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ジャレッド団長の苦悩
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古都カスティーロは時計台を中心に形成された町だ。
最初から時計台ありきの町ではないが、領都と成った時に時計台が据えられ発展した。要はシンボル塔として建てられたのが時計台だ。
そこを中心に、カスティーロは東西南北の4地区に分けらている。
公爵家は、東地区にあたる煉瓦作りの最古区画のさらに先。少しばかり町から外れた場所に建つ。
理由はなんのことはない。
敷地が広すぎるのだ。
植樹によって作られた人工林に囲まれた公爵家は、本邸や別邸の他に、使用人用の居住区と衛兵や庭師の休憩所が点在しており、もう1つ町が収まりそうな面積がある。
また片隅には馬場と大厩舎、車庫があり、アヒルなどが住み着いたこともあって、その区画だけ牧歌的な雰囲気を漂わせている。
さらに、東屋は別邸に1つずつに対し、本邸には4つ用意されている。客受けのいい大きな温室の東屋に、母上が好きな池泉庭園の東屋、義姉上が気に入っているハーブ園の東屋、そして俺が案内されたスタンダードなバラ園の東屋だ。
赤、ピンク、白。
小ぶりなバラもあれば、大輪のバラもある。
まぁ、総名のバラとさえ分かれば良いだろう。
そのバラに囲まれた東屋で、苛立つ心を静めながら黙々と紅茶を口に運ぶ。
さっさと飲んで、さっさと帰ろうという思いが透けて見えるのか、兄上の専属執事であるフリオ・オルセンが、飲み終わる傍から素知らぬ顔で手ずから紅茶を追加する。
オルセン家は代々公爵家に仕えている家門だ。
爵位のない平民だが、代々有能な子息を輩出している。
ただ、有能すぎる故か、はたまた忠誠心に篤い故か、仕える主人の意に沿ってしか動かない。
フリオは兄上に忠義を尽くす。
給仕係を下がらせているのが良い証拠だ。
給仕係というのは、食事やお茶を用意する従僕を指す。少数ながらに、見目の良い女性使用人が給仕する貴族家もあるが、公爵家で給仕といえば従僕の仕事だ。
従僕は下級使用人で、下位貴族の末っ子が多い。数年下積みとして従僕を経験し、才能があれば側近に抜擢されることもある。謂わば、出世の登竜門だ。
中には出世欲がなく、従僕が天職だと思う者もいるが、野心家の従僕も少なくない。
そんな貴族出の従僕を、執事ではあるが平民出のフリオが退出を命じたのだ。そもそも執事が給仕を担うなどありえない。
まぁ、平民が代々公爵家の執事を任されているというのも異色なのだろうが…。
オルセン家はイヌ科獣人の血統なので、忠誠心は人一倍強い。しかも、オルセン家に生まれた男児は7才で篩にかけられる。胆の据わった男児のみが、執事見習いの教育を叩き込まれるのだ。
胆が据わった男児である理由は、公爵家の者を前にしても怯んではならないからだ。
結果、通常の給仕係であれば尻込みする場面も、フリオは俺の退路を断つように控えているから腹立たしい。
ティーカップの縁を唇に付けたものの、腹の中がちゃぷちゃぷと波打つような錯覚がして、紅茶を飲むことなくティーカップをソーサーに戻す。
「お口に合いませんでしたでしょうか?」
しれっと宣うフリオに苛立つのは仕方がない。
「まあまあだ」
言ってはみたが、給仕もそつなくこなすフリオの腕前は文句のつけようがない。
幼稚な応戦だったと零れそうになる舌打ちを我慢していれば、「ふっ」と鼻で笑われた。
笑ったのはフリオではなく、正面に座る兄上だ。
弟の目から見ても、怖気が走るほどに整った顔貌をしているが、女の目から見た兄上と弟の目から見た兄上では、”整った顔貌”の意味合いは異なる。
女の目には、宗教画のような清廉とした天使のような美しさに見えるのだという。
対して弟の目には、腹黒さを上手に包み込む仮面のように見える。
記憶する限り、兄上が感情を爆発させたことはない。子供の頃から、一歩引いた場所から周囲を観察するように微笑を浮かべていた。
この微笑というのも、他者から好感が得られるラインを計算して作っている。
下品にならず、大袈裟にならず、不自然にならず。令嬢たちのアルカイックスマイルよりも美しく口角を上げているのだ。それを知った時、兄上を恐ろしく思ったものだ。
貴族の中の貴族。
次期公爵に相応しいというのに、兄上は次期公爵には俺が相応しいと軽口を叩く。
理由は、始祖の血が濃いからだという。
下らん。
「これは何の時間だ?」
「何の時間だと言われてもね。ゴゼットさんを招待したつもりでいたのだけど、本当に”つもり”だったようだ。せっかく庭師が丁寧に造り上げたバラ園を楽しんでもらおうと思ったのに残念だよ」
イヴがいない時点で談話室に変えれば良いだけだ。それをせず、男2人でバラに囲まれて茶を飲むなど、嫌がらせ以外なにものでもない。
「イヴに言付けがあるのなら預かる」
「ジャレッドが小姓の真似をするのか。それはそれで面白いけれど、功労者には礼を尽くしたいじゃないか。手紙や言付けで済ますなんて傲慢な考えではないかな?」
よく言う。
いったいイヴに何の用があるというのか。
気を抜けば唸りそうになる口をきつく結び、手持ち無沙汰に再びティーカップを手にする。
5杯目の紅茶だ。
ここまでくれば兄上と……いや、ティーポットを手に待機しているフリオとの根競べだ。
尿意を催して、というのも逃げの一手にはなるだろう。
恥ではあるが。
一気に飲んでしまおうと紅茶を口につけたのが悪かったのか。はたまた兄上の性格の悪さが露呈しただけなのか。
「ゴゼットさんを娶りたいのだろう?」
ぶはっ、と紅茶が噴き出した。
そんな失態を自分が?と呆ける間もなく、気管に入ったのか咳が止まらなくなった。
兄上は心底嫌そうに顔を顰め、フリオは紅茶浸しになった焼き菓子を片付けるとテーブルの上を拭き始めた。
ピチチチ、と暢気な小鳥の囀りと、バラ園を優雅に舞う蝶だけが安寧としている。
俺だけが無様に地面を見下ろし、ゲホゲホと咳き込む。
なんと情けないことか!
「ジャレッド、子供ではないのだから」
苦い表情で両手を軽く上げ、飛沫を浴びていないか確認する兄上には怒りしかない。
げほっ、と大きく咳き込んだ後、ナプキンで乱暴に口元を拭う。恐らく隊服にも紅茶は飛び散っただろうが、黒地だから目立たない。適当に隊服の上を滑らせるよう拭ったナプキンをフリオに押し付ける。
「下らん世間話なら失礼する!」
「そう怒らない。それに、これは下らなくはないよ?私の目から見ても、ジャレッドはゴゼットさんに好意を抱いている。違うかい?」
浮かしかけた腰を再び落ち着け、苦々しく思いながら無言で頷く。
「その好意が問題なのも分かるかい?」
身分…。
だが、俺は公爵家の次男でしかない。今は公爵家に籍を置いているが、いつでも籍を抜いて平民になれる。実際、大伯母様はビングリー家に嫁いでいる。夫のラドゥは平民の陶芸家だ。
だから不可能ではないのだ。
イヴさえ頷けば…。
「分かっていないようだね」
「身分」
吐き捨てるように言えば、兄上は緩く頭を振る。
「貴族と平民の壁は高そうでいて、些事なことなんだよ。抜け道はいくらでもある。ああ、大伯母様は例外だよ。なにより縁は切れていないしね」
テーブルの上を綺麗に拭い、新しい茶器と茶請けが並べられるのを見ながら、大伯母様の情報を頭から引っ張りだす。
大伯母様がビングリー家に嫁げたのは、今も元気に他国を旅行している祖父母の協力があったからだと聞く。
公爵令嬢として美しく、気高かった大伯母様は、ラドゥを見初めた際、曾祖父…つまり大伯母様の父親に除籍の嘆願、並びに一切の援助を断ち切るように願い、18才で出奔した。
1度口にしたことは反故にしない有言実行の大伯母様は、宣言通りに金銭の援助を乞う手紙は1通として出していない。
とはいえ、曾祖父は言われるがままに娘を捨てるような父親ではなかったらしい。
大伯母様は108年ぶりの先祖返りだ。
誰よりも始祖の血が濃い大伯母様を放置することは出来ないし、貧しい暮らしで苦労させたくもない。そう思った曾祖父は、密やかに若き陶芸家ラドゥ・ビングリーのパトロンとなった。
貧乏ながらに誠実な青年だったビングリーが、陶芸家として帝国中に名を馳せるようになったのは、公爵家の暗躍もあったのだろうが、本人の才能が大きい。
ビングリーの代表作は”ポリーナ”の名を冠する茶器だ。
モチーフは八重咲きのバラで、バラの色は大伯母様の瞳の色をした金色。もしくは、大伯母様が好きな淡いピンク色を好んで使用している。
ポリーナというのも、大伯母様の愛称だ。
聞こえてくる2人の評判は悪くない。
相思相愛。
その2人には子供も孫もいるが、古代種は直系のみにしか生まれない。除籍されれば、例え公爵家に住み続けても古代種の血を引く子供は生まれることはない。
籍を抜いた大伯母様の子は、全員がビングリー家の毛色ばかりなので、他所から見ても公爵家の血が入ってるとは分からないだろう。
「我が家だけではない。皇族も含め、古代種の血統を持つ一族は、血統保護法を遵守しなければならない。昔は他の貴族家と同じく嫡男が家を継ぎ、その他の弟妹は外に出された。けれど、古代種は直系にしか生まれない。そのせいで、今や皇族シルヴァートンと3大公爵家と評されるクロムウェル家、トリオロ公爵家、パラシオス公爵家の4家までに減ってしまった。故に、保護対象として4家の血は管理されている。大伯母様が出奔できたのは男ではなかったことと、規制が出来たばかりで緩かったという時代背景が大きい。曾祖父様も苦渋の決断だったのだろうけど。今は無理だ。私たちも、私の子供も公爵家からは出せない。ジャレッドの子は生き方を選べるが、ジャレッドは平民にはなれないんだよ」
うぐっ、と言葉に詰まる。
そういえば、そのようなことを子供の頃に聞かされていたような気がする。
「ああ、忘れていたという顔だね」
兄上が愉快だと目を細めている。
「大伯母様も本来なら公爵家の離れで過ごすのが良いんだろうけど、108年ぶりの先祖返りだったこともあり、曾祖父様たちは混乱したそうだよ。当時は今以上に貴族と平民の間に高い壁があったからね。一族協議の最中に、大伯母様は出奔。フットワークの軽さに脱帽だ」
兄上は言って、フリオが淹れ直した紅茶を一口啜る。
「強硬手段のようにビングリー家に嫁いでしまったけれど、縁が切れたわけじゃない。私たちが生まれた時には祝いに来てくれたし、ジャレッドが先祖返りかもしれないと思った時は、大伯母様からアドバイスをもらったりしたしね。私たちは先祖返りがよく分からない。番なんて概念は忘れ去られた本能だからね。大伯母様曰く、先祖返りとは言っても始祖のような一目見て、理性を失うような恋に落ちるわけじゃないそうだよ。大伯母様も気になる子がいるからと会い続けて理解したのだとか。理解したら最後、相手以外の異性が目に入らくなるそうだ。お前はどうだい?」
探るような視線に、心臓が震える。
「グレンは先祖返りなぞお伽噺と思っているけど、私と父はジャレッドの気持ちを汲みたいと思っている。それで、お前のゴゼットさんに対する想いはどっちだい?」
普通の者が当たり前に抱く移ろいやすい恋愛感情なのか、代わりのいない唯一無二の恋慕なのか…。
イヴがハノンに帰れば………いや、帰す予定はない。
もし、もしも…他所の男を紹介されたら、俺は受け入れられるだろうか?幸せを祈れるだろうか…。
恐らく、祈れないだろう。
男を殺す可能性もある。
幾つも剣胼胝を潰し、皮の厚くなった両手を見下ろす。
騎士の手だ。
領民を、弱者を守る手だというのに、架空の男を斬った感覚が走り、自嘲に口角が歪む。
「残念だが、先祖返りのお前を手放してはやれない」
「………分かっている」
「ジャレッド。身分は気にしなくていい。こちらでどうにかする。それよりも、古代種を祖とする私たちは、貴賤の壁よりも本能を優先させるべきなのだよ。特に先祖返りはね。きちんとゴゼットさんと向き合いなさい。彼女は必要以上に貴族を恐れている。そんな彼女を公爵家が囲おうとしているんだ。手間を省こうとするんじゃないよ?人族なら猶更、私たちのことを知ってもらいなさい。話し合うことすらせず、別れを生むのは悲劇でしかないからね」
そう言った兄上の目は、どこか憐憫の色が滲んでいた。
最初から時計台ありきの町ではないが、領都と成った時に時計台が据えられ発展した。要はシンボル塔として建てられたのが時計台だ。
そこを中心に、カスティーロは東西南北の4地区に分けらている。
公爵家は、東地区にあたる煉瓦作りの最古区画のさらに先。少しばかり町から外れた場所に建つ。
理由はなんのことはない。
敷地が広すぎるのだ。
植樹によって作られた人工林に囲まれた公爵家は、本邸や別邸の他に、使用人用の居住区と衛兵や庭師の休憩所が点在しており、もう1つ町が収まりそうな面積がある。
また片隅には馬場と大厩舎、車庫があり、アヒルなどが住み着いたこともあって、その区画だけ牧歌的な雰囲気を漂わせている。
さらに、東屋は別邸に1つずつに対し、本邸には4つ用意されている。客受けのいい大きな温室の東屋に、母上が好きな池泉庭園の東屋、義姉上が気に入っているハーブ園の東屋、そして俺が案内されたスタンダードなバラ園の東屋だ。
赤、ピンク、白。
小ぶりなバラもあれば、大輪のバラもある。
まぁ、総名のバラとさえ分かれば良いだろう。
そのバラに囲まれた東屋で、苛立つ心を静めながら黙々と紅茶を口に運ぶ。
さっさと飲んで、さっさと帰ろうという思いが透けて見えるのか、兄上の専属執事であるフリオ・オルセンが、飲み終わる傍から素知らぬ顔で手ずから紅茶を追加する。
オルセン家は代々公爵家に仕えている家門だ。
爵位のない平民だが、代々有能な子息を輩出している。
ただ、有能すぎる故か、はたまた忠誠心に篤い故か、仕える主人の意に沿ってしか動かない。
フリオは兄上に忠義を尽くす。
給仕係を下がらせているのが良い証拠だ。
給仕係というのは、食事やお茶を用意する従僕を指す。少数ながらに、見目の良い女性使用人が給仕する貴族家もあるが、公爵家で給仕といえば従僕の仕事だ。
従僕は下級使用人で、下位貴族の末っ子が多い。数年下積みとして従僕を経験し、才能があれば側近に抜擢されることもある。謂わば、出世の登竜門だ。
中には出世欲がなく、従僕が天職だと思う者もいるが、野心家の従僕も少なくない。
そんな貴族出の従僕を、執事ではあるが平民出のフリオが退出を命じたのだ。そもそも執事が給仕を担うなどありえない。
まぁ、平民が代々公爵家の執事を任されているというのも異色なのだろうが…。
オルセン家はイヌ科獣人の血統なので、忠誠心は人一倍強い。しかも、オルセン家に生まれた男児は7才で篩にかけられる。胆の据わった男児のみが、執事見習いの教育を叩き込まれるのだ。
胆が据わった男児である理由は、公爵家の者を前にしても怯んではならないからだ。
結果、通常の給仕係であれば尻込みする場面も、フリオは俺の退路を断つように控えているから腹立たしい。
ティーカップの縁を唇に付けたものの、腹の中がちゃぷちゃぷと波打つような錯覚がして、紅茶を飲むことなくティーカップをソーサーに戻す。
「お口に合いませんでしたでしょうか?」
しれっと宣うフリオに苛立つのは仕方がない。
「まあまあだ」
言ってはみたが、給仕もそつなくこなすフリオの腕前は文句のつけようがない。
幼稚な応戦だったと零れそうになる舌打ちを我慢していれば、「ふっ」と鼻で笑われた。
笑ったのはフリオではなく、正面に座る兄上だ。
弟の目から見ても、怖気が走るほどに整った顔貌をしているが、女の目から見た兄上と弟の目から見た兄上では、”整った顔貌”の意味合いは異なる。
女の目には、宗教画のような清廉とした天使のような美しさに見えるのだという。
対して弟の目には、腹黒さを上手に包み込む仮面のように見える。
記憶する限り、兄上が感情を爆発させたことはない。子供の頃から、一歩引いた場所から周囲を観察するように微笑を浮かべていた。
この微笑というのも、他者から好感が得られるラインを計算して作っている。
下品にならず、大袈裟にならず、不自然にならず。令嬢たちのアルカイックスマイルよりも美しく口角を上げているのだ。それを知った時、兄上を恐ろしく思ったものだ。
貴族の中の貴族。
次期公爵に相応しいというのに、兄上は次期公爵には俺が相応しいと軽口を叩く。
理由は、始祖の血が濃いからだという。
下らん。
「これは何の時間だ?」
「何の時間だと言われてもね。ゴゼットさんを招待したつもりでいたのだけど、本当に”つもり”だったようだ。せっかく庭師が丁寧に造り上げたバラ園を楽しんでもらおうと思ったのに残念だよ」
イヴがいない時点で談話室に変えれば良いだけだ。それをせず、男2人でバラに囲まれて茶を飲むなど、嫌がらせ以外なにものでもない。
「イヴに言付けがあるのなら預かる」
「ジャレッドが小姓の真似をするのか。それはそれで面白いけれど、功労者には礼を尽くしたいじゃないか。手紙や言付けで済ますなんて傲慢な考えではないかな?」
よく言う。
いったいイヴに何の用があるというのか。
気を抜けば唸りそうになる口をきつく結び、手持ち無沙汰に再びティーカップを手にする。
5杯目の紅茶だ。
ここまでくれば兄上と……いや、ティーポットを手に待機しているフリオとの根競べだ。
尿意を催して、というのも逃げの一手にはなるだろう。
恥ではあるが。
一気に飲んでしまおうと紅茶を口につけたのが悪かったのか。はたまた兄上の性格の悪さが露呈しただけなのか。
「ゴゼットさんを娶りたいのだろう?」
ぶはっ、と紅茶が噴き出した。
そんな失態を自分が?と呆ける間もなく、気管に入ったのか咳が止まらなくなった。
兄上は心底嫌そうに顔を顰め、フリオは紅茶浸しになった焼き菓子を片付けるとテーブルの上を拭き始めた。
ピチチチ、と暢気な小鳥の囀りと、バラ園を優雅に舞う蝶だけが安寧としている。
俺だけが無様に地面を見下ろし、ゲホゲホと咳き込む。
なんと情けないことか!
「ジャレッド、子供ではないのだから」
苦い表情で両手を軽く上げ、飛沫を浴びていないか確認する兄上には怒りしかない。
げほっ、と大きく咳き込んだ後、ナプキンで乱暴に口元を拭う。恐らく隊服にも紅茶は飛び散っただろうが、黒地だから目立たない。適当に隊服の上を滑らせるよう拭ったナプキンをフリオに押し付ける。
「下らん世間話なら失礼する!」
「そう怒らない。それに、これは下らなくはないよ?私の目から見ても、ジャレッドはゴゼットさんに好意を抱いている。違うかい?」
浮かしかけた腰を再び落ち着け、苦々しく思いながら無言で頷く。
「その好意が問題なのも分かるかい?」
身分…。
だが、俺は公爵家の次男でしかない。今は公爵家に籍を置いているが、いつでも籍を抜いて平民になれる。実際、大伯母様はビングリー家に嫁いでいる。夫のラドゥは平民の陶芸家だ。
だから不可能ではないのだ。
イヴさえ頷けば…。
「分かっていないようだね」
「身分」
吐き捨てるように言えば、兄上は緩く頭を振る。
「貴族と平民の壁は高そうでいて、些事なことなんだよ。抜け道はいくらでもある。ああ、大伯母様は例外だよ。なにより縁は切れていないしね」
テーブルの上を綺麗に拭い、新しい茶器と茶請けが並べられるのを見ながら、大伯母様の情報を頭から引っ張りだす。
大伯母様がビングリー家に嫁げたのは、今も元気に他国を旅行している祖父母の協力があったからだと聞く。
公爵令嬢として美しく、気高かった大伯母様は、ラドゥを見初めた際、曾祖父…つまり大伯母様の父親に除籍の嘆願、並びに一切の援助を断ち切るように願い、18才で出奔した。
1度口にしたことは反故にしない有言実行の大伯母様は、宣言通りに金銭の援助を乞う手紙は1通として出していない。
とはいえ、曾祖父は言われるがままに娘を捨てるような父親ではなかったらしい。
大伯母様は108年ぶりの先祖返りだ。
誰よりも始祖の血が濃い大伯母様を放置することは出来ないし、貧しい暮らしで苦労させたくもない。そう思った曾祖父は、密やかに若き陶芸家ラドゥ・ビングリーのパトロンとなった。
貧乏ながらに誠実な青年だったビングリーが、陶芸家として帝国中に名を馳せるようになったのは、公爵家の暗躍もあったのだろうが、本人の才能が大きい。
ビングリーの代表作は”ポリーナ”の名を冠する茶器だ。
モチーフは八重咲きのバラで、バラの色は大伯母様の瞳の色をした金色。もしくは、大伯母様が好きな淡いピンク色を好んで使用している。
ポリーナというのも、大伯母様の愛称だ。
聞こえてくる2人の評判は悪くない。
相思相愛。
その2人には子供も孫もいるが、古代種は直系のみにしか生まれない。除籍されれば、例え公爵家に住み続けても古代種の血を引く子供は生まれることはない。
籍を抜いた大伯母様の子は、全員がビングリー家の毛色ばかりなので、他所から見ても公爵家の血が入ってるとは分からないだろう。
「我が家だけではない。皇族も含め、古代種の血統を持つ一族は、血統保護法を遵守しなければならない。昔は他の貴族家と同じく嫡男が家を継ぎ、その他の弟妹は外に出された。けれど、古代種は直系にしか生まれない。そのせいで、今や皇族シルヴァートンと3大公爵家と評されるクロムウェル家、トリオロ公爵家、パラシオス公爵家の4家までに減ってしまった。故に、保護対象として4家の血は管理されている。大伯母様が出奔できたのは男ではなかったことと、規制が出来たばかりで緩かったという時代背景が大きい。曾祖父様も苦渋の決断だったのだろうけど。今は無理だ。私たちも、私の子供も公爵家からは出せない。ジャレッドの子は生き方を選べるが、ジャレッドは平民にはなれないんだよ」
うぐっ、と言葉に詰まる。
そういえば、そのようなことを子供の頃に聞かされていたような気がする。
「ああ、忘れていたという顔だね」
兄上が愉快だと目を細めている。
「大伯母様も本来なら公爵家の離れで過ごすのが良いんだろうけど、108年ぶりの先祖返りだったこともあり、曾祖父様たちは混乱したそうだよ。当時は今以上に貴族と平民の間に高い壁があったからね。一族協議の最中に、大伯母様は出奔。フットワークの軽さに脱帽だ」
兄上は言って、フリオが淹れ直した紅茶を一口啜る。
「強硬手段のようにビングリー家に嫁いでしまったけれど、縁が切れたわけじゃない。私たちが生まれた時には祝いに来てくれたし、ジャレッドが先祖返りかもしれないと思った時は、大伯母様からアドバイスをもらったりしたしね。私たちは先祖返りがよく分からない。番なんて概念は忘れ去られた本能だからね。大伯母様曰く、先祖返りとは言っても始祖のような一目見て、理性を失うような恋に落ちるわけじゃないそうだよ。大伯母様も気になる子がいるからと会い続けて理解したのだとか。理解したら最後、相手以外の異性が目に入らくなるそうだ。お前はどうだい?」
探るような視線に、心臓が震える。
「グレンは先祖返りなぞお伽噺と思っているけど、私と父はジャレッドの気持ちを汲みたいと思っている。それで、お前のゴゼットさんに対する想いはどっちだい?」
普通の者が当たり前に抱く移ろいやすい恋愛感情なのか、代わりのいない唯一無二の恋慕なのか…。
イヴがハノンに帰れば………いや、帰す予定はない。
もし、もしも…他所の男を紹介されたら、俺は受け入れられるだろうか?幸せを祈れるだろうか…。
恐らく、祈れないだろう。
男を殺す可能性もある。
幾つも剣胼胝を潰し、皮の厚くなった両手を見下ろす。
騎士の手だ。
領民を、弱者を守る手だというのに、架空の男を斬った感覚が走り、自嘲に口角が歪む。
「残念だが、先祖返りのお前を手放してはやれない」
「………分かっている」
「ジャレッド。身分は気にしなくていい。こちらでどうにかする。それよりも、古代種を祖とする私たちは、貴賤の壁よりも本能を優先させるべきなのだよ。特に先祖返りはね。きちんとゴゼットさんと向き合いなさい。彼女は必要以上に貴族を恐れている。そんな彼女を公爵家が囲おうとしているんだ。手間を省こうとするんじゃないよ?人族なら猶更、私たちのことを知ってもらいなさい。話し合うことすらせず、別れを生むのは悲劇でしかないからね」
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ふと目を開けると、私は7歳くらいの女の子の姿になっていた。
きらびやかな装飾が施された部屋に、ふかふかのベット。忠実な使用人に溺愛する両親と兄。
私は戸惑いながら鏡に映る顔に驚愕することになる。
この顔って、マルスティア伯爵令嬢の幼少期じゃない?
私さっきまで確か映画館にいたはずなんだけど、どうして見ていた映画の中の脇役になってしまっているの?!
映画化された漫画の物語の中に転生してしまった女の子が、実はとてつもない魔力を隠し持った裏ボスキャラであることを自覚しないまま、どんどん怪物を倒して無双していくお話。
設定はゆるいです
義弟の婚約者が私の婚約者の番でした
五珠 izumi
ファンタジー
「ー…姉さん…ごめん…」
金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら言った。
自分も辛いだろうに、この優しい義弟は、こんな時にも私を気遣ってくれているのだ。
視界の先には
私の婚約者と義弟の婚約者が見つめ合っている姿があった。
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