上 下
5 / 10

第四章 虎口を脱す

しおりを挟む
   第四章  虎口を脱す

     一

 下野小山を出立した信高と光嘉は、三河吉田まで七日かけて陸路を行き、そこから海路に移って伊勢湾を横断、それぞれの城へ戻るという方策を立てた。
 船出の日――八月一日は、穏やかな好天に恵まれた。
「我等の命運も、この空のように晴れやかなものであってくれればよいのですが……」
 信高の呟きに、
「まずは、この空模様が伊勢まで持ってくれることを祈るべきだろうな」
 光嘉は皮肉な調子で応じた。実際、悪天候に見舞われて伊勢へ辿り着くのが遅れ、敵に先んじられてしまえば、その時点ですべてが無に帰してしまうのだ。
 かくて彼等は船出する。
 そうした心配を他所に、船旅は順調そのものだった。波は終始穏やかで、このまま行けば予定どおりか、むしろそれよりも早く上陸を果たすことができそうであった。
「まずはひと安心だな」
霞の向こうにぼんやりと浮かんできた伊勢の山々を見つめながら、
「しかし、肝腎なのはこれからだ。勢いに乗って攻め寄せてくるであろう――いや、既に目の前まで押し寄せているかもしれぬ敵に、いかにして相対するか……。とりあえず敵の動きを詳しく知りたい。むろん兵数もな。あと、できることならば、それを率いている武将の名もだ。それによって、対策の講じようもずいぶん違ってくるからな」
 光嘉がそう言ったときである。不意に兵たちがざわめき始めた。
「何事か」
 厳しい口調で問うと、兵が怯えた様子で告げる。
「敵です」
「なにッ!」
 光嘉は弾かれたように顔を上げ、目を細めて前方を凝視した。
 なるほど、うっすらとではあるが、靄の向こうから小船団がこちらへ近づいてくるのが確認できる。
「敵とはかぎるまい」
 光嘉の洩らした、いくぶん希望的な観測に、兵は激しく首を振ってみせた。
「間違いなく敵でございます。旗印をご覧くださいませ」
「旗印だと」
 ふたたび前を向き、いっそう目を凝らしてみたが、ここからでは距離がありすぎて、旗印までは確認することができない。
「よく見えぬ」
「私は漁師の倅でございます。幼いころより海を眺めながら育ちましたゆえ、人よりも遠くのものを正確に見極めることができます。あの船団がはためかせているのは、七つ星の旗印に相違ございませぬ」
「なんじゃと」
 光嘉は思わず大声を上げた。
「七つ星……ということは、九鬼か」
「相違ございませぬ」
 兵の声が震えている。それは「九鬼」の武名に恐れをなしているからに他ならない。
「七つ星」を家紋とする志摩の雄、九鬼嘉隆。国内の武将たちの間では「海賊大将」として名の通っている男である。
 天文十一年(一五四二)の生まれだからこの年、五十九歳。
 その人生は、まさしく波瀾に満ちたものだった。

 九鬼氏は志摩国の豪族である。
 もともと志摩国内には九鬼氏の他にも数多くの零細豪族が割拠していた。彼等はいわば暗黙の了解として古代以来の名族橘氏を盟主と仰ぎ、一種の共同体を成すような形で各々の所領を統治していた。その中の誰ひとり突出することを許さぬ環境が、いつの間にか作り出されていた。
 ところが、九鬼氏はそうした因習を打破し、自家の勢力を伸張しようと試みた。
 これに対する周辺諸豪族の反発は予想以上に強かった。九鬼氏は総スカンを喰らい、一時的に志摩からの退避を余儀なくされた。
 海上へ逃れた九鬼嘉隆とその一党は、ひとまず伊勢湾を横断して尾張へと渡り、そこで織田信長の庇護を得ることに成功した。当時、信長は天下統一の最右翼と見られていた今川義元を桶狭間に葬り去り、今また長年の脅威であった美濃斎藤家を滅亡の淵へ追い込もうとしていた。
 彼は次の目標を伊勢侵攻に定めていた。隣国志摩に本拠を置き、すぐれた水軍力を有する九鬼氏は、ぜひとも味方につけておきたい勢力だった。
 相思相愛となり、織田家の傘下に入った九鬼氏は、やがて起こった北畠氏攻略の戦において多大なる軍功を挙げ、信長の信頼を得て志摩一国を与えられた。
 なお、ここでひとつ付言しておくならば――。
 このとき嘉隆は九鬼家惣領の地位にはなかった。惣領は甥に当たる澄隆という若者で、嘉隆はこれを補佐する立場に過ぎなかった。
 しかしながら、澄隆は志摩を追われた当時、未だ十八歳の青年であり、とても海千山千の猛者たちを率いることはできなかった。そのため、嘉隆が惣領の務めを代行していた。
 とはいえ、嘉隆もこの時点では二十九歳の若さである。それでいながら一党をまとめ上げていたのだから、そうとうな器量の持ち主であったといえよう。
 ところが当の本人は、およそ「海賊大将」の驍名とは正反対といっていいような小柄で華奢な体躯を持ち、表情もいたって柔和で、口数の少ない若者であった。はじめて彼を見る者はみな例外なく、
 ――これが、あの名高い九鬼嘉隆か。
 と、我が目を疑ったという。
 だが、彼の実力は紛れもなく本物だった。膂力にはさほど優れていなかったが、洞察力や戦略眼といった頭領に必要とされる要素はほとんど完璧に満たしていた。亡命中、数ある大名の中から成長株の信長を選んだことだけでも、その眼力のたしかさはじゅうぶんに証明されているだろう。
 生き馬の目を抜く戦国乱世のことゆえ、多くの大名家では有能な人材を捜し求めつつ、究極のところでは余所者を信頼することができず、これを重く用いようとはしなかった。
 そうした中にあって、信長だけは例外的に多くの余所者を重臣に取り立てている。羽柴秀吉も明智光秀もいわゆる譜代の家臣ではなく、また嘉隆の庇護を積極的に推し進めた滝川一益も同様に、父祖の代から織田家に仕えているというような家柄ではなかった。先にも述べたように、一益などはもともと近江の出身であり、鉄砲の名手として広くその名を知られていたが、出自は詳らかでなく、一説には甲賀忍者の裔であったとさえ伝えられている。彼は伊勢攻略軍の総司令官を信長から申し付けられていた関係上、是が非でもこの嘉隆を味方につけておきたかった。
この一益の後援を得て、嘉隆は北畠氏討滅の後も信長に、そして、その死後は秀吉に重用されつづけた。天正十二年(一五八四)には意見の合わなくなった澄隆を謀殺し、惣領の座を奪い取った。
 彼はまさしく乱世の梟雄だった。だが、その風貌はいつまで経っても地味なままであった。むしろ風采の上がらぬ冴えない小男という印象を人々に強く抱かせながら、嘉隆は飄々と戦国の世を生き抜いてきたのである。
そんな輝かしい経歴にも、最近はわずかながら翳りのようなものが見え始めている。
 先年の秀吉による朝鮮出兵に際して、嘉隆は水軍の統率を任された。ところが、朝鮮の名将李舜臣の迎撃に遭い、記録的な大敗を喫した。
 ――国内の海では敵なしといわれた九鬼水軍も、所詮は井の中の蛙であったか。
 そんなふうに露骨な軽侮の声を上げる者も少なからずいた。
 嘉隆はしかし、こうした誹謗中傷に対して、いっさい反論をしなかった。むしろ、
 ――それがどうした。
 とでも言いたげに轟然と胸を張り、肩をそびやかせて、人々をある意味では感心させ、ある意味では呆れさせた。
 ――強情な人だ。
 というのが結局、落ち着くところに落ち着いた感のある世間の「九鬼嘉隆評」であった。

     二

 船上、光嘉と信高は肩を並べて眼前にはためく九鬼船団の旗印を眺めている。
「どうしますか」
 信高が訊ねた。さすがに声音も表情も心なしか強張っている。
「逃げますか、それとも――」
 九鬼水軍といえば、今やほとんど伝説的な存在となっている。信高ならずとも、真正面から戦いを挑めばまず勝ち目はないと判断するのが妥当だろう。敗れれば待つのは「死」のみである。いかにほうけ者と名高い信高でも、おのれの最期が確定的なところまで迫ってきている今、そうそう落ち着きを保ってもいられなかった。
「強引に突っ切りますか」
 実際にそんなことをすれば――つまり、この程度の手勢で九鬼水軍を敵に回したりすれば、まず命の保障はない。
「いや」
 対する光嘉の口振りは、至極冷静であった。
「儂に考えがある。ここは任せておけ」
 柔和な笑みさえ浮かべながら言うと、光嘉はゆっくりと前方へ進み出た。そして、大きくひとつ深呼吸をしてから、
「九鬼嘉隆殿―ッ!」
 辺り一面に響き渡る大音声で呼ばわった。
「分部光嘉じゃ。貴殿と話がしたい。いるのならば出てきてくれ」
 しばしの沈黙の後、先頭の船にひとりの男が出てきて、悠然と手を振った。
ずいぶん小柄な男である。ゆったりとした動作からは、およそ緊迫感というものが感じられず、むしろ仄かな可笑しみさえ滲ませていた。
 なんとも不思議な光景である。一食触発の状況下にありながら、こうして対峙しているふたりの男――分部光嘉と九鬼嘉隆は、どちらも落ち着き払っている。彼等の間にだけ、微妙に弛緩した空気が流れているほどなのだ。
 光嘉の場合は武将としての長年の経験からくる冷静沈着さから、一方の九鬼嘉隆にとっては、自分の裁量ひとつでどうとでもなる現況を正しく認識しているがゆえの余裕がもたらす落ち着きであった。
 そんなふたりが睨み合っている。いつ破綻してもおかしくない危うすぎる平衡の上に今、彼等は立っていた。
「久しぶりですのう」
 ずいぶんと間延びした声が降ってきた。それはたしかに目の前にいる小さな男から発せられたものだった。
「おお、嘉隆殿.息災そうで何よりじゃ」
 光嘉が笑顔を返す。
「ずいぶんと物々しい様子ではないか。いったい何があったのじゃ」
 いけしゃあしゃあと訊ねる光嘉。
「戦でござるよ」
 嘉隆はきわめて端的に応じた。
「戦?」
 光嘉、とぼけてみせる。
「そうだ」
 と、嘉隆。
 実に緩慢なやり取りである。まるで茶飲み話でもしているかのようだ。
「どのような戦かね」
 光嘉はあくまでもとぼけ通すつもりらしい。嘉隆はかすかに苦笑しつつ説明する。
「上方で石田三成が家康討滅の兵を挙げたのでござるよ。既に伏見城は落ち、守将・鳥居元忠は自害いたしたとか。それどころか、京・大坂はことごとく石田方の勢力下に入ったと、もっぱらの噂じゃ」
「ほほう」
 光嘉もそこは曲者である。
「して、嘉隆殿がこうして出張っておるということは、伊勢や志摩へもその戦火は及びつつあるということでござろうな」
 しれっとした顔で、さりげなく核心を突く問いを発した。
 傍で聞いている信高は、
 ――さすがだなあ。
 と、無邪気に感心している。やはり戦慣れした光嘉殿、味な物言いをなさる。
 とはいえ相手も曲者だ。はたしてそう簡単に手のうちをさらけ出してくれるだろうか。
 そんなことを考えていると、
「むろんのこと」
 意外や意外、嘉隆はあっさりとそのことを認めた。
「家康を討つべく東下する西軍は、今まさに主力を伊勢街道沿いに進ませつつある。決戦の地はおそらく美濃か尾張。彼等はそこへ向かうため、もうじきに、伊勢国のど真ん中を通ることになるでござろう」
 敵がまだ辛うじて伊勢へ侵入していないらしいことが、これによって知れた。とりあえず間に合ったのである。
「なるほど。して、嘉隆殿はいずれのお味方につかれる所存かな」
 光嘉の問いかけは、さらにつづく。
「されば、それがしは西に」
 嘉隆は逡巡することなく言い切った。「西」とはこの場合、いうまでもなく上方で挙兵した石田三成らのことを指している。
「そういう光嘉殿は、いかがなさるご所存で」
「はて、いかがいたすか」
 光嘉はさらりとかわしながら、
「いっそ両方とも討ち果たしてしまおうかの」
などと、突拍子もないことを言い出す。
 信高はこの間、ずっとぼんやり突っ立っている。ふたりの会話がどこまで耳に入っているのか、あるいはどの程度、理解できているのか、傍目にはまったくわからない。というよりも、ほとんど放心しているような有様なのである。そんな信高に初めて気づいたかのように、
「ところで――」
 訝しげな眼差しを向けて、嘉隆が訊ねた。
「そちらの御仁は、どなたかな」
「ああ、嘉隆殿は御存知なかったか。富田一白殿のご嫡子信高殿でござるよ」
 光嘉が紹介すると、嘉隆は、
 ――ほう。
 と、小さく呟いたようだったが、それ以上は何も触れず、
「西軍につかれよ、光嘉殿」
 話を戻した。どうやらこの梟雄は、信高の存在にさほど興味を覚えなかったらしい。
「我等とともに律義者の仮面をかぶった傲岸不遜の狸親父、徳川内府を滅ぼしてやろうではないか」
 口吻に憎しみが込められている。どうやら九鬼嘉隆という男、家康のことがそうとう嫌いであるらしい。
「内府を、か」
 光嘉は、相変わらずのらりくらりとした対応だ。
「できるかな」
「できるとも」
「内府は戦国生き残りの猛者じゃ。強いぞ」
「戦国生き残りということならば、我等とて同じであろう」
「それは、そうだが」
「怖いのか」
 内府が、と嘉隆は挑発的な笑みを浮かべてみせる。
「怖いのう」
 光嘉は、いともあっさりと認めた。恥じるような素振りはいっさい見せずにである。
「人物識見、版図、軍兵の強さ、いずれを取っても今の内府に敵う者はおるまい」
 飄然とした顔で、そのようなことを言う。
「そんなことはない」
 嘉隆、即座に否定。
「たしかに内府は個人としては突出しているが、束になってかかれば、決して倒せぬ相手ではない」
「束とは、治部少どものことか」
「そうだ」
「儂にはそうは思えぬがのう」
 光嘉は笑って首を傾げる。
「なるほど治部少は、あれでなかなか気骨のある男じゃ。ある程度まではやるであろう。だが、所詮は吏僚。ひとたび戦になれば、内府の敵ではない」
「いざ内府と戦う段になれば、治部少ごときへなちょこを前線へは出さぬさ」
 嘉隆も負けてはいない。
「戦場に出るのは、あくまでも我等のような歴戦の武将たちだ。必ず勝ちの目はある」
「武将たちとは、誰々を想定しておるのかな」
「いろいろおるではないか」
 少し苛立ち始めたようだ。嘉隆の言葉遣いが荒くなってきている。
「たとえば誰だ」
「たとえば――」
 嘉隆は指を折りながら列挙した。毛利輝元・秀元父子、吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊・宇喜多秀家・立花宗茂・島津義弘……なるほど錚々たる顔触れである。これだけの武者が揃えば、天下の家康を相手にしても決して力不足ということはあるまい。
「ふうむ」
 光嘉は腕を組み、考え込むような仕種を見せた。
 嘉隆は鋭い眼差しでそのさまを見つめている。射抜くようなその視線は、返答次第ではこのまま生かして帰さぬと暗に言っているようだった。
 重苦しい沈黙が辺りを支配する。
 やがて、その沈黙を破り、光嘉がぽつりと呟いた。
「一考の余地はあるかもしれぬな」
「なに」
 すかさず嘉隆が聞き返す。
「今、なんと申された」
 重ねて問う嘉隆は、もう完全に焦れている。そんな嘉隆に向かって、今度ははっきりと聞こえるような大声で、光嘉は答えた。
「考えてみる価値はあるかもしれぬと申したのだ」
「おおっ」
「だが、嘉隆殿。我等はいったん城へ戻りたい。ひとまず落ち着いて船旅の疲れを取り、しかる後に改めて向後のことを考えたいが、どうであろう」
「ならば、そうされるがよい」
「かたじけない」
「だが、これだけは申しておく。もしも万が一、貴殿らが内府に与するようなことがあれば、我等は躊躇なく貴殿らを潰しにかかる。旧来の知己だからというて情けをかけたりはいたさぬゆえ、そのつもりでおられよ」
「承知した」
 光嘉が応じると、その返答を待っていたかのように、九鬼の船団が真ん中で大きく二手に分かれた。見事なまでに統率された、惚れ惚れとするような動きである。
「通られよ」
 嘉隆の促すままに、信高ら一行はその間を通過し、湾岸へ船を着けた。

     三

 上陸に成功した信高と光嘉は、いったん別れて各々の持ち城へ戻ることにした。
「これから、どうなさるおつもりですか」
 去り際、信高は光嘉に訊ねている。その表情はやはり茫洋として、緊張感を欠くものであったが、信高という若者を幼いころから見知っている彼は、
 ――この男は、これでいいのだ。
 そう思っていた。この奇妙なまでの呑気さこそが彼の美点であり、いつか必ず役に立つ日が来るだろう。
「とりあえず城へ戻る」
「いや、それはそうですが」
「ん?」
「私がお訊ねしたいのは、その後のことです」
「その後のこと?」
「九鬼殿に、考えてみるとおっしゃったでしょう。いったい、どうなさるおつもりなのです。よもや、この期に及んで西軍に鞍替えしようなどと、本気で考えておられるわけではありますまい」
「ああ、そのことか」
 光嘉は大笑して、
「あんなものは一時の言い逃れに過ぎぬさ」
 さらりと言ってのけた。
「我等は内府につく。今さら、その方針を変えるつもりはない」
「では、先程の九鬼殿とのやり取りは――」
「ああでも言わねば嘉隆め、我等を通してくれぬであろうが。あいつ、よっぽど内府のことが嫌いと見えるな」
「では、あれは嘘だったと」
「嘘と言うな、人聞きの悪い。方便と言え」
 光嘉はそう言って、ニヤリと笑ってみせた。なんとも愛嬌のある、それでいて、どこか凄味のようなものを感じさせる、複雑な笑顔だった。
 信高は呆れるような思いで光嘉の横顔を見つめた。額や頬の至るところに黒い染みができている。若いころから戦場に身をさらしつづけてきた武将としては、この醜さはむしろ誉れというべきであろう。その顔をまじまじと眺めながら、
 ――やはり、この人は戦国生き残りの武将なのだなあ。
 信高はつくづく感じ入った。
 ――方便などと簡単に言うが、一歩間違えばとんでもないことになる。何しろ驍将と名高い、あの九鬼嘉隆を騙したのだからな。いや、待てよ。あるいは九鬼嘉隆のほうも騙されたことにうすうす勘付いているかもしれないぞ。そうと知って、あえて俺たちを通過させたのだとしたら……。俺たちを叩きのめす名分を得るために……。ううむ、まさにこれは狐と狸の化かし合い。俺などにはとうてい真似のできぬ芸当だ。
 心底からそう思った。
「わかりました。それでは、私は安濃津城へ戻ります」
 何か吹っ切れたような調子で告げる。
「おう」
 光嘉は力強く頷いて応じた。
「儂も急ぎ上野城へ帰る。達者でな、信高殿」
「光嘉殿こそ、ご健勝で」
「ありがとうよ」
「健闘をお祈りしております」
「フフフ、まるで他人事のようだな」
 光嘉はからかうように笑った。
「健闘せねばならぬのは、お互いさまであろうが」
「それも、そうですね」
 つられたように信高。そして、
「それにしても――」 
 これぞ、この男の真骨頂というべきであろう。憎いほどに間延びした声音で、ひとりごちるようにこうつづけたのだ。
「本当に敵は攻めてくるでしょうか」
「なに」
 さすがの光嘉も、その真意を測りかねて怪訝な顔をする。
「どういうことだ」
「いえね。案外、敵は安濃津や上野の城など素通りして、真っ直ぐ東へ向かうのではないかと思いまして」
 一瞬の間を置いて、
「ハハハ」
 光嘉は破顔した。
「さすれば、我等は戦わずに済むわけか。なるほど、そうなればよいがのう」
「そのとき我等はどうします」
「そりゃあ、いろいろ考えられるぞ。一緒になって東下するもよし、あるいは内府と語らって西軍を挟撃するもよし、はたまた傍観者に徹するもよしじゃ」
「なるほど」
「大博打を打って、天下に名を馳せることも夢ではあるまいぞ」
「いっそ、そうなってくれればおもしろいのですが」
「おもしろい。実におもしろいな」
 ふたりは腹を抱えて笑い合った。
 やがて笑い疲れた頃、
「死んではならぬぞ、信高殿」
 不意に真顔に戻って、光嘉がぽつりと言った。
「此度の戦は、天下簒奪を企てる内府とそれを阻止せんとする治部少の、いってみれば私闘だ。所詮、豊臣政権の醜き内部抗争に過ぎぬ。我等はその政権の中枢におるわけではない。こんな戦にまともに巻き込まれては損をするばかりだ」
「はい」
「むろん武将には勇敢さも必要であろう。だが、我等にはもっと重い責務がある。信高殿、貴殿のご家中は、全部で何名ほどかな」
「五万石ゆえ、兵だけでもざっと千五百名ほどにはなります」
「その者たちの生活が、すべて貴殿の裁量にかかっておるのだ。時に卑怯者と誹りを受けようとも、我等には彼等の暮らしを守るという責務がある。そのことを、ゆめゆめお忘れなきようにな」
「わかりました」
 信高は神妙な面持ちで頷いた。
 光嘉の口吻は厳しかったが、同時に温かさに満ち溢れてもいた。それは決して単なる気休めなどではなく、彼の歩んできた苛烈な人生経験にしっかりと裏打ちされた、含蓄のある言葉に他ならなかった。信高は深い感動を覚え、目にうっすらと涙を浮かべながら、
「肝に銘じます」
 力強く答えた。
「ご忠告、ありがとうございました」
「いやいや、珍しく硬いことを言うたら咽喉が渇いたわ」
 光嘉は少しおどけたように、照れくさそうに笑う。
「水でも飲もうかの」
「はい」
 信高は澄んだ目で、にっこりと笑い返した。
しおりを挟む

処理中です...