神様の許嫁

衣更月

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まれびとの社(二部)

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 昨日、雨が上がってから空気が変わった。
 空が霞んで見えるわけでも、禍々しさがあるわけでもない。体感としては、ねっとりと淀んだ暑熱が薄皮のように口や鼻を覆っている感じ。
 呼吸は出来るけど、心理的な息苦しさがある。
 母と百花は胸を撫でながら不安そうな顔をしていたし、誓志も落ち着きを欠いていたので、私の気のせいじゃないのだろう。
 猛暑に紛れた些細な違和感は、間違いなく得体の知れない何かだ。
「あの時みたいに目に見えて穢れてるわけじゃないですけど、なんか気持ち悪いですね」
 青空の下、次々とテントが張られる通りを眺めながら残念な気持ちが零れてしまう。
 今日は夏祭り本番だ。
 観光地として町屋の風景を残す御幸通りには、夕刻から開催される夏祭りに向けて屋台が慌ただしく作業に勤しんでいる。軒先を借りる形で、外から来た屋台は意外と多い。
 お祭り定番の金魚すくい、綿菓子、焼きとうもろこしを始め、高級感溢れる牛串に本場仕込みを謳い文句にしたフランクフルト。餡子たっぷりの梅ヶ枝餅、小ぶりで可愛いいちご飴と巨峰飴。焼き小籠包やタコスもあるから凄い。かき氷やラムネなんかの屋台がないのは、町内に実店舗があるからだ。
 婦人会の酒饅頭も、この通りのどこかにあるはずだけど、いつにない人熱れに見つけることができない。
 半分以上が準備中だというのに、早くお祭りの雰囲気を楽しもうという町民は多いのだ。
 中でも子供たちは元気で、お小遣いを手に、汗だくになりながら駆け回っている。
 俄かに活気づく通りを見ているだけで楽しくなるのに、粘り気のある空気のせいで楽しさも半減だ。炎天下というのも、不快な空気に拍車をかけている気がする。
 せめて日傘を持ってくれば良かった。
 後悔のため息を吐けば、「だ…だ大丈夫か?」と須久奈様が背中を摩ってくれる。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「き、気持ち悪いんだろ…?」
 もっさりとした前髪が邪魔で表情がよく分からないけど、きっと心配の二文字が浮かぶような顔をしているのだろう。
 日に日に、須久奈様は心配性というか、過保護に拍車をかけている気がする。
「須久奈様。精神的なものなので大丈夫です」
「…わ、分かった…。でも…き気持ち悪くなったらすぐに言え…」
 本当は家から出したくなかった、と言いたげな口調に、私は小さく頷くしかない。
 ここで反論でもしようものなら、問答無用で家に逆戻りだ。準備中でもお祭りの雰囲気は味わいたいので、見学前に帰るのは嫌だ。
 贅沢は言わないので、いちご飴は買って帰りたい。
 そんな私の心情に気付いたのか、鬼頭さんが慌てたように「それにしても一花ちゃんは凄いね」と口を出した。
「望海ちゃんは感じ取れなかったからね。かくいう私もよく分からないんだよ」
 苦笑しながらも、「鬼ゆえの体質かな」と首の後ろを掻く。
 あれから鬼頭さんは…というか、大神さんたちはうちに泊っている。特に鬼頭さんは残り1柱を警戒してか、須久奈様に畏れながらも私について来た。
 呼び方も久瀬さんから一花ちゃんに変更してもらった。
 久瀬家で”久瀬さん”は紛らわしいのだ。
「その体質は羨ましいです」
 鬼になりたいとは思わないけど、穢れへの免疫力は喉から手が出るほどほしいところだ。
「に、人間は弱いな…」
 ぽつり、と呟いた須久奈様の言葉が全てだ。
 神様たちには取るに足らない穢れにでさえ、心身の不調が出てしまうのだから…。
 と、人込みから「一花ちゃん!」と大きな声が飛んできた。
 肩にかけたタオルで汗を拭いながら、元気に手を振っているのは薬袋さんだ。
 ずれた黒渕メガネのブリッジを指で持ち上げ、そわそわと浮足立ってこちらに歩いて来る。興奮に鼻孔を膨らませている理由は、薬袋さんの忙しない視線で分かる。
 薬袋さんも私と同じで、祭りの雰囲気を楽しんでいるのだ。
「薬袋さん。お祭りの様子を見に来たんですか?」
 互いに足を止めると、薬袋さんは「もちろんです!」と大きく頷く。
「祭りとはいえ、夜に出歩くのはリスキーですからな。それでもワクワクする気持ちは抑えられません。やはり、夏祭りは規模など関係なく興奮してしまいますな」
「薬袋さん、夜は出歩かないんですね」
 驚いた、と口にすれば、薬袋さんは「当然です」と渋面を作る。
「これでも過去、数えきれないほど危ない目に遭って来たのですよ」
 嘆息して、メガネを外す。
「これも対策ですな」
 私に向けられたメガネは、レンズを通して見ても背景に歪みがない。
「もしかして伊達ですか?」
「ええ、ええ、そうです。これでも私の視力は1.5なんですな。学生の時に伊達メガネが流行りまして、私もそれなりに色気づいて伊達メガネをかけて気付いたのですよ。レンズ越しで見ると、向こうは襲って来ない…と」
 そういえば、須久奈様と神直日神も、薬袋さんの目がどれほど見えるのか確認するのにメガネが邪魔そうだった。
 これは目から鱗だ。
 ちらり、と隣の須久奈様を見上げれば、口元を袖口で隠しながら、じっと薬袋さんを見下ろしている。
 なんとなく不快そうだ。
「それで、そちらの方は一花ちゃんの知り合いですかな?」
 メガネをかけ直し、薬袋さんの視線が後ろの鬼頭さんへと移る。
 口を半開きに、「大きいですな」としみじみとした感想も忘れない。
「こちらは妖怪研究家の鬼頭新さんです」
 私の紹介に、鬼頭さんはぎょっと目を見開き、薬袋さんは「なんと!」と大きく跳ね上がった。
「き…鬼頭です…。どうも…」
「鬼頭さんは川守村の神事を調べてるんです。神様なのか~…実は妖怪じゃないのか~…とか?」
 我ながらめちゃくちゃだ。
 須久奈様は呆れたように目玉を回し、反対に鬼頭さんはぎゅっと目を瞑って眉間を抓んだ。
 ハイテンションに私の言葉に食いついたのは薬袋さんだけだ。「なんと!なんと!」と興奮を隠しきれない。
「確かに、ありえない話ではないですな。祀るものは何も神様だけとは限らないのですから。京都の首塚大明神は酒呑童子。秋田県の太平山三吉神社総本宮には三吉鬼さんきちおにが祀られていると言われていますが、御祭神は…」
 嬉々として説明し始めた薬袋さんは、悪寒に身を震わせた。
 私も背筋がぞくぞくするし、鬼頭さんに至っては真っ青な顔で一歩後退る。
 須久奈様の機嫌が下降中らしい…。
「秋田の神社がどうかしたんですか?」
「ええ…ええ…。御祭神が大己貴命おおなむちのみこと…これは大国主命の別名ですな。そして、少彦名命すくなひこなのみこと…」
 須久奈様のことだ。
 これは…機嫌が悪くなる神社だわ。
 薬袋さんも口ごもって、二の腕を摩りながらそわそわと周囲を探っている。
「その2柱と鬼が御祭神なんですか?」
「それが面白いことに、三吉鬼とは妖怪でありながら、正体は三吉霊神みよしのおおかみなんですな。三吉霊神が人前に出る時に鬼と偽っていたという秋田の伝承です。どちらも有名な妖怪…鬼ですが、他にも天狗や鵺、ひょうすべなどを祀った神社があります。知られていないものも多いでしょうな。特に廃村となった土地など、なかなか調査が出来ないのです。実に口惜しい…」
 ぎりぎりと歯軋りしながら、ちょっぴり妬みの眼差しを鬼頭さんに向けている。
 本当なら、薬袋さんも川守村に馳せ参じたいに違いない。でも、薬袋さんには資料館開館に向けての作業が山積しているはずだ。こうしてお祭りの雰囲気を味わいに息抜きするくらいが精一杯なのだろう。
 鬼頭さんは首の後ろを掻きながら、大きな図体を小さく丸めて「すみません…」と謝った。
 なぜ謝ったのかは不明だ。
「それで…その、薬袋さん?は、妖怪に精通していると伺っています。川守村の情報が訊けないでしょうか?」
 と、鬼頭さん。
 鬼頭さんは神様だけじゃなくて、誰に対しても低姿勢なんだろうか…?
「もちろんですとも。資料館にご招待しましょう」
 上機嫌な薬袋さんの提案で、私たちは徒歩で10分ほど離れた資料館に場所を移すことにした。
 
 工事中の資料館は相変わらずサウナだ。
 大型扇風機が力強い音と風を吹きつけているけど、むわりと生温い。窓を開けていても日中は、狙いすましたようにぴたりと風が止まるので意味がない。
 何度もハンカチで汗を拭いつつ隣を見れば、須久奈様は汗一つ掻いていない。興味津々と工事の様子を眺めたり、展示物を覗き込んだりしている。鬼頭さんの顔も涼しいものだ。神様だけじゃなく、妖怪も暑さに強いらしい。昨日の滝のような汗が嘘みたいに、今日は1滴も汗が見られない。
 薬袋さんが足を止めたのは、例のパネルの前だ。
 須久奈様と鬼頭さんが、興味深げにパネルを覗き込んだ。
「この写真はどこで入手されたのですか?」と鬼頭さん。
「趣味の一環で徳島県へ旅行した折に、同士と巡り会ったのです。恥ずかしながら、そこで初めて川守村を知りました。なんでも、彼の曾祖母が川守村出身ということで。その時には、私もここの仕事が決まっていたので、何かの縁を感じた次第です」
 趣味の一環…。
 妖怪かな。
「凡その場所は東衛寺から、さらに山を上った場所なのですが、どうも前住ぜんじゅうの話によるとですな」
「あの。ゼンジュウって?名前ですか?」
「前住というのは、前住職のことだよ。住職を退いた方の呼び方だね。お寺は輪番制りんばんせいもあるけど、良くも悪くも代々お寺を守る世襲制が多いよね。東衛寺は恐らく世襲制の方かな?」
 鬼頭さんの言葉に、薬袋さんが大きく頷く。
「ええ、前住は現住職の父親にあたります。ご高齢ですが、川守村の話を聞くことが出来たのです」
「そうですか…。私が訪ねた際は、お盆だったこともあり会えませんでした」
 その東衛寺には、大神さんと日向さんが向かった。
 お盆は終わっても、急に手が空くわけではないらしい。少し待たせてしまうかもしれない旨を伝えられたそうで、朝から出ている。
「今もご健在なのか…。私が訪ねたのは2年ほど前なのですよ。ご健在ならば、今年で90の半ばほどだと思います。お話を聞けた時には、慢性腎不全を患っているということで通院していました」
「そう…ですか」
 鬼頭さんは眉尻を下げて唇を噛んだ。
「その前住の話では、川守村へ行くには登山用具が必要だというのですな。道が荒れているので車では行けない。一応、地方整備局が調査はしているそうですが、かなり苦労しているという話でした」
「なんの調査ですか?」
「川ですな」
 薬袋さんは言って、パネルの笹舟流しの写真を指さした。
「倒木や岩、土砂。それらで川が堰き止められ、自然のダムが出来ていたら一大事ですからな。定期的に調査しないと危険なのです。今は迅速かつコスト削減でドローンによる調査でしょうな」
 薬袋さんは嘆息した後、「あ…」と小さな声を零した。
「そう言えば、前住が奇妙なことを言っていましたな。”あの村に興味本位で行こうとするものではない”と」
 もうその言葉だけで怖い。
「私は運動はからっきしなので、興味本位も何も川守村に行くことは出来ないのですな。登山と聞いて諦めました。怪我をして消防に助け出されるのが関の山。体力には自信があっても、自分の運動神経のなさは自分がよく分かっているのですよ」
 情熱があっても、どうにもならないことはある…の典型だ。
 だからだろうか。薬袋さんが鬼頭さんに向ける眼差しには、鬼頭さんの筋骨隆々の体への恨めしさが含まれているように思う。
「徳島で会った同士は何か言ってませんでしたか?」
 鬼頭さんの問いに、薬袋さんが「概ね、ここに記しているものですが」と考え込む。
「写真もデータとして送ってもらったのですよ」
「その写真のデータ。私にも頂けないでしょうか?」
「構いませんよ」
 薬袋さんは快く頷いて、「では、ちょっと転送しましょう」と鬼頭さんとアドレスを交換し、そのまま1階の事務室へ向かって行った。
「しかし、よく写真なんて残ってたものだね。カメラ自体が珍しかっただろうに」
 鬼頭さんはパネルの前にしゃがみこみ、しげしげと川守村の写真を見据えている。
「ああ、この子。穢れを乗せているように見えるね」
 ちょん、と鬼頭さんが笹舟流しの写真を指さす。
 昔のカメラなので、遠くの被写体ほど画素が粗い。わざとピンボケさせているのか、画素数の問題なのか…。鬼頭さんが指さすのは辛うじておかっぱ頭の女の子と分かる子供が、両手に顔を近づけているものだ。
「水を掬って飲もうとしているような場面ですね」
「たぶん、両手に笹舟を乗せて、息を吹きかけているんじゃないかな?」
「息?」
 意味が分からずに首を傾げれば、鬼頭さんは困惑の表情で須久奈様を仰ぎ見てから私へと視線を移した。
「神事に詳しくはないけど、大祓おおはらえ人形ひとがたの紙人形に、半年間の穢れを息を吹きかけることで乗せていたと思うよ」
「茅の輪くぐりは知ってますけど…人形ひとがたもあるんですね」
「神社による…」と、須久奈様が口を開いた。
「ひ、人形祓ひとがたはらい…と言う。昔…神に贄を捧げていた人柱から派生したものだ」
 急に怖い話になった…。
人形ひとがたは…い、息を吹きかけ、形代かたしろに穢れを移すんだ…。それから…か、川や海に流して、穢れを浄化する…。わ、忘れてた…」
 あっけらかんと須久奈様が言えば、鬼頭さんはすかさずスマホを取り出して人形祓いを検索する。
 鬼頭さんの手元を覗き込めば、画像が幾つもヒットしている。神社の公式サイトで予約もできるみたいだ。違いがあるのかは分からないけど”人形ひとがた流し”というのもある。
 言い方は違うけど、やり方は同じかな。
 ”人形流し”なんて、流しと言いながら画像を見ると紙人形を水につけているものばかりだ。
 イメージと違う。
「これは簡略化したものだろうね」
 鬼頭さんは言って、デジタル事典を開いた。
 そこの説明によると、紙人形に心身の災いや穢れを吹き込み、川や海に流すとある。
「穢れを流すのはメジャーな行為なんですか?」
「どうかな…。あ、でも流し雛があるね!」
「ながしびな?」
 私が首を傾げる横で、一瞬、須久奈様の空気がピリッとした。
 鬼頭さんは気づかなかったのか、無精髭を撫でながら記憶を手繰るように斜め上に視線を馳せた。
「神事については本当に記憶が曖昧なんだけど、確か…妻の出身地で流し雛をやっていたと思うよ」
「妻!?」
 思わず叫んでしまった。
 須久奈様もピリついた空気を霧散させ、小刻みに震えながら鬼頭さんを指さしている。
「お…鬼のくせに…婚姻してるのか?繁殖用のつがい…じゃないのか?」
「明治の頃に。死別しましたが、妻は人間でした」
 他の作業員に聞こえないように、鬼頭さんは小さな声で反論する。
 なぜか須久奈様は額に手を当て、ダメージを負ったようにふらついた。
「その流し雛を奥さんと見ていたんですか?」
「いや。そこの流し雛自体は歴史は古くなかったと思うよ。大戦で焼失した社殿が再建したのを機に…じゃなかったかな?そこは慰霊の流し雛なんだけど、流し雛や人形祓いは、災厄祓いの行事として各地でやってるはずだよ」
 確かね…、と鬼頭さんが呟く。
 曖昧なのは、人形ひとがたにしてもお雛様にしても、鬼には知ることのできない神事だからだろう。
 ネット検索よりも正確なのは、生き字引の須久奈様だけど、なぜかショックの様相で私に抱きついている。バックハグの状態で、私の肩に額をぐりぐりと押し付けている。
 相変わらず良い匂いがするし、心臓が爆発しそうなくらいドキドキするけど、作業員もいるので反応もできない…。
 と、「お待たせしました」と薬袋さんが階段を駆け上って来た。
 滝のような汗をタオルで拭い、「ふぅ」と息を整える。
「画像圧縮で送っております」
「ありがとうございます。早速、戻ってから確認します」
 鬼頭さんは薬袋さんに向き直ると、丁寧に頭を下げた。
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