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17話:悪い夢
しおりを挟む一筋の月明りすら差し込まない、昏く淀んだ常闇の森。
何かの気配はあるのに、何なのかはわからない。
見渡す限りに映るのは、黒、黒、黒、黒。
色も光も息絶えてしまっている。
かろうじて判別できる暗闇の濃淡によって、自分が木々に囲まれていることを知った。
揺れ動く鬱蒼とした影に、隙間から顔をのぞかせる夜空。
見えるのはたったそれだけ。
視覚は機能しておらず、使い物にならない。
ならばと耳を澄ますと、不協和音じみた巨木の囁きばかりが訴えかけてくる。
その気味の悪さに、体がぶるりと震えた。
弦の切れたヴァイオリンを無理やりかき鳴らしているような、手入れをしていないガラクタの管楽器に力いっぱい息を吹き込んでいるような、そんな気色の悪い音色だったから。
加えて音色を運ぶ空気ときたら、ひどくかび臭くて湿っているのだ。
堪ったものじゃない。
まるで誰かの吐きだした息を吸い込んでいるみたいだ。
でも、誰かはわからない。
気配はあるのにかたちが見えない。
私はいつの間にこんな森の奥深くまで来てしまったのだろう。
どうすれば家に帰れるのだろう。
恐ろしさに震えている間にも、不穏な空気が私に纏わりつく。
帰らなきゃ。
じゃなきゃ、私は――
「……す、み……れ」
何か、が背後で私の名を呼んだ。
チューニングの合っていないラジオのように、ざらざらと嗄れた声で。
ノイズまみれのそれは、どっしりとした低音を孕み、腹の奥まで響き渡った。
「すみ、……れ……」
また、何かが、誰かが、私を呼んだ。
吐息が首筋を掠める。
振り返ることが心底恐ろしく、私は一度、震える唇を噛み締めた。
「……す……みれ……」
逃げられない。
逃げたとしても捕らえられてしまう距離に、私と何かは佇んでいる。
「す、み――」
四度目。
私は意を決して振り向いた。
「すみれ……」
「っ……!」
不協和音の森。
色も光もなく暗闇に支配された、かび臭くて湿った空間。
その黒の中に、一組の深紅が浮かんでいた。
彼岸花のように真っ赤に染まった二つの眼球が、私をじっとりと睨めつけていた。
「す、み、れ、アアアァァ……す、み……」
「うぐっ」
名を呼ばれると同時に、私は左胸に鈍痛を覚えた。
何かが強く胸を圧迫して息ができない。
「う、あ……おばあちゃ……たすけ、て」
深紅に睨まれたまま、あまりの苦しさに胸を押さえる。
苦しい、助けて、おばあちゃん。
「アアァアァ……す……みれ……」
「たす……て」
殺される。
いやだ、死にたくない。
「ちあき、さ……たす、け……て!」
千秋さん。
助けて。
喘ぎ苦しみながら絞り出した名前に、深紅が一層ぎらぎらと輝く。
「す、み……いで、アアアァァァアァアアァァ!」
絶叫と共に、昏く染まった幾筋もの帯が伸びる。
みるみるうちに私の体はそれに絡めとられ、きつく締め付けられた。
「くぅ……」
痛い。
苦しい。
助けて、誰か。
誰でも構わない、私を――
「あぁっ……!」
あまりの痛みと恐怖に、私は意識を手放した。
*****
ぷすー。ぷすぅー。
「……しゅみれぇ……ごちゃごちゃ言ってない……でふぁやく酒を、も……」
目を開けて初めて見た景色は、豆電球の橙に照らされた自室の天井だった。
心臓はバクバクと跳ね回っているし、大粒の汗が額からうなじへと流れていく。
しかし、もうあの真っ赤な眼球はどこにもいない。
どうやら私は二階の和室で寝ていただけらしい。
「夢かぁ……」
「しゅみ、れぇ……」
大きく大きく息を吐き出して、薄明りに浮かぶ自分の胸へとあごをひく。
不均等かつ豊かな膨らみから、ぷすぷすと変な音と声がするのだ。
しかも妙に重苦しい。
まるで錘かなにかで押し潰されているかのように。
残念ながら私の胸部はグラマラスとは程遠いものである。
なので、こんなに膨らんでいるはずがない。
「さけぇ……」
グラマラスの正体には大方の予想がついていた。
私はその主を起こさぬよう、ゆっくり羽毛布団をめくる。
「つねこに……いいつけりゅ、ぞぉ……」
案の定、胸の上にいたのは小柄な三毛猫だった。
「この悪夢にゃんこめ……」
丸まって気持ちよさそうに眠るあけび様に、静かに恨み節をぶつける。
暖をとるならおばあちゃんのところに行けばいいのに。
こっちは汗だくで喉もカラカラなのに。
気持ちよさそうに爆睡されやがって。
許してなるものか、この猫又。
ええい、布団からつまみ出してや――
「でも、猫パンチの報復が……」
やめておこう。
あれはとても痛い。
まず間違いなく血を見る。
それに、手に傷を作ると仕事中にしみて悲鳴をあげそうだ。
「ちゅねこぉ……」
ぐるぐる思考する私をよそに、三毛猫様は起きる気配をみせない。
仕方ないので一旦羽毛布団を元通りに被せた。
睡眠を妨げたら機嫌を損ねそうだし、障子越しの外界はまだ薄暗い。
夜中、ではなさそうだがいったい今は何時なのだろう。
私は時刻を確かめるため、慎重に慎重を重ねて枕元のスマホを掴んだ。
表示された現在時刻は午前五時五十三分。
予想以上に夜明けが近い。
さすがにお隣のニワトリもまだ夢の中らしく、鳴き声も聞こえなかった。
日の出の象徴より早起きだなんて、鬼住村に来て初めてな気がする。
雄叫びに毎朝叩き起こされている身としてはちょっとだけ優越感に浸れた。
これで胸の重たい塊がなければ、もっともっと幸せだったのに。
「しぇんこうぼ……うにゃ!」
「おふっ」
猫らしい鳴き声がした瞬間、私の胸部がグラビアアイドル並みにボコッ、と膨らむ。
「あけび様?」
膨らみは徐々に移動し、私の二の腕を踏みつけて布団から這い出てきた。
「ふにゃぁーあ。煎餅布団は肩が凝るのう。常子の孫のくせに貧相な体じゃなぁ、ぬか漬け娘」
大あくびをした三毛猫は枕元でカリカリと頭を掻く。
「言われなくてもわかってますぅー」
横柄極まりない態度に煎餅布団ときた。
だけど的確な比喩過ぎて反論できない。
一撃でがっぽりと胸を抉られてしまった。
ショックで余計に煎餅になったらどうしてくれる、この猫又様め。
「寒いのう。今日は底冷えしてかなわん。ふかふかの羽毛布団が恋しいわい」
実に憎たらしい。
へこんでいる私は完全に無視である。
「……ふん。寝なおすかの」
あけび様はほんの少し開いていた襖の隙間に身を滑り込ませて、姿を消した。
「煎餅……煎餅か……。おばあちゃん昔からグラマーだし、そりゃ比べられたら負けますって。ええ、比較対象が悪いんですよ……。あぁー!」
陽も昇らないうちから凄惨な現実を突き付けてくださってありがとうございます! すっかり心拍数も落ち着いて汗も乾いたのに、疲労感は五割増しくらいに感じる。
あけび様は一体何がしたくて私の布団に潜り込んだのだろう。
……嫌がらせ、かな。
ああ、そうだ。
多分、きっと間違いない。
私に対して煎餅とだけ言いたくて好きでもない人間と添い寝したんだ。
あけび様ならあり得る。
「もっと優しくしてくれても罰は当たらないと思うんだけどなぁ」
無理な話ですよねぇ、と深いため息をついて体を起こした。
「さむっ」
布団を脱ぎ捨てた途端、寒さで自然と体が丸まってしまう。
あけび様の言った通り、もうじき本物の冬がやってくるらしい。
少し前まで鮮やかに紅葉していた村周辺の森も、今やすっかり葉を落とした。
畑には連日霜が降り、近辺に聳える山々のてっぺんは雪化粧でおめかしをしている。
しかしどんなに寒かろうが、今私の喉はカラカラで水分を求めているのである。
私は二の腕を摩りながら、おばあちゃん特製の袢纏を箪笥から引っ張り出した。
綿がたっぷり入った、紅に鶴の舞う袢纏。
少し前まで馬鹿にしていたけれど、驚くほど有能な防寒着だと知ってしまった以上もう手放せない。
しばらく体を温めてから、部屋を出た。
足音をたてないようにそろりそろりと階段を降りて台所に辿り着く。
薄明りに浮かぶのは昭和の香り漂うダイニングキッチン。
二人掛けのテーブルセットやタイルの貼られた水回りは、今やめったに見られない趣に満ちている。
換気扇下の三口のガスコンロも、年季を感じはするが手入れが細やかに行き届いていた。
私はワゴンで炊飯器が白い湯気を噴き上げているのを観察しつつ、シンクの蛇口をひねって、コップに水を注ぐ。
鬼住村の水道水は山からの澄んだ地下水で賄われている。
だから全然カルキ臭くない。
ほぼミネラルウォーターだ。
実際、少し離れたところに飲料会社のミネラルウォーター製造工場があるらしい。あちらではよく買っていたけれど、ここではペットボトルの中身と大差ない水が蛇口をひねれば出てくる。
数か月前の自分に知らせたら、さぞ羨んだだろう。
わずかに心が温まるのを感じながら、コップの中身を飲み干す。
口当たりのまろやかな軟水は、すうっと流れ落ち、乾いた喉を潤してくれた。
「回復完了。よし、ニワトリが鳴くまではごろごろしてようかな」
空になったコップを洗って水切り籠に置き、私は静かに階段を目指した。
うっかり廊下の軋むところを踏んで驚きつつ、だけれど。
そして、ちょうど階段の一段目に足をかけたその時。
「――けんねぇ」
囁くようなおばあちゃんの声が耳に届いた。
「そうだがぁ。だけんね――」
台所からちょうど反対側の突き当りに、おばあちゃんの寝室はある。
薄明りの中目を凝らすと、あけび様用に十数センチだけ襖があいていた。
そこから声が漏れ聞こえてくる。
「福さんは里芋の煮っころがしが好きですがぁ。それと、冬になるとブリ大根も。いっぱい作らんとあっというまに――」
「……福さん?」
覚えている。
福じい、私のおじいちゃんだ。
おばあちゃんはいつも福さん、福さんと呼んでいた。
「楽しみにしとってくださいねぇ」
おばあちゃんは、心から楽しそうに福じいに話しかけている。
だけど、だけど福じいは……。
「今年はすみれちゃんもおりますけん――」
福之助おじいちゃんは、私が小学五年生の時にこの世を去ったはず。
お葬式には私も参列した。
スーツ姿の遺影は今も仏間に飾ってあるし、立派なお墓も村はずれにある。
福じいはすでに過去の人だ。
だから、こんな風に話しかけることなんてできっこない。
動けずにいる間にも、おばあちゃんは楽しそうに笑う。
あたかもそこに福じいがいるかのごとく、ふふふ、と。
……もしかして。
絶対にあってほしくない考えが脳裏をよぎった。
体が丈夫で、背中も曲がっていないおばあちゃん。
今も農業である程度の収入を得て生活しているし、友達ともしょっちゅう旅行を楽しんでいる。
風邪も滅多にひかないし、ものを食べてむせるようなこともない。
体はびっくりするくらい、元気で健康なのだ。
だけど、もしかすると。
いいや、そんな。
ありえない。
おばあちゃんに限って、認知症、だなんて。絶対にありえちゃいけない。
「あらぁ、もうこんな時間だがん。朝ごはんを作らんといけんねぇ」
布の擦れる音と共に「よっこらしょ」と掛け声がする。
その声に弾かれるように、私は息を殺して階段を駆け上がった。
玉ねぎのお味噌汁に鰆の塩焼き。
だし巻き卵とお手製のお漬物。
朝の食卓に並んだ料理はどれも変わりないおばあちゃんの味ばかり。
だからか、私は少し安心したのだ。
きっと大丈夫、と思えたのだ。
大丈夫。
大丈夫に決まっている。
だってそんな悲しみ、まだ味わいたくないから。
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