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🎹ピアノ男子の章🎹
⒈ピアノ王子
しおりを挟む無情にも毛布が引き剥がされた。
「何すんのよ!」
悲鳴を上げたのは、この屋敷の令嬢・胡桃沢ヒカリである。腕の中には大判の写真集。切れ長の三白眼が、誘うようにこちらを見つめている。
奏斗。
名前以外は神秘のベールに包まれたピアニストだ。別名、ピアノ王子──。
ヒカリが抱えているのは、そんな彼の1st写真集である。昨晩は、写真集を抱いて妄想しつつ眠ってしまったのだ。
「勝手に入ってこないで!」
パステルピンクのモコモコパジャマ姿のヒカリは、不満そうにベッド上で身体を起こす。大人が五人は悠々と横になれそうな、天蓋付きの豪奢なベッドだ。
「何度ノックしても起きねえからだろうが」
「そうだわ、鍵……! かけたのにどうして!」
「コレがありゃ、どの部屋にも入れるんだよ」
使用人の男は、小さな鉤状の針金をコイントスのように指で弾くと、パシッと掌に受けた。
いや、使用人にしては口も素行も悪いようだが……。
「女の子の部屋をジロジロ見ないでよ! イヤらしいわね!」
「そんなことより、こいつ写真集まで出してんのかよ。本業はどうした、本業は?」
「いいじゃないの。素敵なんだから」
「けっ! 作り物みてえな顔しやがって、気持ちわりぃ」
「なあに、カゲ。僻んでるの?」
カゲ。それがこの男の名だ。
職業(?)は泥棒。
屋敷への侵入がバレて拘束されていたところを、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのである。護衛として。
……異を唱える者はない。
この屋敷では、「お嬢様の言うことは絶対」だ。
カゲはこの機に乗じてお宝をゲットし、サッサと逃げてしまおうと目論んでいるようだが。未だこの屋敷に留まっているところを見ると、計画は難航しているようである。
「もう! 着替えるんだから出てって!」
不機嫌なヒカリお嬢様である。ピアノ王子との夢を邪魔されたのが、余程お気に召さなかったとみえる。
食堂に向かって歩きながら、カゲが言った。
「なあ。この家って現金あんのか? やっぱジジイの部屋か?」
ヒカリは、これを華麗にスルー。
直接訊く方がどうかしてるのだ。
(仕方ねぇ、もっかい自力で調べるか)
財界のトップに君臨する胡桃沢家だ。現金以外にも、金になるものは山ほどあるだろう。
(こうして見ると、そう悪くはないのよね……)
一方のヒカリも、カゲの横顔を盗み見て考え事をしている。この屋敷に盗みに入った時はだらしなく不潔な印象であったが、こうして不揃いだった髪を整え、護衛用の黒服に身を包んでみると──。
悪くない。
シャープな輪郭。鋭い目元は、護衛としては頼もしくも見える。意外に綺麗な横顔を眺めながら、ヒカリはあの日のことを思い出していた。
──屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!
あの時カゲは、自分にナイフを突きつけてそう言ったのだった。内股の足は、仔鹿のようにプルプルと震えていた。
「……やっぱないわ」
一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはない。
(やっぱり奏斗様がいちばん素敵。カッコ良くて清潔感があって、言うこともやることも超スマートなんだもの)
カゲが突然踵を返した。
「な、どこ行くの?」
さっきの「ないわ」が聞こえたのかと、少々焦るヒカリお嬢様である。
「ヤボ用だ」
早速のトイレだ。
これでもまあまあ我慢した方である。
(この後、時間がないかもしれない……!)
護衛はお嬢様を学校へお連れし、さらにその後のお世話もしなくてはならない。その間のおトイレが心配だ。
お食事中の方、大変申し訳ない。しかし。
彼は尋常じゃないほどトイレが近く、とにかく日々大変な思いをしているのだ。
しかし、彼の尿意はある種のセンサーでもある。様々な危険を知らせるセンサーだ。盗みを実行する際には特に役に立つ。トイレを探して彷徨うことで、追手から逃れることも可能だ。実際、カゲは何度も自分の尿意に救われているのだ!
もっとも、ヒカリと出会った時にはセンサーの調子が少々狂っていたようだが──。
☆☆
広いダイニングに、ドラマや映画に出てくるような長いテーブルが鎮座している。
今朝は洋食だ。フワフワのパン、野菜スープにスクランブルエッグ、フレッシュジュース。一流ホテルから引き抜かれた料理長が、材料からこだわって腕を奮っている。
ところで。胡桃沢家では、主人も使用人も全て同じ食卓について食事を共にするのが慣例である。
当主・胡桃沢春平が、ヒカリの寂しさが少しでも紛れるようにと提案したのだ。
ヒカリの両親は、不慮の事故で亡くなっている。ヒカリが小学校へ上がった頃のことだった。
春平にとっては息子夫婦を失ったことになる。遺されたヒカリは大事な孫だ。あの事故以来、溺愛ぶりに拍車がかかっている。
「何だよ、朝っぱらからこの曲は? ここは地獄か」
後から入ってきたカゲが小指で耳を掘りながら、うんざりとした声を上げた。ダイニングルームには、先ほどからクラシック音楽が流れている。奏斗様のピアノ演奏を収録したCDである。
「お黙りなさい!」
既に席についているヒカリは、パンを片手にカゲを睨んだ。
「ねーえ、橋倉。この曲は?」
「フレデリック・ショパンの『練習曲第12番ハ短調作品10-12』。いわゆる『革命のエチュード』ですな」
例によって、万能執事が即答する。
「素敵だわ、奏斗様」
うっとりと目を輝かせるヒカリを、祖父の春平や使用人らは温かく見守っているようだが。
(茶番か)
激しく叩きつけるような音が降ってくるダイニングルームで、カゲ以外の全員が爽やかな表情でパンを食べ、スープを飲む。
芸術に疎いカゲは、クラシックなど聴いても眠くなるか暗くなるか、トイレに行きたくなるかのどれかだ。特に『革命のエチュード』の激しさは膀胱が急き立てられる。
(せっかくトイレ行ってきたのに!)
悪くない生活だったのに、とカゲは嘆く。早起きと護衛が面倒だが、美味い食事にありつける。
しかし、お嬢様がピアノ王子に目をつけて以来、頭の痛くなるようなピアノ曲ばかり聴かされるようになった。
(早いとこ金を引き出さねえと)
カゲがフレッシュジュースを一気に飲み干した時。屋敷内に、ドタバタと足音が響いた。
「会長!!」
脂ギッシュな中年男性が、大きな腹を揺すりながら走り込んで来た。春平は顔をしかめる。
「何じゃ、朝から騒々しい」
財界のトップに君臨する胡桃沢家は、多数の事業を手がける。しかし、春平が外へ出ることはほとんどない。実際に動いているのはこの脂ギッシュな中年男性、胡桃沢厚。ヒカリの伯父に当たる人物だ。
事故で亡くなったヒカリの父には姉と妹がいる。厚は父の姉、秋子の夫。婿養子である。名前の通り全身が分厚い。
「新しく立ち上げた警備会社の名前ですよ! お願いですから止めてください、『ペコム』なんて!」
厚の悲壮感漂う叫びは、ダイニングルームに流れるショパンの『革命』に妙にマッチしている。
「そんなことか」
春平は心底面倒くさそうに、海苔のように黒々とした髪を撫でた。
「おじいちゃん、また会社作ったの?」
「そうなんじゃよー。R警備保障が気に食わんから、儂が作っちゃった」
ヒカリには、とろけるような笑顔を向ける春平である。パリッとした白いシャツを着こなす春平は、『財界の鉄人』の異名に相応しく矍鑠としている。
春平とR警備保障の会長は、何故か昔から折り合いが宜しくない。恩を売るためにR警備保障を利用していたものの、気に食わなくて警備システムを切ってしまったのである。
今、泥棒がこの屋敷で平然と過ごしているのは、ジジイ同士の喧嘩が原因であった(◇泥棒編◇参照)。
「ヒカリちゃんからも言ってくれ! 『ペコム』なんて軟弱な名前」
「『ペコム』っていうの? カワイイよ、おじいちゃん。キャラクターとかを作ってみたら?」
ヒカリが身を乗り出すと、春平は「そうじゃなあ」と相好を崩す。
「警備会社の名前なんだよ……?」
もう、誰も厚の話を聞いていない。
絶望的な響きをもって、ショパンの『革命』が終わりを告げた──。
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