パーフェクトワールド

出っぱなし

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 彼女はここまで一気に話し終わると、現在に戻ってきたようだった。
 そして、バッグからハンカチを取り出すと目に軽く当てていた。

 語っている内に涙があふれてきたようだ。
 彼女は感情が豊かだ。
 本当にまっすぐな心を持っているのだろう。

「そっか、そんなことがあったんだね。とても、今の君からは考えられないよ。いや、だからこそしっかりとしているんだね」

 彼は感心して彼女を見つめた。
 彼女は少し、はにかんだように笑った。

「そんなにたいしたことじゃないよ。それに、職場でも鉄の女みたいに思われているけど、私にもちゃんと傷つく時だってあるんだから。それであれ以来、嫌なことがあるといつも動物園に行くようにしているの。動物たちを見ていると、まあいいかって思えるんだ」

 彼女はにっこりと微笑んだ。
 彼の心臓は矢で打ち抜かれたような衝撃を受けた。
 こんなにもきれいな笑顔の人がいるなんて僕は知らない。
 その考えは今でも変わっていない。

「奇跡みたいだ」

 彼は思わず口に出してしまっていた。

「奇跡か。そうかもね、本当に。そんなに簡単にハッピーエンドで終わるなんて普通ないもんね」

 彼女は違う意味で解釈したようだ。
 その頃を思い出して、ただ嬉しそうに笑っただけだ。

「でも、もうちょっと続きがあるのよ。

 後で知ったことだけど、お母さんが帰ってきた時に、玄関に鍵がかかっていなくておかしいって思ったらしい。それで、家中を探し回っても私たちがいないことに気が付いて家の周りを探し回った。でも、見つからなくて頭の中が真っ白になったって。誘拐でもされたんじゃないかって思ったらしいよ。ふふ、今思うと笑えちゃうわね。それで、パニックになって警察に駆け込むと、園長さんが私たちが寝た後、警察に連絡していてくれたらしくて、そこでようやく引き渡されたらしいのよ。園長さんにしかられたって言ってた。

 でも、それからは私たちの相手を良くしてくれた。夜中に飲み歩くこともなくなって、何も改めようとしない父親とも別れてしまった。その後に、狭いアパートに引っ越して貧乏にもなったけど、ようやく本物の家族になれた気がした。本当に幸せになれたんだ。神様って本当にいるんだって思った」

 彼女は満ち足りたように、最高の笑顔で微笑んだ。

「うん、そうだね」

 彼はぎこちなく答えた。

 神様? あいつが?

 間違いなく、そんなことはしないだろうと僕は思った。
 でも、彼女の笑顔を見ていると、彼女がそう思うのならそれでもいいかと思えた。

「何だか私ばかりしゃべちゃったわね? 退屈じゃなかったらいいけど」

 彼女は彼をちらりと見た。
 少し不安そうな、申し訳無さそうな、何ともいえない微妙な表情だ。

「そんなことはないよ。君の話には考えさせられたよ」

 彼はただ格好付けているかのように軽く笑った。

「もう、大袈裟だよ」

 彼女は照れくさそうに笑った。

「でも、初めてよ。このことを話せた人は」

 彼らはグラスに残っていたワインを飲み干すと、会計を済まそうとレジに行った。
 彼が全額出そうとすると、彼女が半分出すと言った。
 彼は断ったけど、彼女は自分の分も自分で払わない安っぽい女だと思われたくないと無理矢理押し切った。
 彼もこんなことぐらいでメンツをつぶされたと思うような男でもないので、彼女の考えに任せた。

 そして、地下鉄に乗って帰った。
 名古屋駅に到着すると、別方向に乗り換える彼女を見送った。

 彼は足元がおぼつかない程、気分が高揚していた。
 まるで宙に少し浮いて歩いているようだ。

 詮索好きな両親に何も聞かれたくないので、駅周辺を歩いた。
 キャバクラだとか風俗関係の呼び込みが話しかけてくるが、耳から耳へとすり抜けていった。

 彼は自分のこの状態に困惑しているかのように、胸の中がかき乱されていた。
 自分に何が起こっているのか認めたくはないのだろう。

 そう、この時には僕はもう彼女に惹かれ始めていた。
 いや、間違いなく、恋に落ちてしまっていた。
 自分がこんなことになること自体信じられないことだった。

 僕は恋愛事なんて興味なんかないし、夢中になったりする奴なんてただのバカだと見下していた。
 こんなものは脳内物質の作用で引き起こされる、ただの発情行為じゃないか。
 ただの性欲を処理する相手がほしいだけなんだろ、奇麗事にしたいだけなんだろって。

 そんなものは適当な相手を見つけて適当に処理するか、金を払えば済むだけのことだとしか思わなかった。
 性欲を処理するだけの相手なんて簡単に見つかるし、後腐れなくて楽だからね。
 僕には、人を愛することなんか無意味だし、時間の無駄だと思っていた。

 だが、そんな僕の前に、不意に善意の化身のような彼女が現れてしまった。
 もう惹かれていくのみだった。

 しかし、この時の僕は、まだ認めることを恐れていた。
 自分自身、見下していたものになることが、醜いと思っていた。

 いや、違う。

 本当は、これまでに作り上げてきた自分を壊すことが怖かった。
 冷静さを失った情熱的な自分がどうなってしまうのか分からず不安だった。
 と、僕は今になって思う。

 個人差はあれど、人はある程度の年齢に達すると、自分自身が変わることに無意識の内に恐怖を感じるのではないだろうか?

 不意に彼の足が止まり、僕の思案は途切れた。
 視線の先には、ジローとナッツが腕を組んで歩いているのが見えた。

 いや、正確にはよく見えはしなかった。
 かなり遠くだったし、一瞬だったからだ。
 二人は安っぽいけばけばしい建物へと消えていった。

 次の瞬間には、すでに彼の足は地についていた。
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