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第9話 九月上旬 — 留学生の覚悟
しおりを挟む九月、夏休みが明け、秋学期が始まった。キャンパスには賑やかな声と活気が戻ってきた。しかし、詩乃にとっての夏休みは、体調と気持ちの浮き沈みに翻弄された、長く重い時間だった。
詩乃の体には、夏の間に明らかな変化が現れ始めていた。お腹はまだ他人から指摘されるほどではないが、以前はすっきりとしていたウエストのくびれはなくなり、全体的に柔らかくふっくらとしてきた。つわりは少し落ち着いたものの、代わりに倦怠感が襲い、階段を上るだけで息が切れるようになっていた。
悠斗とは、夏休みの間、一度も会っていなかった。八月上旬のあの痛烈な別れ以来、一切の連絡は途絶えていた。キャンパス内ですれ違うと、悠斗は一瞬で目をそらし、まるで見知らぬ人かのように素通りした。その背中は、かつての温もりを一切感じさせない、冷たく固いものに見えた。
親友の美咲は夏休み中も頻繁に連絡をくれ、会おうと誘ってくれたが、詩乃はつわりの辛さと、どうしても話したくない妊娠のことを抱えていたため、全てを断り続けていた。秋学期が始まり、久しぶりに講義室で美咲と顔を合わせた時、彼女は心配そうに尋ねた。
「あれ……堂上くんと一緒じゃないの?」
美咲の目には、純粋な驚きがあった。これまでキャンパスで詩乃と悠斗が二人でいない姿など、ほとんど見たことがなかったからだ。
「まぁ……色々あって」
「ケンカでもしたの?」
「そんなところ……かな」
詩乃は曖昧にうなずき、視線を逸らした。全てを話せないもどかしさが胸を苦しめた。
秋学期が始まったその日の夜、怜が突然詩乃のアパートを訪ねてきた。怜に会うのは、妊娠を報告したあの日以来、一ヶ月半ぶりである。それまで怜からは時折「体調はどう?」といった心配のメッセージが届いていたが、彼も専門学校やバイトで忙しいのか、実際に会うことはなかった。
「……部屋に来られても、何もできないけど」
詩乃はそう言いながら、疲れた体をベッドに預けた。怜も彼女の隣にどっしりと座り、深呼吸をした。
「報告しておきたくて。彼女と別れたんだ」
怜は真っ直ぐに詩乃の顔を見つめながら、淡々と告げた。
「俺、ちゃんと詩乃を支えるからさ。仕事は……まだ見つかってないけど」
「……うん」
詩乃は軽くうなずいた。怜は、何の確証もないのに「多分俺の子だ」と強がっていたが、彼なりに父親としての責任を取ろうとしている姿勢は伝わってきた。その覚悟に対して、彼に真実を伝えなければならない。
「……DNA鑑定、することにしたんだ」
「え?」
怜の目が点のように丸くなった。彼は理解できないというように首をかしげた。
「そこまで、するの?」
「うん。……バイト先の上司が、DNA鑑定で父親をはっきりさせようって」
「……そのバイト先の上司って、父親の可能性がある奴だよな?」
「うん……」
「ふーん。そのオッサン、自分の子じゃないと証明したいだけなんだな」
怜は鋭く核心を突くようなことを言うと、無造作に、しかしどこか気遣うように詩乃のわずかに膨らんだお腹をそっと撫でた。
「……オッサンの子供じゃないといいな。大丈夫……きっと俺の子どもだよ」
その根拠のない、しかし彼なりの励ましの言葉に、詩乃は何も返せなかった。ただ、胸が締め付けられる思いだった。
翌日、誠司から冷たい事務的な連絡が入り、DNA鑑定の予約が完了した旨が告げられた。来週、誠司が手配したクリニックで検査を受けることになる。詩乃自身は採血が必要だが、父親候補者たちの検体(口腔粘膜など)は、詩乃が各自から集めて持参すればよいとのことだった。
その時点で、詩乃はまだ一人の男性に妊娠の事実を告げていなかった。留学生の李健である。健は夏休みの間に一時帰国していたらしく、大学に姿を見せていなかった。そのため、健に事実を話す機会は、九月の新学期を待つしかなかった。
勇気を振り絞って健に連絡を取ると、彼からはすぐに返事が返ってきた。昼休みに学食で話そうという提案に対して、詩乃は人があまり通らない西棟の隅がいいと返信した。
西棟三階の廊下の一番奥。椅子は置いてあるが、座っている人を見たことがない。昼休みだというのに人通りはまばらで、窓から差し込む光も薄く、蛍光灯の明かりだけがぼんやりと空間を照らしていた。
詩乃がその場所へ向かうと、既に健は来ており、一つの椅子に背筋を伸ばして座っていた。彼の姿は、周囲の薄暗さの中でも、はっきりと浮かび上がっていた。
「李くん……こんにちは」
「久しぶりです。夏休みはどうでしたか?」
健の目は澄み切っていて、あの留学生寮での一夜の記憶が、まるで夢か幻であったかのような落ち着きを湛えていた。
「ええ、まあ……」
詩乃はうつむき、自分のスニーカーの先を見つめた。来週にはDNA鑑定がある。彼に話さなければならない。頭ではわかっていても、言葉が喉の奥で渋滞する。
健はこの人気のない場所に呼び出されたことで、何か重大な話があることを察していたのか、静かに詩乃に隣の椅子を勧めた。詩乃はゆっくりと、彼の隣に腰を下ろした。
「李くん……知っておいてほしいことがあって」
「なんですか?」
健は椅子ごと少し体を詩乃の方に向け、真摯な表情で彼女の顔を見つめた。その視線に、逃げ場がなくなるようだった。
「私は……妊娠しているの」
その言葉に、健の表情がわずかに、しかし確実に動いた。
「そうですか」
彼の反応は、詩乃の予想を超えて落ち着いていた。動揺の色はほとんど見えなかった。
「で、それで……?」
「父親が……わからないの」
詩乃は目を伏せたまま、声を絞り出すように続けた。涙がこみ上げてくるのを必死に耐えながら。
「李くんとあの夜があった、六月の九日。その前の二日間も……他の人と関係を持っていたの。彼氏と、幼なじみと、バイト先の上司と」
全てを白状した。健に軽蔑され、見下され、怒られることだけを覚悟して。それが、自分への当然の報いだと思っていた。
しかし、健は黙って聞いていた。表情を崩さず、詩乃の吐露する言葉の一つ一つを、静かに受け止めているようだった。
告白が終わり、重い沈黙が二人の間を流れた。
詩乃は覚悟を決めて顔を上げた。彼の目に、きっと嫌悪や失望の色が浮かんでいるだろうと。しかし、そこには軽蔑も怒りも、そして悲しみさえも、はっきりとした形では存在していなかった。
「詩乃さん」
健は静かに、しかし芯の通った声で口を開いた。
「あの夜、あなたが酔っていたことは間違いありません。でも、僕も完全に理性を失っていたわけではありません。一晩だけでも、無理をさせたのは僕です」
「でも、私の方から……」
「関係ありません」
健は優しいが、揺るぎない確かな口調で言った。
「行為は二人で行ったものです。そして、その結果として子どもができたなら、その責任も二人にあります」
彼は少し間を置き、言葉を選びながら続けた。
「誰の子かは、今は関係ありません。もしDNA鑑定をしたとして、それで僕の子だとわかれば……いや、たとえ他の方の子だとしても、僕は関わり続けます」
詩乃は息を呑んだ。耳を疑った。こんな言葉を、これまでの誰もかけてくれなかった。
「どういう……ことですか?」
声が震えた。
「僕の国では、命は何よりも尊いものです。そして、過ちは認め、その結果に責任を取るのが、人間としての道理だと思います」
健の目は、曇りひとつなく、確固たる決意の光に満ちていた。
「もし僕の子なら、二つの選択肢があります。一つは、中国で一緒に育てること。僕の家族は厳しいですが、道理はわかっています。もう一つは、日本に残り、僕が就職して家族を養うこと」
彼は椅子から少し体を乗り出し、詩乃の目を真っ直ぐに見つめた。
「詩乃さんが選んでください。どちらを選んでも、僕はその準備をします。留学を続けるか、就職活動をするか。必要なことは全てします」
その言葉には、怜の根拠のない強がりも、悠斗の傷ついた盲信も、誠司の冷徹な打算もなかった。ただ、目の前の現実と、自分が関わった行動の結果に対する、揺るぎない「覚悟」だけが存在していた。それは、詩乃がこれまで出会ったどの男性とも違う、重くて温かいものだった。
「李くん……」
詩乃の声は震え、とうとう堪えきれずに目から大粒の涙が溢れ出した。これまで一人で溜め込んでいた不安、恐怖、孤独、自己嫌悪が、一気に堰を切った。彼女は顔を覆い、肩を震わせた。
「どうして……そんなこと言えるの? 私、あなたを……みんなを騙して、こんな状況にして……」
「人はみんな間違えます。大切なのは、その後にどうするかです」
健はそっと手を伸ばし、詩乃の震える小さな手を、自分の温かい両手で包み込んだ。その手のひらの厚みが、途方に暮れていた詩乃に、確かな支えを感じさせた。
「僕は、詩乃さんを一人にしません。何かあったら、いつでも連絡してください。力になりたいです」
「ありがとう……」
そう言うと、詩乃は思わず立ち上がり、健に抱きついた。これは恋人としての抱擁ではない。孤独と絶望の中に少しだけ見える、救いの手への感謝だった。
「ありがとう、健くん……本当に、ありがとう」
健は一瞬、少し驚いたように見えたが、すぐに理解したように優しく微笑み、そっと彼女の背中をさすった。
「大丈夫です。一人じゃないから」
そのひと言を聞いた瞬間、詩乃は初めて、前に進む力が湧いてくるのを感じた。四人の男たちのうち、誰が父親であろうと、少なくとも一人は、真摯に、責任を持ってこの現実と向き合おうとしてくれる人がいる。その事実が、どれほど彼女の心の支えになったことか。
西棟の薄暗い廊下を出て、エレベーターを降りると、秋の気配を帯びた風が肌に触れた。少し冷たく感じられたが、それでも、詩乃の心の奥には、長い間失われていたほのかな温もりが、ゆっくりと戻り始めているのを感じた。
これからDNA鑑定がある。その結果がどう出るかは、まだわからない。
でも、健のあの言葉、あの覚悟を思い返すと、たとえどんな結果が待ち受けていようと、もう完全に独りぼっちで這い上がらなければならないわけではない、そんな気がした。
廊下を歩きながら、詩乃は自然とお腹に手を当てた。まだ直接は感じられないが、確かにそこにいる命へと、そっと語りかけた。
「大丈夫。お母さん、頑張るから」
小さな母親としての自覚が、かすかだが確かに芽生えた瞬間だった。
***
詩乃が西棟のエレベーターに乗り、その姿が見えなくなるのを確認してから、健は再びあの薄暗い隅の椅子に腰を下ろした。陽のあまり当たらないこの場所で、彼はゆっくりと考え始めた。
詩乃が妊娠した。そして、父親はわからない。自分かもしれないし、他の男性かもしれない。
その事実に健はもちろん驚いたが、それ以上に、ある一点について深く驚き、考え込まずにはいられなかった。
詩乃には、彼氏がいた。
詩乃は、彼氏の他に幼なじみとバイト先の上司の可能性についても言及していたが、健の頭を最も占めたのは、彼女に既に交際相手がいたという事実だった。詩乃の前では冷静を装っていたが、一人になると、そのことが頭の中にちらついて、複雑な感情が渦巻いた。
健はあの夜、留学生寮の自室での詩乃を思い出した。ベッドの上で「行かないで……」と訴える彼女の目には、言葉にできない深い孤独が宿っていた。その瞳は酒で曇っていたが、その奥には、誰にも打ち明けられない何かが沈んでいるように感じられた。
そして、自分に抱かれた時の彼女の表情。そこには、彼氏がいることへの後ろめたさや罪悪感のようなものは、ほとんど感じられなかった。むしろ、あの眼差しは、自分の「孤独」を一時的に埋めてくれる存在として、健を見つめていた。健は自分からキスをし、行為に及んだが、すべてが終わった後、詩乃の方からも唇を寄せてきた。そのキスには、迷いや躊躇いは微塵も感じられなかった。
自分も詩乃と同じだった。故郷から遠く離れた、日本の大学。言葉も文化も違う場所で、「真面目な留学生」としてだけ見られる日々。詩乃と、あの夜に出会った時、自分も詩乃と同じ「孤独」を感じていたのかもしれない。
健は、詩乃との夜を思い出し、思わず赤面した。あの夜の詩乃は、とても……綺麗だった。脆くも儚い、その独特な美しさが、今も心に焼き付いている。
そんな詩乃が今、妊娠している。父親が誰かなんて関係ない。あの夜、彼女と行為をした責任は、紛れもなく自分にもある。彼女が酔っていたとしても、自分が理性的な判断を完全に失っていたわけではない。
健は、詩乃をこのまま一人で苦しませておくことができなかった。この気持ちが、恋愛感情なのか、純粋な責任感なのか、まだはっきりとはわからない。しかし、一つだけ確信できることがある。
「我不会逃跑。我会守护你」
(逃げたりしない。必ず守るから)
健はそう呟き、窓の外の大学の景色をぼんやりと眺めた。詩乃はもう、三限目の講義室へ向かっただろう。彼女はきっと、この夏の間、一人で悩みに悩み、苦しみながら、この事実を他の三人の男性にも打ち明けてきたに違いない。
他の三人がどのような反応を示したかは知らない。怒ったか、逃げたか、冷たく突き放したか。だが、少なくとも自分には、この状況と正面から向き合う「覚悟」がある。
健はその決意を胸に刻み、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、三限が行われる講義室へと歩き出した。その足取りは、かつての「ただの真面目な留学生」のそれではなかった。
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