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19.王妃の恋
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翌日の夜、翠玉の間には、煌々と灯りがともされ、音楽会が、催された。
昨日、アレクセイ国王より知らされた通り、内輪の、近しい人々だけの、催しだった。
とはいえ、人が集う場に、着飾って行くのは、ずいぶん久しぶりで、このセヴェロリンスクの王宮に来てからは、初めてのことだったので、クリスティーヌは、緊張を覚えた。
アルカンスィエルを追われてから、心労から、クリスティーヌは痩せていた。
けれども、類まれな美貌に宿るその陰が、その美しさの中に憂いを作り、却って人の心をとらえて離さなかった。
美しく結った豊かなブロンドに、青い瞳。
卵形の輪郭の中にある、整った顔立ちには気品が溢れ、その青い瞳をじっと向けられて、優しく微笑まれれば、誰でも、その虜になった。
袖口と胸元、そして裾に、金のレースをふんだんにあしらってある、白のドレスをまとった、その清楚で気高い様は、この冬宮殿に咲く、百合の花のようだった。
優美に着飾り、ほっそりとした指で、扇をまるで自分の身の一部のように軽やかに扱い、今夜のクリスティーヌは、その慎ましやかな美しさを、一層際立だたせていた。
クリスティーヌは、皆の視線が、自分に注がれていることに、気付いていた。
それは、ブロンピュール宮殿から来た敵国の王妃が、一体どのような顔をして、この場に姿を現すのかという関心に違いないと、クリスティーヌは理解していたが、決して、そればかりではなかった。
その清らかな美しさを眼にした時、皆、一瞬呼吸を呑まれた。
音楽会は、ピアノも、バイオリンも、どの音色も素晴らしいものだった。
その調べは、クリスティーヌの閉ざされた心に深く染み入った。
クリスティーヌは、演奏者に心からの賛辞を贈った。
けれども・・・。
クリスティーヌは、そっと、金の細工に縁取られた深紅の椅子に目をやった。
その椅子に座るべき主、アレクセイ国王は、音楽会も終盤に差し掛かろうとするのに、現れる様子はなかった。
クリスティーヌは、落胆した。
今日こそ、お会いして、お話ができると思っていたのに・・・。
そして、そんな自分の胸の内に気付いて、驚いた。
物思いにふけっていたせいで、クリスティーヌは少しばかり演奏を聞き逃した。
皆の拍手が耳に入って、慌てて、自分も加わった。
その拍手が落ち着きかけた時、ひとりの伯爵夫人が立ちあがって、丁寧にお辞儀をすると、クリスティーヌに満面の笑みを向けた。
「クリスティーヌ様・・・、クリスティーヌ様が、大変素晴らしい歌い手でいらっしゃることは、皆、存じ上げております。よろしければ、ぜひ、その素晴らしい歌声を、今夜、お聞かせいただきたいのですが・・・」
「わたくしが?」
クリスティーヌは、戸惑いを隠せなかった。
ひとり口ずさむことは度々あっても、皆の前で披露することなど、何年振りだろうか。
「せっかくの機会なのですから、ぜひお聞かせいただきたく思います」
同調する声が、いくつも上がった。
傍らのフランセットも、そっとクリスティーヌを促した。
クリスティーヌは、ためらいつつも、皆の前に立った。
そして、お気に入りのアリアを歌うことにした。
それは、哀しい恋の歌だった。
ピアノの伴奏が始まって、その音色に合わせて、静かに歌いだした。
クリスティーヌが歌いだした途端、その場に居合わせた者は、皆、顔を見合わせた。
まろやかに包み込むような優しいソプラノは、聞く者の耳を魅了して離さなかった。
その美しい姿と、優しく切なく響く歌声に、その場に居合わせたひとりが、アフロディーテと、呟くほどだった。
歌声は、人々の感情を深く揺さぶり、感動を与え、貴婦人の中には、ハンカチで涙を拭う者さえあった。
クリスティーヌの歌は、貴婦人の教養という範疇を超える、素晴らしい芸術だった。
そして、クリスティーヌ自身もまた、自分の歌に、これまでの全ての想いを込めた。
哀しみ、苦しみ、切なさ、そういった感情を、全て込めて、全身全霊で歌った。
けれども、ふと、クリスティーヌの眼に、主がいないままの、深紅の椅子が入った。
アレクセイ国王は、いらっしゃらなかった。
あの四年前の会話を、覚えていてくださったわけではなかった・・・。
クリスティーヌは、そう思うと、ふと、前に、このように皆の前で歌声を披露した時のことを、思い出してしまった。
忘れていたのに。
忘れ去ろうとしていたのに。
最後に、クリスティーヌが皆の前で歌ったのは、ブロンピュール宮殿で、二年前、結婚して間も無い頃だった。
ジャン王は、父ギョーム王に似て、華やかなことが好きだった。
頻繁に、自ら、舞踏会、音楽会、狩猟、などの娯楽を催した。
自然と、貴族たちが集まり、その周囲は、いつも賑やかだった。
けれども何故か、結婚前から、ジャン王は、クリスティーヌによそよそしかった。
それは、クリスティーヌにとって、寂しいことだった。
まだ、結婚にとまどいを覚えていらっしゃるのかもしれない。
お傍で過ごすようになれば、きっと親しみを覚えてくださるに違いない。
クリスティーヌは、そのように考えていた。
けれども、盛大な結婚式に続く、数週間の祝宴行事を終え、時間を経ても、ジャン王がクリスティーヌに打ち解けることはなかった。
そんな中、クリスティーヌは、ユースティティアの貴族、ラ・トゥール伯の屋敷の音楽会に、ジャン王と共に招かれた。
その音楽会の折、今夜のように、クリスティーヌの美声を知る者たちから、請われて歌声を披露することになった。
クリスティーヌは、心を込めて、歌った。
ジャン王への・・・、夫への、真心と愛情を込めて。
この歌声が、どうか、夫の心へ届きますように。
私の想いが、伝わりますように、と。
その素晴らしい歌声は、絶賛された。
音楽会の後、ブロンピュール宮殿へと戻り、クリスティーヌは、寝室のベッドの中で、じっと眼を開いていた。
今夜こそ、わたくしを訪ねてくださるのではないか。
わたくしの想いが、届いたのではないか。
クリスティーヌは、ジャン王の訪れを、待ち続けた。
けれども、日付が変わり、どれほど夜が更けても、ジャン王が、クリスティーヌの寝室を訪れることはなかった。
クリスティーヌは、ベッドから身を起こした。
ガウンを持って来させ、羽織ると、自らの寝室を飛び出した。
「お待ちください、クリスティーヌ様、王妃様!」
女官と侍女たちが、クリスティーヌの後を、慌てて追ってきた。
けれども、クリスティーヌの脚は止まらなかった。
国王警護の衛兵たちの前も、すり抜けると、制止を振り切って、ジャン王の部屋のドアを押しあけた。
クリスティーヌは、覚悟していた。
一体、どのような女性?
どれほど、麗しい貴婦人?
クリスティーヌは、自分の床に、ジャン王の脚が向かないのは、ジャン王に女性がいるのだと、疑わなかった。
どのような女性がジャン王とベッドを共にしていたとしても、クリスティーヌは、はっきりとその存在を知りたかった。
けれども、クリスティーヌの眼に飛び込んだのは、更には、もっと残酷な知らせだった。
ベッドのジャン王は、驚いた顔で、飛び込んできたクリスティーヌを見つめた。
そして・・・、ジャン王の隣にいたのは、ラ・トゥール伯爵だった。
ふたりとも、何も身に着けてはいなかった。
それから、どのようにして、夜明けを迎えたのか、クリスティーヌは覚えていない。
その日から、ジャン王は、クリスティーヌを一切、見なくなった。
互いに、話すことも無くなった。
愛情がなくとも、せめて違った優しい感情を持つことができたら、と思うことはあった。
けれども、ジャン王が、クリスティーヌを受け入れることは、一切、なかった。
今、その、豪華な深紅の椅子が空虚なままであることで、それらの全ての記憶が、一斉にクリスティーヌを襲って来た。
アレクセイ国王も・・・、アレクセイ国王も、やはり、同じ。
その途端、クリスティーヌの瞳から、涙が溢れた。
「クリスティーヌ様・・・」
その素晴らしい歌声がぴたりと止んだかと思うと、クリスティーヌの瞳から溢れ落ちて止まらない涙に、居合わせた者たちは、顔を見合わせた。
「わたくし・・・」
立ちすくむクリスティーヌを、機転を利かせたトルスタヤ女官長が、あちらへ、とすぐに部屋から誘い出した。
居合わせた者たちの、一体、クリスティーヌ様はどうされたのか、というざわめきは、しばらく収まらなかった。
その音楽会が催されている間、翠玉の間の奥の扉が、あけ放しになったままであることに注意を払うものは、ほとんどなかった。
だから、その扉の後ろで、クリスティーヌの歌声に食い入るように聞き入っていた、アレクセイ国王の存在に気付いた者は、まずなかった。
クリスティーヌは、寝室のソファに倒れ込んだ。
「クリスティーヌ・・・」
フランセットは、おろおろするばかりだった。
トルスタヤ女官長は、侍女に命じて、直ぐクリスティーヌのコルセットを緩めさせた。
そして、少し考えた後、丁重にフランセットに下がってもらった。
フランセットは、まだ涙も乾かない青ざめたクリスティーヌを心配して、拒む様子を見せたが、年上の毅然とした態度の女官長の申し出には、逆らえなかった。
「御気分、少しは良くなりまして?」
「ええ・・・、ありがとう」
女官長は、侍女たちも下がらせ、クリスティーヌの背中をそっとさすった。
女官長の手のひらから、温かな人柄とその優しさが伝わるようで、クリスティーヌの瞳には、新たな涙が、浮かんだ。
「国王陛下は・・・、どうしていらっしゃらなかったのかしら?」
「クリスティーヌ様・・・」
「アレクセイ国王は、わたくしを一体どうしようと言うの?わざわざ、ユースティティアから、連れて来て、このわたくしに、何をさせようというの?一体、どのような目的が・・・」
アレクセイ国王に強く望まれて、ここへ連れて来られたなどとは、夢にも考えていない様子のクリスティーヌに、女官長は、心底驚いた。
その類いまれな美貌と、気品を持ち、グラディウスのアレクセイ国王から、このように贅を尽くした環境を与えられながら、それらが、全て、愛情ではなく、策略によるものと捕えるクリスティーヌが、女官長には不思議だった。
それで、女官長は、話す決心をした。
行き違っているふたつの心を、つなげる決心を。
「クリスティーヌ様は、アレクセイ国王を誤解していらっしゃいます」
「誤解?」
「明け方、国王陛下が、この部屋にそっと足をお運びになっていることを、御存じですか?」
クリスティーヌは、驚いて、女官長の顔を見つめた。
「国王陛下が?」
「さようでございます。国王陛下は・・・、ご自分の器量に、自信を失っていらっしゃいます。十年前、国王陛下は、ある御令嬢と、婚約なさっておりました。けれども、ちょうどその折、病に罹られて・・・、お顔が変わってしまわれました。建前上、婚約破棄は、国王陛下からの仰せでしたが、実際は、御令嬢の方が、怖がってしまわれたのです」
「そのようなことが・・・」
「ですから、クリスティーヌ様が、ご自分の顔を見て、驚いたり、怖がったりするのではないかと、とても心配していらっしゃいます。国王陛下が、クリスティーヌ様の前に姿を現さないのは、そのせいです」
「まさか、そんな・・・」
驚きを隠せないクリスティーヌに、女官長は微笑んで続けた。
「四年前、初めて会った十六歳年下のクリスティーヌ様に、国王陛下はひとめで恋をされたのです。当時、国王陛下から、直接お話を伺った私が申し上げるのです。作り話ではございません」
「では、なぜ、今夜、音楽会にいらっしゃらなかったの?」
「もちろん、いらっしゃっていました」
「どこに?」
「きっと、扉の向こうに」
「扉の向こう?」
「翠玉の間の奥の扉が、ずっと開いたままだったのを御存じですか?一度も、姿はお見せになりませんでしたが、扉の向こうで、一瞬、すっと、影が動きました。きっと、クリスティーヌ様のお声に、聞き入っておられたのでしょう」
クリスティーヌは、にわかには信じられなかった。
けれども、この真摯で誠実な女官長の話すことが、作り話だとも思えなかった。
「クリスティーヌ様を心配させてはいけないと、口止めされていたことですが、国王陛下は、明日からまた、ユースティティアへ戦いに赴かれます。そもそも、今回、陛下が一度、このセヴェロリンスクへお戻りになられたのも、クリスティーヌ様をあのような不自由な環境からお連れして、この王宮で心穏やかにお過ごしいただくためでした」
「そんなこと・・・」
「国王陛下がお留守の間、クリスティーヌ様に決して不自由な思いをさせないよう、私を始め、王宮の者一同、陛下よりきつく申し遣っております」
「女官長、わたくしは、どのようにしたら・・・」
そのクリスティーヌの言葉に、女官長は笑みを漏らした。
「おふたりとも、本当にお心が繊細でいらっしゃるのですわ。真心には真心で、お応えになれば、きっと想いは通じるのだと思います」
そういうと、女官長は、クリスティーヌの頬の涙の跡を、ハンカチでそっと拭った。
昨日、アレクセイ国王より知らされた通り、内輪の、近しい人々だけの、催しだった。
とはいえ、人が集う場に、着飾って行くのは、ずいぶん久しぶりで、このセヴェロリンスクの王宮に来てからは、初めてのことだったので、クリスティーヌは、緊張を覚えた。
アルカンスィエルを追われてから、心労から、クリスティーヌは痩せていた。
けれども、類まれな美貌に宿るその陰が、その美しさの中に憂いを作り、却って人の心をとらえて離さなかった。
美しく結った豊かなブロンドに、青い瞳。
卵形の輪郭の中にある、整った顔立ちには気品が溢れ、その青い瞳をじっと向けられて、優しく微笑まれれば、誰でも、その虜になった。
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クリスティーヌは、皆の視線が、自分に注がれていることに、気付いていた。
それは、ブロンピュール宮殿から来た敵国の王妃が、一体どのような顔をして、この場に姿を現すのかという関心に違いないと、クリスティーヌは理解していたが、決して、そればかりではなかった。
その清らかな美しさを眼にした時、皆、一瞬呼吸を呑まれた。
音楽会は、ピアノも、バイオリンも、どの音色も素晴らしいものだった。
その調べは、クリスティーヌの閉ざされた心に深く染み入った。
クリスティーヌは、演奏者に心からの賛辞を贈った。
けれども・・・。
クリスティーヌは、そっと、金の細工に縁取られた深紅の椅子に目をやった。
その椅子に座るべき主、アレクセイ国王は、音楽会も終盤に差し掛かろうとするのに、現れる様子はなかった。
クリスティーヌは、落胆した。
今日こそ、お会いして、お話ができると思っていたのに・・・。
そして、そんな自分の胸の内に気付いて、驚いた。
物思いにふけっていたせいで、クリスティーヌは少しばかり演奏を聞き逃した。
皆の拍手が耳に入って、慌てて、自分も加わった。
その拍手が落ち着きかけた時、ひとりの伯爵夫人が立ちあがって、丁寧にお辞儀をすると、クリスティーヌに満面の笑みを向けた。
「クリスティーヌ様・・・、クリスティーヌ様が、大変素晴らしい歌い手でいらっしゃることは、皆、存じ上げております。よろしければ、ぜひ、その素晴らしい歌声を、今夜、お聞かせいただきたいのですが・・・」
「わたくしが?」
クリスティーヌは、戸惑いを隠せなかった。
ひとり口ずさむことは度々あっても、皆の前で披露することなど、何年振りだろうか。
「せっかくの機会なのですから、ぜひお聞かせいただきたく思います」
同調する声が、いくつも上がった。
傍らのフランセットも、そっとクリスティーヌを促した。
クリスティーヌは、ためらいつつも、皆の前に立った。
そして、お気に入りのアリアを歌うことにした。
それは、哀しい恋の歌だった。
ピアノの伴奏が始まって、その音色に合わせて、静かに歌いだした。
クリスティーヌが歌いだした途端、その場に居合わせた者は、皆、顔を見合わせた。
まろやかに包み込むような優しいソプラノは、聞く者の耳を魅了して離さなかった。
その美しい姿と、優しく切なく響く歌声に、その場に居合わせたひとりが、アフロディーテと、呟くほどだった。
歌声は、人々の感情を深く揺さぶり、感動を与え、貴婦人の中には、ハンカチで涙を拭う者さえあった。
クリスティーヌの歌は、貴婦人の教養という範疇を超える、素晴らしい芸術だった。
そして、クリスティーヌ自身もまた、自分の歌に、これまでの全ての想いを込めた。
哀しみ、苦しみ、切なさ、そういった感情を、全て込めて、全身全霊で歌った。
けれども、ふと、クリスティーヌの眼に、主がいないままの、深紅の椅子が入った。
アレクセイ国王は、いらっしゃらなかった。
あの四年前の会話を、覚えていてくださったわけではなかった・・・。
クリスティーヌは、そう思うと、ふと、前に、このように皆の前で歌声を披露した時のことを、思い出してしまった。
忘れていたのに。
忘れ去ろうとしていたのに。
最後に、クリスティーヌが皆の前で歌ったのは、ブロンピュール宮殿で、二年前、結婚して間も無い頃だった。
ジャン王は、父ギョーム王に似て、華やかなことが好きだった。
頻繁に、自ら、舞踏会、音楽会、狩猟、などの娯楽を催した。
自然と、貴族たちが集まり、その周囲は、いつも賑やかだった。
けれども何故か、結婚前から、ジャン王は、クリスティーヌによそよそしかった。
それは、クリスティーヌにとって、寂しいことだった。
まだ、結婚にとまどいを覚えていらっしゃるのかもしれない。
お傍で過ごすようになれば、きっと親しみを覚えてくださるに違いない。
クリスティーヌは、そのように考えていた。
けれども、盛大な結婚式に続く、数週間の祝宴行事を終え、時間を経ても、ジャン王がクリスティーヌに打ち解けることはなかった。
そんな中、クリスティーヌは、ユースティティアの貴族、ラ・トゥール伯の屋敷の音楽会に、ジャン王と共に招かれた。
その音楽会の折、今夜のように、クリスティーヌの美声を知る者たちから、請われて歌声を披露することになった。
クリスティーヌは、心を込めて、歌った。
ジャン王への・・・、夫への、真心と愛情を込めて。
この歌声が、どうか、夫の心へ届きますように。
私の想いが、伝わりますように、と。
その素晴らしい歌声は、絶賛された。
音楽会の後、ブロンピュール宮殿へと戻り、クリスティーヌは、寝室のベッドの中で、じっと眼を開いていた。
今夜こそ、わたくしを訪ねてくださるのではないか。
わたくしの想いが、届いたのではないか。
クリスティーヌは、ジャン王の訪れを、待ち続けた。
けれども、日付が変わり、どれほど夜が更けても、ジャン王が、クリスティーヌの寝室を訪れることはなかった。
クリスティーヌは、ベッドから身を起こした。
ガウンを持って来させ、羽織ると、自らの寝室を飛び出した。
「お待ちください、クリスティーヌ様、王妃様!」
女官と侍女たちが、クリスティーヌの後を、慌てて追ってきた。
けれども、クリスティーヌの脚は止まらなかった。
国王警護の衛兵たちの前も、すり抜けると、制止を振り切って、ジャン王の部屋のドアを押しあけた。
クリスティーヌは、覚悟していた。
一体、どのような女性?
どれほど、麗しい貴婦人?
クリスティーヌは、自分の床に、ジャン王の脚が向かないのは、ジャン王に女性がいるのだと、疑わなかった。
どのような女性がジャン王とベッドを共にしていたとしても、クリスティーヌは、はっきりとその存在を知りたかった。
けれども、クリスティーヌの眼に飛び込んだのは、更には、もっと残酷な知らせだった。
ベッドのジャン王は、驚いた顔で、飛び込んできたクリスティーヌを見つめた。
そして・・・、ジャン王の隣にいたのは、ラ・トゥール伯爵だった。
ふたりとも、何も身に着けてはいなかった。
それから、どのようにして、夜明けを迎えたのか、クリスティーヌは覚えていない。
その日から、ジャン王は、クリスティーヌを一切、見なくなった。
互いに、話すことも無くなった。
愛情がなくとも、せめて違った優しい感情を持つことができたら、と思うことはあった。
けれども、ジャン王が、クリスティーヌを受け入れることは、一切、なかった。
今、その、豪華な深紅の椅子が空虚なままであることで、それらの全ての記憶が、一斉にクリスティーヌを襲って来た。
アレクセイ国王も・・・、アレクセイ国王も、やはり、同じ。
その途端、クリスティーヌの瞳から、涙が溢れた。
「クリスティーヌ様・・・」
その素晴らしい歌声がぴたりと止んだかと思うと、クリスティーヌの瞳から溢れ落ちて止まらない涙に、居合わせた者たちは、顔を見合わせた。
「わたくし・・・」
立ちすくむクリスティーヌを、機転を利かせたトルスタヤ女官長が、あちらへ、とすぐに部屋から誘い出した。
居合わせた者たちの、一体、クリスティーヌ様はどうされたのか、というざわめきは、しばらく収まらなかった。
その音楽会が催されている間、翠玉の間の奥の扉が、あけ放しになったままであることに注意を払うものは、ほとんどなかった。
だから、その扉の後ろで、クリスティーヌの歌声に食い入るように聞き入っていた、アレクセイ国王の存在に気付いた者は、まずなかった。
クリスティーヌは、寝室のソファに倒れ込んだ。
「クリスティーヌ・・・」
フランセットは、おろおろするばかりだった。
トルスタヤ女官長は、侍女に命じて、直ぐクリスティーヌのコルセットを緩めさせた。
そして、少し考えた後、丁重にフランセットに下がってもらった。
フランセットは、まだ涙も乾かない青ざめたクリスティーヌを心配して、拒む様子を見せたが、年上の毅然とした態度の女官長の申し出には、逆らえなかった。
「御気分、少しは良くなりまして?」
「ええ・・・、ありがとう」
女官長は、侍女たちも下がらせ、クリスティーヌの背中をそっとさすった。
女官長の手のひらから、温かな人柄とその優しさが伝わるようで、クリスティーヌの瞳には、新たな涙が、浮かんだ。
「国王陛下は・・・、どうしていらっしゃらなかったのかしら?」
「クリスティーヌ様・・・」
「アレクセイ国王は、わたくしを一体どうしようと言うの?わざわざ、ユースティティアから、連れて来て、このわたくしに、何をさせようというの?一体、どのような目的が・・・」
アレクセイ国王に強く望まれて、ここへ連れて来られたなどとは、夢にも考えていない様子のクリスティーヌに、女官長は、心底驚いた。
その類いまれな美貌と、気品を持ち、グラディウスのアレクセイ国王から、このように贅を尽くした環境を与えられながら、それらが、全て、愛情ではなく、策略によるものと捕えるクリスティーヌが、女官長には不思議だった。
それで、女官長は、話す決心をした。
行き違っているふたつの心を、つなげる決心を。
「クリスティーヌ様は、アレクセイ国王を誤解していらっしゃいます」
「誤解?」
「明け方、国王陛下が、この部屋にそっと足をお運びになっていることを、御存じですか?」
クリスティーヌは、驚いて、女官長の顔を見つめた。
「国王陛下が?」
「さようでございます。国王陛下は・・・、ご自分の器量に、自信を失っていらっしゃいます。十年前、国王陛下は、ある御令嬢と、婚約なさっておりました。けれども、ちょうどその折、病に罹られて・・・、お顔が変わってしまわれました。建前上、婚約破棄は、国王陛下からの仰せでしたが、実際は、御令嬢の方が、怖がってしまわれたのです」
「そのようなことが・・・」
「ですから、クリスティーヌ様が、ご自分の顔を見て、驚いたり、怖がったりするのではないかと、とても心配していらっしゃいます。国王陛下が、クリスティーヌ様の前に姿を現さないのは、そのせいです」
「まさか、そんな・・・」
驚きを隠せないクリスティーヌに、女官長は微笑んで続けた。
「四年前、初めて会った十六歳年下のクリスティーヌ様に、国王陛下はひとめで恋をされたのです。当時、国王陛下から、直接お話を伺った私が申し上げるのです。作り話ではございません」
「では、なぜ、今夜、音楽会にいらっしゃらなかったの?」
「もちろん、いらっしゃっていました」
「どこに?」
「きっと、扉の向こうに」
「扉の向こう?」
「翠玉の間の奥の扉が、ずっと開いたままだったのを御存じですか?一度も、姿はお見せになりませんでしたが、扉の向こうで、一瞬、すっと、影が動きました。きっと、クリスティーヌ様のお声に、聞き入っておられたのでしょう」
クリスティーヌは、にわかには信じられなかった。
けれども、この真摯で誠実な女官長の話すことが、作り話だとも思えなかった。
「クリスティーヌ様を心配させてはいけないと、口止めされていたことですが、国王陛下は、明日からまた、ユースティティアへ戦いに赴かれます。そもそも、今回、陛下が一度、このセヴェロリンスクへお戻りになられたのも、クリスティーヌ様をあのような不自由な環境からお連れして、この王宮で心穏やかにお過ごしいただくためでした」
「そんなこと・・・」
「国王陛下がお留守の間、クリスティーヌ様に決して不自由な思いをさせないよう、私を始め、王宮の者一同、陛下よりきつく申し遣っております」
「女官長、わたくしは、どのようにしたら・・・」
そのクリスティーヌの言葉に、女官長は笑みを漏らした。
「おふたりとも、本当にお心が繊細でいらっしゃるのですわ。真心には真心で、お応えになれば、きっと想いは通じるのだと思います」
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リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
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捨てられた王妃は情熱王子に攫われて
きぬがやあきら
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