原初の魔女と雇われ閣下

野中

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第2章

3幕 家

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「うわ!」
いきなり、背後から襟首を引っ掴まれる。
子猫を掴むような感じだが、ビアンカの方がアスランより小さい。

実際には、後ろから飛びついたビアンカが、アスランを引きずり倒した格好になる。
なすすべもなく、アスランはしりもちをついた。その眼前。


「は?」


斜めに鋭い輝きが走る。
アスランの鼻先をわずかに掠める疾風。鼓膜が揺れる。刹那。



―――――ズ、ドォンッ!!



大地を揺るがす巨大な音とともに、二人の真横、翼を生やした巨大な生き物が、複数、叩き付けられた。
異形の頭部。
昆虫のような巨大な複眼。
それらは、焦ったように周囲を見渡している。

身体の大きさに比べ、赤子のように小さな両足が、もがくように土を掻いた。

それらは、その場から動けないのだ。なにせ。



おぞましい身体は、長く太い氷の槍で地面に縫いとめられていた。



知っている者がいれば、モズの早贄、という言葉を思いついたかもしれない。
ビアンカは不快気に吐き捨てる。

「使い魔…」

それは、魔族が斥候や暗殺に使用する、使い捨ての異形だ。そして。
「あ、この、魔力…」
自然と、アスランは呟いていた。

使い魔の身を貫いた氷の槍は、魔力のみで構成されている。

澄み渡っているが濃密な力に満ちた、その魔力には覚えがあった。
アスランは、防寒用のフードの下、瞠ったこげ茶の目で、城の方を見遣る。

城の、大きな扉を背景に。
…立って、いたのは。
「…っ」






一人の男。

威圧的なほどの長身。

光の下では眩しい銀の髪。
印象的な深い、青紫の瞳―――――ゼルキアンの証。
そして、騎士らしい逞しい骨格。

この五年間、だぶついた肉袋であったとは思えない、端正な立ち姿。
間違いない。



オズヴァルト・ゼルキアンだ。



―――――記憶にあるより、少し年を取ったその姿が、すぐ涙でぼやけそうになる。

確か、今年で、四十歳のはず。






泣き出しそうになった少年は、慌ててその場に跪いた。だが。

「…若さま」
礼儀作法にうるさいはずのビアンカは、その場に立ち尽くしたまま動かない。


見えにくい何かを見定めるように、空色の瞳を細めた。

ビアンカを見た、オズヴァルトは。
無言で、眉を寄せ―――――一見、不快気と見える表情で。

…ただ一度、頷いた。


すぐに跪き、首を垂れたアスランには見えなかった光景。



それで、何が通じ合ったのか。



オズヴァルトが近づいてくるに従って、ビアンカは頽れるようにその場に膝をついた。
打ちひしがれた態度で。…それでも。

ぐっと唇を引き結び、その大きな空色の瞳に、オズヴァルトの姿を映した。


「ビビ、アスラン」


どこか乾いて、感情が薄いような、体温の低い声で、オズヴァルトは帰還した二人の名を呼ぶ。
(あ)

これだけで、分かった。


大げさに歓迎されるどころか、聴く者が聴けば、鬱陶しいと思われているのではないかと勘違いされそうな口調と声だが。


…明らかに。

「よく、帰った。無事で、何よりだ」
億劫そうな物言いだが、労う言葉には、薄いヴェールのように、優しさがふわりとにじむ。
これが。

これ、こそが。
…間違いない。



―――――かつての、オズヴァルト・ゼルキアンだ。



ぶわっと二人の全身が、総毛立った。高揚に。
身体が熱くなる。

歓喜のあまり、今すぐ飛び上がって歓声を上げたいのを、アスランは必死にこらえた。


「「は」」


感無量で、二人が頭を下げるなり。


「いけません、我が君」


進むオズヴァルトを、慌てて城から駆け出した青年が、制した。
オズヴァルトが足を止める。城の方を振り返った。

焦りの中にも、穏やかに、中から現れたのは。

「夜着で外へ出るなど。早く、中へお戻りください、後始末は、我々が」
栗色の髪と瞳の、やさしげな面立ちのその男は、ルキーノ・ラファエッリ。
ゼルキアン家で代々執事を務めたラファエッリ家の、生き残りだ。

見た目は二十代半ばだが、魔人はほとんど全員、五年前に成長を止めてしまった。


この五年、ひどく暗く冷え切っていたルキーノの声が、穏やかに優しくゼルキアン城の庭を揺らす。
主人を案じる彼の声に、ビアンカは内心、その変化に驚きながらもほっとした。




心の均衡を崩してしまった魔人たちの中でも、彼の症状は特にひどかったのだ。




自傷を繰り返し、何度も危険に自ら突っ込んだ。

既にルキーノは壊れたと半ば感じていたビアンカは、恐る恐る顔を上げ、彼の方を見遣った。


オズヴァルトが彼女へ顔を戻し、
「ルキーノ」
執事の名を呼ぶ。


「ビビとアスランが帰った。部屋の用意を」


「ビビさまっ?」

ルキーノが目を瞠り、慌てた様子で駆け寄ってくる。
その手には、オズヴァルトの上着。

「アスランまで。ご連絡くださいましたら、お迎えに上がりましたのに」

その表情は、間違いなく、かつてのルキーノで。
ホッとしたビアンカの隣で、アスランが体勢を保てず、思わずと言ったように、へたり込む。
力が抜けたのだろう。

ここは、この五年間、殺伐とした家畜の屠殺場のようになっていたゼルキアン城ではない。

…かつての。




正統な主が君臨する、穏やかな、彼等の帰る場所だ。




ここに至ってようやく、アスランは、心から、安堵した。
ああ、ここは紛れもなく、彼の、…彼等の、家なのだ。



―――――たかが、主一人。



変わった程度で、何が変わるものか、とかつてのアスランは思っていたが。
…こんなにも。





これほどに、変わるものなのか。

何もかも、いっさいが。





ふ、と主の青紫の瞳が動き、アスランを見た。とたん、その目が一瞬、揺らぐ。
表情はないが、オズヴァルトが困っているようだ。

なんで、と思うなり。


オズヴァルトの大きな手が伸びてきた。


頬に触れ、何かを拭う所作をする。
アスランを見たルキーノが、おやおや、と言いたげに、苦笑した。
ビアンカが横を向く。
まるで、わたしは何も見てませんよ、と言いたげな所作。

「ルキーノ。上着はアスランに」

オズヴァルトが低く言うのに、
「はい」
ルキーノが笑顔で頷く。

「え、そん」

そんな、恐れ多い、と言おうとして、アスランは言葉に詰まる。うまく舌が動いてくれない。きちんと話せない。
その時になって、アスランは気付く。



自分が泣いていることに。



とたん、真っ赤になった。
アスランはつまりたった今、主人に涙を拭わせたわけだ。
慌てて両手で顔をこするアスランに、ルキーノは温かく微笑みながら上着をかけた。

「いいんですよ、今は」

執事が優しげに囁いた、刹那。







―――――ガアアアアアアァッ!!








もがいても、もがいても、氷の槍の拘束から抜け出せない使い魔が、苛立った鳴き声を上げる。
耳障りなその声に、魔人たちの瞳が冷めた。

「若さま、アレはいったい何の用事でここに?」

ビアンカが、吹雪く声で尋ねた。






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