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第十話 呪術師ライブラ
呪術師ライブラ 五
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ぼくらはしんと黙って声を聞いていた。
ライブラは言った。
——赤ん坊をそこに寝かせて、あんただけこっちに来てくれないかい?
——はい。
それからややあって、ガチャリと金属音が鳴った。
「かごを開いたな」
とレオが呟いた。
「しかしあの魂でどうやって……」
そう彼女が疑問を浮かべる下で、
——あたしがいいと言うまで目をつぶってな。ひとこともしゃべるんじゃないよ。
とライブラが言い、なにやら呪文を唱えはじめた。
呪術は言葉を使う。言葉を直接相手に聞かせることで催眠術のようにこころを操作したり、呪文によって精神をエネルギーに変換して術を行う。
その言葉はぼくらの使う言語ではなく、古い異国の言葉から成る。
「これは……」
レオはライブラの呪文を聴き、なるほどとうなずいた。
「共鳴か」
「共鳴?」
「いまライブラは、依頼人のこころと、過労死した主婦のこころを共鳴させている」
「どういうこと?」
「ひとは他人とおなじ感情を持つと、それが共鳴して大きくなるんだ。たとえば我々がふたりでおなじ料理を食ったとしよう。そのときふたりともうまいと感じ、それを評し合ったとする。すると我々はひとりで食うときよりうまいと感じたり、あるいは快く思う。それは我々のこころが共鳴し、高め合うからだ」
ふぅん……そういうものなのか。ぼくはてっきり愛するひとと食事をするからなんでもおいしく感じるのかと思ったよ。これからはもっと「おいしいね!」って言おう。
「そしてライブラは呪術でそれを行なっている。呪文によりそれぞれのこころに精神の音をぶつけ、共鳴させ続けることでこころの音をぐんぐん上げている」
「そうするとどうなるの?」
「聞いてみろ」
ぼくは床下の音に注目した。すると、
——う、うう……ううううっ!
依頼人が泣いていた。赤ん坊や夫を起こさないためか、抑え込んではいるが、それでも強い声が漏れてしまっている。
それはのどを締めるような濁った声だった。
「泣いてる……なんで?」
「感情が大きくなっているからだ」
「夫に対する怒りが?」
「……平たく言えばそんなものだな。しかしそう単純な精神ではない。もっと哀しい、打ちひしがれるような気持ちだ」
ライブラの詠唱が続いた。依頼人の嗚咽はますますひどくなり、なんだかこっちまで悲しくなってくる。
そんな中、ある変化があった。
「なんだか寒いね……」
「だろう。だが実際には寒くない。これは、ひとの魂に直接触れるほどの強いエネルギーが近くにある証拠だ。よく心霊現象の起こる場所は空気が冷たいというだろう。あれは強い霊がいるから起こる」
「じゃあ下に強い霊がいるの?」
「そうだな……人工的な霊が造られていると考えれば、それが正解だ。もっとも、自身の意思を持たない道具のような存在だがな」
……なんだかよくわからないけどすごいなぁ。霊を造るなんて考えらんないや。レオはライブラを一流の呪術師と見込んだけど、きっとそうなんだろうね。
そんなライブラは呪文を終えたらしく、依頼人に声をかけた。
——よく我慢したね。終わったよ。
依頼人はまだ少し泣いているが、荒い息をしながら合間に言葉を発した。
——い……いったいなにを……されたんですか?
——あんたの気持ちを使って呪いの力を生み出したのさ。いまあたしの手の上には、恐ろしい呪いの”もと”があるんだよ。
——そこに……呪いが……
——ああ。あんたにゃ見えないだろうけどね。
——じゃあ、それを使って……
——そういうことさぁ。
そう言ってライブラは再び呪文を唱えた。先ほどのものとは口調が違う。おなじ単語をなんどもなんども、ぶつけるような口調で繰り返している。
「そろそろか」
そう言うとレオは立ち上がり、夫が眠る部屋の上の覗き穴に向かった。
「なになに? なにが起こるの?」
ぼくは彼女について行った。同時にデネボラとゾスマもついて来た。
「アーサー、デネボラ。おまえたちは見ない方がいいかもしれん」
え、なんで? 呪術師がどんなことをするのか気になるじゃないか。
「そうですぅ。わたしも見たいですぅ」
「なら別に構わんが、さっきも言ったように絶対に手出しをするなよ」
「うん、約束する」
「はぁい」
「じゃ、光を消すぞ。もうはじまるからな」
そう言ってレオは屋根裏部屋を照らしていた明かりを消した。すると窓から差し込む月明かりだけになり、かろうじて穴の位置がわかる程度の暗さになった。
寝室は薄闇に包まれていた。なんとなくベッドがあることはわかる。どうやらひとが寝ているらしいことも。だが、ほかはなにも見えない。
そんな中、
——ぎぃっ。
扉が開いた。
扉の向こうも闇だった。
しかし、それははっきりと見えた。
青白い煙のようなものが人間のかたちをしていた。
”それ”が部屋に入り、静かに扉が閉まった。
”それ”は、音もなく歩いた。
ゆっくりと、泥にはまった足を引き抜くような重い歩みだった。
やがて、ベッドの横に立った。そしてじいっといびきの出どころを見つめた。
数分、佇んでいた。
が、あるときふっと消えた。
跡形もなくいなくなった。
再びぼくらの視界は薄闇だけになった。
そう思った直後、
——うう!
夫が叫んだ。
——ううう! ううう!
ばたばた、ばたばた、と手足がもがいた。
——ううう! ううう!
上半身が暴れた。のけ反り、ひねり、前にのめり、振り回し、全身でのたうち回った。
その両手は胸を押さえている。いや、よく見ると寝巻きの胸の部分をつかんで引っ張っている。
右手でつかんで引っ張り、左手でつかんでひっぱり、また右手でつかんで引っ張り……それを素早くなんども繰り返した。生地が破けても自分の肉をつかむいきおいで続けた。
ぼくは震えていた。なにか恐ろしいことが起きている。だが、わからない。隣を見るとデネボラはもう見るのをやめて震えていた。
「レオ、これは……」
「おまえの霊感じゃ、まだ見えないか」
「なにが起きてるの? あのひとは苦しんでるの?」
「そうだ」
「そんな、どうして?」
「呪い殺されるからに決まっているだろう」
「えっ!?」
そ、そんな……ぼくはてっきり夫を改心させるものだとばかり思っていた。酒飲みや遊びをやめて、家族を愛するよう呪いをかけるのかと思った。それなのに、殺すなんて!
「アーサー、先ほど白い煙のようなものが見えたか?」
「うん」
「あれが”呪い”だ。妻が夫を殺したいという恨みごころが共鳴によって肥大化したものだ。そしていま”呪い”は夫と重なり、魂の”芯”を直接握り潰そうとしている」
「芯……?」
「肉体でいう心臓の部分だ。魂はそこに芯を持つ」
へえ、魂ってそういうものなのか。でも怖いなぁ。だってそれってつまり、幽霊は生きた人間を呪い殺せるってことでしょ?
「いや、ふつうはそんなことはできない。生き物の魂は、容れ物——すなわち肉体に守られているし、そもそも自由に使えるエネルギー量が桁違いだ。並大抵の霊では、まず生きた人間になど触れられない。だが、あれほどの怨念なら直接干渉することも可能だろう。まったく、ひとのこころは恐いな」
そう言ってレオは穴を覗いた。
なおも夫のうめきは続いた。ベッドや壁を叩く音がより激しくなった。
ぼくはそれが怖くて、いやで、助けたい気持ちが込み上げた。が、
「アーサー、手を出すなよ」
レオはぼくのこころを見透かしたように言った。
「これは依頼人が望んだことだ。仕事を受けていない我々に手を出していいものではない。それにライブラに気づかれでもしてみろ。あれほどの腕だ。いくらわたしとて、やり合えばどうなるかわからん。もしここで階段を降りて助けにいくようなことをすれば、わたしはもう二度とおまえに脇のにおいをかがせてやらんぞ」
「ぐっ……」
それだけは困る。もしそうなれば、ぼくの人生が崩壊してしまう。
ぼくはこらえた。助けに行きたい気持ちを押し殺し、目をつぶって耳を塞いだ。
それでも声は響いた。
「ううう」という声は、いつからか「あああ!」に変わっていた。
そして、やがて、声は途絶えた。
「死んだか……」
レオがため息のような声で呟いた。
気づけば、赤ん坊が泣いていた。
おぎゃあ、おぎゃあ。
よしよし、ほーら、泣かない、泣かない。
おぎゃあ、おぎゃあ。
よしよーし、いい子、いい子。
それはまるで、ごくあたりまえな家庭の声だった。
父がいて、母がいて、その愛の証がやかましく泣く。母は困り、疲れ果てながらも、なによりも愛おしい我が子を笑顔であやす。そんな微笑ましい光景が浮かぶ母子の声だった。
それが、ひどく遠く感じる。
「なんで……」
ぼくはぽつりと言った。
「なんで殺さなきゃならなかったのかな……」
涙がこぼれた。
「だって、愛し合って結婚したのに……子供ができて、こんな立派な家まで建てて、どうして殺さなきゃいけなかったのかな」
「アーサー……」
レオはぼくの体をそっと抱いた。そして、静かに言った。
「人間というのは、思ったようには生きられん。どれだけ愛していても、どれだけ自分を律しようとしても、間違ってしまう」
ぼくの頭をレオの手がやさしく撫でた。
「人間は弱いな……」
レオの言うことはよくわからなかった。だけどレオがとてもやさしいことだけはよくわかった。とてもあたたかい声だった。
ふと、床下からドアの開く音が聞こえた。
「む、来たな」
レオはそう言ってぼくから手を離し、穴を覗き込んだ。
——終わったの?
——……死んだって意味なら、そうさねぇ。
——そう……終わったの。
それからひとの歩く音がした。そして衣擦れのような音がし、しばらくの沈黙。
——脈はあるかい?
——……いいえ。
——じゃ、終わりさ。よかったねぇ、乱暴者がいなくなって。
——はい。
——これからは親子ふたり、苦しいだろうけどしっかり生きていくんだよ。
——…………はい。
——約束だよ! わかったね!
——…………………………はい。
——……じゃ、金をもらうよ。
そう会話を締めくくり、ドアの閉まる音が響いた。
静寂が訪れた。
(なんだろう……)
どうしてライブラは強い声を出したりしたんだろう。
どうして奥さんはあんな煮え切らない返事をするんだろう。
妙な胸騒ぎがする。
なにかいやな予感がする。
ひとがひとり殺されたっていうのに、そんなことどうでもよくなるほどのいやな予感がぼくの肩にどろりと覆い被さった。
ライブラは言った。
——赤ん坊をそこに寝かせて、あんただけこっちに来てくれないかい?
——はい。
それからややあって、ガチャリと金属音が鳴った。
「かごを開いたな」
とレオが呟いた。
「しかしあの魂でどうやって……」
そう彼女が疑問を浮かべる下で、
——あたしがいいと言うまで目をつぶってな。ひとこともしゃべるんじゃないよ。
とライブラが言い、なにやら呪文を唱えはじめた。
呪術は言葉を使う。言葉を直接相手に聞かせることで催眠術のようにこころを操作したり、呪文によって精神をエネルギーに変換して術を行う。
その言葉はぼくらの使う言語ではなく、古い異国の言葉から成る。
「これは……」
レオはライブラの呪文を聴き、なるほどとうなずいた。
「共鳴か」
「共鳴?」
「いまライブラは、依頼人のこころと、過労死した主婦のこころを共鳴させている」
「どういうこと?」
「ひとは他人とおなじ感情を持つと、それが共鳴して大きくなるんだ。たとえば我々がふたりでおなじ料理を食ったとしよう。そのときふたりともうまいと感じ、それを評し合ったとする。すると我々はひとりで食うときよりうまいと感じたり、あるいは快く思う。それは我々のこころが共鳴し、高め合うからだ」
ふぅん……そういうものなのか。ぼくはてっきり愛するひとと食事をするからなんでもおいしく感じるのかと思ったよ。これからはもっと「おいしいね!」って言おう。
「そしてライブラは呪術でそれを行なっている。呪文によりそれぞれのこころに精神の音をぶつけ、共鳴させ続けることでこころの音をぐんぐん上げている」
「そうするとどうなるの?」
「聞いてみろ」
ぼくは床下の音に注目した。すると、
——う、うう……ううううっ!
依頼人が泣いていた。赤ん坊や夫を起こさないためか、抑え込んではいるが、それでも強い声が漏れてしまっている。
それはのどを締めるような濁った声だった。
「泣いてる……なんで?」
「感情が大きくなっているからだ」
「夫に対する怒りが?」
「……平たく言えばそんなものだな。しかしそう単純な精神ではない。もっと哀しい、打ちひしがれるような気持ちだ」
ライブラの詠唱が続いた。依頼人の嗚咽はますますひどくなり、なんだかこっちまで悲しくなってくる。
そんな中、ある変化があった。
「なんだか寒いね……」
「だろう。だが実際には寒くない。これは、ひとの魂に直接触れるほどの強いエネルギーが近くにある証拠だ。よく心霊現象の起こる場所は空気が冷たいというだろう。あれは強い霊がいるから起こる」
「じゃあ下に強い霊がいるの?」
「そうだな……人工的な霊が造られていると考えれば、それが正解だ。もっとも、自身の意思を持たない道具のような存在だがな」
……なんだかよくわからないけどすごいなぁ。霊を造るなんて考えらんないや。レオはライブラを一流の呪術師と見込んだけど、きっとそうなんだろうね。
そんなライブラは呪文を終えたらしく、依頼人に声をかけた。
——よく我慢したね。終わったよ。
依頼人はまだ少し泣いているが、荒い息をしながら合間に言葉を発した。
——い……いったいなにを……されたんですか?
——あんたの気持ちを使って呪いの力を生み出したのさ。いまあたしの手の上には、恐ろしい呪いの”もと”があるんだよ。
——そこに……呪いが……
——ああ。あんたにゃ見えないだろうけどね。
——じゃあ、それを使って……
——そういうことさぁ。
そう言ってライブラは再び呪文を唱えた。先ほどのものとは口調が違う。おなじ単語をなんどもなんども、ぶつけるような口調で繰り返している。
「そろそろか」
そう言うとレオは立ち上がり、夫が眠る部屋の上の覗き穴に向かった。
「なになに? なにが起こるの?」
ぼくは彼女について行った。同時にデネボラとゾスマもついて来た。
「アーサー、デネボラ。おまえたちは見ない方がいいかもしれん」
え、なんで? 呪術師がどんなことをするのか気になるじゃないか。
「そうですぅ。わたしも見たいですぅ」
「なら別に構わんが、さっきも言ったように絶対に手出しをするなよ」
「うん、約束する」
「はぁい」
「じゃ、光を消すぞ。もうはじまるからな」
そう言ってレオは屋根裏部屋を照らしていた明かりを消した。すると窓から差し込む月明かりだけになり、かろうじて穴の位置がわかる程度の暗さになった。
寝室は薄闇に包まれていた。なんとなくベッドがあることはわかる。どうやらひとが寝ているらしいことも。だが、ほかはなにも見えない。
そんな中、
——ぎぃっ。
扉が開いた。
扉の向こうも闇だった。
しかし、それははっきりと見えた。
青白い煙のようなものが人間のかたちをしていた。
”それ”が部屋に入り、静かに扉が閉まった。
”それ”は、音もなく歩いた。
ゆっくりと、泥にはまった足を引き抜くような重い歩みだった。
やがて、ベッドの横に立った。そしてじいっといびきの出どころを見つめた。
数分、佇んでいた。
が、あるときふっと消えた。
跡形もなくいなくなった。
再びぼくらの視界は薄闇だけになった。
そう思った直後、
——うう!
夫が叫んだ。
——ううう! ううう!
ばたばた、ばたばた、と手足がもがいた。
——ううう! ううう!
上半身が暴れた。のけ反り、ひねり、前にのめり、振り回し、全身でのたうち回った。
その両手は胸を押さえている。いや、よく見ると寝巻きの胸の部分をつかんで引っ張っている。
右手でつかんで引っ張り、左手でつかんでひっぱり、また右手でつかんで引っ張り……それを素早くなんども繰り返した。生地が破けても自分の肉をつかむいきおいで続けた。
ぼくは震えていた。なにか恐ろしいことが起きている。だが、わからない。隣を見るとデネボラはもう見るのをやめて震えていた。
「レオ、これは……」
「おまえの霊感じゃ、まだ見えないか」
「なにが起きてるの? あのひとは苦しんでるの?」
「そうだ」
「そんな、どうして?」
「呪い殺されるからに決まっているだろう」
「えっ!?」
そ、そんな……ぼくはてっきり夫を改心させるものだとばかり思っていた。酒飲みや遊びをやめて、家族を愛するよう呪いをかけるのかと思った。それなのに、殺すなんて!
「アーサー、先ほど白い煙のようなものが見えたか?」
「うん」
「あれが”呪い”だ。妻が夫を殺したいという恨みごころが共鳴によって肥大化したものだ。そしていま”呪い”は夫と重なり、魂の”芯”を直接握り潰そうとしている」
「芯……?」
「肉体でいう心臓の部分だ。魂はそこに芯を持つ」
へえ、魂ってそういうものなのか。でも怖いなぁ。だってそれってつまり、幽霊は生きた人間を呪い殺せるってことでしょ?
「いや、ふつうはそんなことはできない。生き物の魂は、容れ物——すなわち肉体に守られているし、そもそも自由に使えるエネルギー量が桁違いだ。並大抵の霊では、まず生きた人間になど触れられない。だが、あれほどの怨念なら直接干渉することも可能だろう。まったく、ひとのこころは恐いな」
そう言ってレオは穴を覗いた。
なおも夫のうめきは続いた。ベッドや壁を叩く音がより激しくなった。
ぼくはそれが怖くて、いやで、助けたい気持ちが込み上げた。が、
「アーサー、手を出すなよ」
レオはぼくのこころを見透かしたように言った。
「これは依頼人が望んだことだ。仕事を受けていない我々に手を出していいものではない。それにライブラに気づかれでもしてみろ。あれほどの腕だ。いくらわたしとて、やり合えばどうなるかわからん。もしここで階段を降りて助けにいくようなことをすれば、わたしはもう二度とおまえに脇のにおいをかがせてやらんぞ」
「ぐっ……」
それだけは困る。もしそうなれば、ぼくの人生が崩壊してしまう。
ぼくはこらえた。助けに行きたい気持ちを押し殺し、目をつぶって耳を塞いだ。
それでも声は響いた。
「ううう」という声は、いつからか「あああ!」に変わっていた。
そして、やがて、声は途絶えた。
「死んだか……」
レオがため息のような声で呟いた。
気づけば、赤ん坊が泣いていた。
おぎゃあ、おぎゃあ。
よしよし、ほーら、泣かない、泣かない。
おぎゃあ、おぎゃあ。
よしよーし、いい子、いい子。
それはまるで、ごくあたりまえな家庭の声だった。
父がいて、母がいて、その愛の証がやかましく泣く。母は困り、疲れ果てながらも、なによりも愛おしい我が子を笑顔であやす。そんな微笑ましい光景が浮かぶ母子の声だった。
それが、ひどく遠く感じる。
「なんで……」
ぼくはぽつりと言った。
「なんで殺さなきゃならなかったのかな……」
涙がこぼれた。
「だって、愛し合って結婚したのに……子供ができて、こんな立派な家まで建てて、どうして殺さなきゃいけなかったのかな」
「アーサー……」
レオはぼくの体をそっと抱いた。そして、静かに言った。
「人間というのは、思ったようには生きられん。どれだけ愛していても、どれだけ自分を律しようとしても、間違ってしまう」
ぼくの頭をレオの手がやさしく撫でた。
「人間は弱いな……」
レオの言うことはよくわからなかった。だけどレオがとてもやさしいことだけはよくわかった。とてもあたたかい声だった。
ふと、床下からドアの開く音が聞こえた。
「む、来たな」
レオはそう言ってぼくから手を離し、穴を覗き込んだ。
——終わったの?
——……死んだって意味なら、そうさねぇ。
——そう……終わったの。
それからひとの歩く音がした。そして衣擦れのような音がし、しばらくの沈黙。
——脈はあるかい?
——……いいえ。
——じゃ、終わりさ。よかったねぇ、乱暴者がいなくなって。
——はい。
——これからは親子ふたり、苦しいだろうけどしっかり生きていくんだよ。
——…………はい。
——約束だよ! わかったね!
——…………………………はい。
——……じゃ、金をもらうよ。
そう会話を締めくくり、ドアの閉まる音が響いた。
静寂が訪れた。
(なんだろう……)
どうしてライブラは強い声を出したりしたんだろう。
どうして奥さんはあんな煮え切らない返事をするんだろう。
妙な胸騒ぎがする。
なにかいやな予感がする。
ひとがひとり殺されたっていうのに、そんなことどうでもよくなるほどのいやな予感がぼくの肩にどろりと覆い被さった。
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