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第七章 『Lucia』ノートの2ページ目
しおりを挟む 瀧本蓮は、取材を理由に毎日のように『リベラ』へやってきた。しかし、ルシアはあのサウナでの事件以来、ロウの姿のまま、変わろうとしなかった。
「……今日もロウさんなんですね」
蓮が、カウンターでグラスを磨くロウに、微かな寂しさを滲ませて漏らした。その声は、演技ではない。蓮は、あのサウナで「リア」として現れたルシアを見てから、彼女が気になって仕方がなくなっていた。ロウが自分に恋心を抱き、リアに変身するのを目の当たりにした、あのサウナの出来事。リア本人が「忘れて」と言ったが、蓮にとってそれは忘れられない、愛の原体験になっていた。
「私だと不満なのか」
ロウは毅然とした態度を取り続けた。サウナでの動揺は、分析による誤作動だと自分に言い聞かせていた。
「いえ……でも、リアさんに会いたい」
蓮がそう率直に言うのを見て、ロウの心もまた大きく揺れる。しかし、恋心を恐れるロウにとって、リアとして蓮の前に現れるのは、もうできないと悟っていた。あの夜、自分の想像だけで性別が反転した事実は、これは、恋であるという否定しがたい証拠だった。恋心なんて自覚してはいけない――そう心に決意し、彼はロウの姿を維持していた。
「そうだ、一つだけ聞きたかったんです」
蓮は、カウンター越しにロウに語りかけた。
「ロウさんとリアさん、どちらが本当の姿ですか?」
ロウは手を止め、蓮の目を見つめた。
「……どちらも本当の私だ」
それは嘘ではなかった。生物学上は女であるから、本当の姿は女だと答えることもできたが、ロウはあえてそう答えなかった。ロウでいる時間も、リアである時間も、すべてが「ルシア」という一貫した意識によって体験された自分自身であることに変わりはない。
その夜、蓮はロウの言葉が頭から離れなかった。
どちらも本当の私……。
そんなこと、自分は言えない。あの16歳の誕生日から、蓮は「玲奈」になることを徹底的に避けて生きてきた。玲奈は自分の女の姿ではあるが、恐怖の象徴であり、本当の自分ではない。
ここに、ルシアとの本質的な違いを感じていた。ルシアは、二つの自分を「本当」だと受け入れている。その違いも含めて、蓮はルシアという存在が深く気になっていく。不思議と、ロウの姿のルシアには心が動かず、リアの姿のルシアに心が動いていた。蓮は、リアに会いたかった。
数日後。ルシアは、目覚めたらロウの姿からリアの姿に変わっていた。
体に違和感を感じ、トイレへ行くと、下着には赤い染みが付いていた。そうか、生理か。リアは淡々とナプキンを用意し始めた。生物学上は女であるから、毎月の生理の時は、身体的な理由でリアの姿になるのは仕方のないことだった。生理の数日間は、ロウになることもない。この期間だけは、変身の恐怖から解放されると同時に、蓮との接触を避けられないという絶望も味わう期間だった。
リアは『リベラ』に出勤し、キッチンの奥に貼られた本日の予定を見た。スタッフのシフト予定などが書かれている紙の下の方に、見慣れた文字で『19時 瀧本さん』と書かれているのに気づいた。
「ねぇ、『19時 瀧本さん』ってなに?」
リアは近くのスタッフに聞いた。
「あぁすみません、昨日、オーナーが帰ったあとに瀧本さんから連絡がありまして。瀧本さんが 19 時に取材に来られるそうです。閉店後の誰もいない店内を撮りたいとかで。」
「あぁ、そう……」
リアは不安に駆られた。蓮の前ではもう、リアの姿になりたくなかったのに。生理中だからロウの姿になることもできない。これは、避けられない運命だ。
「写真を撮るだけなら、私いなくてもいいかな?」
「え? 取材なのにオーナーはいらっしゃらないんですか?」スタッフは驚いた顔でリアを見た。
そうだよね、オーナーがいないのはおかしいか……。
リアは蓮には極力関わらないようにすれば大丈夫、と自分に言い聞かせて、 19時からの蓮の取材を乗り切ろうと決意した。
18時。もうすぐ閉店となる店内は、お客さんもまばらだった。最後に店を出たお客さんは「大雪になるらしいから早く帰らないとね」と言い残して帰っていった。外を見ると、止む様子のない雪が降り続いていた。
リアは、閉店作業は全部自分がするから大丈夫、と言ってスタッフを全員帰した。この大雪では帰宅に時間がかかりそうだと感じたからだ。
19時。『リベラ』の扉が開いた。
「こんばんは。雪、すごいですね」
そう言ってビニール傘を持って現れたのは、蓮だった。蓮の黒いコートには雪がついて模様のように見えた。蓮は入り口の傘立てに傘を入れ、カウンターにいるリアを見て息を呑んだ。
「リアさん……じゃないですか」
蓮はリアをじっと見つめ、動けなくなっていた。彼の瞳には、期待と安堵、そして微かな戸惑いが混ざり合っているのが見て取れた。
「……ロウじゃなくてごめんなさいね」
「いや……リアさんに会いたかった」
会いたかった、そう言われてリアの心臓が激しく跳ねる。しかし今は生理中。いくら気持ちが揺れ動こうがロウに変わることはない。そうわかっていても、リアは平静を装うのに必死だった。
「取材……してもいいですか」
蓮はそう言ってリアに近づく。
リアは思わず蓮から目をそらしてしまう。
「どうして、目をそらすんですか? やっぱり取材はだめでしたか?」
「取材はだめじゃない。店内なら好きに撮って。私はスタッフルームにいるから、終わったら声をかけてよ」
リアはそう言って、スタッフルームに逃げようとした。その時、そんなリアの腕を蓮がそっとつかんだ。
「待ってください。……これ、ずっと借りててすみませんでした」
蓮は、カバンから洋書風のノート『Lucia』を取り出した。
「勝手に持っていってたんだ……」
「はい、ごめんなさい。ロウさんの時にチラッと見せましたけど、まだ返してなかった」
蓮はリアに『Lucia』を渡した。蓮はこのタイミングで『Lucia』を渡すことによって、「ロウでもリアでもなく、このノートの所有者である、本当のルシアとして話がしたい」という、彼の揺るぎない気持ちを表していた。
リアは『Lucia』を受け取ると、スタッフルームへ向かった。スタッフルームの扉を閉め、『Lucia』をそっと開いた。
何を書いたかはあまり覚えていない。これは、カフェ『リベラ』がオープンした日に、孤独を綴るために書いた、ルシアの日記帳だった。日記帳といっても、一ページしか書いていない。日記帳を書いても、きっとそれは性別が変わった瞬間に書き換えられるのだと気づき、一ページ目を書いてやめたのだ。
リアは、その英文が性別変換のときに書き換えられていなかったことを改めて悟った。
When love touches me, the world rearranges itself.
As I turn into a man, she fades into memory.
As I turn into a woman, he vanishes as if he never was.
Tell me, who remains — the man, the woman, or neither?
こんな文章を……蓮が読んだと思うとゾッとする。
この英文は、詩的ではあるけれど、自分の苦悩をあまりにもはっきりと書きすぎている。
リアは、二ページ目に気づいた。一ページ目とは違う文字。それは、おそらく蓮が書いたのではないかと思われた。
Ria and Rou are both the you I’ve come to know.
In the end, it won’t be Ria or Rou that remains, but surely you yourself.
When you finally notice this page, I’m certain your eyes will be on me.
(リアもロウも、私が知っているあなた。 最後に残るのはリアでもロウでもなく、きっとあなた自身です。 あなたがこのページに気づいた時、あなたの目は、必ず私を見るでしょう)
リアはこの文章を読んで、体が震えるのを感じた。それは、羞恥や恐怖ではなく、これまで感じたことのない種類の強い感動だった。彼は、自分の孤独な問いかけに対し、明確な答えを返してくれた。
あなたの目は、必ず私を見るだろう――そう、蓮は確信している。
それは、予言ではなく、願いだ。リアは気づいた。この文章を読んだ自分が、今まさに蓮を意識していることに。蓮の言う通りになっている。
リアは『Lucia』を胸に抱きしめた。その時、外から吹雪の音が一層激しくなった。まるで、この夜が二人を閉じ込めようとしているかのように。
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