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温と冷
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梅雨入り前、少しの間だけの、爽やかな気候の日だった。照り返す日差しからは隠れる術もなく、私は上履きのまま土の上を走り抜けた。誰の目にも留まらないよう願いながら。衣替えの日を待ちわびるばかりで、そんな黒い背中を太陽が炙る。暑い。だから日光は苦手だった。でもこの場所へは、どうしてもあそこを通らなければたどり着けないのだ。
特別教室棟の、外階段。校舎内の各階に通じる扉はあるものの常時施錠されており、ここが使われるのは放課後、吹奏楽部がパート練習をする時だけ。昼休みの今は、三階に続く踊り場を過ぎてすぐ、折り返しの一段目に座ればどこからも死角になって、静かな、孤立したプライベート空間になる。私はここで、一つ大きな呼吸を置いた。ランチボックスの蓋を開ける。
あの翌日から、有紗たちと昼食を囲むことなどできるはずも無く、さらに派手に罪の烙印を押されてしまったものだから、クラスの女子生徒は誰も彼もそんないわくつきの移民から目を逸らした。悲しいけれど、分かっていたこと。毎朝、制服を着るたびに腹痛に苛まれても、胃が喉を押さえ付けても、生徒会の仕事もあるので無責任には休めない。何より、近づけなくていい、遠くからでいいから、また光を見ていたい。だから登校は欠かさない。そうやって這い上がる。少しずつ登っていくしかないのだ。
でも、良かったこともある。ここで独り過ごす時間は思うよりずっと、楽だということ。
「こんなことならもっと早く…」
いや、最初から、ここでこうしているべきだった。追われて出たのと自ら出たのとでは結果は格段に違う。少なくともこんなことには。
そんな後の祭りに、意味も無い思いを巡らせるくらいなら、もっと気を張っていれば良かったのに。
「…やっぱり」
だから頭上から声を落とされるまで、何も気づけなかったのだ。
「えっ?」
見上げた拍子に、折っていた両膝を反射的に伸ばす。その上に置いていたお弁当と中身が、それぞれ遅れてついてきた。だって、そこにいるのは。
「兼行さんやん」
私は目を見張った。どうして、こんな、薄暗いところに。
少し上下する肩と、薄く開いた唇が、彼が走ってここまで来たことを知らせる。赤っぽい髪はぼんやり墨をかぶせたように陰に沈んで、はぐれた風にてっぺんだけがそわっと揺らめく。
そう、折り返しの向こうから顔をのぞかせたのは、有名人の千早くんだったから。
「な、なんで…?」
こんな場所なんか到底似合わない。もっと、明るい場所で仲間と、光を振り撒いているべきなのに。
どぎまぎと慌てる私に遠慮がちな微笑を見せながらも、彼は一瞬だけ空を遮って隣に腰を下ろす。そして、ふうと吐いた息の大きさに、私の心臓もどくん、と返事をする。
二人並んで、小さな四角い青空を見ながら、彼はぽつりと言った。
「…ここに走って行くのが、見えたけん」
見えたから、追ってきたというのだろうか。わざわざここまで、なぜ。それを尋ねたくて、綺麗な横顔へ少しずつ小刻みに、視線を投げてもそれ以上は答えなかった。
「…あれから、あそこ通らんくなったやん」
家庭科の移動教室のことを言っているのはすぐに分かった。意識的に遠回りをして、会わないようにしていたからだ。それが私のためでもあり、彼の、ためでもある。
「…うん」
雲がゆっくり流れていく。追い越しもせず、追い越されもせず。
「…俺、毎週待っとったとに」
箸を持つ手に、瞬間的に力が入る。パチ、と控えめな音が響いた。やっぱり偶然じゃなかったのだ。待ってくれているんじゃないかって、どこかで考えてはみたものの、私はその度にひどい自惚れだとかぶりを振っていた。
「…毎週?」
「うん」
「あの、…ごめんね」
今さらながら、狭い階段に並んで座っていることに、胸の音もいい加減騒がしくなってきた。思い違いではなかったと、自覚したせいかもしれない。すぐそこに触れそうな彼の、体温が、横から私をじわっと焼きつける。そんなわけ、無いのに。干上がりそうで私はもう、顔なんて見られなくて、食べ掛けのお弁当に視線を吸わせるしか、できなくなっていた。
「…やけん、埋め合わせ」
熱くて、
「え?」
渇いて、
「急いで追いかけてきたっちゃけん、昼飯食っとらんと」
心臓が活発に鳴るほどに、鈍くなる思考。
「…ちょうだい、それ」
ランチボックスはにわかに戦慄した。驚いた私の全身がそうさせたことを、私は知る間も無い。
「えっ?」
つい、見た。真意を確かめたくて彼の横顔を、でももうこちらを向いていて、だから横顔ではなくて、引き合うようにしっかり、真っ直ぐ。私たちは互いの瞳を交換するくらいに数秒、見つめ合った。
前のときとは違う。渡り廊下のときより近く。こんな、暗くて狭くて、風も寄り付かないようなここで。ああそうか、私を焼くのは。前に感じた烈火の正体は。体温でも、赤く透ける髪でも無くて、
「え、しか言わんやん、さっきから」
直情なこの瞳。
整った顔立ちに固まってしまった私より早く、彼は目を逸らす。ちょっぴり尖らせた唇はまたそっぽを向いて、不機嫌そうに眉は背を反らす。
「ごめん…ね」
追いかけるように私も少しだけ乗り出すとすぐにまた、その瞳に捕まった。
「俺、エビフライがいい」
頬に少し、赤みが差したように見えるのは、きっと気のせい。ちゃんと確認しようにも、
「でも、これ食べ掛け…」
「いいから。ちょうだい」
ぽすっと、へそを曲げた横顔は腕に突っ込んでしまった。上から覗かせた目だけでねだってくる。犬がすねたときの仕草に似ているのが、ちょっと可愛いなんて、思っているのが知れたらきっともっと、怒らせてしまうだろうな。
「…どうぞ」
どうしたら良いか、わたわた両手を踊らせた挙げ句、ランチボックスごと差し出してみた。もちろん箸を余分に持ってくることなどしないので、手で、食べるのだろうか。
「そうやんねー…」
「え?」
「いや、なんもないよ。いただきます」
ちくりと一瞬、物言いたげな目が私を刺したけど、気を取り直してくれたらしい。そんなところも、そっくりだ。
唐突に、学ランがセーラー服をかすめた。はっと上擦る。ゼロ距離の肩、上からお弁当を覗き込むようにするから、彼の髪が目の前に迫る。近い。りんごソーダみたいな匂いがした。たぶん、ヘアワックス。爽やかなのに甘さを纏って、私の空気を占領していく。女の子とは違う香りに、攻め込まれて、くらっとする。体温が溢れる。この息を吐くだけでも、ぶつかりそう。
だから、彼がおかずを指で摘まんで、顎から上向かせた口の中に放り込むまで、私は一ミリも動けなかった。
「わ、うま!俺エビフライって、一番好きっちゃんねー」
彼は笑った。ぱっと色の粒が弾けるように、彩り熱く、顔を思い切り綻ばせた。鮮やかすぎて、目を細めてしまうほど。以前から知っていたパステルブルーの笑顔とは全然違う、少しやんちゃそうな、つい誘われる七色の笑顔。太陽が笑うときっと、こんな感じ。
ふわっとして、温かい何かにくるまれながら、全身に付いて固まった緊張が少しずつとけていく。だから私も久しぶりに柔らいだ顔をした。
「そうなの?…なら良かった」
もひもひと良く動く頬を見ていると、彼の眩しいくらいの生命力を感じる。日陰にいるのに、日向にいるよう。それでいて居心地は悪くないのだから不思議だった。彼自身がお日さまなのかもしれないと思ったら、日光の下も少しは好きになれそうな気がした。
「良かったらおにぎりもどうぞ」
ぽかぽかと、
「いやそこまではいいよ、悪いけん」
染み込んでいく、
「いいの。どうせ食べきれないから」
これが、三度目の魔法なのね。
「そうなん?じゃあちょうだい」
誰かとお弁当を食べる、今日は食べられたと言ったほうが正しいのかもしれないけれど、それがこんなに心満ちるものだなんて、忘れていた。卵焼きは、卵焼きの味がして、ナポリタンは、ナポリタンの味がする。こんなに、安らぐ。このお日さまが私に、取り戻してくれたこと。
本物の太陽は折り返し地点を過ぎて、ゆっくりと下っていく。もう、午後なのだ。あと少し、頑張らないと。キリ、とお腹に、忘れていた痛みが降りてくる。教室のことを考えると心が体を責める。その波と、チャイムのテンポはシンクロする。
彼がおにぎりを食べ終えるのを見届けてから、私はまだ中身の残るランチボックスを片付ける。
「…じゃあ、私戻るね」
「うん…兼行さん」
親指についたごはん粒を噛むように口に含んでから彼は、立ち上がった私を、斜め後ろから見上げる。その瞳が僅かに揺れると、ふっと空気を変えた。
「また来てもいい?」
そこにいるのは、甘える犬でも、あたたかなお日さまでも無かった。くるりと変わる彼の表情、雰囲気、瞳。尋ねているのに、有無を言わせない真っ直ぐな強さがあった。どうしてだろう。その答えは、渡り廊下で呼び止められた、あの時にある気がして、ならない。
「いつもここで食べとうっちゃろ」
「…うん」
「じゃあ、また明日」
私の返事を待つまでもなく彼は、大きく立ち上がる。そうしたら光に染まった。静かに揺らぐ髪はやっぱり赤く、そのまま私を軸にひらりと回って、階段を駆け降りて行ってしまった。私の瞳にはまだ、彼の翻した学ランの残像と、強い温度。
「また、明日…」
段を蹴る音が遠ざかっていく。影に縫い付けられたようにまだ動かない足に一人、呟きながら、何と言ったら良いかすぐには分からない気持ちが立ち込める。嬉しい、怖い、楽しみ、不安。チャイムが鳴り終わる頃、私ははっとした。背中をぞわぞわと撫ぜる冷たい正体に気づく。
後ろめたいのだ。今日のことや、明日のことが、有紗に知られたら。自分に正直になったとき、ここに仕舞い込んだものがどうなるのだろうかと。暗い闇の声を聞いた気がして、ただ歩いているだけなのに息が上がるから、たまらず私は走り出した。
特別教室棟の、外階段。校舎内の各階に通じる扉はあるものの常時施錠されており、ここが使われるのは放課後、吹奏楽部がパート練習をする時だけ。昼休みの今は、三階に続く踊り場を過ぎてすぐ、折り返しの一段目に座ればどこからも死角になって、静かな、孤立したプライベート空間になる。私はここで、一つ大きな呼吸を置いた。ランチボックスの蓋を開ける。
あの翌日から、有紗たちと昼食を囲むことなどできるはずも無く、さらに派手に罪の烙印を押されてしまったものだから、クラスの女子生徒は誰も彼もそんないわくつきの移民から目を逸らした。悲しいけれど、分かっていたこと。毎朝、制服を着るたびに腹痛に苛まれても、胃が喉を押さえ付けても、生徒会の仕事もあるので無責任には休めない。何より、近づけなくていい、遠くからでいいから、また光を見ていたい。だから登校は欠かさない。そうやって這い上がる。少しずつ登っていくしかないのだ。
でも、良かったこともある。ここで独り過ごす時間は思うよりずっと、楽だということ。
「こんなことならもっと早く…」
いや、最初から、ここでこうしているべきだった。追われて出たのと自ら出たのとでは結果は格段に違う。少なくともこんなことには。
そんな後の祭りに、意味も無い思いを巡らせるくらいなら、もっと気を張っていれば良かったのに。
「…やっぱり」
だから頭上から声を落とされるまで、何も気づけなかったのだ。
「えっ?」
見上げた拍子に、折っていた両膝を反射的に伸ばす。その上に置いていたお弁当と中身が、それぞれ遅れてついてきた。だって、そこにいるのは。
「兼行さんやん」
私は目を見張った。どうして、こんな、薄暗いところに。
少し上下する肩と、薄く開いた唇が、彼が走ってここまで来たことを知らせる。赤っぽい髪はぼんやり墨をかぶせたように陰に沈んで、はぐれた風にてっぺんだけがそわっと揺らめく。
そう、折り返しの向こうから顔をのぞかせたのは、有名人の千早くんだったから。
「な、なんで…?」
こんな場所なんか到底似合わない。もっと、明るい場所で仲間と、光を振り撒いているべきなのに。
どぎまぎと慌てる私に遠慮がちな微笑を見せながらも、彼は一瞬だけ空を遮って隣に腰を下ろす。そして、ふうと吐いた息の大きさに、私の心臓もどくん、と返事をする。
二人並んで、小さな四角い青空を見ながら、彼はぽつりと言った。
「…ここに走って行くのが、見えたけん」
見えたから、追ってきたというのだろうか。わざわざここまで、なぜ。それを尋ねたくて、綺麗な横顔へ少しずつ小刻みに、視線を投げてもそれ以上は答えなかった。
「…あれから、あそこ通らんくなったやん」
家庭科の移動教室のことを言っているのはすぐに分かった。意識的に遠回りをして、会わないようにしていたからだ。それが私のためでもあり、彼の、ためでもある。
「…うん」
雲がゆっくり流れていく。追い越しもせず、追い越されもせず。
「…俺、毎週待っとったとに」
箸を持つ手に、瞬間的に力が入る。パチ、と控えめな音が響いた。やっぱり偶然じゃなかったのだ。待ってくれているんじゃないかって、どこかで考えてはみたものの、私はその度にひどい自惚れだとかぶりを振っていた。
「…毎週?」
「うん」
「あの、…ごめんね」
今さらながら、狭い階段に並んで座っていることに、胸の音もいい加減騒がしくなってきた。思い違いではなかったと、自覚したせいかもしれない。すぐそこに触れそうな彼の、体温が、横から私をじわっと焼きつける。そんなわけ、無いのに。干上がりそうで私はもう、顔なんて見られなくて、食べ掛けのお弁当に視線を吸わせるしか、できなくなっていた。
「…やけん、埋め合わせ」
熱くて、
「え?」
渇いて、
「急いで追いかけてきたっちゃけん、昼飯食っとらんと」
心臓が活発に鳴るほどに、鈍くなる思考。
「…ちょうだい、それ」
ランチボックスはにわかに戦慄した。驚いた私の全身がそうさせたことを、私は知る間も無い。
「えっ?」
つい、見た。真意を確かめたくて彼の横顔を、でももうこちらを向いていて、だから横顔ではなくて、引き合うようにしっかり、真っ直ぐ。私たちは互いの瞳を交換するくらいに数秒、見つめ合った。
前のときとは違う。渡り廊下のときより近く。こんな、暗くて狭くて、風も寄り付かないようなここで。ああそうか、私を焼くのは。前に感じた烈火の正体は。体温でも、赤く透ける髪でも無くて、
「え、しか言わんやん、さっきから」
直情なこの瞳。
整った顔立ちに固まってしまった私より早く、彼は目を逸らす。ちょっぴり尖らせた唇はまたそっぽを向いて、不機嫌そうに眉は背を反らす。
「ごめん…ね」
追いかけるように私も少しだけ乗り出すとすぐにまた、その瞳に捕まった。
「俺、エビフライがいい」
頬に少し、赤みが差したように見えるのは、きっと気のせい。ちゃんと確認しようにも、
「でも、これ食べ掛け…」
「いいから。ちょうだい」
ぽすっと、へそを曲げた横顔は腕に突っ込んでしまった。上から覗かせた目だけでねだってくる。犬がすねたときの仕草に似ているのが、ちょっと可愛いなんて、思っているのが知れたらきっともっと、怒らせてしまうだろうな。
「…どうぞ」
どうしたら良いか、わたわた両手を踊らせた挙げ句、ランチボックスごと差し出してみた。もちろん箸を余分に持ってくることなどしないので、手で、食べるのだろうか。
「そうやんねー…」
「え?」
「いや、なんもないよ。いただきます」
ちくりと一瞬、物言いたげな目が私を刺したけど、気を取り直してくれたらしい。そんなところも、そっくりだ。
唐突に、学ランがセーラー服をかすめた。はっと上擦る。ゼロ距離の肩、上からお弁当を覗き込むようにするから、彼の髪が目の前に迫る。近い。りんごソーダみたいな匂いがした。たぶん、ヘアワックス。爽やかなのに甘さを纏って、私の空気を占領していく。女の子とは違う香りに、攻め込まれて、くらっとする。体温が溢れる。この息を吐くだけでも、ぶつかりそう。
だから、彼がおかずを指で摘まんで、顎から上向かせた口の中に放り込むまで、私は一ミリも動けなかった。
「わ、うま!俺エビフライって、一番好きっちゃんねー」
彼は笑った。ぱっと色の粒が弾けるように、彩り熱く、顔を思い切り綻ばせた。鮮やかすぎて、目を細めてしまうほど。以前から知っていたパステルブルーの笑顔とは全然違う、少しやんちゃそうな、つい誘われる七色の笑顔。太陽が笑うときっと、こんな感じ。
ふわっとして、温かい何かにくるまれながら、全身に付いて固まった緊張が少しずつとけていく。だから私も久しぶりに柔らいだ顔をした。
「そうなの?…なら良かった」
もひもひと良く動く頬を見ていると、彼の眩しいくらいの生命力を感じる。日陰にいるのに、日向にいるよう。それでいて居心地は悪くないのだから不思議だった。彼自身がお日さまなのかもしれないと思ったら、日光の下も少しは好きになれそうな気がした。
「良かったらおにぎりもどうぞ」
ぽかぽかと、
「いやそこまではいいよ、悪いけん」
染み込んでいく、
「いいの。どうせ食べきれないから」
これが、三度目の魔法なのね。
「そうなん?じゃあちょうだい」
誰かとお弁当を食べる、今日は食べられたと言ったほうが正しいのかもしれないけれど、それがこんなに心満ちるものだなんて、忘れていた。卵焼きは、卵焼きの味がして、ナポリタンは、ナポリタンの味がする。こんなに、安らぐ。このお日さまが私に、取り戻してくれたこと。
本物の太陽は折り返し地点を過ぎて、ゆっくりと下っていく。もう、午後なのだ。あと少し、頑張らないと。キリ、とお腹に、忘れていた痛みが降りてくる。教室のことを考えると心が体を責める。その波と、チャイムのテンポはシンクロする。
彼がおにぎりを食べ終えるのを見届けてから、私はまだ中身の残るランチボックスを片付ける。
「…じゃあ、私戻るね」
「うん…兼行さん」
親指についたごはん粒を噛むように口に含んでから彼は、立ち上がった私を、斜め後ろから見上げる。その瞳が僅かに揺れると、ふっと空気を変えた。
「また来てもいい?」
そこにいるのは、甘える犬でも、あたたかなお日さまでも無かった。くるりと変わる彼の表情、雰囲気、瞳。尋ねているのに、有無を言わせない真っ直ぐな強さがあった。どうしてだろう。その答えは、渡り廊下で呼び止められた、あの時にある気がして、ならない。
「いつもここで食べとうっちゃろ」
「…うん」
「じゃあ、また明日」
私の返事を待つまでもなく彼は、大きく立ち上がる。そうしたら光に染まった。静かに揺らぐ髪はやっぱり赤く、そのまま私を軸にひらりと回って、階段を駆け降りて行ってしまった。私の瞳にはまだ、彼の翻した学ランの残像と、強い温度。
「また、明日…」
段を蹴る音が遠ざかっていく。影に縫い付けられたようにまだ動かない足に一人、呟きながら、何と言ったら良いかすぐには分からない気持ちが立ち込める。嬉しい、怖い、楽しみ、不安。チャイムが鳴り終わる頃、私ははっとした。背中をぞわぞわと撫ぜる冷たい正体に気づく。
後ろめたいのだ。今日のことや、明日のことが、有紗に知られたら。自分に正直になったとき、ここに仕舞い込んだものがどうなるのだろうかと。暗い闇の声を聞いた気がして、ただ歩いているだけなのに息が上がるから、たまらず私は走り出した。
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