう。
業腹だが、それなりの危険を彼は乗り越えたのだ、認めざるを得なかった。…そう、思われていたのに。
何年経っても、あの魔族が災厄を食らう様子はなかった。
五年だ。
五年間、事態は膠着状態だった。
そのくせ、この地の魔人たちは新たな動きを見せた。
新たな事業を展開、そして次々とこの大陸に販路を開き、独自の情報組織まで作り上げた。
その間、かの魔族が災厄を食らったという話もなく、淡々と日々は過ぎていった。
―――――いったいどういう状況なのか。
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