魂売りのレオ

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第一話 貴女は悋気に狂いて呪殺を好しとす

レオとアーサー

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レオとアーサー

 街に住むひとびとは、ここを「魔の森」と呼んで近寄らなかった。
 魔の森——街外れの交易路こうえきろから見える広大な森で、へたに足を踏み入れれば生きて帰ることはできない。
 というのも、ここでは磁石が効かない。それに樹々きぎの密集が濃く、そのため空が見えない。昼でも夜のような暗さがにおい立ち、深更しんこうともなればもはや真の闇が広がる。
 そんな場所だから遭難者が絶えない。領域の観測を求める者や、迷い込んだ旅人、遊び半分で探索する者、いずれもみな、いのちを落としてしまう。
 やがて世間では、あそこは魔物が徘徊はいかいし、人間を食ってしまうと噂した。そうして”魔の森”などというあだ名がついた。
 しかし実際には魔物など住んでいない。ぼくはここに来てもうすぐ一年になるけど、いちどもそんなもの見たことがない。
 そのかわり魔物なんかよりもっと恐ろしい者が住んでいる。森の奥に館を構え、魂売りというおどろおどろしい商売をしている。きっと彼女が怒ったら、どんなにすごい魔術師も、どんな屈強な軍隊も、まるで歯が立たない。
 しかしぼくもここに来るまで魔の森にこんな大きな館があるなんて知らなかった。彼女が言うには、ここに来れるのは来るべき人間だけで、それ以外のひとは魔法の力で迷ってしまうらしい。だからここに貴族が住むような豪華な館が建っていることも、レオという世にも美しい美女が住んでいることも、だれも知らない。
 そう、レオは美しい。
 ぼくと同い年のはずだから、今年で十七、八になるはずだ。
 どこの国の生まれなのか、だいだい色の肌はうっすら緑がかっていて、瞳の色はエメラルド。腰まで伸びるさらさらの髪も鮮やかな緑色で、それが陽の光を浴びるとまるで新緑をまとう女神のように神秘的に映る。
 細くもなく太くもない体は色気にあふれ、呼吸するたびに上下するふくよかな胸や、足を組み替えたときにチラリと見える腰のラインはもちろん、指先から髪の毛一本に至るまでどこを見てもこころ惑わずにいられない。
 なにより目がきれいだ。鋭くもやわらかい眼差しはこの世のなにより美しく、長いまつ毛と眠たげなふたえの下から覗く宝石のような瞳に見つめられると、ぼくはいまだにドキドキしてしまう。
 そんなレオのために、ぼくはいまウィスキーとあてを用意していた。無駄に広いキッチンで、簡単にサラミとレモンをスライスし、少々の塩を添えて、ウィスキーは大きめのグラスにロックでそそいだ。こんなの料理の得意な使い魔に頼めばいいのに、
「おまえが作ったものが食いたいんだ」
 なんて言うからわざわざ用意してるんだけど、ぼくなんてせいぜい材料を切るくらいしかできないのになぁ。まあ、どうせ今日もやることなんてないし、こんなことでレオによろこんでもらえるなら悪い気はしないけどさ。
 ぼくは絶対に倒れないという魔法のトレイに酒とつまみを乗せ、両開きの玄関扉を開いた。すると陽の当たった空気が肌を包み、全身に春を感じた。
 扉を抜けるとそこはほどよい広さの庭になっている。この鬱蒼うっそうしげる森の中で、なぜかこの館周りだけは木が生えていない。抜いたり切ったりしたわけじゃなく、元からここだけ生えてない感じだ。これも魔法の力だろうか。なにせ魔法ったらいろんなことができるからなぁ。
 そんな庭の真ん中に石造りの池がある。人工の溜め池で、そこそこに広い。魚や水草を住まわせており、ときどき魚の跳ねる音が聞こえるとなんとなく風雅ふうがな感じがして悪くない。
 レオはその池の傍にいた。背もたれの長いデッキチェアに寝そべり、森の草花を眺めてぼくを待っていた。
 ぼくは後ろから近寄り、そっと肩越しにトレイを差し出した。
「おまちどうさま」
「ん? ……あ、ああ。酒か」
 どうやらレオは眠っていたらしい。ぼくに仕事を頼んでおいて悠長ゆうちょうなことだ。でもまあ、たしかに昼寝したくなるほど気持ちいい。なにせ花真っ盛りの季節だ。空気はあたたかいし、草木の緑は鮮やかで、そこらじゅうに花が咲き乱れている。一面自然の芸術だ。街にいたころはせいぜい花壇や乱雑な街路樹がいろじゅでしか見なかった花の香りが、ここでは空気すべてに溶け込んでいる。風が吹けば花粉が目に見えて遊ばれ、ざあざあと葉の擦れる音が心地よく耳に届く。こんなところで寝ていたらうとうとするのも無理はない。
「ふあ、あ……」
 とレオは体を伸ばしてあくびをし、
「ふぅ……ありがとう、アーサー。ちょうどのどが渇いたところだ」
 と言ってグラスに手を伸ばした。薄着で手足があらわになっているから、そのしなやかな動きすべてがぼくの目に映る。
 彼女はグラスに口をつけ、ごくっ、ごくっ、とのどを鳴らしてウィスキーを流し込んだ。ただ飲み物を飲むだけの姿が芸術的な美しさと官能的ないやらしさにあふれている。もうなんども見ているはずなのに、その動作ひとつひとつが妖艶ようえんで目を離すことができない。思わず息をのんでしまう。
「はあっ、うまい」
 レオはチェアの手すりに乗せた魔法のトレイにグラスを置き、サラミをひとつ口に含んだ。
 それにしても魔法は不思議だ。だっていまトレイはほんの端っこしか手すりに乗っていないのに、平らな床に置いたみたいに安定している。レオと暮らしていると慣れて当たり前になってくるけど、改めて見ると不思議でならない。ぼくも使えるようになりたいと思ってときどき教えてもらうけど、魔法は才能が重要らしくて、結局、
「おまえは魔法なんか使えなくていい。わたしの傍で、わたしにかわいがられていればそれでいいんだ」
 なんて言われておしまいになっちゃう。ぼくも魔法でカンテラの火をつけたり消したりしたいのになぁ。
 そんなことを考えていると、レオが背もたれから顔を覗かせ、
「アーサー、おまえもゆっくりと花を見たらどうだ。いましか見れないんだ。季節のものは味わっておかないと損だぞ。それにあたたかくて気持ちがいい」
 と言った。そうかもしれない。ぼくは去年までごみごみした都で過ごして来たから、草花を眺めるたのしみなんて知らなかったけど、こうしてのんびり暮らしていると、それがどれだけ気持ちいいことかよくわかる。でも、
「その寝れるチェアはまだあったっけ?」
 ぼくがそう尋ねると、レオはゆるい笑みを浮かべて、
「なに、わたしの隣に寝そべればいい。ほら、狭いが開けてやったぞ。さあ、来い」
「でも……」
「なにを恥ずかしがっている。いまさら恥ずかしがる仲でもないだろう。それともいやなのか?」
「そんな、いやじゃないけど……」
「なら来ればいい」
「だって、そんなことしたらどうせ花見なんか忘れて……」
「いいじゃないか」
「そんな、昼間から、それも外でなんて……」
「別にだれが見ているわけでもあるまい。それに、きっと悪くないぞ」
 悪くない……かもしれない。このあたたかい日差しの中で、世界一の美女と言っても過言じゃないレオとふたり抱き合って、ぬるい汗を肌の上で混じり合わせて……
 でもいいのかな? それってすごくいやらしくておかしいことな気がする。そんなこと騎士のぼくはやっちゃいけない気がする。
「フフフ……もじもじして、かわいいヤツだな」
 レオはそう言っていたずらっぽく笑った。ああもう、ぼくはかわいいって言われるのが好きじゃないのに。だってぼくは男だ。それも代々近衛兵長このえへいちょうを務めた騎士の家系だ。たしかに顔は母親似かもしれない。遠くから見ると女みたいだなんて言われることもあるし、体も細くて背も低い。背の高いレオと並んで歩くと、姉と弟、下手をすれば妹にさえ見られかねない。
 でも剣の腕はだれにも負けない自信がある。模擬戦もぎせんで遅れをとったことはないし、ここに来るまでの数年間兵士をしていたころは、盗賊狩りや暴徒鎮圧でいつもベテラン兵士に並ぶほどの結果を出してきた。はっきり言ってぼくは”かわいい”なんて貧弱な男じゃない。だけど——
「いいから早く来い。わたしはもうたかぶってしまった。早くこっちに来てかわいいところを見せてくれ。そしてわたしをみだらに鳴かせてくれ。さあ」
 そ、そんなこと言われたら頭がクラクラしちゃうじゃないか……
 ぼくはゴクリとつばを飲み込み、引き寄せられるようにレオの隣に座った。もう体が熱い。レオの肌も、ぼくの肌も、触れ合うすべてが燃えるように熱くなっている。
「レオ……」
 ぼくらはチェアの上でギチギチになって、汗のにじむ手を絡め合った。真夏の空気に似たレオの吐息がぼくの顔を叩く。きっとレオもおなじ空気をかいでいる。そしてぼくらはその呼吸をひとつに繋げようとゆっくり顔を寄せた。そのとき——
「おや?」
 レオは館の庭に通じる道に目をやった。そこには一匹の黒猫——シェルタンがジッとたたずみぼくらの様子をうかがっていた。
「わあっ!」
 ぼくは転げ落ちるようにチェアを降りた。シェルタンはレオの飼い猫で、いつも突然現れる。それは食事のときでも、仕事のときでも、そしてこんなときでもだ。
「おいおい、どうした」
「だって、シェルタンが……」
「シェルタンは猫だろう」
 レオは呆れっぽく笑って言った。
 たしかにシェルタンは猫だ。でも、猫でもこういうところを見られるのは恥ずかしい。それにシェルタンはふつうの猫じゃない。
「別に見られてなにか失うわけでもあるまい。むしろわたしは、おまえに愛されているところを見られると思うと、もっと熱くなる」
「いやだよそんな、ひとに見られるなんて」
「ひとじゃない、猫だ」
「でもシェルタンは人間の言葉がわかるじゃないか」
 そう、シェルタンは人語がわかる。そしてレオもシェルタンの言葉がわかる。
 シェルタンが”にゃあ”と鳴いた。すると、
「なに、客だと?」
 とレオが答えた。こんなのわかってぼくらのことを見てるに決まってるじゃないか。だって言葉がわかるんだよ。
 シェルタンはこくりと人間のようにうなずき、スタスタと森の道へと歩いて行った。どうやら”客”を迎えに行ったらしい。シェルタンはいつもそうやってレオの客をここへ案内する。
「こんどは本当にひとが来るよ」
「そうだな……」
 レオはふぅ、とため息を吐き、
「まったく、間の悪いことだ」
 と不機嫌そうにウィスキーを飲んだ。ぼくもたかぶった気持ちがまだ残っていたけど、さすがにひと前であんなことはできない。それなのにレオは、
「フフフ、いっそ見せつけてやるか?」
「しないよ!」
 まったく、レオはぼくが困るのをわかって言ってるんだ。もっともレオなら本当に構わず続けかねない。レオはそういうひとなんだ。魔法の達人で、呪術や幻術にも通じていて、どんな強者も敵わないほどの強さと気高さを持っているのに、反面ひどくいやらしいことを好む。騎士と違って強さと高潔さを両立しない。
 心身ともに鍛え上げ、強きに向かい弱きを助け、いついかなるときも恥ずかしくない振る舞いをするのが騎士道だけど、レオは相手が強かろうが弱かろうが虫けらみたいに扱い、昼間からお酒を飲んでダラダラ過ごし、騎士道を貫こうとするぼくにとことんみだらなことをする。騎士が陽中であんなことしていいわけないじゃないか。それなのに、もう。
「ほう、女か」
 レオはシェルタンに誘導され森から現れた女を見て言った。”客”が来るのはおよそ二十日ぶりのことだった。
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