まま恋。

美木いち佳

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ガラスの靴

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 ――シンデレラはいいなぁ。

 お祭りみたいに賑やかな休み時間。原因はあれだ。こっちのクラスにまで溢れてくるくらいに、廊下を埋め尽くす人、人、人。最近ではすっかりお馴染みのこの光景に、教室にいる誰も、もう見向きもしていない。
 そう、私以外は。
 窓の外のほとんどを塗りつぶす、高く抜ける青空と、その人だかりとを交互に見ながら、今日も自分の席でぼうっと、そんなことを考えていた。

 ――確かにね、お母さんもお父さんもお星さまになってしまって、うちひしがれたけど。継母たちに虐められて灰を被る日々は辛かったけど。最後にはちゃあんと、王子様に見つけてもらえて。きっとそれからは、大好きな人といつまでも一緒に、とっても幸せに暮らしたのだろうから。満ちて、いたのだろうから。

 小さな頃、お母さんが読んでくれたグリム童話。高校生になった今になって、私がこうしてよく思い馳せるようになったのは、ひとつはこの、隣のクラスの前にできた人だかり――もっと言えば、それの核である彼のせいだった。
「蓮未くーん!」
「王子ー!こっち向いて!」
 一際甲高い嬌声があがる。きっと、蓮未くんが笑いかけたのだ。いいなぁ、私も、見たいなぁ。でも、あの大勢の人の中に出掛けていく勇気は、私にはなかった。

 蓮未鷹矢(はすみ・たかや)くんは、夏休み明けにこの見鐘台高校へ転校してきた、すごく綺麗な男の子。ドイツ人のお母さんを持つ、ハーフらしい。
 そよ風にも舞い上がる朽葉色の細い髪、日焼けを知らない肌に滲み立つ天然のノーズシャドウ、くっきりと彫られた二重のラインにアーモンド型の大きな両瞳はほんのり明るみ、程よくふっくりとした下唇にはいつも、高校生離れした微かな大人の魅力を連れている。そんな異国の装いで整えられた顔立ちに、勉強もスポーツもできるという、絵に描いたように完璧な人。さらに人当たりまで良いものだから、一瞬にして学校の王子様になった。
 あの人だかりにだって、学年の垣根をこえて、二年生や三年生の人たちも混じっている。最初の頃など、先生たちまで何かと託つけて彼を見に来ていた。休み時間のたびに、あれだけの人数が教室の中へと押し寄せるから、転校初日にはすぐ、「クラス関係者以外立ち入り禁止」のお触れが出たほどだ。

「もーひと月も経つってのに、王子人気は衰えることを知らないね」
「紗奈ちゃん…」
 黒い髪をショートカットにした、すらっと背の高い彼女は、私の大切なお友達の一人、川崎紗奈(かわさき・さな)ちゃん。賑やかな声に吸い寄せられるように廊下を眺めていた私の机に、彼女はすっと手を付いて身を乗り出す。
「…まるでガラスの靴の奪い合いだよ…」
「え?何それ?」
 シンデレラに出てくる王子様は、片っぽのガラスの靴を頼りに町中の女の人の元を訪れ、ヒロインを探し出した。
 でも、見鐘台の王子様はもちろん、一軒一軒お宅を訪ねてまわることはしないので、それを求めて集まった大勢の女の子たちの上を、ガラスの靴が跳んだり跳ねたりしているわけだ。
「良く分かんないけど、遥は行かなくていーの?」
「わ、私じゃとても…」
「そーねー。うちの部の怖ーい先輩の姿も見えるし」
 そう言って廊下にピシッと深く礼をする。紗奈ちゃんはバレー部に所属している。女子の部活の中では最も厳しいという噂で、それは練習内容もさることながら、先輩との上下関係が一番の理由だった。
「余計無理ぃー」
「なになにっ?また王子の話っ?」
「美冬ちゃーん…」 
 私が戦慄して突っ伏すと、彼女は真後ろの席から弾むように話に加わった。この子も私の大事なもう一人のお友達、乾美冬(いぬい・みふゆ)ちゃん。大胆に斜めにカットした前髪から覗く、お茶目な眉毛が楽しそうに跳ねる。
「王子ねっ、この前やっと一瞬だけちらっと見れたんだけど、それだけでもうインスピレーションがっ!」
 美冬ちゃんはお気に入りのスケッチブックを得意気にパラパラめくってみせる。被服部の彼女は、こうやって色々な人をモデルにアイデアを描き留めているのだ。
「うわー。王子だけでひとつ、スケブ終わりそうじゃん」
「そっ。遥に勝るとも劣らぬキラキラの宝庫っ!」
 そして何冊ものスケッチブックを取り出す。いつも持ち歩いているらしい。表紙にはかわいくデフォルメされた文字で、「HARUKA」。それもvol.1からいくつまであるのやら、ずらりと。
「前から思ってたけど、なんで私…?」
 この間見せてもらったときよりも、一冊増えている気がする。美冬ちゃんの制作意欲に貢献できているのならとても嬉しいけど、ちょっと、恥ずかしい。
「あたしは分かるけどー?」
「遥は自分の魅力に気付いてないねっ!」
「うん…?」
 キーンコーン…。チャイムが鳴ると、蜘蛛の子を散らしたように廊下の女の子は捌けていく。そしてやってくる、静かで退屈な授業の時間。
「次…あー数学じゃーん」
「それならまた、遥の後ろ姿で捗るわーっと」
 「また」ということは、さっきの英語の時間も、もしかして。ガラッと勢いよく教室の戸が滑ると、数学の益江先生がキビキビと教壇に向かう。そんな中、おそるおそる後ろを振り返る。見ている。道理で、と思った。授業中、なんだか落ち着かないことがあるのはそのせいか。
 美冬ちゃんの輝く視線が、背中で弾けて星屑になるのを刺さるくらいに感じながら、私は苦手な数学の教科書を開くのだった。



 放課後は、打って変わってとても静かだった。あの人だかりが無いだけでこんなにも。
 大半の生徒はここからが本番。ホームルーム終了の挨拶とともに、紗奈ちゃんは一目散に体育館へと走っていく。
「じゃね!遥!美冬!」
「ばいばい!」
「バイバーイっ!」
 バレー部は、さっきも言った通りとても厳しい。特に一年生は、誰よりも早く着いて、ネットを張り、ボールをスタンバイし、自主的なアップをしながら先輩の到着を待たなければならないらしい。だから時間との勝負なのだ。
 短い黒髪が上下するのを見送ると、美冬ちゃんも立ち上がる。
「私も今日は部活の日ーっ!」
 ざかざかと、大量のスケッチブックを専用のバッグに束ね入れながら、美冬ちゃんは首を傾けた。
「そう言えば、王子はまだ無所属みたいだね?」
「そうなの?」
 初めて会ったときも、会話なんて一言か二言くらいだった。あの時はまさか、隣のクラスへの転校生だとは思いもしなかったし。それすらも、彼の顔のあまりにファンタジーなつくりに見とれて、夢だったんじゃないかと思っているくらいだ。
 以来、いつも蓮未くんの周りはあの有り様なので、話をするどころか姿を見ることもままならない。だから、彼についての情報源は、ほとんどが噂だった。
「うん、先輩がうちの部に誘ってみたら、まだ考え中って言われたってっ」
「ふーん…」
 蓮未くんが被服部。きっと彼は衣装を作る間もなく、着せられる側に終始させられるのだろうな。もちろん、この美冬ちゃんが主な犯人である。想像すると、ちょっとおかしかった。
 そんな妄想が顔に出ていたみたいだ。美冬ちゃんが不思議そうに「どしたの?」と覗き込む。私は「なんでもない」と、ゆるませた頬を慌てて引っ込めた。
「…まあ、あんな調子じゃ、部活も難しそうだよねーっ」
「そうだね」
 きっと授業が終わると、すぐに帰ってしまうのだろう。前に、人目を避けるようにして、足早に昇降口へ向かっていく蓮未くんの姿を見かけたことがある。
 短い会話を終えると、美冬ちゃんは後ろをちらっと見て、よしっ、と一息。肩紐をぐっと持ち上げた。
「じゃあねっ。遥、また月曜日っ」
「うん、ばいばい!」
 カラフルに飾ったバッグを背負い、美冬ちゃんも教室を出ていった。二人分の背中を見送るといつも、部活っていいなぁと思う。私は帰宅部なのだ。

「おい、はる!」
 一人になったので帰ろうと準備を始めると、途端にぶつけられる乱暴な声。
「なに?湊人」
 パンパンに膨らんだスポーツバッグを頭から被りながら、湊人はもう身体だけは扉のほうへ向けていた。
「今日さー、帰りにポン酢買ってきてくれってさ」
「うん、分かった」
「ついでにコーラも」
「え~。…そろそろレギュラー獲れそうなの?」
「馬鹿言うな、一年坊主がなれっかよ」
「じゃあ却下」
「ちょぉ!そこをなんとか」
「ふふ、嘘うそ。ていうか、それなら早く練習行ったら?」
 そんな、私のささやかな憎まれ口に、ちょっと肩を上擦らせて何か言いたげだ。でもすぐに、視線を外しつつ、ため息とともにそれを下ろす。
「…一刻も早くレギュラー獲れってか?なんかくれんの?」
「考えとく」
「忘れんなよ!」
 不遜にも、指を差しながら念を押してくる。考えておくと言っただけなのに、もう何か貰えるつもりでいるみたい。肩をすくめて苦笑を返すと、人もまばらになった廊下を、湊人は全速力で駆け抜けて行った。
 林堂湊人(りんどう・みなと)。家が隣同士の、幼馴染。ツンツンと短く尖った頭が、その性格を十二分に表している。野球馬鹿で口も悪い、図々しいやつ。でも、おばさんにはいつもお世話になっているから、あんまり悪口は言わないようにしないとね。
「ポン酢と、…コーラね」
 眠り支度をはじめる教室で一人、吐息で呟いて確認。私はさっと荷物をまとめると、ゆっくりと紫苑の混じりはじめた空を背にした。



 私、清次遥(きよつぐ・はるか)は、お姉ちゃんと二人暮らしだ。両親は家にいない。夫婦で建築関係の仕事をしているのだけど元々海外志向が強く、お姉ちゃんの就職を機に、この春からとうとう拠点をヨーロッパへ移してしまった。
「遥ももう、高校生になるものね、大丈夫ね」
 そうやって、お母さんに全幅の信頼を寄せられてしまえば、うんと頷くしかできなかった。
 手が空いたときには連絡もくれるけど、時差がありすぎて、リアルタイムでコミュニケーションを取ることなんて無くなった。寝て、起きて、スマホを見て、返事が来ていないことを確認するときの、ふっと抜け落ちた感覚。もう慣れたって言い聞かせてはいるけれど。
 そこからだった。私がしょっちゅうシンデレラに思いを馳せるようになった、これがもうひとつの、最初の理由。
 小さな頃は眠るまでグリム童話を話して聴かせてくれたのに、今は打ち込んだ文字のやりとりすら頼りなく。満たせないここへ必死に中身を詰めようとして、寝る前に読むこの絵本が、最近ではいつの間にか習慣になってしまった。ラストシーンを読み終えた後は、シンデレラと王子様のその後の幸せな未来を、幾つも空に浮かべては入れて、ひとつずつ。
 そこへ、本当におとぎ話から出てきたような王子様まで現れて、再会して。私の日常に一層、輝きながら混ざりはじめていくことになる。
 大好きな人と「いつまでも一緒」の幸せへの憧れは、日増しに強く、それは彼への気持ちとリンクして。
 ほとんど会話もしたことのない、蓮未くんへの淡い思いを、真新しい思い出を、ここに毎日握りしめている。



 あれは、夏休みももう終わりだと、囁きが耳元に留まりはじめた頃。私は、久々に早く仕事が終わるというお姉ちゃんを待つために、小雨の降る中、本屋にいた。
 家を出るときにはすでに降っていた。アスファルトが雨を飲む匂いと、むっとする湿気。それから解放された、快適な素敵空間。私は絵本のコーナーへ足を向けていた。幼い思い出に浸りたくて、このお話を探すために。

 シンデレラは元々、人間の奥底に眠る深い欲望や捻れた嗜好、誰でも持ちうる残酷さをも描いたお話だと、聞いたことがある。
 でも私は、興味が無かった。そんなことは現実だけでお腹いっぱいなのに、お話の中でくらい、綺麗でいさせて欲しかった。
 だから、絵本でいいのだ。苦難は枯れて、夢を蓄えて、豊かな希望だけが実をつける。そんなあたたかくてやさしい「シンデレラ」が、幼い私は大好きだったから。

 平置きされた、やわらかく微笑むその表紙に手を伸ばしたときだった。
「ハルカ……?」
 名前を呼ばれて振り向くと――そこはもう、現実じゃなかった。
 敷き詰められた本たちは、まばゆい光にひれ伏していく。
 艶の滴り落ちる髪。その下の、透き通る肌に乗せた瞳は、高級な飴細工。何もかもがまるで、このシンデレラの笑いかける、その人。

 ――王子様。

 吐息で呟いたら、絵本の世界に迷い込んだ。白いワンピースが華やかなドレスに。アイスブルーのレインパンプスがガラスの靴へと、変わる。両足ともしっかり、ぴったりおさまって。だからそう、この王子様と見つめ合う私は――。

 私は、どんな表情をしていたのだろう。少なくとも、このカバーのお姫様のようには微笑んでいない。間抜けに惚けた顔をしていたのならうずくまりたい。
 そして彼もまた、王子様のように笑顔を浮かべているわけではなかった。激しく瞳を揺らして数秒、戸惑いの色が忍びきれず、何度も、長い睫毛に包まれた目をしばたたかせた。黄金比のアーモンドの双眸が、ゆるゆると下を向く。
「…ごめん、人違い…だったみたい」
「…あ、…いいえ…」
 彼は真っ黒に沈んだ瞳を再び上げることはなく。微笑よりももっとかすかな笑みを、そのふっくりした唇が象った。気まずそうに軽く頭を下げて、それが上がりきらないうちにもう踵を返してしまう。
 私は目で追うこともできないまま。残像に縫い留められたように。綺麗で、弱々しい微笑みが、消えそうでいてずっとそこから離れないから。
 気がつくと、傘から零れた雨しずくが、シンデレラの頬に落ちていた。
 まるで涙。
 幸せそうな笑顔が、ぽつりと表情を変える。去り際の彼もこんなふうだった、なんて切ない顔。
 それが、蓮未鷹矢くんとの出会い。一度きりの、会話だった。
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