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第二章 戦火の行く先

2-8 孤影

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 異様な空気が城内に漂っていた。
 重々しい雪雲がボフォースの古城に垂れ込める。高揚していたはずの静寂はかすかな騒めきをまとい、そして冬の北風が前線の異常を報せるように城内を吹き抜ける。

 ボフォース城内の主郭、教会軍の本陣に待機する第六聖女セレンも、その異様な空気を肌で感じていた。
 セレンにとってこの〈第六聖女遠征〉は初めて経験する戦争である。ゆえに戦場の醸し出す空気というのはよくわからない。だが聖歌合唱に湧いた開戦前や、接敵前の静寂とは明らかに違う、何か良くないことが起こっているということは容易に察せられた。
 身にまとう白銀の甲冑が冷たさを増す。だがその原因はわからない。
 不安に駆られたセレンが周囲に声をかける前に、親衛隊隊長代行のディーツはすでに動き出していた。
「ただちに状況を確認します。しばしここでお待ちを」
 兵士たちが駆け出していく。ディーツ自身も幕僚らに何か伝えると、尖塔に向かい駆けていく。
 兵員が目まぐるしく動く中、セレンと乙女騎士隊だけががぽつんと取り残される形になる。
「レア、私はこのままここにいてもいいのでしょうか? 状況を確認しに行くべきではないでしょうか?」
「事態が把握できていない以上、我々にはどうすることもできません。下手に動けば兵士たちが不安に感じます。聖女様はここで悠然となされていればよろしいかと」
 乙女騎士隊隊長のレアは冷静だった。もうすぐ四十歳を迎える熟練の剣士は、そのずんぐりとした体躯と同じように、常に泰然自若とした面構えを崩さない。
 騒めき始めた白騎士の親衛隊の合間を縫って、古ぼけた装備の老人が本営に近づいてくる。聖堂の救護所で休んでいるはずのビスコフが、セレンの前にひょっこりと姿を現す。
「また救護所を抜け出したのですか……。貴方には療養に専念するよう命じたはずですよ……」
「姫様が困ったときには、このビスコフがいることをお忘れなきよう。はっはっは」
 白髭を撫でながら明るく笑うビスコフに、セレンは呆れながらも笑みを返した。
「前線の方で何か起こっているようなのです。遠征軍総帥として私はどうすべきか、老親衛隊長より何か意見はありませんか?」
「──戦いが始まってるわけではありませんが、どこか前線の軍が浮足立っているように思えます。ここは総帥たる姫様が直々に閲兵し、軍をおまとめになるべきです」
「お言葉ですがビスコフ殿、親衛隊の指揮はディーツ殿が代行しております。その指示もなく本営を離れるのは如何なものかと……」
 レアがビスコフの意見を遮るようにセレンの前に立つ。ビスコフはレアを一瞥だけすると、再び上目遣いでセレンに目を向ける。
「……親衛隊は本営に残し、乙女騎士隊のみを連れ視察に向かいます。輿をここへ運んで下さい」
「恐れながら、今は本営を離れるべきではありませんセレン様。乙女騎士隊は現在二百名足らず。もし何かあれば貴女を守り切れません」
「城内にいるのは味方だけです。何も起こりませんよ。それに私にできることがあれば、率先して行うべきでしょう」
 セレンが焦るレアを宥めるように微笑むと、ビスコフも「わしも行くから心配するな」と笑う。やがてレアは諦めたように出立の準備を始めた。
 セレンは輿に乗ると、ビスコフと乙女騎士隊を連れ、ミカエルが待機する中央城門へと向かった。


*****


 閉ざされた中央城門の前、月盾の軍旗の下で、騎士たちは真っ二つに分かれて睨み合っていた。
 二つに分裂した集団、その先頭に立つ月盾騎士団の将校、アナスタシアディスと人面甲グロテスクマスクのリンドバーグが怒鳴り合いを繰り広げている。
 門を開けろと唸るリンドバーグに対し、アナスタシアディスがそれを押し止める形で前を塞ぐ。
「味方が無残に殺されてるんだぞ! 敵に愚弄されたまま黙って見ていろというのか!? この腰抜けが!」
「相手の挑発だというのがわからんのか!? ここで出ていけば原野で包囲され嬲り殺しにされる!」
「こんなボロ城で籠城しててもどうせ押し込まれるだけだろう! 我ら教会軍の名誉を、我らが月盾の長の名誉を守るため、今討って出ずいつ出る気だ!」
「攻める気があるなら敵はとっくに力押しで攻めてきている! そうしないのは我々を誘い出したいからだ! 敵の術中にみすみす嵌りにいく馬鹿がどこにいる!?」
「馬鹿で結構! お前みたいな家柄だけが取り柄の腰抜け貴族と一緒にされるよりはマシだ!」
 リンドバーグが背中に背負った大剣を抜くと、アナスタシアディスも瞬時に剣を抜き放つ。それに続き、両陣営の騎士たちも剣や銃を味方同士で構え合う。
「お止めて下さい! 味方同士で何をしているのですか!?」
 セレンはありったけの声で叫んだが、気づく者は疎らで、気づいた者も顔を見合わせるばかりで収拾がつかない。
「全員武器を収め、その場で跪け! 第六聖女セレン様の御前であるぞ!」
 見かねたビスコフが大喝すると、ようやく輿の上のセレンに気づいたアナスタシアディスらが剣を収め膝をつく。振り返ったリンドバーグ派の騎士たちも一斉に膝をつくが、リンドバーグだけは大剣を収めず、面甲で顔を隠したままセレンの前で仁王立ちしている。
「誰か状況を説明せよ」
 ビスコフが一言告げると、我先にとリンドバーグとアナスタシアディスが口を開くが、お互いの話し声が被さり合い、何を言っているかは全くわからなかった。
「いい加減にしろアナスタシアディス! てめぇ人が話してるときにしゃしゃり出てくるんじゃねぇ! ぶっ殺されてぇのか!?」
「セレン様の前でも頭を下げずその不遜な態度を改めないのであれば、貴様を反逆罪で処刑することもできるのだぞ! 少しは身の程を弁えたらどうだ!?」
「二人ともそこまでにしなさい! 指揮権は騎士団長であるミカエル・ロートリンゲン様が司るはず。それなのに部下である貴方たちが暴走して、挙句味方同士で争うなど、そんなことは誰も望んでいません!」
 セレンが声を荒げる。不穏な沈黙が広がっていく。
「状況はミカエル・ロートリンゲン様に確認します。お二人は命令があるまで待機なさい」
 そう言って騎士団に解散を促すと、リンドバーグはおもむろに地面を蹴り上げ、憤慨したまま去っていった。足蹴の泥土をかけられたアナスタシアディスは、顔にかかった泥を拭きつつ、セレンの前で兜を外し頭を下げた。
 月盾騎士団の整列を見届けると、セレンは輿から降り、ビスコフとともに中央城門の階段を登った。


*****


 孤影が城壁に立ち尽くしていた。
 ミカエルは茫然と城外の雪原を眺めていた。その後ろ姿からは、いつも見せる覇気は微塵も感じられない。その体は風が吹けば折れてしまいそうなほど憔悴しており、古めかしい直剣の柄を握る拳は、小刻みに震えている。
 その姿が見るに堪えず、セレンは城外に目を逸らした。
 黒煙を上げる枯れた森、その手前に広がる雪原は赤く染まっていた。〈教会〉の十字架旗は血で染まり、長槍パイクの先端に結びつけられた首、転がされた死体から滴る流血が雪上に血だまりを作る。
 〈帝国〉の黒竜旗が、城内に籠る教会軍を嘲笑うかのように北風に翻る。せっせと処刑に勤しむ帝国軍により、雪原には首塚が築かれていた。
「──これはセレン様。城門前では部下たちの諍いを鎮めて頂いたそうで……。ご足労感謝いたします」
 歩み寄るセレンに気づいたミカエルが軽く頭を下げるが、その目は落ち窪み虚ろだった。
「ミカエル様……。敵は一体何を……?」
「処刑ですよ。恐らく捕虜になった者たちでしょう。我が父も首を晒されています」
 セレンはミカエルが指差す方向を見た。馬車の天蓋の上に首が一つ乗せられている。遠目では判別がつかないため、遠眼鏡を渡すよう側近に声をかける。レアもビスコフも「止めた方がいい」と言ったが、セレンは構わず遠眼鏡を覗いた。
 見たことのないぐらい醜く歪んだ顔。だがそれが誰かは知っている──それは確かに、教会遠征軍総指揮官であるヨハン・ロートリンゲン元帥の首だった。
 ──セレンの脳裏に、在りし日のヨハン元帥の姿が浮かんでくる。
 元々、セレンにとってヨハン元帥は顔見知り程度の関係でしかなく、遠征が始まっても親交を深めることはなかった。傍目にはいかにも実直で厳格な修道騎士といった人物だったが、セレンと対面するときの彼の表情はいつも穏やかで、その声には温もりがあった。それは遠征軍が疲弊し始めたときも、エリクソン平原で「生きて帰還せよ」と言い残し別れたときも変わらなかった。

 ──だがその人は死んだ。

「ミカエル様。お悔みを──」
 慰めの言葉をかけようとして、セレンは嘔吐していた。
 悪寒が体中を駆け巡る。足の力が抜け、膝から石畳に崩れ落ちる。
 死は見慣れているはずだった。エリクソン平原の戦いでも、傷病兵の慰問でも、見るに堪えない無残な光景は散々目にしてきた。それなのに、今は溢れ出る吐瀉を抑えることができなかった。
 ビスコフやレアに体を支えられ何とか立ち上がったが、悪寒はまだ体の奥底で燻り続けている。それを振り払おうと、水で口元をゆすぎ、吐瀉物を洗い流す。
 その間も、ミカエルは相変わらず立ち尽くしたままだった。
「セレン様……。私はこれからどうすればいいのでしょうか……? 辱められた父を前にして、仇を討つこともできない。その意志を継ぎ遠征を続けるには兵が足りず、さらには部下たちに命令を下すこともできなかった……」
 焦点の定まらぬ目で、ミカエルがセレンを見つめてくる。
「ここから先、貴女を守ることすらできるかどうか……」
「弱気になってはなりませんミカエル様。私も貴方もまだこうして生きています。以前、貴方が戦場から私を救ってくれたときのように、生きていれば道は必ず開けます」
 いつの間にか悪寒は消えていた。自分でも驚くほど、セレンは饒舌に語っていた。
「アナスタシアディスとリンドバーグはそれぞれにできることをしようとして言い争っていたのです。その思いを無駄にしないで下さい。今後どうするかは、皆で考えればよいのです。何もかも独りで背負うことはないのですよ」
 セレンがその手を強く握ると、ミカエルはようやく落ち着きを取り戻したのか、深々と頭を下げ、そして跪いた。

 立ち上がった騎士の孤影が、再び城壁から雪原を睥睨する──今度は独りではない。
 重苦しい静寂の中を、北風に乗った帝国軍の嘲笑だけが吹き抜ける。〈帝国〉の黒竜旗は、人間狩りに興じる獣のように、雪原を〈教会〉の血で染めていく。
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