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第一章 九月の嵐

佐山という男2

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 知らん──。
 隣人だったの?

 とりあえず「はぁ」と曖昧に応じると、佐山という男は軽く咳払いをした。

 「昨晩より、赤ちゃんの泣き声に大変迷惑しているのですが」

 佐山は、「大変」というところに若干力を込めた。
 思い返せば、昨夜のルナの夜泣きは凄まじかった。
 壁の薄いアパートでは泣き声が騒音になるのは当然。
 ようやく思考が追いついてくる。
 
 「も、申し訳ありません!」

 慌てて頭を下げた。
 続いて、カツカツとけたたましい足音。
 下げた視界の端に、ゴールドのピンヒールがピタリと止まった。

 「あら、佐山クン。あなたも来てたの?」

 「おや、辻島つじしまさん」

 この二人、知り合いだろうか。
 そろりと頭を上げると、派手そうな女がこちらを見ている。

 「あのさぁ。上階うえに住んでるもんだけど」

 その女は、妙に蓮っ葉な喋り方をした。
 歳の頃は三十代後半から四十代前半か。
 ロングの巻き髪に濃い目のメイク、赤い爪。
 美しい顔立ちながら、どこかすれた印象を受けた。

 「赤ちゃんの泣き声がうるさいんだよ、何時間も!
 寝らんないじゃない」

 女もまた、玄関まで聞こえるルナの泣き声に顔をしかめる。

 「本当に申し訳ありません。
 実は、ちょっと親戚の子を預かることになりまして……」

 「えぇ?」

 私が事情を説明すると、二人はあからさまに迷惑そうな顔をした。

 「どうでもいいけど、こっちは夜の仕事だからさぁ。
 私が寝る時間に泣かさないで。頼むよ」

 そう簡単に行く方法があるなら教えてください。
 などと言うと角が立ちそうなので我慢する。
 女は、カツカツと踵を鳴らしながら去って行った。

 「すみません……今後は気をつけますので」
 
 佐山にもう一度頭を下げ、ドアを閉める。
 ルナを何とかしなくては。
 
 

 散らかったキッチンで湯を冷ましながら、昨夜からもう何度目になるか分からない溜め息をついた。
 ルナは喉を枯らしながら泣いている。
 ミルクの用意に手間取る。まだ慣れてない。

 「ふえええぇぇん」

 「ちょっとくらい待ってよ……」
 
 ベビー・アレルギー克服のため、赤ちゃんを預かることにした。
 ルナは言葉を理解し、さらにそれを操ることができる。
 口を動かして喋るのではない。ルナの言葉は私の頭の中に届く。
 
 アレルギー持ちが突然赤ちゃんを預かるのはハードルが高い。
 意思疎通ができるということは、私のような者にとっては心強いものだと思っていた。
 ところが。



 昨晩のこと。
 ルナは空腹その他の不快感が生ずると、普通の赤ちゃんと全く変わらなくなってしまう、という事実が判明した。



 ミルクをあげようがオムツを替えようが、ひたすら泣く。
 泣いている間は一言も喋らなかった。
 つまり、肝心なところで意思疎通ができないのだ。

 「意味ないじゃん!!」

 深夜、一人で頭を抱えた。

 時間帯を考慮する余裕もなく麻由子に連絡を取ると、

 「眠いんじゃない?」

 とのことであった。
 眠いなら目を閉じろ。そして眠るが良い……!
 なぜ泣く?
 しかもルナは、散々泣いて寝入る直前に呟いた。

 「初日からこれじゃ、先が思いやられるわ」

 言った覚えはないなどとのたまうから余計に腹が立つ。


 今も、責め立てるようにルナは泣いている。
 私は、屈辱に耐えながらミルクを冷ます。
 ふらつきながらルナの元へ辿り着き、何とか抱き上げてミルクをやる。

 全てにおいて覚束なく、時間もかかる。
 ルナの不快指数が大きいのは、私の手際の悪さもあるのだろう。

 麻由子みたいに上手くいかない。
 粉ミルクの計り方は間違えるし、オムツが上手く当たっていなくて夜中からシーツを洗濯する羽目になる。
 

 勢いよくミルクを飲んでいたルナが、哺乳瓶の中身を三分の一ほど残してつと動きを止めた。
 短い腕で哺乳瓶を押し返す。

 「もう、いらないよ」

 ルナは、ふぅとため息をつく。
 ため息つきたいのは私なのだが。
 ルナは続けた。

 「おいしくない」

 「何ですって!?」

 「昨日から思ってたんだけどさぁ。
 おいしくないんだよね。
 あたしの好みの温度じゃないし」

 脳味噌が頭蓋骨を突き破って大噴火を起こした。
 くらいにムカついた。

 「ぬおぉぉーっ! 何なの、あんたは!」

 「ルナだよ」

 そんなことは分かっている……!

 何なの?
 赤ちゃんにダメ出しされる私って何なの?


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