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🎹ピアノ男子の章🎹
⒍箱入り令嬢、自覚する
しおりを挟む蓮乃宮女学院高等部──。
「まあ。誰かと思えば胡桃沢ヒカリさんじゃありませんこと?」
ステンドグラスの大窓から柔らかな朝の光が差し込むエントランスに、いつもの甲高い声が響いた。ヒカリは、あっという間に冷泉姫華とその取り巻きに囲まれてしまう。どこで調達するのか、今日はロココ調の真っ赤なゴシックドレスだ。盛り過ぎなメイクも相変わらずである。
「昨日は本当に素晴らしい日だったわね」
取り巻きの一人が切り出すと、「ええ、本当に」、「素敵だったわぁ、奏斗様」などと周りも囃し立てた。最後に、姫華が悠然と口を開く。
「あなたもそう思ったでしょう、ヒカリさん? あっ、ごめんなさい! あなた、撮影の見学にはいらっしゃらなかったわね」
取り巻きたちがクスクスと笑い出した。
「ごめんなさい。私たちったら、つい」
「昨日が撮影だったの。あなたもいらっしゃれば良かったのに」
「本当に王子様のようだったわ。ハグまでしてくれて」
「悪いわよ、ヒカリさんの前でそんな話」
青い顔で黙り込むヒカリを前に、姫華は勝ち誇ったように口の端を歪める。直後、ヒカリは何かに気づいたようにつと顔を上げた。
「ん? あなたたち、いつからそこに?」
「な……!」
姫華は、グロスでテカる唇をわななかせた。
「本当にごめんなさいね。私、今あなたたちとお喋りしている場合じゃないの。失礼」
ヒカリは宥めるような表情を作ると、呆気に取られる姫華たちの横を通り過ぎて行った。残された姫華と取り巻きを、登校してきた生徒たちが不思議そうに眺めている。
「ジロジロ見ないでいただきたいわね! ねえちょっと! 新入りの護衛さん」
悔し紛れに、姫華はカゲを呼び止めた。
「あんな変な子のところより、どう? そろそろ私の元へ来る気になりまして?」
カゲを見上げる姫華の目は自信に満ちている。仕方なしにといった感じで立ち止まったカゲは顔をしかめた。
「はぅっ……! 無理だ。た、頼むから視界に入らないでくれ」
毒々しい色彩が目に入ると膀胱が無駄に暴れるのだ。もう既にヤバい。
事情を知らない姫華の顔が、羞恥で真っ赤になる。
「貴様! 姫華お嬢様に何という無礼を!」
「ただでは済まんぞ!」
冷泉家の護衛たちが飛び出してきた。
「やめとけって」
カゲがポケットに手を突っ込んだままヒラリと身を躱すと、冷泉の護衛たちは勢い余って正面衝突。床に伸びてしまった。
トイレを我慢してクネったり、トイレを探して彷徨うことで危険を回避できる。これが彼の能力なのだ!
ともあれ、トイレへまっしぐらのカゲである。
「ぬぁにをやってるのよ、アンタたちはァッ!」
姫華の憤怒の叫びが、ステンドグラスの大窓を震わせた。
(ああ、昨日は眠れなかったわ……)
少し先を歩いているヒカリお嬢様である。睡眠不足のためか、今朝は自慢の黒髪に何度櫛を通しても納得がいかなかった。
奏斗様のこと。姫華たちの話を聞くまで、すっかり忘れていた。
どうして忘れてたんだろう。私の王子様なのに。
頭の中では、憧れの王子様とはかけ離れたものがグルグル回っている。
──男っていうのはな。いつまでも甘えたがりなんじゃよ。
“Part of Your World“を奏でるピアノの響きと、祖父の声。
あの人の、子犬みたいな目とクシャッとした笑顔。
気がつくと、いつもそればかり。
そして、カゲの声。
──恋、だな。
(ああ。お嬢様は、一体どうしてしまったんだ)
深いため息ばかりつくヒカリに付き従いながら、不安で心臓がはち切れそうな護衛・鈴木さんである。
(ご病気なのでは……!?)
寝不足である。
ヒカリのこととなると何かと過剰になるのが胡桃沢家。使用人も例外ではない。
「泥棒さん」
トイレから戻った新入りの護衛に、鈴木さんは声を潜めて話しかける。
「お嬢様のご様子、おかしいと思いませんか? ご病気では」
ポケットに手を突っ込んで歩いていたカゲは、「んあ?」と眠たげな声を上げた。
「まあ、病気っていえば病気かもな。こういうのは」
耳を掻きながら呑気に答えるカゲに反して、鈴木さんは蒼くなる。
「早退して主治医に診せましょう!」
「医者にどうこうできるもんじゃねえって」
笑いながら肩を叩かれるも、気が遠くなっていく鈴木さんである。ヒカリの後ろ姿が霞む。もう手の施しようがないだと!? お嬢様……!
「じゃな」
放心する鈴木さんに手を振って、カゲは当たり前のように姿を消した。何日も一緒に仕事をしていると、鈴木さんにもカゲの行き先は予測できる。
(またトイレか! いい加減、医者行けよ!)
☆☆
「午後、音楽の授業があるでしょ?」
昼休みの音楽室。
出し抜けに声をかけられて、ヒカリは顔を上げた。
「考えてみたんだよ、胡桃沢さんに言われたこと」
奏人先生が何気なく押した鍵盤から、ポーンと抜けるような高音が響く。
「楽しめる授業。やってみようと思ってさ」
奏人先生と目が合うと、ヒカリは反射的に目を逸らしてしまう。
「そ、そんなのできるの? 今朝出席とった時だって、返事したの私だけよ?」
ああ。こんなこと言いたいんじゃないのに。
ヒカリはギュッと目を閉じる。
しかし、ヒカリが指摘したことは事実だ。他のお嬢様たちは、奏人先生を完全に見下している。
「アハハ、まあね」
ヒカリがそろそろと顔を上げると、奏人先生はあの日みたいにクシャッと笑っていた。
「ふーん。やりたいなら、やれば?」
奏人先生は、やっぱり子犬みたいだ。先生は笑みを湛えたまま鍵盤に指を置く。心で、上手くいくことを願った。目が合うと素っ気なくしちゃうのに、ピアノを弾く先生からは目が離せない。
先生は覚えててくれた。私が言ったこと。
だったら私、見守りたいな。
(ああ、この気持ち)
恋、だな。カゲの声がこだまする。
(これが本当の恋なのね……!)
ピアノの音色が盛り上がるにつれ、ヒカリの鼓動も昂っていく。
秘密めいた場所で二人きり、立場的には先生と生徒という魅惑的な状況から、コロッと恋に落ちるヒカリお嬢様である。
(本当の王子様は、すぐ近くにいた──)
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