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第九章 怖いもの
しおりを挟むリアの重ねた手は、外の吹雪のように冷たかった。
「手、冷たいですね……」
蓮は、その冷たさに驚き、優しく尋ねる。
「お客さん用のブランケットがあるから、使う?」
リアは隣のカゴからブランケットを二枚取り出し、一枚を蓮に渡した。ブランケットに包まりながら、リアは考える。隣にいる蓮が気になって仕方がないのに、こういう時どう振る舞うのが正しいのかわからない。彼の肩に頭を預けてみたり、そっと抱き寄せたり――「甘える」という行為を知らないリアにとって、何もできないのは、心臓が焼けるようなもどかしさだった。
蓮も同じだった。本当は抱きしめたい。ブランケットよりも、人肌が一番温かいはずだ。しかし、これ以上衝動的に動けば、また彼女を怯えさせてしまう。恋愛を知らないからこそ、こういう時は緊張して何もできない。
リアは、蓮を見つめた。そしてゆっくりと、自分の変容と孤独の核心を話し出す。
「…………私は、あえてロウとリアを使い分けてきたの。恋愛小説や純度の高い恋バナを聞いたら、簡単に別の性別になれる。だから、ロウの時とリアの時で性格を分けた。これは、実験のようで楽しかったんだけど、最近、どっちが本当の自分かわからなくなってきた。だから『Lucia』にあんなこと書いたの」
リアは傍らにおいてあった『Lucia』を取り出した。一ページ目を見せ、指でなぞった。
Tell me, who remains — the man, the woman, or neither?
(教えて、残るのは誰なのか ― 男か、女か、それともどちらでもないのか?)
「私は一体、何者なんだろうね」
リアの声は、静かだったが切実だった。
「何者でもありません。ルシアさんです」
蓮の目は、迷いなくルシアを見ていた。
「……ありがとう。あなたの返事も、そうだったよね」
リアは二ページ目を開く。そっと文字をなぞりながら、蓮を見た。蓮と見つめ合う。怖いくらい、まっすぐなその目に見つめられると、リアの心の壁が溶けていくのを感じた。
静寂が怖かった。外の吹雪の音が、二人を、この世界からどこかに連れ出していきそうだった。見つめ合うと、二人の中で張り詰めていた緊張が、熱い液体のように溶けていくのを感じた。蓮は震える手でリアの頬に手を寄せた。リアは目を閉じた。怖かったけれど、拒むことはできなかった。唇が触れそうで触れない。お互いの息遣いだけが聞こえる。蓮は深呼吸した。そっと息を吐き、そして、リアと唇を重ねた。
「……ごめんなさい」
蓮は耳まで真っ赤だった。思わずキスしてしまったけれど、リアは嫌ではないだろうか。
軽くまばたきをしながらリアを見ると、リアは過呼吸のように肩を上下に震わせて、両手で顔を覆っていた。
「怖い……怖くなった」
リアの目から涙がこぼれているのがわかった。両手で受け止めきれなかった涙が、リアの顔をにじませていく。
「こんな気持ち……怖い。私は今まで、愛を語れても、愛せないって、そう思ってた。だから、いざ自分が、こんな風になったら……怖くなった」
リアは自分がわからなくなった。今まで、恋愛カウンセラーとして一歩引いた目で、冷静に分析してきたはずの「愛」。それが、いざ自分に降りかかると、まるで未知の物体に触れるような、耐え難い恐怖の出来事だった。しかし、胸は熱く、キスされたときに感じた気持ちは、確かに温かかった。
「ごめんなさい。……もう、しませんから」
蓮は、とりあえず最大限の誠意を示そうと謝った。
もうしない、なんてほぼ不可能なのに。
蓮は心の底でそう思った。リアが愛しくてたまらなかった。守りたい、そばにいたい。リアの孤独を、少しでも分け合いたい。蓮は小刻みに震えるリアの背中を、落ち着かせるように優しくさすりながら、彼女が落ち着くのを待った。
今は、彼女を愛したい。自分の素性など、今明かす必要はないだろう。
吹雪の夜は更けていった。『リベラ』の薄暗い照明は、二人をかすかに照らすだけだった。蓮はリアの手を握り、そっと抱きしめる。リアは蓮の胸に顔を埋めながら、「恋愛」という恐怖におののき続けていた。
窓から朝の光が差し込む頃、二人は吹雪が落ち着き、太陽が顔を出しているのを知った。蓮は外に出て、雪の感触を手で確かめた。この雪のように冷たくて凍える夜だったのに、心は温かかった。
「帰る前にコーヒーでも飲む?」
その声を聞いて店内に戻ると、リアはサイフォンでコーヒーを抽出していた。今日のリアの気分はサイフォンだった。
「ありがとうございます。……まだ、怖いですか?」
蓮がそう聞くと、リアの手が止まった。指が微かに震えている。
「怖い、よ。……あなたは怖くないの?」
「俺も怖いです。でも、ルシアさんのことが知れたから、少し怖くなくなったかも」
「……そう」
そう呟いて、リアは蓮にコーヒーを差し出した。蓮はそれを受け取り、窓から外の雪景色を眺めた。
「……今度、デートしませんか」
蓮は窓を眺めたまま、そう言った。直接目を見て言うのは、羞恥と緊張で無理だった。
「考えとく……」
リアは、ぶっきらぼうに答えるしかなかった。
「わかりました。……『リベラ』の記事、完成させておきますね」
そう言って蓮はコーヒーカップをカウンターに置き、扉を開けて『リベラ』から出ていった。彼の背中は、朝日に向かって歩き出す、決意に満ちた男の姿だった。
蓮の置いていったコーヒーカップを見ながら、リアはふと気づいた。
「……一番大事なこと、聞くの忘れた」
ルシアの性別変換が起きても、なぜ蓮の記憶だけが変わらないのか?
これを一番聞きたかったのに、聞けなかった。しかし、その疑問は、すぐに新たな感情によってかき消される。
リアは蓮のコーヒーカップにそのままコーヒーを注いだ。そして口をつけ、そのままコーヒーを口に含ませた。これは、間接キス……。リアは昨夜のキスを思い出し、顔が火照るのを感じ、赤面した。
このキスを思い出すだけで、何回も性別変換できそうだわ……。
やっぱりまだ怖い。
当分は、リアの姿ではなく、ロウの姿でないと蓮に会うことはできないと、そう心に決めた。この恐ろしくも甘い感情から、身を守るために。
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