君の行く末華となりゆく

松本きねか

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第9話

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夕方から宵闇となる逢魔が時。

千尋は清景の屋敷にいた。
薄暗い部屋の中で、清景が一人でベラベラとしゃべっている。

「保憲殿が暦得業生になる時には、一緒に得業生試を受けましてね。私は残念ながら及第点をいただけませんでしたが、暦生同士お互いの学問の優秀さを称え合った間柄なのですよ…」

『なんだろう…考えることができない…』

千尋は頭が朦朧としてくるのを感じていた。

『…香り…そう、この甘い香りのせいだ…』

何かが頭の中で警鐘を鳴らしているのに、体も思考も動かすことができない…

体がフワフワするような、ぼんやりとした意識の中にいた。

誰かが自分の目を見つめていることだけは、霧の中にいるような視界でも分かった。

「保憲のことなど、忘れてしまえ!」

千尋の頭に響いた声は、千尋の意識を遠い彼方へと退けてしまった。


その頃、保憲は逸る気持ちを抑えながら、清景の屋敷に向かっていた。
牛飼い童に変じた晴明と共に。

清景の屋敷に着くと、晴明は隠形の術を使って保憲の後についた。
清景の屋敷は、暗い…陰鬱な気が立ち込めている。

門をくぐり中に入ると、人でない者たちがうごめいていた。
低級なそれらは、保憲の霊力に当てられてその場からいなくなる。

渡殿を進んで、奥まった部屋に清景と千尋はいた。
保憲が部屋に入り込む。
晴明は気づかれないように、隠形の術のまま簀子縁で様子を伺っていた。

「来たな保憲」

ニタリとする清景。
保憲はチラリと清景の隣にいる千尋に目を向けた。

「!」

千尋は保憲が部屋に入っても表情すら変えない、目がうつろで保憲が来た事にさえ気が付いていない様子だった。

「なにね、記憶をね、少しばかりいじらせてもらったのさ、お前の事を忘れるように、とね」

「き、清景…貴様」

清景の言葉に、保憲は抑えようのない怒りが込み上げてくるのを感じた。

「保憲、お前さえいなければ、私が暦を作るハズだったのに…」

「お前の欲とその甘さが鬼に取り込まれたのだろう?」

「なんとでも言えばいいさ、陰陽師の家系のお前になんか私の苦労は分かりっこない」

清景は、ふと自嘲するように小さく笑った。
そんな清景の姿を、保憲はどこか痛ましそうに見つめる。

「お前だって陰陽師だったくせに…」

「ふ、ふははは、保憲ぃ、お前の大切なこいつをお前の目の前で少しずつ痛めつけるのはどうかな?」

ギリッ

自然と歯噛みする保憲。

すると、清景の姿が段々と人で無くなってゆく…

「冷静沈着なお前の顔が歪んでいくのがたまらなく楽しいよ。すぐにこのまま食ってしまうのではつまらない。お前が苦しみもがいている様をみたいものよ」

角が生え牙がむき出し、爪も鋭く伸びていく。
鬼の形相となった清景は、千尋の髪の毛を掴んでぶら下げる。

保憲は目を見張り、叫び声を上げそうになった。

「動くな、一寸でも動いたらこうだ!」

千尋の腕に爪を立てる鬼。

「あ、あ…」

激痛が走り、千尋が声を立てた。
保憲の額から汗が流れてくる、食いしばった歯がめり込みそうだ。

「フハハハ、保憲、もっと苦しめ」

ペロリと舌を出して、千尋の頬をチロリと舐める。
千尋の背筋がゾクリッとする、そして恐怖と腕の激痛で意識を失ってしまった。

「!!」

「この女、可愛いねぇ、保憲。早く食べたいねぇ」

ニタリと歪んだ笑いを向ける鬼。
もはや人である心はない。

その時、簀子縁に潜んでいた晴明が動いた。
鬼に気が付かれないように素早く印を結び、そっと式神を放つ。

『青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女…』

鬼は保憲の方にだけ意識を向けていて、晴明が動いたことには気が付かなかった。

『保憲様…』

念を飛ばす。

保憲は気が付いて意識を晴明の方に向けた。

『結界を張りました』

『でかした晴明』

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼたら まに はんどま…」

晴明は護身の呪を唱える。

「…じんばら はらばりたや うん」

「グ、グワーーーッか、体が動かん…お、おのれ、お前がやったな」

一瞬鬼の気が晴明に削がれた。
その瞬間を逃しはしないと、保憲は腰の剣を引き抜き、鬼の急所に向かって突き立てた。

「ぎゃああああ」

断末魔の叫び声を上げて、あっという間に鬼は、跡形もなく消え去った。

そして、そのまま千尋を受け止めた。

「千尋?」

保憲が問いかけるが、目を覚まさない。
気が付くと息をしていないではないか。

「保憲様、まだ間に合います、取り返しに行ってください」

晴明が反魂の術の呪を唱え始めた。

「晴明、頼む!」

保憲もその場に座り込んで、呪を唱え始めた。
意識が遠くなる。

晴明は霊魂が抜けている保憲と千尋の肉体を守る役割を担った。

保憲は肉体から抜け出し、千尋の魂がいる千尋の記憶の世界に向かっていった。
す~っと飛びながら、千尋の思い出を手繰り寄せる。

賀茂家での生活から始まって、保憲と出会った思い出、懐かしいなんて思っている暇も無く、千尋の魂を探して記憶をどんどん辿って行った。
しばらくして光の先に見えたのは、たくさんの人だった魂。
それが大津家の先祖代々だとは直感で分かった。

そこに小さな女の童の姿の千尋がいた。
今にも祖父の元に行こうとしている。

その時、千尋の祖父が保憲に顔を向けて小さく頷いた。
それを確認した保憲は小さな千尋の手を取ると、元来た道を戻り始めた。
千尋の顔は自分の先祖達の方を向いたままだったが、構わず保憲は全速力で進む。



どんどん千尋の体が大人になっていく、
そして、保憲が千尋の方に振り返り、「千尋…」と問いかける。
千尋も保憲の方に顔を向けると、「保憲様…」と言葉を返した。

二人の言霊を合図に、魂は元居た体に戻っていった。
保憲の意識が戻り目を覚ますと、晴明が最後の締めの呪を唱えていた。

「…ボダナン ボロン…」

続いて千尋も目を覚ました。
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