春来る

村川

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 資料を手にした宇崎は、まっさらな企画書を睨んでいた。
 企画書を提出しなければならないが、どうにもまったく出てこない。こんなことは初めてだった。期限はまだ先で、他の仕事もあるとはいえ、心に引っかかって落ち着かない。
 宇崎は食品メーカーの開発部に配属されている。花形の職場だと思っているし、仕事の内容にはやりがいがあり、人間関係などの環境面にもおおむね恵まれている。ただ、来てみるとつらいこともある。頑張って開発した商品が市場に受け入れられなかった時などは、やはりがっかりしてしまう。
 おいしくて、健康的で、そして求められるものを作りたい。環境に良くて独創的なら満点だ。もちろんそんな企画は簡単には出てこないのだが。
 アウトプットに挑むことを中断して、宇崎は書類に視線を向けた。丁寧にまとめられたマーケティングの分析資料を読んでいると、昼休憩のチャイムが鳴る。区切りのいいところまで、と立ち上がらずにいると、二つ隣のデスクから亀井が寄ってきた。
「何読んでんの?」
 宇崎のデスクチェアの背中部分に手を置いて、亀井が背後から覗き込む。中身を把握して、ああ、と頷くのが気配でわかった。
「綺麗にまとまってるよなあ。でも、最近じゃこの手の分析はAIにさせてるところもあるんだって」
「株式の売買もAIに判断させるって話もあるね」
「まあ実際、膨大なデータの分析と、そこからの予測は、AIの十八番ではあるから、自然な流れだけど。エルモ囲いのことを考えると、そのうち企画立案もAIの仕事になっちまったりしてな」
 将棋を引き合いに出した亀井が肩をすくめる。elmoという将棋AIソフトが繰り返し用いていたことからエルモ囲いと名付けられた形は、優秀だと認められて棋士にも採用され、研究されるようになったという。AIの生み出したものを人間が認めた一例と言える。
「工場での作業だって、ゆくゆくはAIとロボット制御に移行する。SF映画の定番だね、かくして人類の仕事はAIのものとなり、と」
「それで遊んで暮らせるなら、まあ悪くない未来かも」
「まだいつ実現するかわからないし、どういう社会になるかも未知数だよ」
 AIが人間の職を奪うと恐れられている反面、労働からの解放だと喜ぶ向きもある。芸術的な仕事や職人技は代替できないという者もいるし、それすらAIとロボットにもこなせるようになるとの意見もある。どちらが正しいかはわからない。事実は一つだ。AIはチェスの王者に続いて将棋の名人をも打ち破った。将棋の新しい囲いを編み出し、新手を編み出した。音楽を作り、CGを描き、小説すらも書く。人々がそれに感動するならば、人にしかできないことは、生身の人間にしかできないことは、何が残るのだろう。
「いつか俺たちの仕事は試食だけになるのかも」
「それだって分析できちゃうけどね」
 だとしても、今はこの目で見、頭で考え、手を動かさなければ仕事は回らない。いずれ知識も味覚さえも不要になる日が来るとしても、今ではない。それならば、今の自分にできることをするだけだ。
 宇崎が書類を片付けるのを待って、亀井がそういえば、とスマホを操作した。
「今日の忘年会、本当にお前も来るの? 野々川さんえらい乗り気だっただろ」
「まあ一応、顔を出すくらいは」
 気は乗らないが、仕事の延長なので仕方がない。そう応じた宇崎に、亀井が気の毒そうな顔を見せた。そして励ますように肩を叩かれる。
「野々川さん、悪い人じゃないんだけどな」
 そう、同じ課の者同士の人間関係にも概ね恵まれているが、問題が全くないとは言い難い。野々川は仕事においては有能で、人柄も善良な女性だが、多分にお節介焼きな側面があった。オフィスではいいが、飲み会になると独り者の男女をお膳立てしたり、知己を紹介しようと迫ってきたりする。
 半年ほど前に恋人と別れ、フリーであると口を滑らせてしまってから、宇崎はたびたび野々川のターゲットになっていた。職場の相手と恋愛をする気はない。そもそも相手を欲していない。それが彼女には通じないので、飲み会の後は疲れてしまう。自身は交際相手のいる亀井は、宇崎を始めとする独り身の面々に同情的で、そっと庇ってくれることもよくあった。
 定時で仕事を終わらせて、予約してある数駅先の居酒屋に移動する。座敷に上がって乾杯をし、場が和やかに盛り上がってきた頃合いで、そろそろ潮時かと抜ける算段を始めたが、少々遅かったらしい。グラスを片手にやってきた野々川が、ぽんと宇崎の肩を叩いた。
「ねえねえ宇崎くん、最近どんな感じ?」
 当たり障りのない風の切り口で、少し強引に隣に座った野々川は、二言三言話したところで、実はね、とスマートフォンを取り出した。
「宇崎くん今フリーだったよね。妹の友達が恋人募集しててね、職場にこんな子がいるよって話したら興味あるって言ってて。この子なんだけど、可愛いでしょ、どう?」
 小さな液晶に表示されるのは、よそ行きの顔をした二十五歳くらいの女性だ。アミューズメントパークで撮ったもののようだが、加工してあるのが明白で、素顔とどのくらい差異があるのかもわからない。
「申し訳ないですけど、今はそういう気はないので」
「そんなこと言ってたら、あっという間に独り身のおじさんになっちゃうよ。若い内こそがんがん行かなきゃ」
 ビール一、二杯で既に酔いが回りつつあるのか、ぱしぱしと遠慮なく背中を叩かれて、痛みに眉が寄る。それを抗議と受け止めたのか、もう、と野々川が憤慨した風の声を上げた。
「まあまあ、野々川さんその辺りで。こいつにはこいつのペースもありますし」
「ペースって、もう半年も経つでしょ、のんびりすぎない? 恋愛の傷にはやっぱり新しい恋愛が一番だよ」
 宇崎を挟んで反対隣に座っていた亀井がとりなそうとすると、野々川が眉を跳ね上げた。傷心を引き摺っていたら傷が深くなりそうな台詞だが、当人は気にしていないらしい。
 周囲からちらちらと同情的な視線が寄せられるのを感じるが、野々川は気にしたそぶりをまるで見せない。写真の女性がとてもいい子で、恋愛が人生に張り合いを持たせる素晴らしいものであり、結婚して愛しい相手と寄り添って生きることが至上の幸福だと、熱く語っている。アルコールが入った彼女は概ねいつもこの調子で、止めようと試みる者はいなかった。止めても止まらないし、犠牲者が増えるだけだからだ。
 しばらく話しに耳を傾け、彼女が席を外したタイミングで荷物を引き寄せた。その様子を見て、亀井が持っていたグラスをテーブルに置く。気遣わしげに覗き込み、目を細めた。
「帰る?」
「うん。酔って気持ち悪くなったことにしといて」
「了解。ゆっくり休めよ」
 慰めるように肩を叩く手の温かさに安堵して、少し心が楽になる。とはいえ、このままいても美味しくない酒と料理を口にする時間が長引くだけなのは明白だ。幹事に先に帰ると伝えると、同情的な顔で見送られた。
 職場での野々川は有能で気の利く人物なのだが、と店を出たところで肩を落とす。酒気を帯びた溜息は白く凍り、十二月ももう中旬である事実を強く感じさせた。
 大学時代から十年以上暮らしているが、東京の空は夜でも明るく、冬は乾いた風が吹く。マフラーをかき集めて、さあ帰ろうと思った時に、出てきたばかりの店の戸が開いた。
 咄嗟に身構えたのは、誰か呼び戻しに来たのかと考えたからだ。大丈夫なのかと野々川が追いかけてきた例もあり、そうなると逃げ切るのが難しくなる。本質的には気遣いのできる善良な女性なので、悪く思いたくないが、難しいこともままあった。そんな宇崎の警戒に反して、出てきたのは二人連れの男性だった。
「ガード下の醤油ラーメン」
「味噌煮込みうどん」
「チャーシュー増し」
「お揚げとネギ増量」
 ぽんぽんと言い合って、むっとした顔で睨み合う。楽しそうな二つの顔に見覚えがあり、宇崎は目を丸くした。まさかこんなところで、お目に掛かるとは思わなかった。考えてみれば千駄ヶ谷からも徒歩圏内なので、おかしいわけではないが。
「天乃先生と、佐川先生?」
 思わずこぼれた呟きに、二人が弾かれたように振り向いた。街灯と店々の光で、周囲は昼間のように明るい。何度か面識のある天乃の顔を見間違えることはないし、隣に立つ人物だってネット中継で何度か見た顔だった。
 宇崎を認めた天乃が、ぱっと表情を明るくする。その顔を見たら、なんだか胸がぐっと苦しいような心地になった。
「宇崎さん、こんばんは。すみません、お邪魔でしたか?」
「いえ、私も帰るところなので、大丈夫です」
「宇崎さん、というと、例の教室の生徒さん?」
 背の高い佐川が、軽く覗き込むように宇崎の顔を見る。長身だと知っていたが、亀井よりもまだ背が高いので、少々迫力があった。それより、例のとはどういう意味だろう。
「すみません、私何か先生に粗相を……?」
「まさか。その、ちょっと話題に上らせてしまって……勝手に失礼しました」
 慌てた様子で否定した天乃が、しょんぼりと肩を落とす。その背を叩いた佐川が、柔らかく苦笑した。
「応援してくれる方がいて、嬉しいって話をね、聞かされてました」
「そう、ですか。良かった。失礼をしていたわけじゃないんですね」
「もちろんです。ところで、我々はこれからラーメンを食べに行こうと思ってるんですけど、宇崎さんもお急ぎでなければ一緒にどうですか。折角なので私もお話してみたいですし」
「え、でも、ご迷惑でしょう」
 今日は天乃の対局があったから、きっと反省会も兼ねている。佐川の誘いを辞退しようとすると、天乃がじりっと僅かに前に出た。
「全然、迷惑じゃないですよ。是非行きましょう。味噌煮込みうどんが美味しいお店があるんです」
「いやだからラーメンだって」
「今からチャーシュー増しのラーメンは指しすぎ」
「味噌煮込みだって変わんないだろ」
 些末な言い合いは他愛もなくて微笑ましい。その様を見る内に、心の強張りが解けていく。思わず笑いを漏らした宇崎を見た二人が、どちらに加勢するのかと目で判断を促してくる。締めのラーメンは格別だが、この季節の味噌煮込みうどんも捨てがたい。しばし迷い、宇崎は駅とは逆の方向を指差した。
「裏手に美味しいお蕎麦屋さんがあるんですけど」
「第三勢力だったか……」
 大げさにがっくりうなだれる佐川の肩を、天乃がとんとんと叩く。
「お蕎麦って聞いたら食べたい気分になっちゃいました。そうしましょう」
「お前ほんとに食べ物に関しては軽薄だな」
 仕方ないと妥協した佐川が、じゃあ行こうかと歩き出す。そうして少し進んだところで、ああそうだ、と思い出したように表情を改めた。
「初めまして。棋士の佐川竜太です」
「宇崎三治です。ネット中継とかで、拝見してます」
「それはありがとうございます。コメントなんかもされますか?」
「いえ、見るばかりで。まだまだ勉強始めたばかりなので、わからないことばかりです」
 将棋の中継を見ていると、視聴者が次の指し手候補を書き込み、解説者がそのコメントを拾って解説するような場面にも時折遭遇する。そういうやりとりを見ると、やはりある程度の棋力があったほうが楽しめるものなのだと感じた。頭のいい人ばかりなので、場つなぎのフリートークも面白いが、本筋は異なっている。
 宇崎の否定を受けて、隣に並んだ天乃がでも、と口を挟む。
「随分棋力が上がりましたよ。見ていて、なんとなくはわかるでしょう」
「いや、相掛かりとか横歩取りとかはさっぱりで」
「相居飛車は激しいですからね、移り変わりも早いし、最新の将棋は私だってよくわかりませんよ。もうすっかり振り飛車は不遇ですし……」
 ぶちぶちと零しても、天乃の足取りや口調は淀みない。飲んだ帰りにしてはどちらも酔った様子がないのが、なんとなく不思議な感じがした。
 行った店は夜にも関わらずきちんと美味しい蕎麦を提供してくれて、宇崎としては面目が立った形になった。
「なんだかすみません、ずうずうしく着いて来ちゃったみたいで……」
 ちょっと手洗いにと佐川が席を立った隙に、向かいに座った天乃に頭を下げる。今日対局があった天乃と、解説をしていた佐川は、きっとまだ話したいことがあっただろうに、初心者の部外者が加わったことで他愛もない話しかできなかったのではないか。そんな謝罪に、そば湯を啜った天乃が首を横に振る。
「とんでもない。お話しできて、楽しかったです。そうだ、前に話してらしたコーカサス料理の、美味しいお店を聞いたので、今度ご一緒しませんか」
 思い出した、という顔で誘われて、心臓がどくりと脈打った。確かに以前そんな話をしたことがある。テレビで見たコーカサスの料理が気になって、でも店を知らないから迷っている、と。美味しい店を探して歩いてもいいが、一人では味気ないし、付き合わせる友人もいない。そんな愚痴ともつかない雑談を覚えていて、しかも探してくれたと知って、嬉しさがふつふつと込み上げてくる。
「是非、と、言っていいんでしょうか。お忙しいですよね」
「年内の対局は二十四日が最後で、他は用事があっても日中ですので、お正月までの間なら大丈夫です」
「私は二十八日からお休みなので、そのあたりですね。二十九日は教室はお休みでしたっけ」
「そのはずです。改めてご連絡したいので、携帯の番号を伺ってもいいですか?」
「はい、もちろん」
 スマートフォンをかざして連絡先を交換する。何度も顔を合わせていたけれど、あくまで先生と生徒という関係性だったこともあり、個人的に連絡を取ろうとしたことはなかった。教室に行けば、運が良ければ天乃がやってくる。しかし考えてみれば教室は二ヶ月一単位なのだから、今月まででその繋がりも切れてしまうところだった。
 途切れてしまうはずの縁を、結び直してもらえた。繋がりを保つことを許された高揚と、思いがけず手の中に落ちてきた十一桁の情報に、胸の中が騒がしくなる。炭酸がぱちぱちと弾けるような、ふわついた心地でスマートフォンを握りしめ、宇崎は緩んでしまう口元をお茶を飲むことで隠した。
 どうしてこんなに嬉しいのか、自分でもわかっている。ちらりと視線を向けると、気付いた天乃が柔らかく微笑んでくれる。それだけで胸がどきどきして、身体の内側に燃えさかる炎のような熱が生まれる理由なんて、ひとつしかない。この人が好きだ。だから一緒にいたいのだと、諦めの境地で受け入れた。
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