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第一話 貴女は悋気に狂いて呪殺を好しとす
貴女は悋気に狂いて呪殺を好しとす 六
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どしゃり、とヴルペクラの体が崩れ落ちた。
深々と突き刺さったナイフの切れ目から赤い鮮血がドクドクと流れた。
「なんだ、きさまらは」
精は言った。しかしレオは答えず、
「わたしとしたことが、なぜこんな簡単なことに気づかなかったんだ……くそっ」
と吐き捨てるように言った。
元々レオはヴルペクラのいのちなんかどうでもよかった。むしろ殺されるのを待って、魂だけをかっさらって行くのが本来のやり方だ。しかしぼくの願いを叶えられなかったことと、食器の用途を予測できなかったことがプライドに触ったのだろう。レオはくっきりと眉をひそめ、ひどく苛立っていた。
ぼくはゆっくりとクローゼットから足を踏み出し、うつ伏せに倒れるヴルペクラの傍にかがみ込んだ。
「ヴルペクラ……」
そっと彼女の肩に触れた。もう息はしていなかった。肌はまだあたたかい。しかしひどく冷たく感じた。いのちを失い、急激に生命の熱が失われていくのがわかった。
哀れだ……
愛する男に裏切られ、復讐に狂い、だまされ、最後は殺されてしまう。これが哀れでなくてなんだ。こんな哀れなことがあってたまるか。こんなこと、許されてたまるか!
「きさまらはなんだと訊いているのだ。応えんか!」
精はぼくに向かって怒りとともにナイフを振り下ろした。ぼくは死んでいくヴルペクラを見つめながら、床に落ちている壊れた傘を拾い、薙ぎ払った。
「む!」
精は狼狽の色を見せた。まさかぼくが剣の達人だなんて思わなかったんだろう。
だけどそんなことどうでもいい。ぼくは哀しんでいた。ぼくは怒りに燃えていた。どうして……どうしてひとを愛しただけでこんなことにならなくちゃいけないんだ!
「うあああ!」
ぼくは力いっぱい傘を振り、精の手からナイフをはたき落とした。そしてすぐさまそれを拾い、クソッタレのカスやろうを思い切り斬りつけてやった。
「ぐお」
ヤツは腕でナイフを受け止め、切断された手が吹き飛んだ。それが床に落ち、しゅうしゅうと煙のように消えてゆくのが涙でぼやける視界の隅に映った。
「ひとの弱さにつけ込みやがって……ちくしょう! ちくしょう!」
ぼくはブチ切れていた。頭がカッとなって意識が真っ赤だった。ヤツは失った腕をもこもこ再生し、表情のないヤギの目でぼくをじっと見据え、罪の意識などまるでない声で、
「弱さにつけ込んでなにが悪い。われは少しばかり贅沢な食事をしただけだ。きさまら人間が狩りをするのとおなじだ。責められるいわれなどない」
「そんなわけあるか! おまえは最低だ! おまえは弱者をいたぶって殺したんだ! おなじなんかじゃない!」
ぼくの怒りは最高潮に達していた。頭の血管がドクドク言ってるのがわかる。体中の血が煮えたぎって吹き出してしまいそうだ。
そんなぼくの横にスッとレオが立ち、ヤツに向かって、
「そうかもしれんな」
と、そっけなく言った。
「えっ!?」
「たしかにきさまの言う通り、きさまのやったことは我々の狩りと大差ないかもしれん。罪に問うことはできないだろう」
「そ、そんな……」
ぼくはどうしてレオがそんなことを言うのかわからなかった。だって、どう考えたってひどいじゃないか。
「そうだろう。われはただ食事をしただけ。それがわかったらおとなしくその女から離れよ」
「だが……」
レオはふっと肩の力を抜き、気だるい声で、
「きさまは大罪を犯した」
「なに?」
「きさまはこの世で最も重い悪行をしでかした」
「われがなにをしたと言うのだ」
「なにをしただと……?」
レオはため息を吐くようにゆるく目を閉じ、天を仰いだ。そして、怒りに燃えた瞳をカッと見開き、
「きさまはわたしのアーサーを悲しませた! わたしのアーサーに刃を向けた! 万死! 獄死に値する! 決して許されると思うな!」
途端、突風のような殺気が部屋全体を駆け抜けた。空気が痺れ、いかづちの落ちるような衝撃が疾った。レオの魔力が暴走している。人間の発することのできる限界を超えた膨大な魔力があふれ出し、小さな稲妻となってレオの周囲でビリビリと弾けた。
レオの体は魔力で赤く染まっていた。緑色の鮮やかな髪は真紅に染まり、エメラルドの瞳はルビーのごとく燃えていた。肌もうっすら赤みが強くなっている。
魔力は濃さによって色合いが違い、赤、緑、青の順に濃い。腕の立つ魔術師は常に赤い魔力を使うというが、どれほどすごい魔術師でも自身の色が変わるほど強い魔力を発したという話は聞いたことがない。ただ唯一、レオが本気で頭に来たときだけ、ぼくはそれをまのあたりにする。
「おお! おお!」
精は悶え、苦しんでいた。かたちのないものは魔力に敏感で、いまのレオの魔力は殺意そのものだ。それが部屋全体に渦巻いているのだから、かなりの苦痛に違いない。肉体のあるぼくでさえ肌にビリビリと重い刺激を感じる。
「痛いか! 苦しいか! だが、まだはじまってもいないぞ!」
直後、精の全身を真っ赤ないかづちが貫いた。
「おおお!」
「どうだ、効くだろう! これを痛いと言うのだ! これを苦しいと言うのだ! だが、これではまだアーサーの受けた悲しみのほんの爪先にも満たない!」
次に現れたのは炎だった。それが蛇のように精の全身を這い回り、目や口、鼻、耳、肛門、男性器、穴という穴から入り込んでいく。
「おおお、おおおお!」
「熱いだろう! 死んでしまいそうだろう! まだ殺さん! この世に生まれたことを後悔し、殺してくれと悲鳴を上げてもまだ許さん! いつまでも死ねんよう、わたしの魔力で生かし続けてやる!」
精は逃げ出そうともがいた。しかし逃げられない。レオは”魂売り”だ。かたちのないものの扱いはだれよりもよく知っている。精はすでに見えない牢獄の中にいた。
「次は針だ!」
「次は圧殺だ!」
「次はやすりだ!」
レオはそこに地獄を創った。生きながらにして死よりもつらい苦痛を与え続ける。これが地獄でなくてなにが地獄だろう。
「まだだ! まだわたしの気は晴れない! いつまでもこうしてやる! いつ終わるのかと不安だろう! 終わらん! きさまは永遠に苦しむのだ!」
「レオ……」
「アーサー、退がっていろ! もう気が済んだなどと言うのはなしだ!」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
レオは赤い瞳のまま、ぼくの方を見た。そして、やっとそれに目をやった。
「おまえは……」
レオは怒り狂うあまり気づいていなかったけど、ぼくはすぐ傍にいたから気づいていた。
ヴルペクラの死体の上に、彼女の亡霊が立っていた。
美しいドレス姿の彼女は、もう歪んだ顔をしていなかった。そのかわり半透明で、すべてが空のように青い。
レオの魔法が止まり、ドサリ、と精が倒れ込んだ。静寂が訪れ、空気が闇に似た暗さを持った。
「アーサー様、とおっしゃいましたね」
ヴルペクラは言った。
「ああ、アーサー様……わたくしのために泣いてくださったのですね。わたくしのために哀しんでくださったのですね」
「ヴルペクラ……」
「わたくしのために怒り、戦ってくださったのですね」
ヴルペクラは泣いていた。悲しそうに、しかし、うれしそうに。
「ありがとうございます。あなたのおかげでなんと救われたことでしょう」
「そんな……救えてないよ。だって、君は……死んじゃったじゃないか」
「いいえ、救っていただきました。だからこうして、あたたかい気持ちでお話できるのです」
そう言ってヴルペクラはニッコリ笑った。ぼくはなんだか胸がぎゅうっと熱くなって、涙がぼろぼろ止まらなくなった。
救えてなんかない。救えてなんかないよ。死んじゃったよ……それなのに、どうして笑ってるんだよ。
「アーサー、おまえはこの女を救ったんだ」
「レオ……」
レオはぼくの傍に来て、やさしく言った。
「おまえのやさしさで、この女は恨みを忘れたんだ。憎しみも、悲しみも、おまえの涙で消え去ったんだ。見ろ、あの顔のどこに憎しみがある。晴れやかじゃないか」
その言葉にうなずくように、ヴルペクラが微笑んだ。
……ああ、そうなんだね。救われたんだね。あんなに恐ろしい顔をしていた君が、こんなにもやさしい笑顔になれたんだね。いのちは助けられなかったけど、憎しみや苦しみからは解放されたんだね。
「アーサー……」
えぐえぐと泣きじゃくるぼくの両肩を、レオがやさしく背後から抱いてくれた。ぼくは嗚咽が止まらなくてなにも言えなかったけど、レオもなにも言わなかった。
「ああ、うらやましい……」
ヴルペクラはなげくような笑顔で呟いた。そして姿勢を正し、
「魂売りのレオ様、このたびはご迷惑をおかけしました」
「なに、金はもらっている。我々は覗き見していただけだ」
「いいえ、レオ様がいなければ、アーサー様がいなければ、たとえわたくしは殺されなくとも、依然憎しみにとらわれたままだったでしょう」
「まあ、そうだな」
レオがそう言うと、ヴルペクラはクスリと笑った。たまにはレオのストレートな言い方が場を和ませることもある。そんな中、
「ところで、ひとつお伺いしたいことがあるのですが……」
ヴルペクラはおずおずと、ややバツが悪そうに言った。
「なんだ?」
「ひとは死ぬとどうなるのでしょう」
「ふむ……」
ヴルペクラの疑問はもっともだ。こころが救われたとはいえ、死んでしまったのだから、その後どうなるか気になるのは当然だろう。”魂売り”というプロフェッショナルなら知っていそうなものだ。しかしレオの答えは、
「わからん」
「存じません……?」
「ああ。魂は放っておけば消えてしまう。おそらく空気中の魔力に溶けて、世界と同化するのだと思われる」
「まあ……」
ヴルペクラは平静を保ちながらも小さく肩を落とした。世界と同化する——それはつまり、自分が消えてしまうということだろう。よく慌てずにいられるなぁ。
「しかし確証のないことだから、あくまで想像だ。もしおまえが、おまえのままでいたいのなら、いくつか選択肢がある。ひとつはわたしに捕らえられ、商品として売られるのを待つこと。ひとつは人形などひと型のものや、生きた人間に取り憑き、器を得ること。それか——」
「おれに飼われるってのはどうだい?」
突如どこからともなく声がした。いったいだれの声なのか。どこにいるのか。なんとなく聞き覚えのある声だけど——
「ばあ!」
「うわあ!」
とっ、突然目の前に右半身タコで左半身イカのバケモノが——!
……あれ?
「……パイシス?」
「あはは、驚いたろ」
それは先日レオの家に遊びに来た悪魔——パイシスだった。
「なんでこんなところに?」
「いやね、そろそろ海鮮ブームも廃れてこんどは犬かなと思って野犬を追ってたんだけど、なんかすごい魔力の気配があったから来てみたのね。したら君らがいるじゃん? けどまじめな話してるから出にくくってさあ。しょうがないから隠れて聞いてたわけよ」
さすがは悪魔。レオに気配を悟られずにいられるなんて只者じゃない。それに結界だってお構いなしだし、ほかの者たちとは一線を画している。
「で、飼うのか?」
レオはバカを見るときの目でフンと鼻息をした。気がつけば殺気は消え、色も元に戻っている。パイシスはへへへと笑い、
「おれ、前から常識知らずのバカお嬢様を飼ってみたかったんだ。悪いようにはしないからさ、おれにくれない?」
「そうだな……本当はわたしがほしかったんだが、そこは本人に訊いてみよう」
とヴルペクラに目を向けた。
「あの、これは……」
ヴルペクラはおずおずしていた。まあ、こんな意味不明な姿を見たらそうなるよね。ぼくらは彼が悪魔で、悪魔に飼われることがいかに幸運なことか教えてあげた。
「どうする? おれと来ればおもしろおかしいぜ。いまなら本物そっくりのタコとイカにかたちを変えるレクチャーをしてやる」
ヴルペクラはまさかそこに魅力を感じたわけじゃないと思うけど、少し逡巡したのち、
「よろしくお願いします」
と言った。
「やったあ! じゃあおれがタコをやるからおまえはイカな! ああ、たのしみだなあ!」
「ところで……」
とレオは腕を組み、
「こいつをどうしてやろうか」
と、倒れたまま動かない精に視線を向けた。
「ずいぶん古臭い格好のヤツだな。君があそこまで怒るなんてなにをしたんだい?」
「それがな……」
レオはこれまでの経緯をパイシスに話した。すると、
「なに? 悪魔を語ってひとをだましたって? そりゃ許せないな」
「わたしもまだ許せないんだが、どうしたものか」
「よし、おれにいい考えがある。ブラックホールにぶち込んでべこべこに潰してやろう」
「なんだそのブラックホールとやらは」
「はるか遠くにあるすげえ重いところさ。そこではすべてのものが潰される」
「それじゃすぐに死んでしまうんじゃないのか?」
「うん。だから少し細工して潰れないようにしてやろう。あそこはすさまじいエネルギーが発生するから魔力切れになることはないだろうし、きっと簡単には死ねないぞ」
「それはいい。ぜひやってくれ」
なんだかすごく怖いこと話してるなぁ。さすがにそれはやりすぎなんじゃないかな? たしかにぼくもムカっ腹は立ったけど、ちょっと気の毒だよ。
でもまあ、しょうがないか。だってレオを怒らせちゃったんだから。だれもレオを怒らせちゃいけないっていうのにね。
深々と突き刺さったナイフの切れ目から赤い鮮血がドクドクと流れた。
「なんだ、きさまらは」
精は言った。しかしレオは答えず、
「わたしとしたことが、なぜこんな簡単なことに気づかなかったんだ……くそっ」
と吐き捨てるように言った。
元々レオはヴルペクラのいのちなんかどうでもよかった。むしろ殺されるのを待って、魂だけをかっさらって行くのが本来のやり方だ。しかしぼくの願いを叶えられなかったことと、食器の用途を予測できなかったことがプライドに触ったのだろう。レオはくっきりと眉をひそめ、ひどく苛立っていた。
ぼくはゆっくりとクローゼットから足を踏み出し、うつ伏せに倒れるヴルペクラの傍にかがみ込んだ。
「ヴルペクラ……」
そっと彼女の肩に触れた。もう息はしていなかった。肌はまだあたたかい。しかしひどく冷たく感じた。いのちを失い、急激に生命の熱が失われていくのがわかった。
哀れだ……
愛する男に裏切られ、復讐に狂い、だまされ、最後は殺されてしまう。これが哀れでなくてなんだ。こんな哀れなことがあってたまるか。こんなこと、許されてたまるか!
「きさまらはなんだと訊いているのだ。応えんか!」
精はぼくに向かって怒りとともにナイフを振り下ろした。ぼくは死んでいくヴルペクラを見つめながら、床に落ちている壊れた傘を拾い、薙ぎ払った。
「む!」
精は狼狽の色を見せた。まさかぼくが剣の達人だなんて思わなかったんだろう。
だけどそんなことどうでもいい。ぼくは哀しんでいた。ぼくは怒りに燃えていた。どうして……どうしてひとを愛しただけでこんなことにならなくちゃいけないんだ!
「うあああ!」
ぼくは力いっぱい傘を振り、精の手からナイフをはたき落とした。そしてすぐさまそれを拾い、クソッタレのカスやろうを思い切り斬りつけてやった。
「ぐお」
ヤツは腕でナイフを受け止め、切断された手が吹き飛んだ。それが床に落ち、しゅうしゅうと煙のように消えてゆくのが涙でぼやける視界の隅に映った。
「ひとの弱さにつけ込みやがって……ちくしょう! ちくしょう!」
ぼくはブチ切れていた。頭がカッとなって意識が真っ赤だった。ヤツは失った腕をもこもこ再生し、表情のないヤギの目でぼくをじっと見据え、罪の意識などまるでない声で、
「弱さにつけ込んでなにが悪い。われは少しばかり贅沢な食事をしただけだ。きさまら人間が狩りをするのとおなじだ。責められるいわれなどない」
「そんなわけあるか! おまえは最低だ! おまえは弱者をいたぶって殺したんだ! おなじなんかじゃない!」
ぼくの怒りは最高潮に達していた。頭の血管がドクドク言ってるのがわかる。体中の血が煮えたぎって吹き出してしまいそうだ。
そんなぼくの横にスッとレオが立ち、ヤツに向かって、
「そうかもしれんな」
と、そっけなく言った。
「えっ!?」
「たしかにきさまの言う通り、きさまのやったことは我々の狩りと大差ないかもしれん。罪に問うことはできないだろう」
「そ、そんな……」
ぼくはどうしてレオがそんなことを言うのかわからなかった。だって、どう考えたってひどいじゃないか。
「そうだろう。われはただ食事をしただけ。それがわかったらおとなしくその女から離れよ」
「だが……」
レオはふっと肩の力を抜き、気だるい声で、
「きさまは大罪を犯した」
「なに?」
「きさまはこの世で最も重い悪行をしでかした」
「われがなにをしたと言うのだ」
「なにをしただと……?」
レオはため息を吐くようにゆるく目を閉じ、天を仰いだ。そして、怒りに燃えた瞳をカッと見開き、
「きさまはわたしのアーサーを悲しませた! わたしのアーサーに刃を向けた! 万死! 獄死に値する! 決して許されると思うな!」
途端、突風のような殺気が部屋全体を駆け抜けた。空気が痺れ、いかづちの落ちるような衝撃が疾った。レオの魔力が暴走している。人間の発することのできる限界を超えた膨大な魔力があふれ出し、小さな稲妻となってレオの周囲でビリビリと弾けた。
レオの体は魔力で赤く染まっていた。緑色の鮮やかな髪は真紅に染まり、エメラルドの瞳はルビーのごとく燃えていた。肌もうっすら赤みが強くなっている。
魔力は濃さによって色合いが違い、赤、緑、青の順に濃い。腕の立つ魔術師は常に赤い魔力を使うというが、どれほどすごい魔術師でも自身の色が変わるほど強い魔力を発したという話は聞いたことがない。ただ唯一、レオが本気で頭に来たときだけ、ぼくはそれをまのあたりにする。
「おお! おお!」
精は悶え、苦しんでいた。かたちのないものは魔力に敏感で、いまのレオの魔力は殺意そのものだ。それが部屋全体に渦巻いているのだから、かなりの苦痛に違いない。肉体のあるぼくでさえ肌にビリビリと重い刺激を感じる。
「痛いか! 苦しいか! だが、まだはじまってもいないぞ!」
直後、精の全身を真っ赤ないかづちが貫いた。
「おおお!」
「どうだ、効くだろう! これを痛いと言うのだ! これを苦しいと言うのだ! だが、これではまだアーサーの受けた悲しみのほんの爪先にも満たない!」
次に現れたのは炎だった。それが蛇のように精の全身を這い回り、目や口、鼻、耳、肛門、男性器、穴という穴から入り込んでいく。
「おおお、おおおお!」
「熱いだろう! 死んでしまいそうだろう! まだ殺さん! この世に生まれたことを後悔し、殺してくれと悲鳴を上げてもまだ許さん! いつまでも死ねんよう、わたしの魔力で生かし続けてやる!」
精は逃げ出そうともがいた。しかし逃げられない。レオは”魂売り”だ。かたちのないものの扱いはだれよりもよく知っている。精はすでに見えない牢獄の中にいた。
「次は針だ!」
「次は圧殺だ!」
「次はやすりだ!」
レオはそこに地獄を創った。生きながらにして死よりもつらい苦痛を与え続ける。これが地獄でなくてなにが地獄だろう。
「まだだ! まだわたしの気は晴れない! いつまでもこうしてやる! いつ終わるのかと不安だろう! 終わらん! きさまは永遠に苦しむのだ!」
「レオ……」
「アーサー、退がっていろ! もう気が済んだなどと言うのはなしだ!」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
レオは赤い瞳のまま、ぼくの方を見た。そして、やっとそれに目をやった。
「おまえは……」
レオは怒り狂うあまり気づいていなかったけど、ぼくはすぐ傍にいたから気づいていた。
ヴルペクラの死体の上に、彼女の亡霊が立っていた。
美しいドレス姿の彼女は、もう歪んだ顔をしていなかった。そのかわり半透明で、すべてが空のように青い。
レオの魔法が止まり、ドサリ、と精が倒れ込んだ。静寂が訪れ、空気が闇に似た暗さを持った。
「アーサー様、とおっしゃいましたね」
ヴルペクラは言った。
「ああ、アーサー様……わたくしのために泣いてくださったのですね。わたくしのために哀しんでくださったのですね」
「ヴルペクラ……」
「わたくしのために怒り、戦ってくださったのですね」
ヴルペクラは泣いていた。悲しそうに、しかし、うれしそうに。
「ありがとうございます。あなたのおかげでなんと救われたことでしょう」
「そんな……救えてないよ。だって、君は……死んじゃったじゃないか」
「いいえ、救っていただきました。だからこうして、あたたかい気持ちでお話できるのです」
そう言ってヴルペクラはニッコリ笑った。ぼくはなんだか胸がぎゅうっと熱くなって、涙がぼろぼろ止まらなくなった。
救えてなんかない。救えてなんかないよ。死んじゃったよ……それなのに、どうして笑ってるんだよ。
「アーサー、おまえはこの女を救ったんだ」
「レオ……」
レオはぼくの傍に来て、やさしく言った。
「おまえのやさしさで、この女は恨みを忘れたんだ。憎しみも、悲しみも、おまえの涙で消え去ったんだ。見ろ、あの顔のどこに憎しみがある。晴れやかじゃないか」
その言葉にうなずくように、ヴルペクラが微笑んだ。
……ああ、そうなんだね。救われたんだね。あんなに恐ろしい顔をしていた君が、こんなにもやさしい笑顔になれたんだね。いのちは助けられなかったけど、憎しみや苦しみからは解放されたんだね。
「アーサー……」
えぐえぐと泣きじゃくるぼくの両肩を、レオがやさしく背後から抱いてくれた。ぼくは嗚咽が止まらなくてなにも言えなかったけど、レオもなにも言わなかった。
「ああ、うらやましい……」
ヴルペクラはなげくような笑顔で呟いた。そして姿勢を正し、
「魂売りのレオ様、このたびはご迷惑をおかけしました」
「なに、金はもらっている。我々は覗き見していただけだ」
「いいえ、レオ様がいなければ、アーサー様がいなければ、たとえわたくしは殺されなくとも、依然憎しみにとらわれたままだったでしょう」
「まあ、そうだな」
レオがそう言うと、ヴルペクラはクスリと笑った。たまにはレオのストレートな言い方が場を和ませることもある。そんな中、
「ところで、ひとつお伺いしたいことがあるのですが……」
ヴルペクラはおずおずと、ややバツが悪そうに言った。
「なんだ?」
「ひとは死ぬとどうなるのでしょう」
「ふむ……」
ヴルペクラの疑問はもっともだ。こころが救われたとはいえ、死んでしまったのだから、その後どうなるか気になるのは当然だろう。”魂売り”というプロフェッショナルなら知っていそうなものだ。しかしレオの答えは、
「わからん」
「存じません……?」
「ああ。魂は放っておけば消えてしまう。おそらく空気中の魔力に溶けて、世界と同化するのだと思われる」
「まあ……」
ヴルペクラは平静を保ちながらも小さく肩を落とした。世界と同化する——それはつまり、自分が消えてしまうということだろう。よく慌てずにいられるなぁ。
「しかし確証のないことだから、あくまで想像だ。もしおまえが、おまえのままでいたいのなら、いくつか選択肢がある。ひとつはわたしに捕らえられ、商品として売られるのを待つこと。ひとつは人形などひと型のものや、生きた人間に取り憑き、器を得ること。それか——」
「おれに飼われるってのはどうだい?」
突如どこからともなく声がした。いったいだれの声なのか。どこにいるのか。なんとなく聞き覚えのある声だけど——
「ばあ!」
「うわあ!」
とっ、突然目の前に右半身タコで左半身イカのバケモノが——!
……あれ?
「……パイシス?」
「あはは、驚いたろ」
それは先日レオの家に遊びに来た悪魔——パイシスだった。
「なんでこんなところに?」
「いやね、そろそろ海鮮ブームも廃れてこんどは犬かなと思って野犬を追ってたんだけど、なんかすごい魔力の気配があったから来てみたのね。したら君らがいるじゃん? けどまじめな話してるから出にくくってさあ。しょうがないから隠れて聞いてたわけよ」
さすがは悪魔。レオに気配を悟られずにいられるなんて只者じゃない。それに結界だってお構いなしだし、ほかの者たちとは一線を画している。
「で、飼うのか?」
レオはバカを見るときの目でフンと鼻息をした。気がつけば殺気は消え、色も元に戻っている。パイシスはへへへと笑い、
「おれ、前から常識知らずのバカお嬢様を飼ってみたかったんだ。悪いようにはしないからさ、おれにくれない?」
「そうだな……本当はわたしがほしかったんだが、そこは本人に訊いてみよう」
とヴルペクラに目を向けた。
「あの、これは……」
ヴルペクラはおずおずしていた。まあ、こんな意味不明な姿を見たらそうなるよね。ぼくらは彼が悪魔で、悪魔に飼われることがいかに幸運なことか教えてあげた。
「どうする? おれと来ればおもしろおかしいぜ。いまなら本物そっくりのタコとイカにかたちを変えるレクチャーをしてやる」
ヴルペクラはまさかそこに魅力を感じたわけじゃないと思うけど、少し逡巡したのち、
「よろしくお願いします」
と言った。
「やったあ! じゃあおれがタコをやるからおまえはイカな! ああ、たのしみだなあ!」
「ところで……」
とレオは腕を組み、
「こいつをどうしてやろうか」
と、倒れたまま動かない精に視線を向けた。
「ずいぶん古臭い格好のヤツだな。君があそこまで怒るなんてなにをしたんだい?」
「それがな……」
レオはこれまでの経緯をパイシスに話した。すると、
「なに? 悪魔を語ってひとをだましたって? そりゃ許せないな」
「わたしもまだ許せないんだが、どうしたものか」
「よし、おれにいい考えがある。ブラックホールにぶち込んでべこべこに潰してやろう」
「なんだそのブラックホールとやらは」
「はるか遠くにあるすげえ重いところさ。そこではすべてのものが潰される」
「それじゃすぐに死んでしまうんじゃないのか?」
「うん。だから少し細工して潰れないようにしてやろう。あそこはすさまじいエネルギーが発生するから魔力切れになることはないだろうし、きっと簡単には死ねないぞ」
「それはいい。ぜひやってくれ」
なんだかすごく怖いこと話してるなぁ。さすがにそれはやりすぎなんじゃないかな? たしかにぼくもムカっ腹は立ったけど、ちょっと気の毒だよ。
でもまあ、しょうがないか。だってレオを怒らせちゃったんだから。だれもレオを怒らせちゃいけないっていうのにね。
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偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
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