成り上がり男爵令嬢の赤い糸

衣更月

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サーラ・マニクレール伯爵令嬢

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「手っ取り早く、バサッと糸を引っこ抜けないのか?」
 こそこそと耳打ちしてくる兄に、私は緩く頭を振る。
 引っこ抜いて問題のない糸であれば、思う存分に引っこ抜く。
 でも、狂気の繭は引っこ抜ける状況ではない。色んな糸に絡みついているので、力づくで引っこ抜けば、諸々の糸まで抜けかねない。
 引っこ抜いた糸は二度と結ばれない。
 まかり間違って、婚約者との糸、家族や友人たちの糸までも引っこ抜ければ、ステープフォード様の貴族としての人生が詰んでしまい兼ねない。
 とてもデリケートな問題だ。
「執着がすごい糸なの。頭部全体を覆う繭みたいになってるんだから。もし必要な糸まで抜けてしまうと大変なことになるわ。だから、面倒でも地道に対処する。急がば回れよ」
「あぁ~~…マジか。レオもヤバのに絡まれてるな」
「兄様も他人事じゃないわよ。女子ウケ良いもの」
 身に覚えがありすぎる兄が、「そういう糸は、ザラが追っ払ってくれているんだろう?」とニヤリと笑う。
 まぁ…そうね。
 家族に迫る危険そうな糸は、面倒になる前に引き千切ってるわね。
 とはいえ、全ての糸が危険なものではないので、慎重に見極める必要がある。
 ただ、兄に飛んでくる糸は枚挙に暇がなく、選別するだけで目がチカチカして仕方ない。見たくないのが本音。令嬢たちも兄を観賞用と割り切っている節があり、一方的なにわか感情の糸が多い。
 女性の前だからと取り繕うこともない打算ありきの兄だもの。
 顔が良くてもちょっとねぇ。
 それでも、兄からピンク色の糸が途絶えたことがないのよ。子供の時から!
 嫌味なくらいモテてるわ。
 今も廊下ですれ違う令嬢たちが、ポポポっと頬を染めて兄とステープフォード様を見送っている。
 私には成り上がり男爵令嬢とか平民令嬢とか嫌味を飛ばすくせにね!
「あ。ステープフォード様、そこを右に曲がって下さい」
 前を歩くステープフォード様に小声で指示を飛ばす。
 ステープフォード様の足には迷いがない。普通は、「本当に?」と疑いの眼差しを向けるのだろうけど、狂気の繭を被った頭部はぶれずに正面だけを向いている。
 最初から目的地を知っているように歩く様は、さすが侯爵家の令息だ。
 廊下ですれ違う令嬢たちが、ピンク色の糸を伸ばすのも理解できるというものだ。
 淡く明るいピンク色の糸に害はない。
 相思相愛なら繋がるし、一方的な思慕であれば一定期間を過ぎれば解けていく。
 恋とは移ろいやすし。
 恋多き器用な令嬢は、兄とステープフォード様へ同時に糸を飛ばしていたりする。
 長い廊下を右に曲がり、左に曲がり、階段を上って下りて、回廊を渡って別棟の教室に行く。
 淑女である私の足が悲鳴を上げ始めた頃、ようやく1人目のストーカーを発見した。
 どさり、と重いバッグを床に下して、行儀悪くしゃがみ込む。
「なんでこんなにうろうろするのよ…」
 小さな悪態に、兄が「今日、僕らの使った教室制覇だな」と答えをくれる。
 つまり、ステープフォード様が本日使用した教室を余すことなく回ったということか…。
 さしずめ、聖地巡礼かな。
 で、最後の授業は芸術だったらしい。
 芸術は選択制で、音楽、絵画、刺繍となる。男子生徒には2択となるけど、ステープフォード様は絵画を選択されたようだ。
 油絵具の臭う教室には、石膏像の置かれた円いテーブルを囲うように椅子とイーゼルが並んでいる。教室の隅には、まだ油絵具が乾いていないのか、果実の描かれたキャンバスが等間隔に並ぶ。
 そのキャンバスの中に、禍々しい糸の発信源がいた。
 焦げ茶色の髪をハーフアップにした令嬢だ。きょろきょろと視線を巡らせ、そろりそろりと歩く様は盗人のようで心証は悪い。この感想は全員一致らしく、ステープフォード様も絵画教室に入ろうとしない。
 というか、扉を開いたまま堂々と物色するとは脱帽だ。
 確かに、こっちの棟は殆ど人気はないけど、それでも罪の意識があれば扉を閉めるものだ。
 彼女には罪の意識はないのだろう。
 じっと彼女を観察していると、彼女は一枚のキャンバスを手に恍惚とした表情を浮かべた。油絵具が乾いていれば、頬擦りしそうな勢いだ。
 持ち帰るのかしら?
 ハラハラドキドキしつつ見守っていると、彼女はキャンバスを裏返した。
 膠を塗ったキャンバスの裏地は、油絵具が滲むことはないけど薄っすらと絵の陰影が浮かぶ。
 令嬢はキャンバスを裏返したままにイーゼルに乗せると、徐にナイフを取り出した。
 小さなナイフは、ペティナイフと言われるものだと思う。うちの料理人が、似通ったナイフで果物を切っていた気がする。
 ナイフをどうするのだろうか…。
 びりびりにキャンバスを破く?というには、裏返す意味が分からない。
 と、彼女は右手の人差し指にナイフを滑らせた。
 貴族令嬢が、躊躇なく肌を傷つけるなんて!
 タラタラと血の滴る指に、ぞくぞくと怖気が走る。兄やステープフォード様もびくりと体を強張らせたから、私と同じ心境なのが分かる。
 なぜ指を切ったのか…。
 その答えはすぐに分かった。
 彼女は血の滴る指で、キャンバスの裏地を触れたのだ。
 ステープフォード様が呆然としている。さらなる証拠を掴もうとしているのか、はたまた恐怖を覚えているのか、動こうとしない。
 彼女の背中越しに、キャンバスの裏地に擦り付けたような血痕が見えた。
 歪に走る線は、サーラ・マニクレールという署名だ。
 血文字…!
 ぞぞぞぞ、と恐怖に肌が粟立つ。
 ステープフォード様の背中を押した私は悪くない。
 だって、これはステープフォード様が解決すべき事柄だもの!
「おいっ」と非難の声はまるっと無視だ。ステープフォード様も意を決したように教室に踏み込み、今度は令嬢に向かって「おい!」と憤怒の声を張り上げた。
「そこで何をしている!そのキャンバスは俺のじゃないのか!」
 一人称が俺になっているくらいには、ステープフォード様は混乱しているらしい。
 そんな混乱只中のステープフォード様に、「レオポルト様!」と令嬢が驚きながら振り向いた。
 顔立ちは愛らしい令嬢だ。
 榛色の瞳を丸々と瞠りながら、見つかってしまった悪戯に首を窄めたのは一瞬。すぐにステープフォード様を見つめる瞳から罪悪感は零れ落ちた。
 頬をバラ色に染め、「ようやくお会いできました」と笑った。
 恋する乙女というには、ちょっと目がイってる。
「ヤバいな」と、兄が頭を突く。
 私と兄は、修羅場に巻き込まれないように扉の陰に潜み中だ。うっかり私の姿が見えようものなら、いらぬ嫉妬のターゲットになりかねない。
「わたくし、マニクレール伯爵家が次女のサーラと申します」
 うっとりと、ハートが飛び交いそうな猫撫で声が怖い。
 ちらり、とステープフォード様を見ると、令嬢の顔や名前を認識したことで拒絶反応が糸へと伝わった。狂気じみた彩りの糸が、じわじわと闇色へと変色を始めている。
 早々に糸が切れないのは、彼女の執着が強固なためだ。
 ステープフォード様を搦め捕ろうとする糸の執念が凄まじい。
「ナイフを捨てろ。早く!」
 声を荒げた命令にも、「うふふ」と笑みが重なる。
 カチャン、とナイフが落ちた音に、少しだけほっとした。
 逆上した令嬢が無理心中…という胸糞劇を見たことがあるので尚更だ。
「ああ、レオポルト様!見てくださいませ!恋のおまじない。これでわたくたち、相思相愛ですわ!」
 うふふ、と粘っこい笑みが聞こえてきて、兄がシャツの袖を捲りあげた。
「見ろよ。鳥肌」
 兄はおどけながら言って、「先生呼んでくるわ」と駆け足で去って行った。
 こんな恐怖の現場に置いてけぼりは酷い…。
「もしかして…お前か?」
 ステープフォード様が何かに気が付いたらしい。
 恐怖に声が上擦っているわ。
「その髪の色!俺のロッカーに髪の毛を編み込んだ人形を置いたのはお前か!!」
 ひょえぇ~!!
「恋のおまじないですわ!気に入って下さいましたか?レオポルト様。わたくしたちの相性はとてもーーー」
「名前を呼ぶな!許可した覚えはない!」
 ばっさり、と令嬢の言葉を断ち切った。
「なぜですか?わたくしたちは、いずれ結婚しますのよ?夫のことを家名では呼びませんわ。わたくしのことも、是非サーラと」
 怖い怖い怖い!
「可哀想なレオポルト様。愛のない婚約者に縛られて…」
「黙れ!もう喋るな。不愉快だ」
 頭が痛い、とでも言いたげな口調で、額を抑えようとした手がずぼりと繭に沈む。
 会話が通じないどころか常識がない人を相手にするのは、ごりごりと精神が削られることだろう。
 兄が先生と警備員を連れてくるまで、「もぉ、レオポルト様~」という媚びた声を聞き続けるはめになった。
 ちなみに令嬢の実家は、侯爵家からの抗議を受け、精神的苦痛を受けたとして慰謝料を請求されたらしい。令嬢は学園を退学。どこぞの病院に強制入院させられたと聞いた。
 精神病院かな?
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