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13.ル・クプル 後編
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そんな風にして始まった私たちの新婚生活だったが、サビーヌに言わせると、私たちの蜜月は、お砂糖とバターがたっぷり入ったキャトルキャールに、シロップ、ジャム、蜂蜜とチョコレートを掛けたように、甘いものだったそうだ。
そんなに甘くしてしまうと、誰も食べられないわと、私が笑うと、サビーヌは我が意を得たとばかり、そう、まさしくその通りでございます、誰の口にも合いません、奥様と、真顔で言った。
一週間の結婚休暇が終わって、ヴィクトルは、士官学校での勤めが始まり、私は、シャリエ夫人としての生活が始まったのだが、私たちの新婚生活は、とても幸福なものだった。
私たちは共に目覚め、一緒に朝食を摂った。
私は仕事へ行く夫を見送った後、サビーヌが皿洗いや洗濯を引き受けてくれる間に、掃除や、裏庭の花壇の手入れ、針仕事に時間を費やした。
そして、お昼が近くなると、夕飯のメニューを考えながら、サビーヌと一緒に、マルシェへ出向き、新鮮な野菜、肉類、果物、乳製品などの、必要な食材をお買い物した。
昼食を取った後は、ソフィやアラン、マルト叔母に手紙を認めたり、刺繍をしたり、時には、お菓子や、瓶詰のコンフィチュールを手作りすることもあった。
そうこうするうちに、時刻は、あっという間に夕刻になり、サビーヌとふたりで夕食を、作り始めるのだった。
ヴィクトルは、何もなければ、七時過ぎには帰宅したが、生徒同士のトラブルや、会議が長引くことも多々あり、九時を過ぎての帰宅も珍しくはなかった。
遅くなった時は、帰りを待たず、先に済ませたらいいと、ヴィクトルは言ったが、そう言われても、やっぱり私は、ひとりで夕飯を済ませる気にはならなかった。
ふたりで一緒に、テーブルに付いて、食事をしながら、その日にあったことを話し、笑ったり、喜んだり、時に、考えたり、悩んだりする時間を、私は失いたくなかった。
そうして、夕食の後、リビングに場所を移して、ワインを手に、とりとめのない話を重ねたり、一緒に本を開いて、感想を述べ合ったり・・・、その何でもない時間が、私にとっては、極上の時間だった。
ヴィクトルと、長く辛い別離の時間を過ごした私は、そうして同じ時間を過ごせることが、何よりも幸せだった。
夜、平日は、十一時を過ぎると、休日前は、十二時に、私たちはベッドに入った。
そうして、平穏に過ぎた一日に、愛する夫が、傍にいてくれることに、私は心からの感謝と祈りを捧げた。
今、こうして話したことは、全く偽りのない、私たちの新婚生活なのだけれど、本当のことを言えば、ひとつだけ、とても困ったことがあった。
それは・・・、睡眠についての問題だった。
ヴィクトルの結婚休暇中、私たちは、ほとんど毎晩愛し合った。
夜だけでなく・・・、ヴィクトルは、朝、私が目を覚ますと、私の肌に触れ始めることも多かった。
夜はともかく、朝、愛し合うことに、本当にこんなことをしていていいのかしら、と疑問を抱いて、拒んではみるものの、本気の拒否でないのは、ヴィクトルも先刻承知なわけで、彼が諦めるはずはなかった。
結婚するまで、特別な日でない限り、夜九時にはベッドに入り、夜明けと共に起きていた私は、休暇だとは言え、朝八時を過ぎてからベッドを離れることに、罪悪感を覚えた。
けれども、こういった生活も、結婚休暇の一週間くらいなら、許されていいのかもしれないと思い直したのだったが、結婚休暇が終わっても、平日の夜に営まれることは、少なくなかった。
流石に、平日の朝に、求められることはなくなったが、それでも、休日の朝は、必ず、ヴィクトルは、私の身体に手を伸ばしてきた。
私は、ヴィクトル以外の男性は知らないので、夫婦生活がどのくらいの頻度で、どのように行われるのかを知る由もなかったが、ヴィクトルは、とにかく・・・、時間をかけた。
その、つまり・・・、いつも私が満足できるように導いてくれることは、有り難かったし、妻として、喜ばしいことに違いなかったが、その分、体力を消耗する訳で・・・。
そもそも、独身時代、九時にはベッドに入る習慣だった私が、結婚してから、ヴィクトルの帰宅を待って、夕食を取り、食後のお喋りを楽しみ、十一時にベッドに入る生活になった。
それだけでも、随分な夜更かしだったのに、愛し合う夜は、ベッドに入ってから、たっぷり一時間は、時間を費やし、眠りにつくのは、いつも日付が変わってからだった。
けれども夜更かしした分、朝がゆっくり過ごせるわけでもなく、ヴィクトルの出勤に合わせて、五時には目覚めて、支度を始めなければならなかった。
こういった生活を送っていては、ヴィクトルも疲れているのではないか、いやむしろ、毎日勤めに出るヴィクトルの方こそ、日中、眠気に襲われているのではないかと心配するのだが、私の知る限り、彼が眠気眼でいるところなど、見たことがなかった。
むしろ、表情も顔色もよく、日々活力がみなぎっているようにさえ見えた。
そう本人に伝えてみたところ、
「君の眼にそう映るのなら、それは君のお蔭だ。言われてみれば確かに、君と結婚してから、生活に張りが出て来た。君という伴侶が傍にいてくれることは、一層私を強くしてくれる。何があっても、君と、この暮らしを守り抜かねばならないという使命感も、励みになる」
晴れやかな笑顔で、そう言われると・・・、私は、返す言葉が見つからなかった。
彼の人並外れた体力の前に、睡眠不足という言葉は、存在しなかった。
けれども、クリスマスと新年という行事を挟んで、そういった生活を一カ月程続けた後、 私は、強く決意した。
私たちが、愛を交わすのは、週末の夜だけにすることを。
というのも、クリスマスと新年の休暇が続き、朝に夜に、愛し合う習慣が、つい復活してしまった。
休日だから、起床時間が遅くてもいいとは言っても、それは、眠っているからではなく、いわば体力を消耗し続けているわけで・・・、寝不足になった私の、日中の活動能力は著しく低下し、始終あくびをかみ殺さなければならず、クリスマスの準備も、新年の用意も、納得いくものではなかった。
結婚して初めてのクリスマスと新年は、もっと厳かな気持ちで、迎えるべきだったのに、と酷い後悔に苛まれた。
新年が明けて、ヴィクトルの初めての勤務の日も、私の頬に口づけて、清々しい笑顔で、出勤していくヴィクトルに比べ、私の眼の下は、窪み、落ち込んでいたに違いなかった。
ヴィクトルが望んでも、私が断ればよかったのかもしれないが、期待して、私の身体に手を伸ばしてくる夫を、その時になって拒むのは、何だか気の毒のように思え、私は、それまで、きっぱり拒むことが出来ないでいた。
少なくとも、私はそう思っていた。
けれども、クリスマスと新年を不本意な形で迎えることになり、私は、決意した。
断固として、決意した。
私たちが愛を交わすのは、週末の夜だけ。
そう決めてしまえば、ヴィクトルを期待させることもないはず。
だから、新年が明けて、初めての出勤から帰宅したヴィクトルに、私は強い意志を持って、そう伝えた。
私からそれを聞いて、確かに、ヴィクトルの眼には、落胆の色が走った。
けれども、彼は、
「君がそう言うのなら」
と、私の提案に反対することなく、主張を受け入れてくれた。
その夜、私たちは、愛を交わさずに、頬へのキスだけで、眠りについた。
私は、週末までの数日間、眠りが確保されることに、どこかほっとし、健全なる気持ちで、眠りについた・・・、はずだったが、眠りに落ちる直前、少しばかり気になって、ヴィクトルの方に視線を向けると、ヴィクトルは、こちらに背を向け、動かなかった。
もう眠ったのかしら。
声をかけてみようかとも思ったけれど、ここで気を緩めれば、また寝不足になってしまうと、気を引き締めて、私は目を瞑った。
でも、なぜか、眠りは浅かった。
眠りに落ちる直前、眼に入った、ヴィクトルの大きな背中が、ずっと気にかかって、深い眠りにつくことができなかった。
そういう訳で、翌朝、私の睡眠不足は、少しも解消されていなかった。
ヴィクトルはといえば、別段、何のわだかまりもない表情で、行って来ると、見送る私の頬に口づけ、晴れやかな表情で、出勤して行った。
今回の件を、言い出したのは、私のはずだった。
断固とした決意があったはずだった。
けれども、早くも私の心は揺らぎ始めていた。
あなたは・・・平気なの?
その日は、そんな未練がましい気持ちと一日中戦っていたせいで、サビーヌが何かを感じ取ったらしく、
「ヴィクトル様と、喧嘩でもなさったんですか?」
と、問われる始末だった。
その日の夜は、七時を過ぎて帰宅したヴィクトルと、夕食のテーブルに付き、その後はワインを手に、ヴィクトルからチェスの手ほどきを受け、十一時にはベッドに入った。
おやすみ、ミレーヌと、ヴィクトルは、優しく私の頬に口づけ、ベッドに横になり、眼を閉じた。
いいの?
本当に、これでいいの?
なぜか、私はそう詰りたい気持ちになり、一体自分が何をしたかったのか、分からなくなってしまった。
昨日と同じように、私に背中を向けて、横になるヴィクトルを見つめていると、もう私には興味がない、とでも言われているようで、寂しい気分になった。
それで、ようやく私は気づいた。
それまでヴィクトルの望みを断るのが、気の毒だから、申し訳ないから、断れなかったのだとばかり、思っていたのが、そうではなかったのだと。
私も、ずっと期待していたのだと、初めて、気づいた。
ヴィクトルは、人一倍、いや、人の十倍、百倍、理性的な人だった。
これまでのように、私の気持ちに隙があったなら、ヴィクトルは、その隙を逃さず、自分の望みを叶えたが、今回のように、私がはっきり断ったなら、ヴィクトルは私を尊重して、絶対に、手を出してきたりはしない。
私が本気で拒めば、一カ月、一年、いや一生だって、ヴィクトルは、私を抱くことはないだろう。
そんな風に考え始めると、私は、酷く哀しくなってきた。
結婚して、何十年も経って、夫の関心を引くことが出来なくなった妻のように、哀しい気分で一杯になってしまった。
背を向けたままのヴィクトルを見つめていると、あんな風に言ってしまった私は、もう二度と、構ってもらえないのではないかと、泣きたい気分になり・・・、本当に、涙が零れてしまった。
ちょうどその時、ヴィクトルが寝返りをうった。
まだ完全に眠りに落ちてはおらず、夢と現の間を行き来していたヴィクトルは、寝返りをうった時、薄目を開いた。
その際、その眼に、私の泣き顔が飛び込んできたようで、
「何があった?」
ヴィクトルは、跳ね起きた。
「私・・・、やっぱり寂しくて・・・」
再び、私の瞳から涙が溢れた。
――ヴィクトルが、私をそのままにしておくはずがなかった。
すぐに、私は抱きしめられ、早くもヴィクトルの唇は、私のうなじを這い出していた。
結局、その夜は・・・、その方面の色んな技法を教えられ・・・、何度上り詰めたのか記憶になく・・・、結婚以来、一番燃え上がった夜になってしまった。
愚か者とは、私のような者のことを言うのだろう、朝目覚めて、私は、そう思った。
ただ、この一件から、私の睡眠不足について、ヴィクトルは真剣に考え始めた。
これまでも、少々疲れ気味の私のことが気にかかってはいたようで、確かに、君は睡眠不足を解消する必要があると、君の健康は、この家の最優先されるべき課題だと、言った。
しかし、これはさほど難しい問題ではないと、つまり、自分は一切疲労を感じていないわけで、むしろ、現在の状況が継続されることを望んでいる、そして、それを可能にするためには、君が、午睡を取りさえすれば、解決するのだと、語った。
午睡・・・。
確かに、私が、午睡を取りさえすれば、何も問題がないに、違いなかった。
舞踏会や、レセプションに出席したり、夜、サロンを開いたりする、裕福な家庭の婦人や、貴族の貴婦人たちは、午睡を取った。
深夜まで起きて夜を楽しむ婦人たちにとって、それは必須だったに違いない。
華やかな場が苦手な私も、年に数回は、断ることのできない軍関係のパーティーや、親戚、知人のレセプションに招かれることがあり、そういった際に、あらかじめ午睡を取ることはあったが、日常的に、午睡を取ることはなかった。
日中は、家の用事を滞りなく済ませ、早寝早起きを心掛けてきた私は、これまでの生活習慣を変えることに、少々抵抗があった。
けれども、私が午睡を取ることで、私たちの新婚生活がより良くなるのならと、ヴィクトルの提案に従うことにした。
――私は、一度で、午睡の心地よさに取りつかれてしまった。
これまでなら、最も睡魔に取りつかれる昼食の後、夜まで眠れない重圧と戦わなればならなかったが、まず、その重圧から解放されることになった。
そして、約一時間の午睡の後は、頭がすっきりと冴え、気持ちが寛いで、何をしても、はかどった。
夕刻、すっきり冴えわたった頭で、サビーヌと夕飯の支度にとりかかりながら、ヴィクトルの帰りを待つ楽しさと言ったら!
たった一日で、私は、午睡賛成派に寝返った。
その日の夕食のテーブルで、あなたの提案は、正しかったわと、早速、私は、ヴィクトルに語ったのだが、それを聞いて、ヴィクトルは、私にある贈り物をしてくれた。
私は、リビングのソファで午睡を取っていたのだが、君が、少しでも寛いだ時間を過ごせるようにと、私の部屋に合う、とても素敵なカウチと、お揃いのクッションを、贈ってくれたのだった。
お腹を満たした後、夫に贈ってもらった広々としたカウチで、ふかふかのクッションを抱きしめながら眼を閉じる時、私は世界で一番幸せな婦人だと、思わず頬が緩んだ。
怠惰だと叱られても、自堕落と笑われても、構わない。
家庭が円満で、私たちが幸せならば、他の人に何をどう言われても、気にしないことにした。
私は、この最高の幸福に、浸れるだけ浸りますとも。
ただ・・・、ひとつだけ、頭を掠めることがあった。
こういった生活を続けていれば・・・、近いうちに、私の身体に変化が起こるのではないのかと。
私の予想は、的中した。
それから、一カ月もしないうちに、私が幸福に浸るカウチは、悪阻に耐えるための休息所へと 変わったのだった。
五月、招待されていた、フィリップ国王陛下と、イーオンからお輿入れされたマティルダ様の婚礼に、長引いた悪阻のせいで参列できなかったのは、とても残念なことだったけれど、その年の十月の終わり、予定よりも一週間早く、私は、自宅で、男の子を出産した。
そして、ヴィクトルは、大きな声で泣く元気いっぱいの息子に、マクシムの名を与えた。
そんなに甘くしてしまうと、誰も食べられないわと、私が笑うと、サビーヌは我が意を得たとばかり、そう、まさしくその通りでございます、誰の口にも合いません、奥様と、真顔で言った。
一週間の結婚休暇が終わって、ヴィクトルは、士官学校での勤めが始まり、私は、シャリエ夫人としての生活が始まったのだが、私たちの新婚生活は、とても幸福なものだった。
私たちは共に目覚め、一緒に朝食を摂った。
私は仕事へ行く夫を見送った後、サビーヌが皿洗いや洗濯を引き受けてくれる間に、掃除や、裏庭の花壇の手入れ、針仕事に時間を費やした。
そして、お昼が近くなると、夕飯のメニューを考えながら、サビーヌと一緒に、マルシェへ出向き、新鮮な野菜、肉類、果物、乳製品などの、必要な食材をお買い物した。
昼食を取った後は、ソフィやアラン、マルト叔母に手紙を認めたり、刺繍をしたり、時には、お菓子や、瓶詰のコンフィチュールを手作りすることもあった。
そうこうするうちに、時刻は、あっという間に夕刻になり、サビーヌとふたりで夕食を、作り始めるのだった。
ヴィクトルは、何もなければ、七時過ぎには帰宅したが、生徒同士のトラブルや、会議が長引くことも多々あり、九時を過ぎての帰宅も珍しくはなかった。
遅くなった時は、帰りを待たず、先に済ませたらいいと、ヴィクトルは言ったが、そう言われても、やっぱり私は、ひとりで夕飯を済ませる気にはならなかった。
ふたりで一緒に、テーブルに付いて、食事をしながら、その日にあったことを話し、笑ったり、喜んだり、時に、考えたり、悩んだりする時間を、私は失いたくなかった。
そうして、夕食の後、リビングに場所を移して、ワインを手に、とりとめのない話を重ねたり、一緒に本を開いて、感想を述べ合ったり・・・、その何でもない時間が、私にとっては、極上の時間だった。
ヴィクトルと、長く辛い別離の時間を過ごした私は、そうして同じ時間を過ごせることが、何よりも幸せだった。
夜、平日は、十一時を過ぎると、休日前は、十二時に、私たちはベッドに入った。
そうして、平穏に過ぎた一日に、愛する夫が、傍にいてくれることに、私は心からの感謝と祈りを捧げた。
今、こうして話したことは、全く偽りのない、私たちの新婚生活なのだけれど、本当のことを言えば、ひとつだけ、とても困ったことがあった。
それは・・・、睡眠についての問題だった。
ヴィクトルの結婚休暇中、私たちは、ほとんど毎晩愛し合った。
夜だけでなく・・・、ヴィクトルは、朝、私が目を覚ますと、私の肌に触れ始めることも多かった。
夜はともかく、朝、愛し合うことに、本当にこんなことをしていていいのかしら、と疑問を抱いて、拒んではみるものの、本気の拒否でないのは、ヴィクトルも先刻承知なわけで、彼が諦めるはずはなかった。
結婚するまで、特別な日でない限り、夜九時にはベッドに入り、夜明けと共に起きていた私は、休暇だとは言え、朝八時を過ぎてからベッドを離れることに、罪悪感を覚えた。
けれども、こういった生活も、結婚休暇の一週間くらいなら、許されていいのかもしれないと思い直したのだったが、結婚休暇が終わっても、平日の夜に営まれることは、少なくなかった。
流石に、平日の朝に、求められることはなくなったが、それでも、休日の朝は、必ず、ヴィクトルは、私の身体に手を伸ばしてきた。
私は、ヴィクトル以外の男性は知らないので、夫婦生活がどのくらいの頻度で、どのように行われるのかを知る由もなかったが、ヴィクトルは、とにかく・・・、時間をかけた。
その、つまり・・・、いつも私が満足できるように導いてくれることは、有り難かったし、妻として、喜ばしいことに違いなかったが、その分、体力を消耗する訳で・・・。
そもそも、独身時代、九時にはベッドに入る習慣だった私が、結婚してから、ヴィクトルの帰宅を待って、夕食を取り、食後のお喋りを楽しみ、十一時にベッドに入る生活になった。
それだけでも、随分な夜更かしだったのに、愛し合う夜は、ベッドに入ってから、たっぷり一時間は、時間を費やし、眠りにつくのは、いつも日付が変わってからだった。
けれども夜更かしした分、朝がゆっくり過ごせるわけでもなく、ヴィクトルの出勤に合わせて、五時には目覚めて、支度を始めなければならなかった。
こういった生活を送っていては、ヴィクトルも疲れているのではないか、いやむしろ、毎日勤めに出るヴィクトルの方こそ、日中、眠気に襲われているのではないかと心配するのだが、私の知る限り、彼が眠気眼でいるところなど、見たことがなかった。
むしろ、表情も顔色もよく、日々活力がみなぎっているようにさえ見えた。
そう本人に伝えてみたところ、
「君の眼にそう映るのなら、それは君のお蔭だ。言われてみれば確かに、君と結婚してから、生活に張りが出て来た。君という伴侶が傍にいてくれることは、一層私を強くしてくれる。何があっても、君と、この暮らしを守り抜かねばならないという使命感も、励みになる」
晴れやかな笑顔で、そう言われると・・・、私は、返す言葉が見つからなかった。
彼の人並外れた体力の前に、睡眠不足という言葉は、存在しなかった。
けれども、クリスマスと新年という行事を挟んで、そういった生活を一カ月程続けた後、 私は、強く決意した。
私たちが、愛を交わすのは、週末の夜だけにすることを。
というのも、クリスマスと新年の休暇が続き、朝に夜に、愛し合う習慣が、つい復活してしまった。
休日だから、起床時間が遅くてもいいとは言っても、それは、眠っているからではなく、いわば体力を消耗し続けているわけで・・・、寝不足になった私の、日中の活動能力は著しく低下し、始終あくびをかみ殺さなければならず、クリスマスの準備も、新年の用意も、納得いくものではなかった。
結婚して初めてのクリスマスと新年は、もっと厳かな気持ちで、迎えるべきだったのに、と酷い後悔に苛まれた。
新年が明けて、ヴィクトルの初めての勤務の日も、私の頬に口づけて、清々しい笑顔で、出勤していくヴィクトルに比べ、私の眼の下は、窪み、落ち込んでいたに違いなかった。
ヴィクトルが望んでも、私が断ればよかったのかもしれないが、期待して、私の身体に手を伸ばしてくる夫を、その時になって拒むのは、何だか気の毒のように思え、私は、それまで、きっぱり拒むことが出来ないでいた。
少なくとも、私はそう思っていた。
けれども、クリスマスと新年を不本意な形で迎えることになり、私は、決意した。
断固として、決意した。
私たちが愛を交わすのは、週末の夜だけ。
そう決めてしまえば、ヴィクトルを期待させることもないはず。
だから、新年が明けて、初めての出勤から帰宅したヴィクトルに、私は強い意志を持って、そう伝えた。
私からそれを聞いて、確かに、ヴィクトルの眼には、落胆の色が走った。
けれども、彼は、
「君がそう言うのなら」
と、私の提案に反対することなく、主張を受け入れてくれた。
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もう眠ったのかしら。
声をかけてみようかとも思ったけれど、ここで気を緩めれば、また寝不足になってしまうと、気を引き締めて、私は目を瞑った。
でも、なぜか、眠りは浅かった。
眠りに落ちる直前、眼に入った、ヴィクトルの大きな背中が、ずっと気にかかって、深い眠りにつくことができなかった。
そういう訳で、翌朝、私の睡眠不足は、少しも解消されていなかった。
ヴィクトルはといえば、別段、何のわだかまりもない表情で、行って来ると、見送る私の頬に口づけ、晴れやかな表情で、出勤して行った。
今回の件を、言い出したのは、私のはずだった。
断固とした決意があったはずだった。
けれども、早くも私の心は揺らぎ始めていた。
あなたは・・・平気なの?
その日は、そんな未練がましい気持ちと一日中戦っていたせいで、サビーヌが何かを感じ取ったらしく、
「ヴィクトル様と、喧嘩でもなさったんですか?」
と、問われる始末だった。
その日の夜は、七時を過ぎて帰宅したヴィクトルと、夕食のテーブルに付き、その後はワインを手に、ヴィクトルからチェスの手ほどきを受け、十一時にはベッドに入った。
おやすみ、ミレーヌと、ヴィクトルは、優しく私の頬に口づけ、ベッドに横になり、眼を閉じた。
いいの?
本当に、これでいいの?
なぜか、私はそう詰りたい気持ちになり、一体自分が何をしたかったのか、分からなくなってしまった。
昨日と同じように、私に背中を向けて、横になるヴィクトルを見つめていると、もう私には興味がない、とでも言われているようで、寂しい気分になった。
それで、ようやく私は気づいた。
それまでヴィクトルの望みを断るのが、気の毒だから、申し訳ないから、断れなかったのだとばかり、思っていたのが、そうではなかったのだと。
私も、ずっと期待していたのだと、初めて、気づいた。
ヴィクトルは、人一倍、いや、人の十倍、百倍、理性的な人だった。
これまでのように、私の気持ちに隙があったなら、ヴィクトルは、その隙を逃さず、自分の望みを叶えたが、今回のように、私がはっきり断ったなら、ヴィクトルは私を尊重して、絶対に、手を出してきたりはしない。
私が本気で拒めば、一カ月、一年、いや一生だって、ヴィクトルは、私を抱くことはないだろう。
そんな風に考え始めると、私は、酷く哀しくなってきた。
結婚して、何十年も経って、夫の関心を引くことが出来なくなった妻のように、哀しい気分で一杯になってしまった。
背を向けたままのヴィクトルを見つめていると、あんな風に言ってしまった私は、もう二度と、構ってもらえないのではないかと、泣きたい気分になり・・・、本当に、涙が零れてしまった。
ちょうどその時、ヴィクトルが寝返りをうった。
まだ完全に眠りに落ちてはおらず、夢と現の間を行き来していたヴィクトルは、寝返りをうった時、薄目を開いた。
その際、その眼に、私の泣き顔が飛び込んできたようで、
「何があった?」
ヴィクトルは、跳ね起きた。
「私・・・、やっぱり寂しくて・・・」
再び、私の瞳から涙が溢れた。
――ヴィクトルが、私をそのままにしておくはずがなかった。
すぐに、私は抱きしめられ、早くもヴィクトルの唇は、私のうなじを這い出していた。
結局、その夜は・・・、その方面の色んな技法を教えられ・・・、何度上り詰めたのか記憶になく・・・、結婚以来、一番燃え上がった夜になってしまった。
愚か者とは、私のような者のことを言うのだろう、朝目覚めて、私は、そう思った。
ただ、この一件から、私の睡眠不足について、ヴィクトルは真剣に考え始めた。
これまでも、少々疲れ気味の私のことが気にかかってはいたようで、確かに、君は睡眠不足を解消する必要があると、君の健康は、この家の最優先されるべき課題だと、言った。
しかし、これはさほど難しい問題ではないと、つまり、自分は一切疲労を感じていないわけで、むしろ、現在の状況が継続されることを望んでいる、そして、それを可能にするためには、君が、午睡を取りさえすれば、解決するのだと、語った。
午睡・・・。
確かに、私が、午睡を取りさえすれば、何も問題がないに、違いなかった。
舞踏会や、レセプションに出席したり、夜、サロンを開いたりする、裕福な家庭の婦人や、貴族の貴婦人たちは、午睡を取った。
深夜まで起きて夜を楽しむ婦人たちにとって、それは必須だったに違いない。
華やかな場が苦手な私も、年に数回は、断ることのできない軍関係のパーティーや、親戚、知人のレセプションに招かれることがあり、そういった際に、あらかじめ午睡を取ることはあったが、日常的に、午睡を取ることはなかった。
日中は、家の用事を滞りなく済ませ、早寝早起きを心掛けてきた私は、これまでの生活習慣を変えることに、少々抵抗があった。
けれども、私が午睡を取ることで、私たちの新婚生活がより良くなるのならと、ヴィクトルの提案に従うことにした。
――私は、一度で、午睡の心地よさに取りつかれてしまった。
これまでなら、最も睡魔に取りつかれる昼食の後、夜まで眠れない重圧と戦わなればならなかったが、まず、その重圧から解放されることになった。
そして、約一時間の午睡の後は、頭がすっきりと冴え、気持ちが寛いで、何をしても、はかどった。
夕刻、すっきり冴えわたった頭で、サビーヌと夕飯の支度にとりかかりながら、ヴィクトルの帰りを待つ楽しさと言ったら!
たった一日で、私は、午睡賛成派に寝返った。
その日の夕食のテーブルで、あなたの提案は、正しかったわと、早速、私は、ヴィクトルに語ったのだが、それを聞いて、ヴィクトルは、私にある贈り物をしてくれた。
私は、リビングのソファで午睡を取っていたのだが、君が、少しでも寛いだ時間を過ごせるようにと、私の部屋に合う、とても素敵なカウチと、お揃いのクッションを、贈ってくれたのだった。
お腹を満たした後、夫に贈ってもらった広々としたカウチで、ふかふかのクッションを抱きしめながら眼を閉じる時、私は世界で一番幸せな婦人だと、思わず頬が緩んだ。
怠惰だと叱られても、自堕落と笑われても、構わない。
家庭が円満で、私たちが幸せならば、他の人に何をどう言われても、気にしないことにした。
私は、この最高の幸福に、浸れるだけ浸りますとも。
ただ・・・、ひとつだけ、頭を掠めることがあった。
こういった生活を続けていれば・・・、近いうちに、私の身体に変化が起こるのではないのかと。
私の予想は、的中した。
それから、一カ月もしないうちに、私が幸福に浸るカウチは、悪阻に耐えるための休息所へと 変わったのだった。
五月、招待されていた、フィリップ国王陛下と、イーオンからお輿入れされたマティルダ様の婚礼に、長引いた悪阻のせいで参列できなかったのは、とても残念なことだったけれど、その年の十月の終わり、予定よりも一週間早く、私は、自宅で、男の子を出産した。
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しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
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