春来る

村川

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 東京の将棋会館は千駄ヶ谷にある。天乃にとっては中学生で奨励会に入会した時から、長らく通ってきた建物だ。
 慣れた道を進みながら、何気なしに見上げた空には、曇天が垂れ込めていた。一雨来るかもしれない。十二月初旬の今の時期は、雨が降るとぐっと寒くなる。対局の朝にそんなことを考える余裕がある自分が不思議だった。
 なんとなく、調子がいいような気がする。頭がすっきりしていて、身体も軽い。こんな時はいい将棋が指せそうに感じる。そしてそういう予想は割と当たるものだった。
 好調だと感じる理由は自分でもおおよそ見当が付いている。仁科の教室に顔を出すのが楽しいのだ。というより、そこに通うようになった宇崎と話すのが楽しい。先日で三回目だが、はっきりと棋力を上げていて、よく勉強していること、楽しんでいるのが伝わってくるので教え甲斐もある。ただしそれは他の生徒も同じなので、熱心さが理由ではないことも自覚があった。生徒に対してえこひいきはよくないとわかっているが、どうにも、宇崎と接するとうきうきしてしまう。楽しくなってしまう。それがどういう感情に起因するものなのも、なんとなく察しがついている。ちゃんと話したのは、たった四回だ。なにかこれというきっかけがあったとも言い難い。惚れっぽいと自分で呆れないと言えば嘘になる。それでも仕方がない。恋とは思い込みと錯覚で、わかっていてもどうしようもなく落ちてしまうものなのだから。
 最寄りの駅から五分少々歩くと、目当ての建物に着く。地上五階地下一階のビルは、半世紀近い歳月を経て、今も多くの人々が行き交っている。
 エレベーターで階を上がり、ロッカーにスマホなどを預けて、部屋に入るところで靴を脱ぐ。大部屋には既に何人もの棋士がいた。
 荷物を下ろして指定の座布団に座り、盆に飲み物を並べる。天乃の今日の予定は順位戦C級二組六回戦だ。持ち時間各六時間の長丁場で、午前中に指し始めて早くても夕方、大抵は夜までかかる。日付が変わった明け方まで指し続ける対局も時にはあるのが、順位戦という棋戦だった。
 順位戦は名人とフリークラス所属者以外の全ての棋士が参加する公式棋戦だ。A級からC級二組まで五つのクラスがあり、それぞれ年間通して十局程度を指すリーグ戦だ。各クラスの上位者が昇級し、下位者が降級する。そして一番上のA級で最も良い成績を収めた者が名人に挑戦できる。日本将棋界において、もっとも歴史の長い棋戦であり、その仕組み上おそらく誰もが非常に重要視している棋戦でもあった。
 天乃はその中では一番下のクラスであるC級二組に在籍している。若手からベテランまで五十有余名がひしめき合う混沌としたクラスの中で、降級点こそ免れるものの昇級争いには絡めない地点を浮き沈みしていた。降級点はC級二組に於いては成績下位者十数名に付与される。三点でフリークラスに降級し、順位戦を戦えなくなる。所定の成績を収めれば昇級可能だが、易しくはない。
 今期は一回戦が抜け番で、現在二勝二敗。順位も成績も決して良くはない。様々な相手と対戦する中で、若手の勉強量に圧倒されることも、ベテランの経験に基づく老練な差し回しに翻弄されることも少なからずある。容易い勝負はひとつもない。それでもできれば勝ちたかった。応援しているという言葉に応えたかった。
 やがて今日の対戦相手が入室する。天乃の前に静かに座したのは、グレイのスーツに身を包んだ枯れ木のような男性だった。八坂光太郎八段、六十七歳で順位戦を戦うベテラン棋士だ。A級在位五年、タイトル獲得三期、居飛車党の本格派で、平素は温厚だが、勝負には辛い。近年はさすがに調子を落としているようだが、それでもまだまだ粘り強さと鋭い差し回しは健在だ。父親よりも年嵩の相手だからといって、天乃も負けてやる余裕はないし、手を抜く無礼はそうでなくともできない。全力で挑まなければ、人間性の厚みに屈してしまう。
 定刻を告げる声に従って挨拶をし、数秒してから八坂が盤に手を伸ばす。順位戦はあらかじめ先手後手が決まっており、今日は八坂の先手だった。
 戦型は予想通り居飛車対振り飛車の対抗型となり、互いに穴熊に囲った。棋譜中継を見たどこかの誰かが、長い泥仕合になりそうだと笑ったとしても構わない。持てる力の限りを尽くして、最善を尽くすだけだ。
 盤に向かっている間は、意識のほとんどが閉じている。雨が降り出していたと気付いたのは夕食休憩の時だった。雨粒がぱたぱたと窓を叩き、暗く沈んだ夜を濡らしていく。その様に一瞬目を奪われた。
 午後になって開戦した局面は、まだじりじりとした攻防を繰り返している段階だった。早めに対局室に戻った天乃は、他の盤をちらちらと見学してから、自分の席に戻った。今の手番は八坂だ。どう来るだろう。そろそろ突っかかってくるか、それともじっとこちらの様子を窺うか。そして自分はどうするか。思案しながら、固く囲われて九筋で対峙する王将と玉将を眺めた。
 こういう将棋はいつ頃からか流行らなくなった。天乃が若い頃は、玉を固く囲って戦うのが主流だった。それが今では、バランス良く囲って速やかに仕掛ける将棋が増えた。中にはこんなに手薄で大丈夫かと思うような陣形で戦って、見事に勝ってしまう棋士もいる。それもまたAIの影響だった。
 固い玉型は、狭い玉型でもある。昨今の主流ではないとしても、天乃はこういう将棋も好きだった。しっかり囲った安心感で攻めに意識を向けやすく、何か少し試してみるハードルも低い。どうせなら、面白い将棋にしたかった。
 夕食休憩が明け、八坂が数分遅れて戻ってくる。それからまだしばらく考えて指されたのは、攻めを誘うような手だった。伸るか反るかを思案して、誘いに乗ることに決める。何か用意があるのだろうから、見せて貰うのも一興だ。相穴熊は居飛車有利と言われがちだが、そう決めつけたものでもない。
 切り込んだ手を躱され、いなされ、手の空いたところに攻めの手が伸びてくる。それも読み通りだった。
 調子がいい時というのは、確かに存在する。先々週あった王座戦一次予選三回戦、自分でも不思議なくらい手が見えて、見落としもなく、綺麗に勝つことができた。だがそれが、調子がいいように感じるというだけのこともあるので、気持ちを引き締めて盤を見つめた。
 十時半を過ぎて、まだお互いに時間は残っているが、八坂の穴熊は瓦解しようとしていた。こういう局面が一番怖い。駒を取って、相手を追い詰めているつもりで、自玉が詰んでしまう恐ろしい筋があるのではないかと恐々とする。一手一手を丁寧に読んで、進めて、王将に手が届くと確信できた瞬間に、ふと、顔を上げてしまったのは何故だろう。
 八坂は悲痛な面持ちで、両手を畳について盤を覗き込んでいた。もう詰みは見えている。八坂の玉には明白な詰み筋があり、天乃の玉は詰まない。はっきりとどうしようもない局面だった。それでもまだ、彼の右手は盤に伸びた。間違えろ、間違えろ、そう念じるのが伝わってくる妖しげな一手だ。その様を見ていたら、喉が塞がれるような心地になった。
 対戦の前に相手の棋譜を調べるのは当然だが、それ以外の情報も頭に入ってはいる。狭い世界だから、調べるまでもなく知っていることもあった。
 八坂はここ五年ほどで調子を落とし、昨期までに降級点二点、今季は既に五連敗を重ねていた。このまま進めば、今季を限りに順位戦から降級し、来年のうちに引退が決まるだろう。それを免れるために、あと一つだって落とせないと考えているに違いない。
 天乃の手を見た八坂が、盤に倒れ込むようにがっくりと頭を伏せる。長い沈黙の後、四十五年を棋界で過ごし、まだ食らいつくつもりでいるのを隠さない男性が、はっきりとした声で投了を告げた。
「……ありがとうございました」
 考え続けていた頭がずきずきと痛む。だがそれ以上に、苦しくて仕方がない。
 わかっていたつもりだった。一つ勝つことは、相手の命綱をひとつ、断ち切ることだ。それでもどうしてだろう、重くて、重くて、窒息しそうだった。
 別室で行った感想戦は長くなった。記録係の三段が根気よく付き合って、八坂の勝ち筋を一緒に探す。こうしたら、ああしたら、三人で言い合っていると、棋士や関係者が覗きに来たり、参加したりする。八坂の人徳を感じて、なんだかとてもいたたまれない心地がした。
「惜しかったね」
 ぽんぽんと背中を撫でて慰める声に、八坂が小さく頷く。
「こうしておいたら、勝ちだったんじゃないでしょうか」
「それだとこうなりますけど」
「で、次はこういうの」
 中年の記者が示した手順に、天乃は唸った。自然に応じると悪い順に踏み込む羽目になる。良くないのはわかるが対応が難しく迷っていると、八坂がううんと首を傾けた。
「それ、AI?」
「そうです」
「AIの手は嫌だな。なんだか、厚みや温かみがないよ。私には指せないね」
 はっきりした拒絶を受けて、記者が楽しそうに眉を上げる。そう言われるのはわかっていた、という顔だ。
 テーブルに肘をつき、細い顎をてのひらに乗せて頬杖を突いた八坂は、天乃を見て、盤を見て、苦笑いした。
「AIの研究をしなきゃやってけないってわかってるよ。昨今じゃあ老いも若きも皆パソコンを使ってる。そりゃあAIは優秀でしょう。間違えませんものね。でもね、人間の発想力だってまだまだ捨てたモンじゃないと思うんですがねえ……どうも、そういうご時世じゃないようだ」
 二〇一七年に名人がAIに破れ、棋界のAIとの付き合い方は変化した。今では研究パートナーにしている棋士がほとんどで、トップ集団には性能の良いパソコンを所有し、ソフト開発者の協力を得て研究している者もいる。その反面、強い棋士の中にも、AIをあまり使わず、独自の発想力と自らの頭で考えた作戦で戦う者もいた。天才の名を欲しいままにしていた彼らも、今は苦戦していることも多い。棋士も時代に適応しなければ生き残れないのだと、宣告されている心地だった。
「天乃くんも、研究はAIなの?」
 ぱちん、ぱちんと盤面を進めては戻すことを繰り返し、八坂が目線を上げる。淡い色をした瞳は、いまだ遣る瀬なさで揺らいでいた。
「そうですね、研究会とVSが中心ですが、AIも使います。なかなか使いこなせませんけど」
「そうか、そうよね。難しいものだよね。今更、どうにもならないな」
 それが局面のことなのか、自身の進退のことなのかはわからない。どうしようもなく苦く、重い一言で感想戦を終え、八坂は大きく溜息をついた。痩せた指が丁寧に駒を拾い、駒袋に収めていく。ありがとうね、という言葉が、どこか遠く聞こえた。
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