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第3章
幕39 負け犬には
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(…は?)
エメリナは、愕然とした。
リオネル、あの魔族は、彼女の獲物を横取りしていったのだ。
心底、驚愕したエメリナの、しかしこれは、…自業自得だ。あれは魔族。魔族なのだ。
こうなって、当たり前。
なぜ、ぎりぎりの段階で、信じてしまったのか。たとえ魔族が、そういう手管に長けているとはいえ。
我がことながら、あまりに間抜け。
―――――エメリナは甘いんだから、綱渡りからは手を引きなよ。
かつて、同情の眼差しで見てきた昔馴染みの魔女がいた。
自覚はある。だが、何が悪いのか、どれだけ必死に綿密に行動しても、間違いの始まりからエメリナには分からない。
してやられたエメリナを、一緒に転がって呆然となったランという男は、指さして笑うだろう。
そう、思った。二人はそんな関係だ。なのに。
尾を引かない態度で、ランはすっと立ち上がった。壊れた天井を見上げ、舌打ち。
ちらと紺碧の瞳で、まだ呆然と転がったままのエメリナを見遣り、
「あんなのを信じるからだ」
吐き捨て、首元の、魔力封じの金の輪に手をかけた。
「生き埋めになりたくなけりゃ、とっとと行け」
そうして、犬でも追い払うように手を動かした時には。
―――――紐でもちぎるようにして、金環を床へ放り出す。
刹那、露わになった魔力の質に。
エメリナは確信した。
ヴィスリアの魔人―――――この男は、彼女の手に負えない。
要するに、今までは本当に、―――――加減されていたのだ。
むくりと起き上がるエメリナを尻目に、ランは崩壊が激しくなる地下で、次々牢を壊していった。…助け出すつもりなのだ。奴隷たちを。
ランは、このまま放置されてもおかしくなかった彼らを、きっちり全員、助け出すだろう。
彼に対する妙な信頼が、それを確信させた。
この信頼が、それこそ不快になって、エメリナは、風の精霊を頼って、コロッセオの内部に戻った。空間転移だ。
普段、職員たちが忙しく立ち働いている事務所は今、閑散としていた。
エメリナの暗示のせいだろう。
分かっていても、今更、それを解く気も起きない。
床の上、エメリナは、しばらく、呆然と座り込んでいた。
すぐには動く気力もわかない。
机の下、隠れるように膝を抱え、丸くなる。
何度も響く猛烈な轟音も、地の揺れも、普段なら怖がるだろうことが、ひどく遠い世界の出来事のように感じた。
…魔神が片腕を失ったのだ。
リオネルは、このまま、何もせずコロッセオを出るはずがない。
その程度は、エメリナにも理解できた。
命を惜しむなら、早急にこの場を立ち去るべきだ。
しかし―――――やられっぱなしで、狙っていたものも横取りされ、おめおめと逃げるのか。
…何かやり返してやらなければ、気が済まなかった。
エメリナは、負け犬ではない。
この惨めな気持ちを、破り捨てたかった。
(でもどうやって?)
分からないまま踵を返し、覚束ない気分で、また精霊にエメリナは頼んだ。
「―――――闘技場まで、お願い」
刹那。
熱狂の渦が、歓声となって、エメリナの耳朶を強く打ち付けた。
思わずエメリナは耳をふさぐ。
だが、理解した。
観客たちが総立ちになって、誰かの名を呼んでいる。
その名は―――――オズヴァルト・ゼルキアン。
(ここに、いるの? あの男が)
隅とはいえ、闘技場に立てば、歓声がこんなに響くものだとは、知らなかった。
―――――何が起きたのか、闘技場だった場所は、完全に崩壊していた。
リオネルが、地下から出て行った後、エメリナがコロッセオの事務所内で座り込んでいた時間は、それほど長くなかったはずだ。それが。
あの短時間で、これほどの破壊が行われるとは。
しかも、…魔神の姿がない。
(いったい、何が)
ぞっとしたエメリナの足元に、彼女が持ち込んだトランクがあった。
その中身は―――――ない。
では、王女はどこに。
最悪、死んでしまったのだろう―――――そう思わせるほど荒廃した光景の中。
闘技場の中央で、ただ一人立っている、長身の影があった。
その首に、幼い細い両腕が、回っている。
見るなり。
エメリナは理解した。
あの長身の男は、観客が興奮して名を繰り返すオズヴァルト・ゼルキアンであり。
彼の首にしがみついている小柄な姿は。
エメリナがずっと、手を伸ばしてきた魔女―――――ルビエラ・シハルヴァだと。
とたん。
腹の底から、怒りがわき上がってきた。
「…なによ…」
呆然とした声が、エメリナの唇からこぼれる。
「なんなんだ、いったい、なんなわけ…!」
あれほどエメリナは頑張ってきたのに、なにもしなかったルビエラ・シハルヴァは助けられた。
…意味が分からない。
なぜ。
ルビエラは救われ、エメリナには何もないのか。
―――――不公平だ。
エメリナの視線が、オズヴァルトの広い背中に向いた。
その背はあまりに強く、ゆるぎないように見えた。
それを、頼りがいがあると見るより、エメリナは。
憎悪を駆り立てられる。
…あの男さえ来なければ。
本当に、最悪のタイミングだった。
ただコロッセオに来る、それだけで、彼はエメリナの計画をぶち壊したのだ。
何があったか、その背は隙だらけに見えた。
叩きのめしたい。
簡単にできないことは分かっているし、これは八つ当たりめいた感情だ。それでも。
誰もがオズヴァルトに目を向けている今、いい機会だった。
思った時には。
精霊の力が動いていた。風が、刃となってオズヴァルトの首筋目がけて一直線に走る。
刹那、何を察したか。
オズヴァルトが、振り向いた。
その青紫の瞳に見据えられた心地に、エメリナの腹の底が冷える。同時に。
「――――――あぁ、残念ね」
感情のない、乾ききった女の声がした。と思うなり。
「どうしようもなく、あなたは愚かだわ、―――――エメリナ」
オズヴァルトの背後、背中合わせに―――――女帝クロエが立っていた。
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