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序章
2幕 ヴィスリアの魔人
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いずれにせよ、既に彼等はあの肉袋の眷属なのだ。
いまさらもう、この現実は誰にも覆せない。
「本来の魂が消失した瞬間に、肉体の心臓も止まるのだからな…っと」
魔族の男は、わずかに首を傾けた。
その頬が、突如裂け、血を吹く。
振り上げられた女の爪が、魔族の男の皮膚を、肉を抉ったのだ。
「はははっ!」
魔族の男は、破裂するように笑う。
「そうこなくてはな!」
すぐさま、無造作に女を再度投げ捨てた。ゴミのように。
「お…っと」
刹那、魔族の男はよろめいた。床を見下ろせば、踏みつけていた男の姿が消えている。
動く気配に目を向ければ、投げ捨てた女を抱きとめていた。
だが、そこまでのようだ。
寸前まで散々痛めつけられていた身体だ、いくら力ある魔人でも、そうたやすく回復はしないだろう。男は膝をついた。
女も、体勢を立て直す余力はないらしい。
「誉れ高いゼルキアンの貴族が、今や魔族の嬲りものとは。気の毒になあ」
だからこそ、魔族にとっては堪らないのだが。
他人事のように言って、魔族の男は舞台の上の俳優のように大げさに両腕を広げた。
「おっと、だからと言って、我ら魔族のせいにするのは早計だ。それもこれも、すべて―――――災厄のせいなのだからな」
頭上から生え、側頭部を覆う角を撫で、この数日、客として城に滞在したその魔族は歌うように高らかに告げる。
「この、シハルヴァ王国が、災厄に呑まれ、…滅びて五年」
―――――この地、冬の領域と呼ばれるヴィスリアの森が広がる、ゼルキアン領は、シハルヴァ王国の北端にある。
その領主たるオズヴァルト・ゼルキアンは、王国の公爵だった。
過去形なのは、五年前に王国が滅びたからだ。
五年前、災厄の日。
王国全土を呑み込んだ災厄を前に、王室も、貴族も、民も―――――一切の者がなすすべもなく蹂躙された。しかし。
すべてが滅びる、直前。
シハルヴァ王国最高の騎士であり、守護者と謳われたオズヴァルト・ゼルキアンは、からくも災厄を自らの領地に収束させ、封印―――――そして現在に至る。
この時―――――オズヴァルト・ゼルキアンは、取るに足りない魔族に憑依された。
その事態に、誰もがオズヴァルトを、何が守護者だと罵り、無力さを嘲笑った。
一方で、あの災厄を個人の力で封印してのけたことに、誰もが畏怖を覚えた。
そして、そんな中、ゼルキアン領地の民は、全員生き残った。
災厄の爪痕は残ったものの、王国の民も、全滅は免れたのだ。最悪の事態の中での、それは奇跡だった。
そんな奇跡を起こしたのは、オズヴァルト・ゼルキアンという、…個人。
人類の歴史の中でも、圧倒的な、功績だった。
…その日。
ゼルキアン領の民は、着の身着のまま、突然、国外へ放り出された。
突然の、転移の魔術によって。問答無用の行いだった。
理由の説明もなく、民の頭の中に、オズヴァルト・ゼルキアンの声が響き、ただ、こう告げた。
―――――地母神の神殿へ向かえ。
何が起きたかも知らない民は、ぶつくさ文句を言いつつ、それでも神殿へ向かい―――――そこで事実を知ることとなった。
愕然となった民の目の前で、…国は滅んだ。
ただ、ゼルキアンの主から離れられないと領内へ引き返した者がいた。
それが、現在、ヴィスリアの魔人と呼ばれる者たちだ。
知識人たちに、災厄とは何かと聞いたなら、この世界の自然災害の一種と答えるだろう。
予兆はマナの増減や特殊な動きにより観測できる。その正体は。
歴史書曰く―――――…千年以上昔に滅びた文明が、その発展のために犠牲にしたあまたの精霊たちの怨念。
その狂気に、現存する精霊たちは巻き込まれることを恐れ、近づくことはない。
いずれにせよ、災厄は未だこの地に封印されたままだった。
彼等にとって、それを完全に滅することができる存在は、…ただ一人。
オズヴァルト・ゼルキアン以外に考えられなかった。
その存在こそ、彼等の希望なのだ。
彼の帰還を望むからこそ―――――取るに足りない魔族に下った。なのに。
「…生きて、います」
仲間の女を抱きとめた魔人の男が、声を喉奥から絞り出す。
「我が君の心臓は、鼓動しています」
苦しい息の下から、睨みつけてきた目の鋭さに、魔族の男は楽し気な微笑を浮かべた。
常識から言って、それはあり得ない。
オズヴァルト・ゼルキアンは、肉体こそ動いているものの、死体にしか過ぎない。
腐敗の兆候が見られないのは、憑依している魔族がそれを止めているからだろう。
「貴様の相手は、あとでしてやろう」
この強靭な精神が、絶望する瞬間をじっくり観察したい。
内心舌なめずりしながら、魔族は、階段上の肉袋へ目を戻した。
「精神攻撃程度しかできない、お前のような下位の魔族につけ入られるなぞ、名高いオズヴァルト・ゼルキアンも大したものではないと思ったものだが」
ふ、と魔族の男の周囲の気温が、わずかに下がる。
魔人たちが放った殺意のせいだ。
それを鼻で笑い、彼は歩き出す。階段上の肉袋目指して。
「…しかし、荒れ狂う災厄をこの地に引き寄せ、ゼルキアン領そのものを封じた手腕は、見事」
そればかりは、どの魔族、どの魔術師たちも、舌を巻いた出来事だ。
近づいてくる魔族が恐ろしいか、ひぃ、と情けない声が上がり、肉袋がその場でしりもちをついた。
「だが領地に張り巡らされたこの結界、人の出入りは可能だ。流通も可能。現在、それが簡単にできない理由は、この地が魔境に近い環境になったからにすぎない。では」
思わせぶりに一旦言葉を切り、魔族の男はにやりと笑う。
「かの守護者はいったい、災厄をこの地の『何処』に封じたのか?」
魔族の男の足は止まらない。
彼の目的が分からず、魔人たちは慎重に目を見かわす。
だが、彼等の主人から、止めろという命令はない。である以上、彼等も動けなかった。
どうやら、魔族の男を恐れながら、肉袋はその言葉に興味を持ったようだ。
ばかりでなく。
魔人たちも知りたかった。
―――――国を滅ぼした災厄は、いったい、どこに封じられたのか。
封印により、この地に残っているのは確実だ。
だが、この地のどこに、封じられたのか。
それは誰も知らない。
日々を普通の顔で過ごしながら、誰もが一番気にしていたことだろう。
肉袋が尻で這って後退。背を、壁にぶつけた。その頭上には。
―――――在りし日の、オズヴァルト・ゼルキアン公爵。
鋼を思わせるその冷徹で厳格な絵の中の姿と、だぶつき、尻もちをついた醜い姿、双方の落差が見る者にいかんともしがたい気持ちを抱かせる。
実のところ、この世界では、肉体は魔力の影響を受けやすい。
魔力量が多ければなおのこと。
今、オズヴァルト・ゼルキアンの姿が肉袋である理由は、ひとえに、憑依した魔族の魔力の在り様がそういっただらしなさを有しているということだ。
魔族の男は、その落差こそ傑作と言わんばかりに、笑みを深めた。
「ここへきて、何度もマナの流れを見る内に、それを理解した」
「はあっ!?」
魔族の男から遠ざかろうとばかりしていた肉袋が、身を乗り出す。
激しい反応に、驚いたのは魔人たちだ。
「どこだ…っ、いったい、この地のどこに災厄は隠されているっ?」
食いつくような勢いに、魔人たちははじめて理解した。
彼が、災厄を探していたことを。
では、誰も興味を持たず、聞きもしなかった彼の目的は。
…災厄を見つけ出すことだったのだろうか。だと、して。
―――――いったい、なぜ?
戸惑う魔人たちの視線の中で、魔族の男は鼻白む。
「むしろ、ここにずっといるくせに、なぜわからないんだ? それほど、肉の愉悦に溺れたか、愚か者め」
これだから精神体の一族にとって、肉体への憑依は禁忌とされているのだ。
いまさらもう、この現実は誰にも覆せない。
「本来の魂が消失した瞬間に、肉体の心臓も止まるのだからな…っと」
魔族の男は、わずかに首を傾けた。
その頬が、突如裂け、血を吹く。
振り上げられた女の爪が、魔族の男の皮膚を、肉を抉ったのだ。
「はははっ!」
魔族の男は、破裂するように笑う。
「そうこなくてはな!」
すぐさま、無造作に女を再度投げ捨てた。ゴミのように。
「お…っと」
刹那、魔族の男はよろめいた。床を見下ろせば、踏みつけていた男の姿が消えている。
動く気配に目を向ければ、投げ捨てた女を抱きとめていた。
だが、そこまでのようだ。
寸前まで散々痛めつけられていた身体だ、いくら力ある魔人でも、そうたやすく回復はしないだろう。男は膝をついた。
女も、体勢を立て直す余力はないらしい。
「誉れ高いゼルキアンの貴族が、今や魔族の嬲りものとは。気の毒になあ」
だからこそ、魔族にとっては堪らないのだが。
他人事のように言って、魔族の男は舞台の上の俳優のように大げさに両腕を広げた。
「おっと、だからと言って、我ら魔族のせいにするのは早計だ。それもこれも、すべて―――――災厄のせいなのだからな」
頭上から生え、側頭部を覆う角を撫で、この数日、客として城に滞在したその魔族は歌うように高らかに告げる。
「この、シハルヴァ王国が、災厄に呑まれ、…滅びて五年」
―――――この地、冬の領域と呼ばれるヴィスリアの森が広がる、ゼルキアン領は、シハルヴァ王国の北端にある。
その領主たるオズヴァルト・ゼルキアンは、王国の公爵だった。
過去形なのは、五年前に王国が滅びたからだ。
五年前、災厄の日。
王国全土を呑み込んだ災厄を前に、王室も、貴族も、民も―――――一切の者がなすすべもなく蹂躙された。しかし。
すべてが滅びる、直前。
シハルヴァ王国最高の騎士であり、守護者と謳われたオズヴァルト・ゼルキアンは、からくも災厄を自らの領地に収束させ、封印―――――そして現在に至る。
この時―――――オズヴァルト・ゼルキアンは、取るに足りない魔族に憑依された。
その事態に、誰もがオズヴァルトを、何が守護者だと罵り、無力さを嘲笑った。
一方で、あの災厄を個人の力で封印してのけたことに、誰もが畏怖を覚えた。
そして、そんな中、ゼルキアン領地の民は、全員生き残った。
災厄の爪痕は残ったものの、王国の民も、全滅は免れたのだ。最悪の事態の中での、それは奇跡だった。
そんな奇跡を起こしたのは、オズヴァルト・ゼルキアンという、…個人。
人類の歴史の中でも、圧倒的な、功績だった。
…その日。
ゼルキアン領の民は、着の身着のまま、突然、国外へ放り出された。
突然の、転移の魔術によって。問答無用の行いだった。
理由の説明もなく、民の頭の中に、オズヴァルト・ゼルキアンの声が響き、ただ、こう告げた。
―――――地母神の神殿へ向かえ。
何が起きたかも知らない民は、ぶつくさ文句を言いつつ、それでも神殿へ向かい―――――そこで事実を知ることとなった。
愕然となった民の目の前で、…国は滅んだ。
ただ、ゼルキアンの主から離れられないと領内へ引き返した者がいた。
それが、現在、ヴィスリアの魔人と呼ばれる者たちだ。
知識人たちに、災厄とは何かと聞いたなら、この世界の自然災害の一種と答えるだろう。
予兆はマナの増減や特殊な動きにより観測できる。その正体は。
歴史書曰く―――――…千年以上昔に滅びた文明が、その発展のために犠牲にしたあまたの精霊たちの怨念。
その狂気に、現存する精霊たちは巻き込まれることを恐れ、近づくことはない。
いずれにせよ、災厄は未だこの地に封印されたままだった。
彼等にとって、それを完全に滅することができる存在は、…ただ一人。
オズヴァルト・ゼルキアン以外に考えられなかった。
その存在こそ、彼等の希望なのだ。
彼の帰還を望むからこそ―――――取るに足りない魔族に下った。なのに。
「…生きて、います」
仲間の女を抱きとめた魔人の男が、声を喉奥から絞り出す。
「我が君の心臓は、鼓動しています」
苦しい息の下から、睨みつけてきた目の鋭さに、魔族の男は楽し気な微笑を浮かべた。
常識から言って、それはあり得ない。
オズヴァルト・ゼルキアンは、肉体こそ動いているものの、死体にしか過ぎない。
腐敗の兆候が見られないのは、憑依している魔族がそれを止めているからだろう。
「貴様の相手は、あとでしてやろう」
この強靭な精神が、絶望する瞬間をじっくり観察したい。
内心舌なめずりしながら、魔族は、階段上の肉袋へ目を戻した。
「精神攻撃程度しかできない、お前のような下位の魔族につけ入られるなぞ、名高いオズヴァルト・ゼルキアンも大したものではないと思ったものだが」
ふ、と魔族の男の周囲の気温が、わずかに下がる。
魔人たちが放った殺意のせいだ。
それを鼻で笑い、彼は歩き出す。階段上の肉袋目指して。
「…しかし、荒れ狂う災厄をこの地に引き寄せ、ゼルキアン領そのものを封じた手腕は、見事」
そればかりは、どの魔族、どの魔術師たちも、舌を巻いた出来事だ。
近づいてくる魔族が恐ろしいか、ひぃ、と情けない声が上がり、肉袋がその場でしりもちをついた。
「だが領地に張り巡らされたこの結界、人の出入りは可能だ。流通も可能。現在、それが簡単にできない理由は、この地が魔境に近い環境になったからにすぎない。では」
思わせぶりに一旦言葉を切り、魔族の男はにやりと笑う。
「かの守護者はいったい、災厄をこの地の『何処』に封じたのか?」
魔族の男の足は止まらない。
彼の目的が分からず、魔人たちは慎重に目を見かわす。
だが、彼等の主人から、止めろという命令はない。である以上、彼等も動けなかった。
どうやら、魔族の男を恐れながら、肉袋はその言葉に興味を持ったようだ。
ばかりでなく。
魔人たちも知りたかった。
―――――国を滅ぼした災厄は、いったい、どこに封じられたのか。
封印により、この地に残っているのは確実だ。
だが、この地のどこに、封じられたのか。
それは誰も知らない。
日々を普通の顔で過ごしながら、誰もが一番気にしていたことだろう。
肉袋が尻で這って後退。背を、壁にぶつけた。その頭上には。
―――――在りし日の、オズヴァルト・ゼルキアン公爵。
鋼を思わせるその冷徹で厳格な絵の中の姿と、だぶつき、尻もちをついた醜い姿、双方の落差が見る者にいかんともしがたい気持ちを抱かせる。
実のところ、この世界では、肉体は魔力の影響を受けやすい。
魔力量が多ければなおのこと。
今、オズヴァルト・ゼルキアンの姿が肉袋である理由は、ひとえに、憑依した魔族の魔力の在り様がそういっただらしなさを有しているということだ。
魔族の男は、その落差こそ傑作と言わんばかりに、笑みを深めた。
「ここへきて、何度もマナの流れを見る内に、それを理解した」
「はあっ!?」
魔族の男から遠ざかろうとばかりしていた肉袋が、身を乗り出す。
激しい反応に、驚いたのは魔人たちだ。
「どこだ…っ、いったい、この地のどこに災厄は隠されているっ?」
食いつくような勢いに、魔人たちははじめて理解した。
彼が、災厄を探していたことを。
では、誰も興味を持たず、聞きもしなかった彼の目的は。
…災厄を見つけ出すことだったのだろうか。だと、して。
―――――いったい、なぜ?
戸惑う魔人たちの視線の中で、魔族の男は鼻白む。
「むしろ、ここにずっといるくせに、なぜわからないんだ? それほど、肉の愉悦に溺れたか、愚か者め」
これだから精神体の一族にとって、肉体への憑依は禁忌とされているのだ。
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