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第一章 騎士たちの邂逅

1-4 血濡れの第六聖女

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 祈りの歌が戦場の狂乱にかき消され、北の空に虚しく響いていた。
 うらぶれた天使の錦旗の周りには負傷者が集められている。死人も出ている。
 白騎士の親衛隊だけでなく、従軍司祭たちもその白装束を血と泥で染めていた。第六聖女の侍従や乙女騎士隊と思しき子女たちもおり、ある者は包帯を巻かれ茫然と虚空を眺め、ある者は吹っ飛ばされた片腕を握りしめている。そんな血塗れの片隅に、上半身から内臓を撒き散らした子供の死体が人形のように転がっていた。

 合流した第六聖女親衛隊を示す天使の錦旗に向かい、ミカエルは声を上げた。
「月盾騎士団の騎士団長、ミカエル・ロートリンゲンであります! 第六聖女セレン様はご健在でありますか!?」
「ミカエル様! よくぞご無事で。救援痛み入りまする」
 前時代的な鎖帷子とサーコートの軍装の小柄な老人、白髭の老親衛隊長ビスコフがミカエルの前にやってくる。古めかしいサーコートは引き裂かれ、深く刻まれた皺や白髭には拭いきれない返り血が残っている。
 続いて、輿に乗った第六聖女セレンが現れる。 
 〈教会〉の第六聖女遠征軍の総帥たる少女──その姿を見て、下馬しようとしたミカエルや月盾騎士団の幕僚を、セレンが手で制する。
 その手は小刻みに震えていた。手だけではない。華奢な容姿に不釣り合いな白銀の甲冑は見るも無残に血と泥に塗れ、体の震えが甲冑に伝わり、弱々しく金属が鳴いている。
 だがその幼い少女の顔は美しく穏やかなままだった。ミカエルもよく知る、最も真摯なる者と称される微笑み。
 弱冠五歳で修道会から七聖女の六番目に選ばれた少女。今回の遠征に先立ち教皇庁で行われたパレードでも、白銀の甲冑をまとって遠征軍の先頭に立ち、十五歳とは思えぬほど穏やかで慈愛に満ちた表情で兵士らに祈りを捧げていた。そして敗色が濃厚になった親衛隊騎士たち──生き残り戦う者、負傷した者、死んだ者──にも、同じように祈りを捧げている。
 少女は、殺戮の舞台に呑まれながらも、小さな勇気を振り絞り、懸命にその務めを果たしていた。
 自分よりも年若い少女がその大役を果たす姿に、ミカエルは畏敬の念を込めて敬礼した。
「セレン様……我らが力及ばず、御身を汚してしまい誠に申し訳ありません。その身にお怪我はございませんか?」
「何も……私に怪我はありません……。ミカエル様こそお怪我はございませんか……?」
 戦場の喧騒の中、少女の声はあまりにか細かった。
「私は大丈夫です。これよりは我ら月盾騎士団がセレン様をお守りいたしますゆえ、御身はどうか輿から馬車へとお移り下さい」
「それについてはご心配には及びません。私はこのまま輿の上より皆を見守ります。私を守る騎士たちが戦っているというのに、遠征軍の統帥たる私が隠れているわけにはいきませんので。それに私にできることといえば、こうして皆の祝福を祈ることしかできないのですから……」
 健気に答えるその小さな姿が痛々しく、ミカエルは頷きながら再び地面に視線を落とした。
 僅かな沈黙のあと、ミカエルは残った軍勢を見渡した。誰もが傷つき汚泥に塗れ、疲弊し消耗しきっている。だが第六聖女セレンの姿を見るときだけは、その表情に安堵が戻る。戦闘職ではない侍従や従軍司祭たちも、彼女の近くにいるときはどこか落ち着いている。

 ──今は聖女という象徴が必要だった。
 遠征軍総帥といえば聞こえがいいが、実のところ彼女はただの旗印に過ぎない。これまでも実際の指揮は元帥である父ヨハンが執っていた。
 だが、たとえ軍の運用ができなくとも、兵の心を一つに集めることはできる──騎士たちが守るべき乙女。掲げるべき旗印──それは団結力となり、絶望的な劣勢の中でも戦う勇気を与える。

 ミカエルは再び戦場に目を向けた。
 親衛隊と月盾騎士団の幕僚を集める。誰もが疲弊しているが、まだ血の気は失っていない。
「ビスコフ殿、状況の説明を」
「見ての通り惨敗です。指揮の届かぬ部隊は悉くが敗走。我らはセレン様をお連れし退却、ボフォースの城にて残存兵を糾合後、ヴァレンシュタイン軍に合流せよとヨハン元帥閣下よりご命令を受けております。ミカエル様もすぐにこの場を離脱して下さい」
 ボフォースは半ば朽ちかけた古城であるが、帝国領内でも数少ない、戦火による焦土化を免れた町だった。本隊とヴァレンシュタイン軍の連絡線の中継地でもあり、エリクソン平原の戦場からも三日あれば到着できる距離にある。教会軍の敗残兵はまずそこに向かうはずである。
 ボフォースを経由し、遠征軍のもう一つの主力であるヴァレンシュタイン軍に合流できれば、遠征軍としての体裁も保つことができる。総行程は約一週間ほどだろう。
 しかし今現在の戦況は、そこまで辿り着ける保障を一切覗かせていない。
「状況は了解しました。ところで元帥閣下は? 父は生きているのですか?」
「……ヨハン元帥閣下は本陣に残られました。あとは任せて先に退けと……」
 父は死ぬ気としか思えなかった。
 生き延びたとして、ここまでの惨敗を喫しては元帥解任は免れないうえに、死ぬまで敗軍の将として蔑まれ続けるのは容易に想像がついた。そしてロートリンゲン家の家名に泥を塗ったままのうのうと生き永らえることを、父の性格は良しとはしない。
 第六聖女とともに元帥である父ヨハンも必要な存在だった。父ならば、敗軍の組織を立て直すことができる。そして何より、敗戦の中で父と生き別れになるなど想像したくなかった。
 助けられないのか──。無力感が足元から這い上がり、定まっていたはずの心がまた揺れ動き始めた。
「大勢は決しています。本陣の部隊も長くは保ちますまい。元帥閣下もそれを承知で残られております」
「……生死がわからないとはいえ、父を見捨てたとあってはロートリンゲン家の騎士の名折れ。親衛隊の護衛には副官のディーツを同行させますので、ビスコフ殿はセレン様の安全を確保し一刻も早く退いて下さい。私は敵を防ぎつつ、父の捜索に当たります」
「なりませんミカエル様! 元帥閣下のあと、残った軍の指揮を執る者が必要です。セレン様には兵の心を慰撫することはできても、軍の動かすことはできません。私もこの老齢の身では、とても敗軍をまとめきれません。大局を見定め、敵に相対す。その役目は、遠征に参加するどの将軍でもなく、五大家筆頭ロートリンゲン家の血族である貴方様にしかできぬ役目なのです」
 またしてもミカエルの脳裏を有象無象が駆け巡った。そのとき、弟のアンダースが口を開いた。
「兄上、これ以上深入りすれば月盾騎士団の被害も大きくなります。逃亡兵に紛れ、我らもさっさと森の中へ避難しましょう」
「このまま父上を見捨てると言うのか? 我らが助けに行かねば、帝国軍に殺されるかもしれんのだぞ」
「いくら蛮人の帝国軍とはいえ、士官階級の貴族、まして元帥を殺すようなことはやりますまい。それに〈帝国〉にも我が家と繋がりのある貴族は大勢います。仮に虜囚となったとて、その者らと通じて身代金を払えば、すぐに再会できましょうぞ」
 ミカエルは思わず弟を怒鳴りつけたい衝動に駆られた。
 敗戦を受けてもアンダースの表情にはまだどこか楽観的な色が見え隠れしているが、帝国軍の殺意剥き出しの暴力は騎士道の範疇を軽く超えていた。それを目の当たりにして、なぜ殺されないなどと言えるのか理解できなかった。
 ミカエルは呼吸を整えるように空を見上げた。勝敗は決していたが、戦場は未だ混乱に包まれている。そして夜の闇に紛れれば、或いは退却だけでなく、父の捜索も可能かもしれない。
 
 ミカエルの心に再び迷いが渦巻く。
 だが戦火は、有無を言わさず月盾騎士団の前に押し寄せきた。
「──黒騎兵来ます!」
 誰かが告げたその一言で、月盾騎士団と第六聖女親衛隊に戦慄が走る。
 白煙の先、無数のどす黒い塊が一丸となり、怒涛の勢いで駆けてくる。その周りには先ほど追い払った馬賊ハッカペルが、再びけたたましい鼓笛を打ち鳴らし追従する。
 身震いするような大きな揺れが、地を再び狂騒に陥れる。
「ここは我らが防ぎます! 御兄弟は聖女様を連れて早くお退き下さい!」
 咄嗟に反転したウィッチャーズの部隊が敵と対峙する。黒騎兵と馬賊ハッカペル合わせて四千騎、後続の追手を加えればそれ以上にもなる兵力を、僅か五百騎で迎え撃つことがどういうことか、それはミカエルにもわかっていた。しかし今はウィッチャーズにかけるべき言葉が見つからなかった。
 背後ではウィッチャーズの部隊が懸命に黒騎兵と馬賊ハッカペルを防いでいるが、やがて土煙に覆われ見えなくなった。
 ミカエルは兜を被り直した。
 迷いがなくなったわけではない。だが、やるしかないと心に告げる。
「ビスコフ殿! 今から私が親衛隊の指揮も執ります! 日没まで敵の攻撃を凌ぎつつ森の中へ後退、そののちボフォースの城まで退却します!」
「心得ました! お頼み申し上げます!」
「親衛隊歩兵は第六聖女と司祭らの車列を中心に方陣を組め! 砲があればそれらは方陣の四隅へ配置。ゆっくりでもいい、陣形を乱さず確実に森の中へと後退せよ! ディーツはビスコフ殿の補佐へ。アンダースと親衛隊騎兵は退路の確保。私とアナスタシアディス、リンドバーグで敵騎兵に対処する!」
 今や空の夕陽よりも、大地の炎の方がその明るさを増していた。
 色を失っていた夕陽が雲間の隅で禍々しく輝き始めるが、東の空にはもう夜の足音が迫っている。夜陰に紛れさえしてしまえば今日を生き延びることができる。もっとも、帝国軍が犠牲を顧みず夜戦を仕掛けてこなければの話ではあるが、今はそこまで考えている余裕はない。
「皆固まって離れるな! 退却ではなく,敵地へ攻め入るぐらいの意気で歩みを進めよ!」
 遮二無二に森の中に逃げ込んでしまえば、平地で騎兵や砲兵に嬲り殺しにされることは避けられる。だが大多数は敵の追撃の犠牲となる。なにより敵に背中を向けた瞬間から潰走が始まり、親衛隊も月盾騎士団も崩壊するのは火を見るより明らかだった。
 たとえ今日を生き延びることができても、立ち上がり抗うことは二度とできない──だから戦う。日没までの僅かな時間である。敗残兵の集まりでも、日没まで耐えれば次へ繋がる道はある。
 騎士たちの表情が緊張で強張っていく。ミカエルもまた抗し難い死の音色に圧し潰されまいと、必死で声を振り絞る。
 不安げな表情のセレンを前に、ミカエルは剣を手に頭を垂れた。
「我は月の盾の長。この剣と軍旗に誓い、必ずやその身命をお守りします」
 ミカエルの誓約の言葉に、セレンは不安げな表情を振り払うと、静かに微笑み返した。
「ミカエル様!」
 方陣中央に退避する第六聖女セレンが、震える声で叫んだ。
「別れ際、ヨハン元帥は仰られました! 生きて帰還せよと! 共に今日を生き延びましょう。ご武運をお祈りします!」
 震えながらもどこか力強さを感じさせるその声に、ミカエルは振り返り敬礼した。
「憶するな! 我らには第六聖女が付いておられるぞ! 偉大なる神に、天使の軍旗に祈れ! そして共に戦う仲間を信じよ!」
 戦場の狂騒が殺意を増して近づいてくる。極彩色をまとった黒い騎兵隊が白煙の中からその姿を現す。目の前に迫る暴力的な音圧に向かい、ミカエルはありったけの声で吼え、剣を構えた。

 滲み出る燻りは無数の炎となり、北の大地を焼く。渦巻く狂騒に落ちる夕陽は、大きく揺らめき霞んでいく。
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