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第一章 北風をまとう黒竜旗

1-5 英雄の墓標に捧げる血  ……ヴィヴィカ

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 戦いのあと、全てが終わった戦場に立ち込める霧は、血の色をしていた。

 戦乙女たちの会戦の翌日、ヴィヴィカはクリスティーナと共に戦場跡に赴いた。立ち込める血霧の中では帝国軍による死体の片付けが行われていた。その一角、十年前に先帝が戦死したとされる場所には、死体の山が築かれていた。
「ようやく……、ようやく先帝陛下の死を弔うことができる……」
 うず高く積まれた死体の山を前に、近衛兵長のホルンは涙を流した。ホルンと同じく、古参の近衛兵はみな泣いていた。

 打ち捨てられた〈教会〉の十字架旗を踏みつけ、燃える心臓の黒竜旗が翻る。〈教会〉の信仰生存圏を巡る決戦、かつて〈帝国〉の英雄が最期を遂げた地を巡る因縁は、〈帝国〉の勝利で幕を閉じた。

 ヴィヴィカは英雄と謳われるクリスティーナの父を直接的には知らない。しかし、ヴィヴィカの長兄は先帝の危急に駆けつける大功を果たし、そして北風の騎士の二つ名を賜った。
 当時を知る者はもう多くはない。長兄も死んで久しい。しかし兄の二つ名はヴィヴィカに受け継がれ、その名を与えた皇帝の娘と共に生きている。それを思うと、この戦いの帰趨はもちろん、クリスティーナとの出会いも運命だと思えた。

 涙を流す者たちにクリスティーナは礼を言って回った。近衛兵、軍司令部の幕僚たち、〈帝国〉の首脳陣がみな等しく頭を下げる中、クリスティーナは誰よりも戦塵に塗れた男の前で立ち止まり、その手を取った。
「サリヴァーン……。我が〈帝国〉の半身よ……。ここまで来れたのはあなたの献身のおかげです……」
 当時を知る数少ない者の一人、その筆頭中の筆頭──クリスティーナは〈帝国〉の宰相オクセンシェルナを名前で呼んだ。オクセンシェルナは跪くと、クリスティーナの手にキスをした。
「陛下。こたびの勝利は、あなた様のご威光と、その威光に支えられた将兵たちの意志によるもの。私の力など些細なものでしかありません」
「謙遜しないでオクセンシェルナ。あなたは私が子供の頃からずっとそばにいてくれた。こんな言葉だけじゃ足りないわ」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。今後も、我が身命を賭して〈帝国〉のために務めを果たす所存です」
 女王と宰相は顔を見合わせた──『黒竜の血は燃えている』──そして〈帝国〉の標語モットーを口にし、笑い合った。
 サリヴァーン・オクセンシェルナの笑顔は穏やかだったが、しかしその眼光は異様なまでにぎらついていた──クリスティーナを支え続ける後見人、国家の宰相として実質的に〈帝国〉を取り仕切る傑物、〈教会〉にも名の知れた北部有数の名士、そしてクリスティーナの父である先帝の無二の親友──様々な肩書きを持つ皇帝の半身は、クリスティーナ以上に復讐に取り憑かれているようにヴィヴィカには思えた。

 談笑が終わると、オクセンシェルナは再び畏まり、頭を下げた。
「陛下。〈帝国〉の勝利と、我が親友への手向けに、この者を捧げます。どうかお受け取り下さい」
 オクセンシェルナの部下──恐らく、国家憲兵隊所属の人間──が、一人の女を連れてくる。
 最も高潔なる者──きめ細やかな意匠が施された、雪のように白い僧衣に身を包む女が、とぼとぼと歩いてくる。目は落ち窪み、顔色は死人のように青白い。まだ三十代前半のはずだが、頭髪は僅かな黒色を残しほとんど白くなっている。

 戦乙女たちの会戦において、教会軍の旗印を担った三人の〈教会七聖女〉はいずれも逃げ切ることはできなかった。第三聖女フィアは戦死し、第三軍団が捕えた第二聖女サラは爆殺されかけたがまだ生きており捕虜となっている。そして第一聖女リリアンヌは、今こうしてクリスティーナの前に跪いている。

「このような場にお越しいただき感謝します。高貴なる〈教会七聖女〉の第一席、リリアンヌ様」
 クリスティーナは恭しく頭を下げ、第一聖女リリアンヌを迎えた。しかし第一聖女は俯いたままで、震えるばかりだった。

 何も答えない第一聖女を尻目に、クリスティーナは弔いの儀式を始めるよう部下たちに命令を下した。
 近衛兵たちが動き出す。オクセンシェルナも幕僚や部下たちに指示を出す。細かい段取りはオクセンシェルナに一任されている。

 死体の山の周りで、人の群れが動き始める。
 そのときだった。風が、血霧を切り裂いた。

 ヴィヴィカは咄嗟にクリスティーナの前に出た──矢──クリスティーナに向かって飛んできたそれを、ヴィヴィカは手で掴み取った。

「近衛兵! 陛下を守れ!」
 ホルン兵長の一声で、青骸布せいがいふの騎士たちがクリスティーナの体に覆い被さる。自身の大きく体を広げ、左右の者と肩を組み、一つの強固な壁を作る。クリスティーナの周囲と同様に、オクセンシェルナや第一聖女リリアンヌの周りにも近衛兵の壁が形成される。

 一方、ヴィヴィカは数十名の騎士たちとともに壁から飛び出した。

 皇帝近衛兵たる青骸布せいがいふの騎士は、皇帝の盾であり、剣である──ヴィヴィカは剣として、刺客の排除に向かった。

 立ち込める血霧の中で、矢の軌道を追う。走りながら弓に矢をつがえ、矢の発射点に狙いを定める。
 再び、風が血霧を裂く。矢が飛んでくる。ヴィヴィカは地面に滑り込んでそれを躱すと、一の矢を放った。矢は風を切り、刺客のクロスボウを粉砕した。
 死体の山の中に、はっきりと、恐怖する男の顔が見えた。二流の刺客だった。本来、彼らが狙うべきはヴィヴィカではない。
 距離を詰める。間髪入れずに放つ二の矢、三の矢が、刺客の手足を貫く。
 ヴィヴィカは跳び、死体の山から刺客を引っ張り出した。そしてその胸ぐらを掴むと、体を地面に叩きつけ、顔をぶん殴った。顔面から腹を数発殴ると、刺客は白目を剥いて大人しくなった。

 刺客は合計で四人いた。二人には自殺されたが、一人はヴィヴィカが捕えた。残る一人は、部下のスヴェンが捕えていた。
「一名捕縛です、姐さん」
「その呼び方は止めてください。あなたの方が年上です」
「でも、姐さんの方が上官でしょ」
 スヴェンはヘラヘラ笑いながら、手際よく刺客の手足を折っていた。スヴェンはオクセンシェルナの私設諜報機関と言われる国家憲兵隊の出身であり、この手の処理にはやはり手慣れていた。
「第二聖女を爆殺した刺客と同様、こいつらもユーロニモス教皇からの刺客でしょうか?」
「さぁ? 真相は宰相閣下と国家憲兵隊の連中が明らかにしてくれるんじゃないすかね?」
「国家憲兵隊は今回の動きを掴んでいなかったのですか?」
「俺がいたのは十年も前ですよ。今どういう情報網で動いてるかなんて知りませんって」
 スヴェンはまた笑うと、今度は刺客の歯をバキバキと折り始めた。

 ヴィヴィカは刺客の処理をスヴェンに任せると、クリスティーナのもとに走った。
 二名の近衛兵が傷を負っていた。矢は甲冑を貫いており、二人とも瀕死だった。目は血走り、口からは泡を吹いていた。
 ヴィヴィカは矢の臭いを嗅いだ。矢にはやはり毒が塗ってあった。
「この者たちは矢を受けても、決して隊形を崩すことはありませんでした」
 ホルンが瀕死の二名を称賛する。
「先に逝くことを許します。今までありがとう。来世でまた会いましょう」
 クリスティーナは二人の手を取ると──かつて、ヴィヴィカが瀕死の重傷を負ったときと同じように──その体を抱き締めた。二人は目から血を流しながら逝った。

 近衛兵二名の死を見届けたあと、クリスティーナは第一聖女リリアンヌの前に立った。ぶるぶると震える第一聖女は失禁していた。
「さぁ、祈りなさい」
 クリスティーナは地面に膝をつくと、第一聖女リリアンヌに微笑んだ。しかし、第一聖女リリアンヌはやはり俯いたまま、頭を抱え震えていた。
「〈神の依り代たる十字架〉の名の許に、生者と死者を祭る。英雄の生き様を歌とし、語り継ぐ。それがあなたの務めでしょう? 第一聖女様?」
 優しく語りかけるクリスティーナの声には、はっきりとした憎悪が滲んでいた。しかし、いくら待っても聖女は何も答えなかった。

 クリスティーナは兵から松明を受け取ると、それを死体の山に点けた。火は肉を焼き、脂を焼き、冬の終わりの血を焼き、瞬く間に燃え上がっていった。

「お父様……」
 英雄の墓標に灯された弔いの火を前に、クリスティーナは涙を流した。赤い瞳から流れ落ちるその色は、血のように赤かった。
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