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第五章 『Lucia』ノート
しおりを挟む 瀧本蓮が取材と称して何かを探しているのを、 リアはカウンターの奥から注意深く観察していた。
蓮の視線はインテリアの蔵書に向けられていた。壁一面に洋書がたくさん並べられた本棚。彼は洋書を一冊ずつ取り出しては、まるで隠された財宝でも探すかのように中身を確認していく。
「何がしたいんですか?」
リアは耐えきれずに尋ねた。焦りが、声のトーンをわずかに硬くする。
「……洋書が、気になって」
蓮の、まるで嘘だと告白しているかのような発言に、リアは何も言い返せなかった。ここで追及してしまえば、彼女の動揺が蓮に伝わり、ますます怪しまれてしまうだろう。
リアの視線が離れた隙に、蓮は再び棚の探索に戻る。何の変哲もない、ただのインテリアとしての洋書。しかし、その中に一つ、背表紙に『Lucia』とだけ印字された、異質なノートを見つけた。
彼はそれを手に取り、開いてみた。洋書ではなく、洋書風の装丁が施されたオシャレなノートだった。一ページ目を開いて、蓮の手が止まる。そこには、女性らしい流麗な筆記体で、英文が書かれていた。
When love touches me, the world rearranges itself.
As I turn into a man, she fades into memory.
As I turn into a woman, he vanishes as if he never was.
Tell me, who remains — the man, the woman, or neither?
『Lucia』は一ページしか書かれておらず、続きは何も書かれていなかった。蓮は、その重い事実を記したノートを、リアもスタッフも気づかぬうちに、スーツの内ポケットに滑り込ませた。これは、いけない。でもどうしても知りたかった。
家へ帰り、蓮は『Lucia』の英文を翻訳し、声に出して復唱した。そして、静かに納得する。
(愛が私に触れるとき、世界は再編築される。 私が男に変わるとき、彼女は記憶の中に消え去る。 私が女に変わるとき、彼はまるで最初からいなかったかのように消え去る。 教えて、残るのは誰なのか ― 男か、女か、それともどちらでもないのか?)
「……あぁ、そういうことか」
ロウとリアが同一人物であること。そして、その現象が「愛(Love)」によって引き起こされること。蓮は、長年の自分の経験と、目の前の証拠を結びつけ、確信を得た。この文面を書いたのは、おそらくタイトルにもなっている「ルシア」。ルシアは女性名。つまり、ロウまたはリアは、生物学上は女である可能性が高い。
蓮は、ルシアの孤独な問いかけに応えるかのように、『Lucia』の二ページ目に、ペンを走らせた。ロウかリアがこれに気づく、その日を想像して。
その頃、リアは自室で恋愛映画を見ていた。恋愛小説ではロウに戻るための感情のスイッチが入らなくなっていたため、心を無にして恋愛映画を見れば、分析的な刺激でロウに戻れるのではないかと考えたのだ。
しかし、画面のラブストーリーよりも、リアの心は瀧本蓮のことばかりを考えてしまう。
蓮は、絶対にロウとリアが同一人物だと気づいている。なのになぜ、彼ははっきりと聞かないのか? 私を試しているのか? それとも、この特異な状況を面白がっているのか?
そして、なぜ彼の記憶だけは改変されず、ロウ のことも覚えているのか。考えても考えても、答えは出ない。この謎と恐怖が、リアの精神を緊張させ、ロウに戻るスイッチを阻害しているようだった。
画面の向こうの恋愛映画では、ちょうど、ヒロインと主人公が切なげなキスを交わすシーン。
その時、リアは漠然とした疑問に囚われた。
もし、私がキスをするようなことがあれば、私はどうなってしまうのだろう?
ロウがキスをすればリアに、リアがキスをすればロウになる? そして、そのキスの相手は、自分の目の前で人が性別を反転させるという、この世界の法則の崩壊を、どのような反応で見せるのだろうか。
リアは、目を閉じて想像した。
キスをしているのは、リアの姿の自分と――瀧本蓮。
唇の熱、息遣い、そして彼の戸惑い、全てが鮮明にリアの意識に流れ込んできた瞬間。
「ひゃっ」
思わず、変な声が出てしまった。私は何を想像しているのだ。あんな要注意人物の瀧本蓮と自分がキスしてるなど、変だ……!
リアは顔が熱くなるのを感じ、両手で自分の顔を覆った。
その瞬間。
リアの視界は一気に上がり、小柄で華奢だった身体が、ガッチリとした体型へと変わった。数日ぶりに、ロウの姿に戻っていた。
恋愛小説でも、映画でも、他人の恋バナでもない。自分の、瀧本蓮に対するときめきに近い動揺、そして、恥ずかしさという純粋な感情によって、性別が変化してしまったのだ。
ロウはその場にうずくまった。動悸が激しい。
何を考えている。これは恋なんかじゃない。あの、要注意人物はなにをしでかすかわからないから、監視下に置きたいだけだ。
ロウはそう自分に言い聞かせるように、ドキドキする心臓の鼓動が収まるのを待った。画面の向こうでは、先ほどキスをしていたヒロインと主人公が、ベッドシーンにおよんでいた。ロウはすぐにテレビを消した。
「恋愛」が、ロウにとって、分析の対象ではなく、恐ろしい未知の領域へと変化した瞬間だった。
翌日。ロウは、いつも通り仕立てのいいスーツを着てカフェ『リベラ』へ出勤した。先に来ていたスタッフたちは違和感もなく「ロウさんおはようございます」と声をかけた。何も変わっていない、また書き換えられた世界線だとロウは安堵する。
ロウはいつも通り恋愛相談を受けながら接客していた。時計を見ると、時間はもう午後6時を指していた。そろそろ閉店だ。よかった、今日は蓮が来なかった。
安心したのも束の間、『リベラ』の扉が開き、蓮がやってきた。蓮は中に入るなり、カウンターにいるロウに気づき、静かに近づいてきた。
「ロウさん! よかった、今日はロウさんが来てるんですね」
蓮の言葉には、安心の色が滲んでいた。
「……リアでなくて残念ですか?」
ロウは試すように尋ねた。
「いいえ! ロウさんに取材したかったんです」
蓮は否定したが、その目の奥には、ロウの姿を待っていた切実さが見えた。
「そうですか。……すみません、あいにくもうすぐ閉店でして」
ロウの視線は一貫として目の前のコーヒーミルに向かっていた。ガリガリとコーヒー豆を削りながら、ロウはチラッと蓮の反応を見た。
「じゃあ、今日は取材できませんか?」
「そうなりますね」
「……残念です。知りたいこと、あったのに」
蓮はそう言うと、スーツの内ポケットから一冊の洋書を取り出した。『Lucia』……その表紙を見て、ロウは激しく動揺した。確かにそれは、過去の自分が、孤独を紛らわすために書いた断片的な記録だったはずだ。
「俺、気になってます。ここに書かれてること」
蓮はそう言うと、誰にも聞かれないよう、コーヒーミルの音に紛れて、ロウの耳元で囁いた。
「ロウさんとリアさんって、同一人物ですよね」
ロウは思わずコーヒーミルから手を離し、蓮と目を合わせた。蓮の表情は、完全に無感情だった。驚きも、優越感もない。この男は、感情を完全に消しているのだろうか。
「……知りたいのか」
ロウは静かに、押し殺した声で尋ねた。
「知りたいです。……どんな人なのか」
蓮の言葉は、ロウとリアが同一人物であるという事実以上に、ルシアという存在そのものに関心を向けていた。
ロウはそっと、蓮の顔をじっと見つめた。蓮の真意がわからない。なぜ、彼は逃げないのか? なぜ、彼は世界が書き換えられたことに動揺しないのか?
「じゃあ、教えてやる」
蓮の真意がわからないため、ロウはとりあえず嘘をつこうと心に決めた。
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