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運命の誕生日
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貴方に始めて会ったのは、私の19回目の誕生日、冷たい雨の降る夕暮れだった。
その日、私は普段生活している女学院の寄宿舎を出て買い物を終え、1年ぶりに帰省する養母であるサラの家までの帰宅ルートを思案しながら街のパサージュの片隅で雨宿りをしていた。
養母であるサラの家は都ルシアの街中から少し離れた別荘地区にある。去年までの帰省なら、幼馴染みのアドリアンが送り迎えをしてくれたのだが…今、そのアドリアンの姿はない。また最愛のサラも去年、流行り病で亡くなり、もう他に誰もラルムを待つ人はいなかった。
今日は一人の誕生日…。それでも12年間、サラと過ごした家に帰れるのは嬉しい。でも、7年間の女学院生活もあと3カ月で卒業を迎えその後は一人で暮らすのかと思うと…ちょとさみしい。
急に雨が降ってきたことで、馬車待ちの列が長く続いていて、とてもすぐに並ぶ気にはなれなかった。
やっぱり傘…買おうかな
そんな事を思ってため息をついたその時だった…。
「―傘か」
「えっ?」
いつの間にか私の左隣に腕組みをして並んで立つ、強いオーラを身に纏った背の高い男性が視線は合わせずに前を向いたまま、うっすらと口元に笑みを浮かべて呟いた。
まさか、私に言ったわけじゃないわよね…
彼の独り言でしょ…
「君に…言ったのだが」
「えっ?」
思わず左隣の男性を見上げて声が出てしまった。
これは何かの勘違い?
それとも私の知らない新しいお誘いの作法だったりする?
いずれにしても、怪しい人には関わらない方がいい。女学院の先生方の口癖でもある。それに、本当に私に言ったのかも分からないし…。とりあえず、相手を刺激しないようにして離れよう。
私は呼吸を整えて、大きく静かに一歩右側に足をずらそうと体重を移動させた。
「怖がるな…そんなつもりはない」
「えっ?」
じゃあ、どんなつもり?
「―やっと見つけたのだ…」
「…」
それ、完璧に怪しいです
「怪しい者ではない」
いいえ…かなり怪しいです
疑いは全く晴れませんから
ふっ…と微かに笑う気配がしたかと思うと
「まあ、警戒心は強いようで…良かった」
初対面なのに、かなり上から目線でこの呟き…ただの一般庶民ではなさそうだ。
もう一度、長身の男性を見上げる。かなりの圧迫感のはず…しかし、そこには意外にも私の視線に応える優しい眼差しがあってホッとしてしまう。
「えっ…」
言葉が出ない…。
端正な顔立ち、エメラルドを思わせる碧色の瞳は強い意志を宿し、鬣のようになびくダークブラウンの髪は王者の風格さえ漂せている。鍛えていそうな厚い胸板に幅広い肩、白いドレスシャツは何とも優雅で帝都アマドールの騎士を連想して、不覚にも少々見とれてしまった。
ダメ!見てはダメなのに…
見とれてしまうなんて問題外よ。
「―近いうちに…また会おう」
隣の男性はそう言って、明らかに満足そうな笑みを浮かべた。
そして、私の左側から…消えた。
わずか1、2分の出来事。
嘘でしょ!?
「…」
こんな街のど真ん中、ふつう消えないわよね…!?
私は自分の首にかけている男性の瞳の色と同じエメラルドのネックレスを握りしめて固まる…。
今日、初めて身につけた誕生石に恐る恐る視線を移す。
まさか…このネックレスが騎士を呼んだ?
今朝の院長先生の言葉が思い出される。
「ラルム フローディアさん、19歳のお誕生日、おめでとうございます。貴女が7年前に本校へ入学時された時に養母のサラ様からお預かりした物でございます。貴女のストーン(誕生石)だとか…くれぐれも大事に保管して19歳の誕生日に必ず貴女に渡すように頼まれておりました。めったにないすばらしい石ですわ。」
この国では女性は生まれてくる時に、自分の手の中に誕生石(ストーン)を握って生まれてくる事がある。その石は種類も大きさも様々で、同じ誕生日でも個々の石は違うものであり、また時に運命の相手と引力的な働きを生じる事もあった。そのため、結婚が許可された19歳の誕生日になると、そのお祝いとして石を装飾品に加工して娘に贈るのが習わしとなっていた。しかし実際、ストーンの多くは小粒程の灰色や黒色の鉱石が一般的であることから実際はより美しく影響力の強い石を親が求めて購入することが通常であった。
あの時は親指程あるこの大きな石(エメラルド)が自分の誕生石と言うことに驚いてじっくり観察をしていなかった。しかし、よく見ればこの石の中心にはドラゴンの紋様なモノが浮き上がっているようにも見えるのだけれど…。
一瞬立ち止まった後、何気なく足元に視線を移して、私は更に固まった。
足元に置いた私のトランクの上に大きな黒い傘が置かれてれている事に気がついたからだ。さっきまでは、絶対に無かったはず。だって今まで傘を買おうかと悩んでいたのだから。
光沢のある黒色ベルベットで縁取りされた良質の生地にゴールドの鞘、細かな細工の施された木製の持ち手は一つの芸術作だ。また、生地の一部と持ち手には、明らかな紋様が刻まれていた。
これは…
今、私が握りしめている石に刻まれた印と同じドラゴン?
まさかの偶然?
もしかすると、魔術師の予行練習…?
違うわよね…だってかなりクラシカルで普段使いではない高級な傘だもの。
―そしてこの紋章は…
―どこかで見たはず…
まさか…カーラ アルカサンドラ王家の【ドラゴン アルカサンドラ】じゃないわよね?
…あの人はいったい誰なの?
―やっと見つけたのだ
―近いうちにまた会おう
始めは小さかった胸の高鳴りが、徐々に大きくなるのを感じて、しばらくその場所から動く事ができなかった。
約500年前にアルカサンドラ王によってアマドーラ帝国が建立されてから、比較的平和で安寧な日々が続いていた。しかし近年、干魃が続き、同時に流行り病も蔓延して多くの死者を出していた。
アマドーラ帝国はアルカサンドラ王家によって代々、統治されてきた。そして貴族制度の元に様々な体制が整えられていたが、近年は臣下であるスモン家が力をつけて、何かと政にも口を出すようになっていた。
スモン家は、アルカサンドラ家に次いで広大な領地を持ち、治める土地に第2の都を構えており、その勢力は年々強まっていた。
皇帝が居城を構える都は第1の都アマドールであり、帝都とも呼ばれる政の中心地である。
現在、アマドーラ帝国は第7代皇帝オンドール カーラ アルカサンドラにより治められていた。しかしここ数年、病に臥せっているとされ、次期皇帝選びが水面下で行われているとの噂が囁かれている。
第1皇子である皇太子、レオナルシス カーラ アルカサンドラは謎の多い人物で、めったにその姿を人前に見せない事で有名であった。アルカサンドラ家直系では100年に一度の逸材と言われる高い超能力の持ち主ではあるものの、王宮に出入りする貴族達の中でもその姿を知る者はごく少数である。
アルカサンドラ家では皆が何かしらの超能力を持って生まれる。物体移動をはじめとして時に空間や時間、気象までも操る能力は多岐にわたる。その中でも皇帝の地位に就く者はより優れた能力を求められたが、近年その力が弱体化しつつある事が帝国統治能力の低下原因の一因でもあった。
そのため、皇子レオナルシスが次期皇帝に即位することをアルカサンドラ一族はもとより多くの重臣もそれを望んでいた。
もう一人の候補者は現皇帝の甥、アルカサンドラ分家にあたるカザル家の、タクシン カザル アルカサンドラである。スモン家との繋がりを嵩にして皇帝の座を長年に渡って狙ってきた人物である。この次期皇帝の選定問題については、現皇帝の長年の悩みでもあった。代々直系であるカーラ 家が政を担っているが、経済的に力をつけたスモン家の影響力は日々増しておりカザル家を全面的に支援していたからである。
第2の都はドルカと呼ばれスモン家の統治下にある。ドルカは商業が盛んな都であることから、新しい職を求めて移民や若者の流入が続いて爆発的に人口が増えて繁栄した都であった。
第3の都はルシアと呼ばれていた。自然豊かな大地に恵まれ、王家をはじめ、多くの貴族が静養地や別荘を所有していた。現在のラルム フローディアの生活の場でもある。
湖畔にあるサラの家に着いてホッとした。ゆっくりと一息をついてチェアに腰掛け、ラルムは湖の水面に映る月を見ていた。結局あの後、乗り合い馬車を待って帰宅したので、随分と遅くなってしまった。
でも、久しぶりにゆっくりと湯を浴びて好きなだけ本を読む時間があると思うと嬉しい。
明日からは待ちに待った一週間の誕生日休暇だ。
まさか…怪しい男性に突然話しかけられたなんて女学院の友達に相談は出来ないわよね…。
みんな私と違って良家のお嬢様ばかりで許嫁のいる人が殆どだから、街で男性に声をかけられななんて言ったら、失神しかねないわ。
私も19歳だし…お嫁に行ける歳になったんだもの。
―自立しないと…。
ふいに幼馴染みのアドリアンを思い出したが、頭を軽く左右にふった。
ううん…アドリアンは本来なら全く手の届かない人なのだ。私のような身寄りのない者と関わってはいけない…。
無意識に胸元で輝くエメラルドを握りしめて、その晩遅くにラルムは眠りについた。
「ラルム開けて…僕だよ、アドリアンだよ」
朝から聞き慣れた懐かしい声とドアを叩く音で目が覚めた。
アドリアンが帰って来たんだ…私は眠い目を擦りながらガウンを纏う。
いつも優しいアドリアン…幼い頃から泣き虫な私とよく遊んでくれた。
サラの家の隣には莫大な敷地があった。そこに別荘を持つ3歳年上の彼とは昔からの友達である。しかし、女学院の入学を前に私は彼が何者なのかを知った。
「ラルム、僕の正式な名はアドリアン スモンなんだ」と。彼は名門スモン家の次男だった。
生まれつき体が弱かった彼は、幼き頃から乳母と数人の使用人を伴いスモン家のある都ドルカから生活の中心をここ自然豊かな都ルシアに移していた。それでここ数年は成人貴族としての役割も増えて、重要な行事や貴族会議などで帝都アマドールに赴く事が増えていた。
ドアを開けるとそこには、大きな花束を持ったアドリアンが立っていた。
「昨日はラルムの誕生日だったのに、アマドールからの帰りの船が嵐で出港が出来なかった…誕生日に間に合わなくて本当にごめん…。」
申し訳なさそうにアドリアンが苦笑いをする。
私の誕生日の事を覚えていてくれたと思うだけで充分に心が暖かくなるのを感じる。
ただの幼馴染みの私なんかの為に、いつもアドリアンは優しすぎるのだ。
1年振りに見るアドリアンは、うっすらと日に焼けてまぶしいくらい素敵だった。
いつの間にか彼が大人びて見えるは気のせいだろうか。
「おかえりなさい…アドリアン」
「せっかくの誕生日を一人にしてごめん。」
「…」
私は直ぐに返す言葉が見つからず、ただ首を横にふった。なんだか…恥ずかしくてたまらない。
なぜなら…綺麗にウェーブした黒髪の優しく微笑むアドリアンが、急に私の知らない大人の男性に見えたから。
「そんなに、優しい事を言わないでアドリアン」
少しの間をおいてから小さい声で呟く。
「19歳の誕生日の意味をラルムは知っているよね…」
「ええ…」
「じゃあ、君が僕の許嫁と言うことも?」
アドリアンは今、何を言ったのだろう?
私は驚いて、アドリアンを見上げた。
「嘘だよ…そうだったらどんなにいいかと思って」
「もう…アドリアンたら、驚かさないで…」
「ラルムはそう思わない?」
―全く思わないと言えば嘘になるけど…
生まれた身元も分からない私と名門貴族の彼とでは…余りに身分が違いすぎるから。
それくらいの事は、いくら世間知らずの私にも分かるのよ…アドリアン。
「そんな事を言って…からかわないで」
わざと機嫌を損ねたようにアドリアンを睨む。
「そっか…ラルムにはまだ早いかなぁ」
優しくて眩しい笑顔を返すアドリアン。
―半年前に私は知ってしまった事がある。
アドリアンにはずっと前から許嫁がいた事を。
彼女は、私と同じ女学院に通う学年が一つ下の可愛らしい貴族の子女だった。
アリス モンダールは、スモン家に継ぐ家柄のお嬢様で、彼女の話しでは、生まれて直ぐにスモン家から申込があったと聞いた。
その話しを彼女から直接、聞かされた時のショックは想像以上に大きかった。
「アリスに叱られるわ…」
思わず、言葉が出てしまった。
彼の顔をまともに見上げる事ができない。
暫くの無言。
何か言ってほしい…もしかしたら、否定してくれる?色々な思いが交差して胸が苦しい。
「やっぱり知っていたんだね…」
「…」
胸がいっぱいで、言葉を返せない。
「顔を上げて…ラルム」
私は首を横に振るのが精一杯だ。
「自分の意志とは全くの無関係なんだ…」
アドリアンの掠れた声が少し震えている?
「それだけは…分かってほしい」
強く訴える震える声に戸惑い、アドリアンを見上げた。
深い悲しみを含んだ瞳と視線が交わる。
もうこれ以上は…。
私は大きく一呼吸を整えた。
そしてサラが亡くなってから、ずっと考えていた事を告げる。
「私…ルシアを離れようと思うの…」
「―だからアドリアン、私の事は心配しないで大丈夫よ…」
アドリアンは余計に表情を曇らせたかと思うと、私の肩に両手を伸ばした。
「ダメだ…」
「行かせないよ…ラルム」
とっさにアドリアンの胸に抱きしめられて、私は息が出来ない。思わず体を捩って抜け出そうとしても、その力に敵わない。
「離して…アドリアン」
小さな声を上げてアドリアンの胸を押し返そうとしたその時…。
私は一瞬、全身から力が抜けていくのを感じて、同時に意識も手離したのだった。
その日、私は普段生活している女学院の寄宿舎を出て買い物を終え、1年ぶりに帰省する養母であるサラの家までの帰宅ルートを思案しながら街のパサージュの片隅で雨宿りをしていた。
養母であるサラの家は都ルシアの街中から少し離れた別荘地区にある。去年までの帰省なら、幼馴染みのアドリアンが送り迎えをしてくれたのだが…今、そのアドリアンの姿はない。また最愛のサラも去年、流行り病で亡くなり、もう他に誰もラルムを待つ人はいなかった。
今日は一人の誕生日…。それでも12年間、サラと過ごした家に帰れるのは嬉しい。でも、7年間の女学院生活もあと3カ月で卒業を迎えその後は一人で暮らすのかと思うと…ちょとさみしい。
急に雨が降ってきたことで、馬車待ちの列が長く続いていて、とてもすぐに並ぶ気にはなれなかった。
やっぱり傘…買おうかな
そんな事を思ってため息をついたその時だった…。
「―傘か」
「えっ?」
いつの間にか私の左隣に腕組みをして並んで立つ、強いオーラを身に纏った背の高い男性が視線は合わせずに前を向いたまま、うっすらと口元に笑みを浮かべて呟いた。
まさか、私に言ったわけじゃないわよね…
彼の独り言でしょ…
「君に…言ったのだが」
「えっ?」
思わず左隣の男性を見上げて声が出てしまった。
これは何かの勘違い?
それとも私の知らない新しいお誘いの作法だったりする?
いずれにしても、怪しい人には関わらない方がいい。女学院の先生方の口癖でもある。それに、本当に私に言ったのかも分からないし…。とりあえず、相手を刺激しないようにして離れよう。
私は呼吸を整えて、大きく静かに一歩右側に足をずらそうと体重を移動させた。
「怖がるな…そんなつもりはない」
「えっ?」
じゃあ、どんなつもり?
「―やっと見つけたのだ…」
「…」
それ、完璧に怪しいです
「怪しい者ではない」
いいえ…かなり怪しいです
疑いは全く晴れませんから
ふっ…と微かに笑う気配がしたかと思うと
「まあ、警戒心は強いようで…良かった」
初対面なのに、かなり上から目線でこの呟き…ただの一般庶民ではなさそうだ。
もう一度、長身の男性を見上げる。かなりの圧迫感のはず…しかし、そこには意外にも私の視線に応える優しい眼差しがあってホッとしてしまう。
「えっ…」
言葉が出ない…。
端正な顔立ち、エメラルドを思わせる碧色の瞳は強い意志を宿し、鬣のようになびくダークブラウンの髪は王者の風格さえ漂せている。鍛えていそうな厚い胸板に幅広い肩、白いドレスシャツは何とも優雅で帝都アマドールの騎士を連想して、不覚にも少々見とれてしまった。
ダメ!見てはダメなのに…
見とれてしまうなんて問題外よ。
「―近いうちに…また会おう」
隣の男性はそう言って、明らかに満足そうな笑みを浮かべた。
そして、私の左側から…消えた。
わずか1、2分の出来事。
嘘でしょ!?
「…」
こんな街のど真ん中、ふつう消えないわよね…!?
私は自分の首にかけている男性の瞳の色と同じエメラルドのネックレスを握りしめて固まる…。
今日、初めて身につけた誕生石に恐る恐る視線を移す。
まさか…このネックレスが騎士を呼んだ?
今朝の院長先生の言葉が思い出される。
「ラルム フローディアさん、19歳のお誕生日、おめでとうございます。貴女が7年前に本校へ入学時された時に養母のサラ様からお預かりした物でございます。貴女のストーン(誕生石)だとか…くれぐれも大事に保管して19歳の誕生日に必ず貴女に渡すように頼まれておりました。めったにないすばらしい石ですわ。」
この国では女性は生まれてくる時に、自分の手の中に誕生石(ストーン)を握って生まれてくる事がある。その石は種類も大きさも様々で、同じ誕生日でも個々の石は違うものであり、また時に運命の相手と引力的な働きを生じる事もあった。そのため、結婚が許可された19歳の誕生日になると、そのお祝いとして石を装飾品に加工して娘に贈るのが習わしとなっていた。しかし実際、ストーンの多くは小粒程の灰色や黒色の鉱石が一般的であることから実際はより美しく影響力の強い石を親が求めて購入することが通常であった。
あの時は親指程あるこの大きな石(エメラルド)が自分の誕生石と言うことに驚いてじっくり観察をしていなかった。しかし、よく見ればこの石の中心にはドラゴンの紋様なモノが浮き上がっているようにも見えるのだけれど…。
一瞬立ち止まった後、何気なく足元に視線を移して、私は更に固まった。
足元に置いた私のトランクの上に大きな黒い傘が置かれてれている事に気がついたからだ。さっきまでは、絶対に無かったはず。だって今まで傘を買おうかと悩んでいたのだから。
光沢のある黒色ベルベットで縁取りされた良質の生地にゴールドの鞘、細かな細工の施された木製の持ち手は一つの芸術作だ。また、生地の一部と持ち手には、明らかな紋様が刻まれていた。
これは…
今、私が握りしめている石に刻まれた印と同じドラゴン?
まさかの偶然?
もしかすると、魔術師の予行練習…?
違うわよね…だってかなりクラシカルで普段使いではない高級な傘だもの。
―そしてこの紋章は…
―どこかで見たはず…
まさか…カーラ アルカサンドラ王家の【ドラゴン アルカサンドラ】じゃないわよね?
…あの人はいったい誰なの?
―やっと見つけたのだ
―近いうちにまた会おう
始めは小さかった胸の高鳴りが、徐々に大きくなるのを感じて、しばらくその場所から動く事ができなかった。
約500年前にアルカサンドラ王によってアマドーラ帝国が建立されてから、比較的平和で安寧な日々が続いていた。しかし近年、干魃が続き、同時に流行り病も蔓延して多くの死者を出していた。
アマドーラ帝国はアルカサンドラ王家によって代々、統治されてきた。そして貴族制度の元に様々な体制が整えられていたが、近年は臣下であるスモン家が力をつけて、何かと政にも口を出すようになっていた。
スモン家は、アルカサンドラ家に次いで広大な領地を持ち、治める土地に第2の都を構えており、その勢力は年々強まっていた。
皇帝が居城を構える都は第1の都アマドールであり、帝都とも呼ばれる政の中心地である。
現在、アマドーラ帝国は第7代皇帝オンドール カーラ アルカサンドラにより治められていた。しかしここ数年、病に臥せっているとされ、次期皇帝選びが水面下で行われているとの噂が囁かれている。
第1皇子である皇太子、レオナルシス カーラ アルカサンドラは謎の多い人物で、めったにその姿を人前に見せない事で有名であった。アルカサンドラ家直系では100年に一度の逸材と言われる高い超能力の持ち主ではあるものの、王宮に出入りする貴族達の中でもその姿を知る者はごく少数である。
アルカサンドラ家では皆が何かしらの超能力を持って生まれる。物体移動をはじめとして時に空間や時間、気象までも操る能力は多岐にわたる。その中でも皇帝の地位に就く者はより優れた能力を求められたが、近年その力が弱体化しつつある事が帝国統治能力の低下原因の一因でもあった。
そのため、皇子レオナルシスが次期皇帝に即位することをアルカサンドラ一族はもとより多くの重臣もそれを望んでいた。
もう一人の候補者は現皇帝の甥、アルカサンドラ分家にあたるカザル家の、タクシン カザル アルカサンドラである。スモン家との繋がりを嵩にして皇帝の座を長年に渡って狙ってきた人物である。この次期皇帝の選定問題については、現皇帝の長年の悩みでもあった。代々直系であるカーラ 家が政を担っているが、経済的に力をつけたスモン家の影響力は日々増しておりカザル家を全面的に支援していたからである。
第2の都はドルカと呼ばれスモン家の統治下にある。ドルカは商業が盛んな都であることから、新しい職を求めて移民や若者の流入が続いて爆発的に人口が増えて繁栄した都であった。
第3の都はルシアと呼ばれていた。自然豊かな大地に恵まれ、王家をはじめ、多くの貴族が静養地や別荘を所有していた。現在のラルム フローディアの生活の場でもある。
湖畔にあるサラの家に着いてホッとした。ゆっくりと一息をついてチェアに腰掛け、ラルムは湖の水面に映る月を見ていた。結局あの後、乗り合い馬車を待って帰宅したので、随分と遅くなってしまった。
でも、久しぶりにゆっくりと湯を浴びて好きなだけ本を読む時間があると思うと嬉しい。
明日からは待ちに待った一週間の誕生日休暇だ。
まさか…怪しい男性に突然話しかけられたなんて女学院の友達に相談は出来ないわよね…。
みんな私と違って良家のお嬢様ばかりで許嫁のいる人が殆どだから、街で男性に声をかけられななんて言ったら、失神しかねないわ。
私も19歳だし…お嫁に行ける歳になったんだもの。
―自立しないと…。
ふいに幼馴染みのアドリアンを思い出したが、頭を軽く左右にふった。
ううん…アドリアンは本来なら全く手の届かない人なのだ。私のような身寄りのない者と関わってはいけない…。
無意識に胸元で輝くエメラルドを握りしめて、その晩遅くにラルムは眠りについた。
「ラルム開けて…僕だよ、アドリアンだよ」
朝から聞き慣れた懐かしい声とドアを叩く音で目が覚めた。
アドリアンが帰って来たんだ…私は眠い目を擦りながらガウンを纏う。
いつも優しいアドリアン…幼い頃から泣き虫な私とよく遊んでくれた。
サラの家の隣には莫大な敷地があった。そこに別荘を持つ3歳年上の彼とは昔からの友達である。しかし、女学院の入学を前に私は彼が何者なのかを知った。
「ラルム、僕の正式な名はアドリアン スモンなんだ」と。彼は名門スモン家の次男だった。
生まれつき体が弱かった彼は、幼き頃から乳母と数人の使用人を伴いスモン家のある都ドルカから生活の中心をここ自然豊かな都ルシアに移していた。それでここ数年は成人貴族としての役割も増えて、重要な行事や貴族会議などで帝都アマドールに赴く事が増えていた。
ドアを開けるとそこには、大きな花束を持ったアドリアンが立っていた。
「昨日はラルムの誕生日だったのに、アマドールからの帰りの船が嵐で出港が出来なかった…誕生日に間に合わなくて本当にごめん…。」
申し訳なさそうにアドリアンが苦笑いをする。
私の誕生日の事を覚えていてくれたと思うだけで充分に心が暖かくなるのを感じる。
ただの幼馴染みの私なんかの為に、いつもアドリアンは優しすぎるのだ。
1年振りに見るアドリアンは、うっすらと日に焼けてまぶしいくらい素敵だった。
いつの間にか彼が大人びて見えるは気のせいだろうか。
「おかえりなさい…アドリアン」
「せっかくの誕生日を一人にしてごめん。」
「…」
私は直ぐに返す言葉が見つからず、ただ首を横にふった。なんだか…恥ずかしくてたまらない。
なぜなら…綺麗にウェーブした黒髪の優しく微笑むアドリアンが、急に私の知らない大人の男性に見えたから。
「そんなに、優しい事を言わないでアドリアン」
少しの間をおいてから小さい声で呟く。
「19歳の誕生日の意味をラルムは知っているよね…」
「ええ…」
「じゃあ、君が僕の許嫁と言うことも?」
アドリアンは今、何を言ったのだろう?
私は驚いて、アドリアンを見上げた。
「嘘だよ…そうだったらどんなにいいかと思って」
「もう…アドリアンたら、驚かさないで…」
「ラルムはそう思わない?」
―全く思わないと言えば嘘になるけど…
生まれた身元も分からない私と名門貴族の彼とでは…余りに身分が違いすぎるから。
それくらいの事は、いくら世間知らずの私にも分かるのよ…アドリアン。
「そんな事を言って…からかわないで」
わざと機嫌を損ねたようにアドリアンを睨む。
「そっか…ラルムにはまだ早いかなぁ」
優しくて眩しい笑顔を返すアドリアン。
―半年前に私は知ってしまった事がある。
アドリアンにはずっと前から許嫁がいた事を。
彼女は、私と同じ女学院に通う学年が一つ下の可愛らしい貴族の子女だった。
アリス モンダールは、スモン家に継ぐ家柄のお嬢様で、彼女の話しでは、生まれて直ぐにスモン家から申込があったと聞いた。
その話しを彼女から直接、聞かされた時のショックは想像以上に大きかった。
「アリスに叱られるわ…」
思わず、言葉が出てしまった。
彼の顔をまともに見上げる事ができない。
暫くの無言。
何か言ってほしい…もしかしたら、否定してくれる?色々な思いが交差して胸が苦しい。
「やっぱり知っていたんだね…」
「…」
胸がいっぱいで、言葉を返せない。
「顔を上げて…ラルム」
私は首を横に振るのが精一杯だ。
「自分の意志とは全くの無関係なんだ…」
アドリアンの掠れた声が少し震えている?
「それだけは…分かってほしい」
強く訴える震える声に戸惑い、アドリアンを見上げた。
深い悲しみを含んだ瞳と視線が交わる。
もうこれ以上は…。
私は大きく一呼吸を整えた。
そしてサラが亡くなってから、ずっと考えていた事を告げる。
「私…ルシアを離れようと思うの…」
「―だからアドリアン、私の事は心配しないで大丈夫よ…」
アドリアンは余計に表情を曇らせたかと思うと、私の肩に両手を伸ばした。
「ダメだ…」
「行かせないよ…ラルム」
とっさにアドリアンの胸に抱きしめられて、私は息が出来ない。思わず体を捩って抜け出そうとしても、その力に敵わない。
「離して…アドリアン」
小さな声を上げてアドリアンの胸を押し返そうとしたその時…。
私は一瞬、全身から力が抜けていくのを感じて、同時に意識も手離したのだった。
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