まま恋。

美木いち佳

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ホームラン

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 早くも蒸し暑い日の続く七月。朝から蝉の大合唱。ぺたぺたする肌を気遣いながら私は、紗奈ちゃんと美冬ちゃんと市民球場に来ていた。
 今日は、野球部の夏の地区大会初戦。運良く土曜日だったこともあり、こうして湊人の応援に来ることができている。二年生としては唯一、七番ショートでスタメン出場すると言うので、駆けつけない訳にはいかなかった。



「えっ、レギュラーなの?」
「あー、いや、背番号は二桁だけど!初戦はスタメンだから!」
「そうなんだ?何番打つの?」
「…番」
「え?」
「七番だよ!悪いかよ!」
「ふーん…」
「なんだよ、本当に微妙そうな反応すんなよな!」
「そんなことないよ」
「馬鹿にすんなよ!オレは下位打線の起爆剤だって、監督からも…!」
「うん」
「…あーくそ、上等だ!じゃあオレが一発ホームラン打ったら、何でも言うこと聞けよ!」
「なんでそうなるの…」
「鼻で嗤った代償だ」
「嗤ってないよ」
「とにかくッ!決めたかんな!絶対観に来いよ!」



 という訳だった。私にはなんのメリットもない一方的な約束だけど、ずっと頑張ってきた湊人が試合に出られるのだから、それが無くとも来ない選択肢は無かったと思う。
 あのとき彼を殴らずに済んで本当に良かったね、なんて皮肉は口が裂けても言えなかったけど。
「三人で遊びにくるの久々ねー」
「まあ林堂の応援っていう変なオプションはついてるけどねっ」
「あはは…」
「クラス違うと、遥と話せる時間少ないし、寂しかったよっ」
「美冬ちゃん…!ごめんね、私もだよ!」
 私たちは人目も憚らずぎゅっと抱きしめ合う。
「ちょっと、見てるだけで暑苦しいからやめてくれない」

 今日、ここに鷹矢くんはいない。無理も無い。
 体育祭以降、湊人と鷹矢くんの不仲は決定的となった。湊人は、廊下で見かけても私が鷹矢くんといるときはまるで最初から気づかなかったように通りすぎてしまうし、鷹矢くんも鷹矢くんで、隣のクラスになるべく近づかないようにしているみたい。
 その前からもうすでに好意的でないことは知っていたから、三人で何をどう話せばよいかなんてずっと分からないままだし、誰もそこに触れなかった。冴子先生に連れて行かれた後、彼らの間で何かあったのかもと思ったけど、あったところで、それを確かめることはできるはずもなくて。
 そんな状態の今、湊人の応援なんて誘えるわけがない。彼には予定を濁して来ている。

「…遥、あれから大丈夫なのっ?王子とはっ…」
 美冬ちゃんは遠慮がちに尋ねる。心配してくれているのが伝わってきて、言葉にならない頷きだけを返した。あんな場面に巻き込んでおきながら、言い出しづらかったのだ。その後ろめたさに、何と言って良いやらの恥ずかしさも混じって、口ごもる。
「あたしが見てる限りは仲良くやってるけど…」
 見守る派の紗奈ちゃんも、言葉を続ける代わりに心配そうな視線をくれる。
 言わなきゃ、ちゃんと。
「…あのね、実は…」

 今日、こんなに暑かったっけ。そう思うくらいに、たった一言伝えるのに全身がかあっと熱くなった。

「えーっ!!」
 蝉も一斉に飛び立つ衝撃波。
「なんでそういうこと、早く言わないの!!」
「おめでとうっ!本当にっ!本当に遥、良かったねっ」
「うん…」
 鷹矢くんが好きだと言ってくれた。晴夏さんではなく、私《遥》のことを。だからもう、私を押し込める必要は無くなって、そこだけで言えば平穏そのものだった。
 私を包んでくれる陽だまりのような笑顔。その奥も裏側も全て、笑ってくれますようにと思いを込めて、微笑み返す日々。
「ともあれ、丸くおさまったわけね」
「体育祭のときはどうなることかと思ったけどっ」
 これでいい。いつまでも、このままでいられたら。
「でも、最初からそうならなんで、こんなややこしいことに?」
「もー、細かいことは言いっこなしっ!遥は今、幸せなんだからっ!ねっ!」
「…うん」

 ――僕だけを見て。
 あの夜の、儚い響きは、鷹矢くんの決死の叫びに思えた。ここで引き上げないと、埋もれて消えてしまいそうだった。
 そうなれば、鷹矢くんのお母さんも悲しんでしまう。娘を亡くし、それがきっかけで生まれたとはいえ、鷹矢くんもまたご両親の大切な息子であることに変わりない。
 ――そのとき私たちは確実に、また一人、息子を失ってしまうんだなって。
 あの日の沈んだ呟きが甦る。
 鷹矢くんまで失わせてしまうわけにはいかない。
 だから彼の話をすることは無くなった。本当にあれきり姿を見せない。最後に見た、あの怯えたような目をしたまま、一人、今も内にうずくまって――?
 どうしているの?何を思っているの?
 あなたのことを考えることすらご家族を、鷹矢くんを苦しめるのなら、私に何ができる?私は――。

「…っ」
 後ろから激しく突き飛ばされるような衝動は、飲み込まないといけない。この先は、考えちゃ、だめ。
「とにかく順調そうで何より」
「もーっ、もっと幸せそうに笑いなよっ!新作の予感がここまで来てるのにっ」
「美冬、ここにまで来てスケブ広げんの…」
「もちろんっ!幸せ遥で一冊描いちゃうっ」
「…ふふ」
 両校のエール交換を妨げるくらいに、私たちが大騒ぎしているものだから、まばらに集まり始めた他のお客さんにじろじろ見られてしまう。丁度ノックを終えてベンチへ走って帰って来た湊人も、目だけで「ばーか」と寄越してきた。
「…なによ」
 ここは一塁側ベンチのすぐ上、最前列だから、そんな私の反発もきっと聞こえているはず。でも、湊人はキャップを深く被り直して、口を引き結んだまま足早に下がって行った。



 見鐘台高校は後攻めだ。ピッチャーの立ち上がりもまあまあ順調で、初回の守りはツーアウトからランナーを出したものの、四番をしっかり抑えた。
「あたし野球はよく分かんないけど、今年のエースは良いって聞いたわ」
「うんうんっ、いい感じ、球もキレてるっ!」
「じゃあ勝てそうなの?」
「ピッチャーだけ良くてもだめだけどねっ」
「一回裏、見鐘台高校の攻撃は、一番、セカンド…」
 場内アナウンスは、これから攻めに入るうちの高校の選手を伝えている。それにかぶさるように、吹奏楽部が華やかな音楽を奏で始めた。
「打線のほうはどうなの?うち」
「湊人が言うには、調子がよければ爆発するって」
「それはなんにでも言えることだねっ」
「ん…」
 カーンッ。小気味良い音が響く。先頭バッターは、一塁線を破るヒット。すぐさま弾みをつけたファンファーレ、景気の良い大太鼓が鳴り響く。爽やかなオレンジ色のユニフォームに身を包んだチアリーダーたちも一斉に沸いた。跳ね上がる紺と白のポンポンが称えている。
「わ、打った打った!」
「先制点が欲しいところだねっ」
 その後、犠打やヒットでランナーを三塁まで進めたものの、得点には至らなかった。見鐘台ナインは流れるように守備位置につき、二回の攻防に入る。



「ありゃ、今度は相手のチャンスだねっ?」
 ワンナウト一、三塁。対するバッターは背番号一。後ろのお客さんが話しているのが聞こえたのだけど、八番に座るのはピッチャーだからであって、バッティングも上手らしい。
 大丈夫かな。私は不安な目で投球フォームを見つめる。
「あと二つもアウト取らなきゃでしょ?」
「うん…」
 カウントはツーボール、ツーストライク。固唾を飲んで見守る中、放たれた球は、
「あっ!」
 カキーン。速い打球、飛んだのは一、二塁間。セカンドが体勢を崩しながら捕った球を、駆け寄る湊人へ鮮やかなグラブトス。
「えっ、すごい!」
 受け取った湊人がベースを踏んでツーアウト。そして勢いそのまま鋭い送球は、
「間に合った!?」
 ファーストミットにしっかりおさまる。塁審はしっかり拳を突き出した。ダブルプレイだ。
「やった!凌いだ!」
 私は思わず立ち上がる。
「林堂やるじゃん、なんとなくだけど、今のすごいって分かるよ」
「見事な二遊間の連携プレーだねっ!」
 笑顔で帰ってくる守備陣の中でも、湊人は先輩にグラブでぽんと撫でられ、一番嬉しそうだった。
「ナイスプレー!」
 私も釣られて思い切り笑う。こっちに気がついて、湊人は一瞬目を見開く。すると頭を打つグラブが二つ、三つと次々増えて、その拍子に滑り落ちた帽子が表情を隠す。そのままつばをぐっと握って俯きながら、申し訳程度にグラブを掲げた湊人の顔は、やっぱり見えなかった。



 途中グラウンド整備を挟みながら、試合は八回まで終わったところ。残すところは最終回のみとなった。見鐘台高校は、四回、五回、七回と一点ずつ得点を重ねてきたけれど、そのすぐ後の八回表、変わったピッチャーが打ち込まれ、一挙三点を失って同点。試合は振り出しだ。
「これ、延長する?」
「どうだろうねっ、うちの二番手次第かなっ?」
「ピッチャー?」
「うん、この回、ちゃんと抑えないと…」
「負けちゃうねっ!こっちは下位打線からの攻撃、林堂全然打たないしっ」
 そう。湊人はここまで全ての打席、空振り三振。悔しそうにバットを持って戻ってくるたび、監督が怒鳴る声も大きくなっていた。
「ホームランしか狙ってない構えだもんねっ」
「それって、だめなの?」
「当たれば大きいけどねっ、繋いだほうがいい場面もあるし、林堂はたぶん、ホームランバッターではないんじゃないかなっ?」
「ふーん?そうなの、遥?」
「うーん…小学生のときは確かによく打ってたけど、中学に上がってからは、どちらかというととにかく塁に出て盗塁を決めてって感じ」
 三塁側から華麗な演奏が聞こえ出す。蝉の声をドンと押し戻して、球場はいよいよクライマックスの雰囲気に包まれる。
「てことは?」
「大振り厳禁っ、監督のお怒りもごもっとも、ってことだねっ」
 でも。それでも狙ってるんだ。
 そうまでして私にさせたいことって、一体何なんだろう?全速力で守備位置に向かっていく湊人の背中を見つめても、分かるはずはなかった。



 絶体絶命に近かった。九回表、守りきれずにヒットとエラーで一点を勝ち越されてしまった。そこからはなんとか持ち直したので、最小失点で切り抜けた、と言えば聞こえは良いものの。もう後が無いのだ。
 九回裏、見鐘台の攻撃は六番ライトから。この人は今日はフォアボールの出塁ひとつにとどまっている。相手ピッチャーもここまで一人で投げ切っていて、大きく崩れることなく、与四死球はそれを入れても三つだけ。そう何度も打ち崩せるなんて思えない。
 ワンボールツーストライク、バントの構え。
「えっ…」
「あ!」
 ヒッティングに切り替える。これが功を奏した。
 カーン。高めに浮いた球を叩きつける音。鋭い当たりではないものの、打球は絶妙なところへ飛んでいった。三塁手が体勢を崩しながらなんとか捕球し、投げ終えたところで走者はスライディング。ワンバウンドした球を一塁手が受け取る前にベースタッチ成功。辛くもセーフになった。
「やった!出た!」
「繋げよーっ、林堂っ!」
「…七番、ショート、林堂くん…」
 そして湊人が、バットをひと振り、大きくふた振り、打席に向かう。監督の怒声など背中で跳ね返しながら、真っ直ぐ縦にしたバットを見つめている。
「あー、あれはまた、やるんじゃない?」
「…打つ」
「え?」
 バッターボックスに入った湊人、ヘルメットから覗く表情はここからじゃ分からないけど、
「…絶対」
 息をするときの肩の上がり方、握った手指の力の込めよう、ピッチャーと対峙する、研ぎ澄まされた全身のライン。こういう時はやるやつだから、湊人は。
「ボール!」
 黄色のランプがひとつ点灯。
「ストライク!」
 緑のランプも続いてひとつ。
「ストライク!」
 そのまた隣にふたつめが点る。
「うそっ、あっという間に追い込まれたっ」
「振ってさえないじゃん、どうしたの林堂?」
 そしてピッチャーは、一度も首を横に振らず、振りかぶる。

 結んだ私の両手、バットを握り直す湊人の両手、ぎゅっと、同時に。

 カァーンッ。
「いっ…」
 思いっ切り上体を捻って振り抜いたバット。その切っ先は宙を舞う。一塁ランナーは確信してスタートを切る。湊人は全速力でダイヤモンドを回る、回る。
「…たっ!?」
 速度を持った放物線。打球がフェンスを越えればホームラン。レフトも上方を見たままとにかく走る。
「湊人!」
 湊人はセカンドを回った。ファーストランナーはホームベースを今、踏んだ。
「やたっ、とりあえず同点っ!」
 レフトが思い切り手を伸ばした先、打球はフェンスを直撃した。外野に転々と転がる白球、でも野手はその行方を見失っている!
「走ってっ!湊人!」
 湊人は三塁を蹴った。あとはもう直線。ショートが中継、球を投げる。キャッチャーはホームベースのすぐ脇で動かないままミットを構えて、
「湊人っ!」
 黒い土煙。風のように滑り込んできた湊人を追うように、ボールを捕まえたミットが触れようとするところ。
「タッチは!?」
 球場は、巻き上がる黒煙が霧散するごとにしんとする。私が息を飲む音すら響く。
 目を凝らしていた球審は大きく両手で、
「…セーフ!」
 空を切った。
「やっ、」
 そして溜め込んでいたそれを一気に放出するように、花火のような声援が轟いた。びりびりと身体中が震えるほどに。
「やったーっ!」
「やるじゃーん林堂ー!」
「逆転サヨナラっ、ランニングっホームラーンっ!」
「きゃーっ!」
 私たちが抱き合うよりもっと激しく、未だベースの上でガッツポーズをしたまま寝そべる湊人を、ベンチにいたメンバーも総出でもみくちゃにする。もうもうと立ち込める砂埃の中から生還した湊人は、真っ黒で、誇らしく、誰より輝いていた。



「今日はすごかったね、湊人の脚力あってこその勝利!」
 ミーティングが終わるまで待っていた私は、久しぶりにこの坂を、湊人と肩を並べて上っていた。
「…まーな」
「湊人?」
 勝った瞬間はあんなに嬉しそうだったのに、どうしてかな、今はどこか表情がかたい。リズム良くポン、ポンとスポーツバッグをお尻で弾きながら横を歩く、その息遣いが少しずつ浅くなる。
「あれ、ホームランだよな」
「そうでしょ?ランニングホームラン」
「…だよな」
「どうしたの、あんなに嬉しそうだったのに」
「だったら、この間言ったあれ、…有効だよな」
「え?」

 ――じゃあオレが一発ホームラン打ったら、何でも言うこと聞けよ!

「あ!」
「…忘れてただろ、その顔…」
「さっきまでは、覚えてたんだけど」
 そんな苦笑いで、誤魔化せるものでもなかった。だって、いつの間にかこちらを見る目は、鋭さを切なさでくるんだように。
「こっちは決死の思いなんだぞ…」
「…湊人?」
 坂の途中。急に湊人が立ち止まるから、私は二歩先で振り返る。上から吹き下ろしてきた風が、私の髪もワンピースも、下へ下へと押しやって。

「…あいつと別れろよ」

 真昼の太陽が、私たちを焼く。天辺から爪先まで、一息に。
「…え…?」
 問い直しても、湊人の瞳は揺れない。すでに口を離れた言葉が、打ち消されるわけでもない。
「…何言ってる、の…?冗談、」
「本気」
 私との間を一歩で詰める湊人は、
「はるをあんな風に泣かせるヤツに、そんな資格無い」
 土の匂いを連れて、
「オレは、おまえを…遥自身を見てる」
 私の名前を、
「あいつなんかよりもずっと前から。だから、」
 握りしめるように呼ぶ。
「遥。オレにしろ」
 殴られる、風に。暴れる長い髪は、湊人の胸を叩いて打って、すべての筋肉が動きを止めた私の頬を、撫ぜ、やむ。
「…」
 薄く開いたままの唇から、私は吐息すら生み出せなかった。いつの間にか、蝉の声が私の両耳を押し潰す。だから、その靴がアスファルトに砂利を擦り付けても、私には聞こえない。
「…じゃあ、オレ、昼飯食ったら練習だから」
 音も無く横を抜けていく湊人の、背中を見ることもできず、真っ白に照り付けられた世界に。
「…」
 私は、取り残された。
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