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第2章
4幕 狂うのは後回し
しおりを挟む「私が、あの憑依していた魔族だと思い込んでいるようでな。妙な交渉を持ち掛けてきていたが――――」
「我が君」
アスランを立たせ、自身も立ち上がったルキーノが、優しげに微笑む。
「後始末はお任せを」
オズヴァルトは、串刺しになり、ばたばたと騒がしく暴れる使い魔を見遣った。
そこに何かいるな。
という以上の興味は湧かなかったらしく、その視線はすぐ、ルキーノに戻る。
その時には、もうそれを忘れたような顔で、一言。
「では、片付けろ」
主の言葉に、流麗な仕草で腰を折り、ルキーノは一礼。
「お任せを」
慈悲深いような声で応じ、すぐさま踵を返す。
その両手に、ふと気づけば短剣が握られている。
それは流麗な造形の短刀だった。
彼の背を見送るオズヴァルトには見えなかったろうが、…ルキーノの唇に刻まれた、微笑は。
優しさと残忍さが同居した、ひどく毒のある代物だった。
その背を見送ったオズヴァルトは、淡々と、
「グラツィエ」
背後に呼び掛けた。すぐさま、
「はい、我が君」
冷たい水のような女の声が応じる。
いつからそこにいたのか。
オズヴァルトの斜め後ろに気配なく控えていたのは、ゼルキアン城の侍女長、グラツィエ・リモンディだ。
彼女の後ろには、目を伏せ、人形のように気配なく控えている侍女が二人。
それぞれに個性はあるが、いずれも、目も覚めるような美人だった。
中でも、グラツィエは黒髪・青い瞳の、知的なお姉さんといった雰囲気がある。
あまり感情を表に出さない女だが、打てば響くような返事から、彼女が主人からの命令を心待ちにしているのが分かった。
「帰ってきた者を、もてなすように」
「畏まりました」
まったく熱の乗らない、義務的な、格式ばった声だが、真の主人から命令された以上、グラツィエは完璧にこなすだろう。
「おそれながら」
ビアンカが、そこに力ない声を割り込ませた。
「先に、お話ししたいことがございます、若さま」
踵を返そうとしたオズヴァルトは、ふと、ビアンカを気遣うように見遣る。
話の内容は何だ、と本来なら、尋ねるべきだったろう。だがオズヴァルトは、
「疲れて、いないか」
まるで、ビアンカが話したいことを知っているように、尋ねた。
「まだ」
ビアンカは、不敵に微笑む。
「三日間、全力疾走し続けたって、平気です」
「そうか」
オズヴァルトは静かに頷く。
次いで、その腕を伸ばした。直後。
「え」
呆気に取られたビアンカを、オズヴァルトは軽々片手で抱き上げる。その状態で、
「では、部屋へ来たまえ」
どこか気怠い声で告げた。
「アスラン」
「あっ、はい!」
「また、後でな」
「…はいっ」
緊張しきりの少年とメイドたち、それから断末魔の声を上げる使い魔の騒音を背に、オズヴァルトは無造作に歩き出す。
―――――主人と、一対一の対話を許された。
その嫉妬が、いっとき、居合わせた魔人全員からビアンカへ放たれる。が、すぐ萎んだ。
ビアンカがヴィスリアの魔人の中でも、特別な立ち位置にあることは、皆にとって、明白なことだったからだ。
彼女は確かに、他の魔人たちと比べ、幼い姿をしている。だが、本来は。
六十代の婦人であった。そして。
オズヴァルトの乳母。
それが、ビアンカの正体だ。
母のような、祖母のような。
皆にとって、ビアンカはそんな存在だった。
…オズヴァルトが魔族に憑依されている間、今にも崩れそうな魔人たちの心を支えたのも、彼女だ。
―――――待ちなさい。
ビアンカは、言い続けた。
信じ続けた。
他の誰より、彼女自身に言い聞かせるように。
―――――狂うのは後回し。耐えなさい。若さまが戻ったら、存分に狂っていい。
言い続けたビアンカは、今。
…口を閉ざし、無言のまま、オズヴァルトの肩を掴んだ。
オズヴァルトは、真っ直ぐ自室へ向かう。
そんな彼に、きびきびと立ち働いていた侍従や侍女たちが、脇へ退き、誇らしげに首を垂れる。
そんな中、ビアンカはじっとオズヴァルトの横顔を見つめていた。
廊下を進めば、部屋の前で控えていた侍女が、頭を下げながら無言でオズヴァルトの自室の扉を開ける。
オズヴァルトの世話をするためだろう、中へ入って控えようとする彼女を制し、
「ここはいい」
オズヴァルトは億劫そうに告げた。
「必要になったら呼ぶ。外で待機したまえ」
侍女の顔に、たちまち、とても残念そうな表情が浮かぶ。
ほんの少し恨めしそうな眼をビアンカに向け、
「では、控えておりますので、いつでもお声かけ下さいませ」
「ああ」
律儀に返事をするオズヴァルトに、期待するような一瞥を投げ、侍女は残念そうに外へ出て行った。
丁寧に扉が閉まるのを待って、
「恨まれましたね」
ビアンカが肩を竦める。直後。
空色の瞳を、真っ直ぐオズヴァルトに向けた。
強い眼差しで主人を射抜き、そのくせ、泣き笑いのような表情で、ビアンカは確信をもって、彼の名を呼んだ。
「イッペーさま、…ですね」
目の前にいる相手は、彼女が育てた、彼女の若さまではない。
とたん―――――オズヴァルトは、腹の底から深く、息を吐き出した。
「…ああ」
返事すら、嘆息そのものだ。
彼は深く頷く。
「そうだ、ビビ。あなたの若君は」
ほんのわずか、眉根を寄せ、彼は言った。
「私の目の前で、ヴィスリアの御許へ還った」
言いながら、彼はビアンカを床へ下ろす。
ビアンカは諦念の表情で目を閉じた。
来るべき時が来た心地で。
どこかで彼女は覚悟を決めていたのだろう。
だが、飲み下しがたい激情を、無理やり嚥下するように、上ずりかけた息を吐く。
それにはしばらく時間がかかった。
…その仕草を何度繰り返しただろう。
どうにかビアンカは、待ってくれている相手に、かすれた声で、
「何が、あったのですか?」
静かに、震える声で尋ねれば―――――硬い巌のような声が返った。
「…冬見一平が死んだ」
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