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八月
夏期休暇:ボランティアのあと 3
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野分に睡眠、氷川にはさして面白味のない時間を提供してくれた作品を避けて、その前に見た二作品の感想を言い交わす。あのシーンに緊張したとか、テンション上がったとか、笑えたとか、ポジティブな言葉を並べられて安堵した。
混雑のピークを疾うに過ぎた車両は、探さなくとも並んで座れる。向かいに座った疲れた社会人の上に、夜を映す窓が口を開けていた。それが怖くないのは、闇への恐怖を忘れたからではない。人口の光が途切れることなく見え続けているからだ。静かな電車内の空気を乱さないよう、小さな声で、氷川と野分は会話を続けた。
やがて学院の最寄り駅に列車が近付き、腰を上げる。住宅地を抱える立地のためか、それなりの人数がホームに降り立った。空調の効いた車内から出ると、湿度を孕んだ夜気も暑く感じる。僅かに顔をしかめた氷川を、野分が早くと急かした。
「ギリでバス乗れるな。遅延なくて良かった」
「歩いて帰るにはちょっと遠いもんね」
「時間があればなんてことないけど、この時間だとちょっとな」
駅から学院までは徒歩で三十分程度かかる。街路灯がまばらで人気のない道もあり、治安も不安だが、それ以上に門限が重要だ。二十三時という門限は都条例に添ったものであり、事前連絡をしようとも例外は許されない。閉め出されることはないが、生活態度の評価に直結する。だから多くの生徒は、門限を破るくらいならばタクシー代を支払うことを選ぶ。バスがなかったら氷川と野分も本日三度目のタクシーの世話になる所だった。
電車に使ったのと同じICカード乗車券で、門限に間に合うはずのバスに乗り込む。歩いて二十分かかる道のりは、バスならば五分程度で済んでしまう。学校最寄りのバス停は、付近に集合住宅や民家もあるため、二人の他にも降車客がいた。
「三半規管が弱りそう」
バスから降りて開口一番、野分がぼやいた。持ち直したレジ袋ががさりと音を立てる。
「野分くんも夏バテ仲間になる?」
「なりたくねえよ。あー……空、明るいな。星が全然見えない」
「そうかな、こんなもんじゃない? 割と見えるほうだと思う」
帰路の途中、足取りを少し落として夜空を仰ぐ。氷川の実家から見える夜空よりは、ずっと星が多い気がした。
「氷川は都会っ子か」
「うん。野分くんは違うの?」
「俺の家はド田舎の田んぼん中だよ。日が落ちたら真っ暗になるようなとこ」
「そうなんだ。いいね、涼しそうだ」
なんとなく田んぼに囲まれているなら涼しそうなイメージがある。水田の気化熱か、ヒートアイランド現象から逃れられるからか、それともただ単にイメージだけなのかは分からないが。
「それが一番大事なのか」
「他にどんな大事があるんだってレベルだね」
「そうだと思った……悪かったな、暑い中連れ出して。嫌な思いしただろ」
野分は夜空を見上げたままでいる。横顔は感情を読ませない。表情を隠したまま、暗い星を探そうとするかのように、瞳を動かす。氷川は今日何度か思い出したことを口にした。
「俺の祖母……父方の祖母がさ、やっぱり施設の世話になってるんだけど」
唐突な転換に、野分が氷川に視線を向けた。焦げ茶色の瞳は、夜の中で黒く光る。目顔で促されて、氷川は視線を落とした。濡れたように光るアスファルトは、昼間の高温が嘘のように冷え冷えとしている。触れても冷たくなどないくせに。
「会いに行くと、俺のことを父の名前で呼ぶんだ。父や叔父のことは知らないって言うらしくて」
「それは……」
「よくあることなんだって、聞いた。今日の人みたいに怒鳴ったり、逆に怯えたりはされないけど……それを思い出した」
野分はああ、と頷く。ただ一言の相槌が得がたいもののようで、少し呼吸が楽になった。
「あの人にもきっと、寂しくて悲しい思いをしてる人がいるんだろうね」
認知症が進んでいるらしいと、野分は言った。きっと子供や孫が面会しても、激昂こそしなくとも分からないのだろう。掴み掛かってきた、よく手入れのされた細い手を思い出す。あの時は怖かったが、今になればむしろ悲しさを感じた。
靴底をこすりつけるようにして、野分が足を止めた。街路灯の影が長く足元まで伸びている。
「……俺の祖父は、しばらく前に亡くなったが」
平淡な声音で告げられた言葉で思い出す。そうだ、野分の祖父で、彼の実家の企業の会長CEOも務めた人物は、この六月に逝去していた。
「うん、新聞で読んだよ。ご愁傷様です」
「そうか、まあ、大往生だったな」
野分の声はとても静かだ。新聞の小見出しで見た記憶では病没だったし、臨終を看取れたのかもしれない。野分とはクラスも違うため顔を合わせる日は多くなく、彼が休んでいたのかは記憶になかった。
そう、とだけ答えた氷川から視線を外し、野分は目を伏せる。
「亡くなる直前、入院する間際まで元気で仕事してたけど、話した記憶があんまりないんだ。会話はしてても、なんでもない話をするような関係じゃなかった。それを……悪いことをしたって、思ってた。生きてて、話ができるんなら、それがどんな状態でもそのほうが良かったって思うくらいに……でも、そういうもんでもないんだな」
生きていて、話しができるなら。
氷川の祖母は確かに存命で、会話を交わすことはできる。今日の老人だってそうだろう。だが、それで満足できないのは高望みだと言い切れるものでもない。表層的な言葉だけのやりとりは、時に心を摩耗させる。目の前にいる自分を自分と認識してくれない身内と接するのは、失ってしまうよりずっと恵まれているけれど、それでも虚しさを呼ぶ。
「難しいね」
「そうだな」
無難な言葉しか返せなかった氷川に、野分は頷いた。どれだけ考え、問いかけようと、その答えは出ない。時の流れで濯がれていくものも、届かなくなる命も、人間にはどうしようもない。氷川は、闇に足を浸して立ち尽くす野分の肩を叩いた。
「帰ろ。で、一緒に夕飯食べよう。時間遅すぎるけど、食べるつもりで買ったんだし」
努めて明るく告げると、毒気を抜かれたように野分が破顔した。
混雑のピークを疾うに過ぎた車両は、探さなくとも並んで座れる。向かいに座った疲れた社会人の上に、夜を映す窓が口を開けていた。それが怖くないのは、闇への恐怖を忘れたからではない。人口の光が途切れることなく見え続けているからだ。静かな電車内の空気を乱さないよう、小さな声で、氷川と野分は会話を続けた。
やがて学院の最寄り駅に列車が近付き、腰を上げる。住宅地を抱える立地のためか、それなりの人数がホームに降り立った。空調の効いた車内から出ると、湿度を孕んだ夜気も暑く感じる。僅かに顔をしかめた氷川を、野分が早くと急かした。
「ギリでバス乗れるな。遅延なくて良かった」
「歩いて帰るにはちょっと遠いもんね」
「時間があればなんてことないけど、この時間だとちょっとな」
駅から学院までは徒歩で三十分程度かかる。街路灯がまばらで人気のない道もあり、治安も不安だが、それ以上に門限が重要だ。二十三時という門限は都条例に添ったものであり、事前連絡をしようとも例外は許されない。閉め出されることはないが、生活態度の評価に直結する。だから多くの生徒は、門限を破るくらいならばタクシー代を支払うことを選ぶ。バスがなかったら氷川と野分も本日三度目のタクシーの世話になる所だった。
電車に使ったのと同じICカード乗車券で、門限に間に合うはずのバスに乗り込む。歩いて二十分かかる道のりは、バスならば五分程度で済んでしまう。学校最寄りのバス停は、付近に集合住宅や民家もあるため、二人の他にも降車客がいた。
「三半規管が弱りそう」
バスから降りて開口一番、野分がぼやいた。持ち直したレジ袋ががさりと音を立てる。
「野分くんも夏バテ仲間になる?」
「なりたくねえよ。あー……空、明るいな。星が全然見えない」
「そうかな、こんなもんじゃない? 割と見えるほうだと思う」
帰路の途中、足取りを少し落として夜空を仰ぐ。氷川の実家から見える夜空よりは、ずっと星が多い気がした。
「氷川は都会っ子か」
「うん。野分くんは違うの?」
「俺の家はド田舎の田んぼん中だよ。日が落ちたら真っ暗になるようなとこ」
「そうなんだ。いいね、涼しそうだ」
なんとなく田んぼに囲まれているなら涼しそうなイメージがある。水田の気化熱か、ヒートアイランド現象から逃れられるからか、それともただ単にイメージだけなのかは分からないが。
「それが一番大事なのか」
「他にどんな大事があるんだってレベルだね」
「そうだと思った……悪かったな、暑い中連れ出して。嫌な思いしただろ」
野分は夜空を見上げたままでいる。横顔は感情を読ませない。表情を隠したまま、暗い星を探そうとするかのように、瞳を動かす。氷川は今日何度か思い出したことを口にした。
「俺の祖母……父方の祖母がさ、やっぱり施設の世話になってるんだけど」
唐突な転換に、野分が氷川に視線を向けた。焦げ茶色の瞳は、夜の中で黒く光る。目顔で促されて、氷川は視線を落とした。濡れたように光るアスファルトは、昼間の高温が嘘のように冷え冷えとしている。触れても冷たくなどないくせに。
「会いに行くと、俺のことを父の名前で呼ぶんだ。父や叔父のことは知らないって言うらしくて」
「それは……」
「よくあることなんだって、聞いた。今日の人みたいに怒鳴ったり、逆に怯えたりはされないけど……それを思い出した」
野分はああ、と頷く。ただ一言の相槌が得がたいもののようで、少し呼吸が楽になった。
「あの人にもきっと、寂しくて悲しい思いをしてる人がいるんだろうね」
認知症が進んでいるらしいと、野分は言った。きっと子供や孫が面会しても、激昂こそしなくとも分からないのだろう。掴み掛かってきた、よく手入れのされた細い手を思い出す。あの時は怖かったが、今になればむしろ悲しさを感じた。
靴底をこすりつけるようにして、野分が足を止めた。街路灯の影が長く足元まで伸びている。
「……俺の祖父は、しばらく前に亡くなったが」
平淡な声音で告げられた言葉で思い出す。そうだ、野分の祖父で、彼の実家の企業の会長CEOも務めた人物は、この六月に逝去していた。
「うん、新聞で読んだよ。ご愁傷様です」
「そうか、まあ、大往生だったな」
野分の声はとても静かだ。新聞の小見出しで見た記憶では病没だったし、臨終を看取れたのかもしれない。野分とはクラスも違うため顔を合わせる日は多くなく、彼が休んでいたのかは記憶になかった。
そう、とだけ答えた氷川から視線を外し、野分は目を伏せる。
「亡くなる直前、入院する間際まで元気で仕事してたけど、話した記憶があんまりないんだ。会話はしてても、なんでもない話をするような関係じゃなかった。それを……悪いことをしたって、思ってた。生きてて、話ができるんなら、それがどんな状態でもそのほうが良かったって思うくらいに……でも、そういうもんでもないんだな」
生きていて、話しができるなら。
氷川の祖母は確かに存命で、会話を交わすことはできる。今日の老人だってそうだろう。だが、それで満足できないのは高望みだと言い切れるものでもない。表層的な言葉だけのやりとりは、時に心を摩耗させる。目の前にいる自分を自分と認識してくれない身内と接するのは、失ってしまうよりずっと恵まれているけれど、それでも虚しさを呼ぶ。
「難しいね」
「そうだな」
無難な言葉しか返せなかった氷川に、野分は頷いた。どれだけ考え、問いかけようと、その答えは出ない。時の流れで濯がれていくものも、届かなくなる命も、人間にはどうしようもない。氷川は、闇に足を浸して立ち尽くす野分の肩を叩いた。
「帰ろ。で、一緒に夕飯食べよう。時間遅すぎるけど、食べるつもりで買ったんだし」
努めて明るく告げると、毒気を抜かれたように野分が破顔した。
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