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横峰春久
三学期 2:距離
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親しいと言っても、氷川は毎日朝から晩まで横峰と一緒にいるわけではない。会えば挨拶や会話はするが、移動教室や、朝夕の登下校にわざわざ同行者を探す必要性は高くないし、食事も気が向いた場所で適当に済ませる。だから、横峰とまともに話をしていないと気付くまで何日か必要だった。
無視ではない。視線が合えば手を上げる程度はするし、挨拶もする。情報交換程度の雑談もしてはいる。それだけだ。それ以上の突っ込んだ話をしようとすれば、適当な言い訳で逃げられる。表層的な、当たり障りのない付き合い方の範疇に留まっている。そう気付いてから三日、氷川は迷っていた。
横峰が何を思い、接し方を変えたのかは知らない。開いた距離を詰めたいと願うのは氷川のエゴなのか。そもそも、自分は本当に広がった距離を詰めたいと思っているのか。孤立さえしなければ、一人でいる時間が増えるのはむしろ歓迎することではないのか。一人ならば疲れないし、遠慮なく勉強に時間を費やせる。だが、それが、寂しい。
嘆息して、氷川は開いていたテキストを閉じた。背を上に机に置き、席を立つ。
「横峰くん、ちょっといい?」
声を掛けると、彼は僅かに目を見張った。そして誤魔化すように笑みを作る。
「どうかした?」
「古典の漢文、よく分からない所があって。教えてもらえないかな」
横峰は文系が得意だ。英語も古典も、クラスの平均点を引き上げるのに一役買っている。つまり、氷川の頼みはとてもありふれた、普通のものだ。今まで、そう頼んで断られたことはない。しかし、横峰は軽く眉をひそめた。
「講習には参加した?」
「うん。でも、難しくて」
「それなら、先生に聞いてみなよ。夏木先生は漢文が専門だし、俺よりずっと、知識も深くて教えるプロなんだからさ。ほら、俺もそこまで漢文は完璧でもないし」
優しげに目元を緩めた横峰が、柔らかく拒絶する。氷川は気付かれないようにそっと息を吐いた。
「そうだね、そうする。ごめんね、時間取らせて」
「役に立たなくてごめん」
申し訳なさそうな表情には、おそらく嘘はない。しかし同時に、断固とした拒絶もまた、解かれることはなかった。
「氷川、食堂」
午前の授業が終わってすぐ、机にやってきた川口にそう声を掛けられた。視線を巡らせると、赤田がこちらの様子を窺っているのが目に入る。珍しいなと考えながら、氷川は了承を示した。
氷川と赤田は適当に和定食を、偏食の川口はカレーを選び、並んで席を取る。
川口と赤田相手ならば、雑談の種には事欠かない。年末年始休暇に見た映画に、見に行ったライブイベントや入手した新譜・旧作、果ては川口が読んで面白かった本の知識まで、どれだけインプットすればこうもアウトプットに困らなくなるのか感心するほどだ。
「もうさ、あんだけ煽っといてあの出来って、みたいな。むしろあの出来なのによくあんだけ煽れたよって勢いでさ。久々に入館料と上映時間を返せって思ったね」
ハズレ映画を見てしまったという川口は、しかめ面で付け合わせのポテトサラダを口に入れる。赤田が苦笑して、炊き合わせの大根を半分サイズに切った。
「それでもエンドロールまで見てくるんだから流石だよね」
「だって、最後の最後にすげえオチが用意されてるかもしれないだろ。なんもなかったけど」
「わかる。もう制作費だけで選ばないって誓うのに、ついついまた引っかかったりとか、俺は割とあるよ」
巨額の制作費用が掛けられていようが、駄作は駄作、凡作は凡作だ。逆に、資金は心許なくても脚本と演技の良さに目を見張るような作品もある。分かっているのに、何故か人は制作何億ドルという宣伝文句に踊らされる。他に見所があればそんなことはおまけでしかないのに。
氷川の台詞に、川口がこくこくと頷いた。
「そうそう、予告見て、絶対面白いって思うんだけど、実際見るとがっかりとかな」
「それね、一番面白い部分が予告に詰まってるんだよね」
「あ、それ音楽でもあるわ。サビしか良くないとか、シングルカットのとリードトラックはいいんだけど他はひどいのとか」
どこの世界も同じだと、赤田が諦めたように笑う。川口が眉を上げた。
「それ、前も言ってた」
「うん、前から言ってる。こないだも三枚そうだった」
「同じバンド?」
「も、あるし、違うのもある」
嘆息する赤田に、川口が面倒そうに顔をしかめた。
「なんで同じバンドで同じ失敗すんの」
「今度こそって思うからだよ! それに、売れなきゃ解散しちゃうんだから期待するなら買い支えるしかないでしょ。川口だってデビュー作以外駄作だって言いながら毎回買ってる作家がいるじゃん」
「うるっさい」
図星を突かれたらしく、川口が不機嫌そうに会話を打ち切る。赤田に対する川口の態度は横暴で不遜だが、不思議と嫌な感じがしない。それは彼に悪意がないからだ。彼らを見ていれば、暴言も粗雑な扱いも甘えなのだと気付いて寛容になれる。赤田もそれを理解しているから、いつも上機嫌そうに笑っているのだろう。
楽しそうな赤田を一睨みし、川口が苦々しげに息を吐いた。そして、思い出したように氷川に視線を向ける。
「それはそうと、氷川さ、なんかあった?」
黒目がちな瞳が、強い光を宿して氷川を見据える。食べ終わるのを待っていたようなタイミングに、これが本命だったと気付いた。どうやら、気を遣わせたらしい。落ち込んで見えていただろうか、考えつつ、氷川は首を傾けた。
「何もないけど、どうして?」
「横峰。分かってんだろ?」
静かな声は、問いの形をした断定だ。赤田が気遣わしげに同調する。
「ここ最近……新学期になってから? どうかしたのかなって気になってて。大原と白沢も気にしてたよ」
「そうだったんだ。ごめんね、気を遣わせて。大原くんと白沢くんにも謝らなきゃいけないな。多分、俺が何かおかしなことでも言ったんだと思う」
苦笑を作って、重い息を声に変換する。
四人で食事をした際の横峰の様子を考えれば、あの場の話題が問題だったと考えるだろう。フォローできていなかったなと反省した。問題があったしても、それはあの二人ではないはずだ。氷川が何か、横峰の気に障ることを言ったのだ。そう考えると、腹の底がどんよりと重くなった。
どうしてこうも苦しいのだろう。卓の下に隠した左手を、強く握った。てのひらに爪が食い込む痛みが、脳の働きを少しだけクリアにする。
「喧嘩じゃないんだね」
「喧嘩に見えた?」
軽く訊くつもりだったが、調整に失敗したらしい。赤田が眉を曇らせた。川口が頬に落ちた髪を耳の後ろに掻き上げる。
「冷戦?」
「……軍拡はしてないよ」
レスポンスに困って、見当違いな否定を投げる。川口が失笑して、こめかみに手を当てた。
「怒らせたと思うなら、謝っとけば?」
「何がまずかったか分かんないまま謝ったら余計怒るよ」
「あー、横峰はそういうタイプだね」
川口の提案を退けると、赤田が確かにと頷いた。
川口が戯れのように前髪を吹き上げる。そして乱れた髪を手で押さえて、唇の端を上げた。
「別におまえらが揉めててもなんてことないけどさ、うだうだしてるよりは正面から行ったほうが楽じゃね?」
「川口くんは勇気があるね」
「や、俺は全然。むしろ、俺が悪くても謝ってくる奴がいるからさ、助かってるっていうか、なあ」
「え、川口が悪いことなんてまずないけど? ていうか、喧嘩にしろ違うにしろ、揉めてる時にどっちか片方だけが悪い事ってあんまりなくない? 交通事故とか、浮気とか、あと盗みとか、そういうのは別としてさ」
普段の軽さを隠し、真面目な口調で赤田が話す。大きな瞳はまっすぐ氷川に向けられていた。その隣で、川口がどことなく気恥ずかしげに視線を逸らす。氷川がその言葉を理解し飲み込むのを待って、赤田が緩やかに口角を上げた。
「謝るとか、何が悪いとか、そういう面倒なことは置いといてさ、話したいことを話してみるのは悪いことじゃないよ」
「そう、だね」
背中を押す赤田の言葉に頷きながら、氷川は考えていた。
話したいこととは、なんだろう。自分は、横峰と何を話したいのだろう。たとえば川口とならば、こんな話をしたいという項目がいくつもある。気になっている新作の情報、見た映画の感想、読書家の彼は興味深かった本の話をしてくれることもあって、どれも興味深い。だが、横峰に関してはそうした項目はない。改めて考えると、自分と彼はどんな話をしていたのかもよく覚えていない。山や自然の話ばかりを聞いていたわけはないのに。今までのようにと考える、そのイメージの曖昧さに愕然とした。何を取り戻したいのかも分からないのでは、手の出しようがない。
考え込んでいると、額に鋭い痛みが走った。思わず顔を上げると、川口が唇の端を笑うように歪めてみせる。
「ま、何するのもしないのもおまえの自由だけど、やっときゃ良かったって後悔すんのが分かってんのに動かねえのは馬鹿だ。俺は、馬鹿は、友達にしない。オッケー?」
川口が首を傾ける。氷川は目をまたたき、弾かれた額に指で触れた。
「これからも川口くんと仲良くして欲しかったら、とりあえず動けってこと?」
「とりあえず動くくらいの甲斐性は欲しい」
「大原くんは、川口くんは待っててくれる人だって言ってたよ。時間がかかっても、文句は言っても置いていったり、勝手に決めたりしないって」
さすがに皮肉気味ているかと反省したが、川口は気にした気配もなく笑みで喉を震わせる。肩をすくめた赤田が、無言で川口のグラスを手に席を立った。いつの間にか、彼の飲み物だけが空だ。
「大原は放っといても最後にはなんとかするし。おまえらはケツ叩かれねえとなあなあで終わらすタイプじゃん。そういうの、俺、ついつい面倒見たくなっちゃうんだよね」
「川口くんって本当、いいひとだよね」
「お礼の気持ちは来月のチョコケーキでいいよ。寮食堂の限定メニュー」
川口が不敵に微笑んで告げる。来月は二月だ。二月上旬のチョコレートはバレンタイン関連商品と相場が出来ている。男子校の寮に何故そんなものがと思わないでもないが、街中にチョコレートの宣伝が溢れる季節だ。寮内ならば、食べたいが買いづらいという葛藤はさして感じないだろうから、悪くない救済策かもしれない。
「男の奢りチョコでも嬉しいの?」
「上手く事が運べばな」
川口が楽しげに唇に笑みを掃く。人の悪そうな顔をしてみせても、結局は心配をかけているのだと理解しているから、嫌な気分にはならなかった。どうしたいのか、どうすればいいのか、具体的には何も分かっていないが、それでも笑顔を作る。
「川口くんと赤田くんにここまで気にしてもらったら、何かしないわけにはいかないね。ちょっと頑張ってみるよ。心配してくれてありがとね」
軽く会釈をつけてそう言うと、川口がわざとらしく溜息を吐いた。
「俺らには素直なのになあ」
まるで横峰相手には捻くれているかのような物言いに、氷川は苦笑いで済ませる。残念ながら、斜に構えているのが通常営業だ。
宣言してみたものの、実際にどうすればいいか思い浮かばないまま午後の授業が終わってしまった。文化系の部活同様、ワンダーフォーゲル部の平日の活動日は月曜日と水曜日の二回だ。今日は木曜日で、特別な用事がなければ、横峰も時間があるはずだった。
氷川は赤田たちほど、川口を必要としてはいない。彼に切り捨てられても生きていける。けれど、それは寂しいことだ。そして、横峰と話をしたい理由はそこにはない。
教師が教室を出るのと同時に、氷川は席を立った。まっすぐに横峰の席の隣に立つ。彼はちらりと氷川を一瞥し、目を眇めた。
「氷川くん、どうかした?」
「少し、話したくて」
端的に答えると、横峰が瞳を揺らがせた。開いた口を閉じ、逡巡の間を置いて視線を落とす。
「今日は……」
「今すぐじゃなくてもいい。夜でも、明日でも、それより後でも」
「用件は」
「話したい。それが理由にはならない?」
硬い声の問いに、溜息を吐くように反問を投げる。横峰は眉をひそめて迷うように黙していたが、やがて諦めたように顔を上げた。
「分かった。今日の夜?」
「隣が三年の先輩でね、一般選抜なんだ。今週末がセンターだから」
部屋で話すのは気が引けるが、さりとて他に落ち着いて話ができる場所もない。氷川のためらいを正しく読み取って、横峰がそれなら、とカレンダーを視線で確かめる。
「先延べになるけど、土曜日にお邪魔するよ」
「別に、ご飯食べながらでも平気だけど」
「俺が気にするの」
横峰が困ったように暫時目を伏せる。その意味する所を問い質すこともできずに、氷川はただ頷いた。
「じゃあ、明後日ね」
無視ではない。視線が合えば手を上げる程度はするし、挨拶もする。情報交換程度の雑談もしてはいる。それだけだ。それ以上の突っ込んだ話をしようとすれば、適当な言い訳で逃げられる。表層的な、当たり障りのない付き合い方の範疇に留まっている。そう気付いてから三日、氷川は迷っていた。
横峰が何を思い、接し方を変えたのかは知らない。開いた距離を詰めたいと願うのは氷川のエゴなのか。そもそも、自分は本当に広がった距離を詰めたいと思っているのか。孤立さえしなければ、一人でいる時間が増えるのはむしろ歓迎することではないのか。一人ならば疲れないし、遠慮なく勉強に時間を費やせる。だが、それが、寂しい。
嘆息して、氷川は開いていたテキストを閉じた。背を上に机に置き、席を立つ。
「横峰くん、ちょっといい?」
声を掛けると、彼は僅かに目を見張った。そして誤魔化すように笑みを作る。
「どうかした?」
「古典の漢文、よく分からない所があって。教えてもらえないかな」
横峰は文系が得意だ。英語も古典も、クラスの平均点を引き上げるのに一役買っている。つまり、氷川の頼みはとてもありふれた、普通のものだ。今まで、そう頼んで断られたことはない。しかし、横峰は軽く眉をひそめた。
「講習には参加した?」
「うん。でも、難しくて」
「それなら、先生に聞いてみなよ。夏木先生は漢文が専門だし、俺よりずっと、知識も深くて教えるプロなんだからさ。ほら、俺もそこまで漢文は完璧でもないし」
優しげに目元を緩めた横峰が、柔らかく拒絶する。氷川は気付かれないようにそっと息を吐いた。
「そうだね、そうする。ごめんね、時間取らせて」
「役に立たなくてごめん」
申し訳なさそうな表情には、おそらく嘘はない。しかし同時に、断固とした拒絶もまた、解かれることはなかった。
「氷川、食堂」
午前の授業が終わってすぐ、机にやってきた川口にそう声を掛けられた。視線を巡らせると、赤田がこちらの様子を窺っているのが目に入る。珍しいなと考えながら、氷川は了承を示した。
氷川と赤田は適当に和定食を、偏食の川口はカレーを選び、並んで席を取る。
川口と赤田相手ならば、雑談の種には事欠かない。年末年始休暇に見た映画に、見に行ったライブイベントや入手した新譜・旧作、果ては川口が読んで面白かった本の知識まで、どれだけインプットすればこうもアウトプットに困らなくなるのか感心するほどだ。
「もうさ、あんだけ煽っといてあの出来って、みたいな。むしろあの出来なのによくあんだけ煽れたよって勢いでさ。久々に入館料と上映時間を返せって思ったね」
ハズレ映画を見てしまったという川口は、しかめ面で付け合わせのポテトサラダを口に入れる。赤田が苦笑して、炊き合わせの大根を半分サイズに切った。
「それでもエンドロールまで見てくるんだから流石だよね」
「だって、最後の最後にすげえオチが用意されてるかもしれないだろ。なんもなかったけど」
「わかる。もう制作費だけで選ばないって誓うのに、ついついまた引っかかったりとか、俺は割とあるよ」
巨額の制作費用が掛けられていようが、駄作は駄作、凡作は凡作だ。逆に、資金は心許なくても脚本と演技の良さに目を見張るような作品もある。分かっているのに、何故か人は制作何億ドルという宣伝文句に踊らされる。他に見所があればそんなことはおまけでしかないのに。
氷川の台詞に、川口がこくこくと頷いた。
「そうそう、予告見て、絶対面白いって思うんだけど、実際見るとがっかりとかな」
「それね、一番面白い部分が予告に詰まってるんだよね」
「あ、それ音楽でもあるわ。サビしか良くないとか、シングルカットのとリードトラックはいいんだけど他はひどいのとか」
どこの世界も同じだと、赤田が諦めたように笑う。川口が眉を上げた。
「それ、前も言ってた」
「うん、前から言ってる。こないだも三枚そうだった」
「同じバンド?」
「も、あるし、違うのもある」
嘆息する赤田に、川口が面倒そうに顔をしかめた。
「なんで同じバンドで同じ失敗すんの」
「今度こそって思うからだよ! それに、売れなきゃ解散しちゃうんだから期待するなら買い支えるしかないでしょ。川口だってデビュー作以外駄作だって言いながら毎回買ってる作家がいるじゃん」
「うるっさい」
図星を突かれたらしく、川口が不機嫌そうに会話を打ち切る。赤田に対する川口の態度は横暴で不遜だが、不思議と嫌な感じがしない。それは彼に悪意がないからだ。彼らを見ていれば、暴言も粗雑な扱いも甘えなのだと気付いて寛容になれる。赤田もそれを理解しているから、いつも上機嫌そうに笑っているのだろう。
楽しそうな赤田を一睨みし、川口が苦々しげに息を吐いた。そして、思い出したように氷川に視線を向ける。
「それはそうと、氷川さ、なんかあった?」
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「何もないけど、どうして?」
「横峰。分かってんだろ?」
静かな声は、問いの形をした断定だ。赤田が気遣わしげに同調する。
「ここ最近……新学期になってから? どうかしたのかなって気になってて。大原と白沢も気にしてたよ」
「そうだったんだ。ごめんね、気を遣わせて。大原くんと白沢くんにも謝らなきゃいけないな。多分、俺が何かおかしなことでも言ったんだと思う」
苦笑を作って、重い息を声に変換する。
四人で食事をした際の横峰の様子を考えれば、あの場の話題が問題だったと考えるだろう。フォローできていなかったなと反省した。問題があったしても、それはあの二人ではないはずだ。氷川が何か、横峰の気に障ることを言ったのだ。そう考えると、腹の底がどんよりと重くなった。
どうしてこうも苦しいのだろう。卓の下に隠した左手を、強く握った。てのひらに爪が食い込む痛みが、脳の働きを少しだけクリアにする。
「喧嘩じゃないんだね」
「喧嘩に見えた?」
軽く訊くつもりだったが、調整に失敗したらしい。赤田が眉を曇らせた。川口が頬に落ちた髪を耳の後ろに掻き上げる。
「冷戦?」
「……軍拡はしてないよ」
レスポンスに困って、見当違いな否定を投げる。川口が失笑して、こめかみに手を当てた。
「怒らせたと思うなら、謝っとけば?」
「何がまずかったか分かんないまま謝ったら余計怒るよ」
「あー、横峰はそういうタイプだね」
川口の提案を退けると、赤田が確かにと頷いた。
川口が戯れのように前髪を吹き上げる。そして乱れた髪を手で押さえて、唇の端を上げた。
「別におまえらが揉めててもなんてことないけどさ、うだうだしてるよりは正面から行ったほうが楽じゃね?」
「川口くんは勇気があるね」
「や、俺は全然。むしろ、俺が悪くても謝ってくる奴がいるからさ、助かってるっていうか、なあ」
「え、川口が悪いことなんてまずないけど? ていうか、喧嘩にしろ違うにしろ、揉めてる時にどっちか片方だけが悪い事ってあんまりなくない? 交通事故とか、浮気とか、あと盗みとか、そういうのは別としてさ」
普段の軽さを隠し、真面目な口調で赤田が話す。大きな瞳はまっすぐ氷川に向けられていた。その隣で、川口がどことなく気恥ずかしげに視線を逸らす。氷川がその言葉を理解し飲み込むのを待って、赤田が緩やかに口角を上げた。
「謝るとか、何が悪いとか、そういう面倒なことは置いといてさ、話したいことを話してみるのは悪いことじゃないよ」
「そう、だね」
背中を押す赤田の言葉に頷きながら、氷川は考えていた。
話したいこととは、なんだろう。自分は、横峰と何を話したいのだろう。たとえば川口とならば、こんな話をしたいという項目がいくつもある。気になっている新作の情報、見た映画の感想、読書家の彼は興味深かった本の話をしてくれることもあって、どれも興味深い。だが、横峰に関してはそうした項目はない。改めて考えると、自分と彼はどんな話をしていたのかもよく覚えていない。山や自然の話ばかりを聞いていたわけはないのに。今までのようにと考える、そのイメージの曖昧さに愕然とした。何を取り戻したいのかも分からないのでは、手の出しようがない。
考え込んでいると、額に鋭い痛みが走った。思わず顔を上げると、川口が唇の端を笑うように歪めてみせる。
「ま、何するのもしないのもおまえの自由だけど、やっときゃ良かったって後悔すんのが分かってんのに動かねえのは馬鹿だ。俺は、馬鹿は、友達にしない。オッケー?」
川口が首を傾ける。氷川は目をまたたき、弾かれた額に指で触れた。
「これからも川口くんと仲良くして欲しかったら、とりあえず動けってこと?」
「とりあえず動くくらいの甲斐性は欲しい」
「大原くんは、川口くんは待っててくれる人だって言ってたよ。時間がかかっても、文句は言っても置いていったり、勝手に決めたりしないって」
さすがに皮肉気味ているかと反省したが、川口は気にした気配もなく笑みで喉を震わせる。肩をすくめた赤田が、無言で川口のグラスを手に席を立った。いつの間にか、彼の飲み物だけが空だ。
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「男の奢りチョコでも嬉しいの?」
「上手く事が運べばな」
川口が楽しげに唇に笑みを掃く。人の悪そうな顔をしてみせても、結局は心配をかけているのだと理解しているから、嫌な気分にはならなかった。どうしたいのか、どうすればいいのか、具体的には何も分かっていないが、それでも笑顔を作る。
「川口くんと赤田くんにここまで気にしてもらったら、何かしないわけにはいかないね。ちょっと頑張ってみるよ。心配してくれてありがとね」
軽く会釈をつけてそう言うと、川口がわざとらしく溜息を吐いた。
「俺らには素直なのになあ」
まるで横峰相手には捻くれているかのような物言いに、氷川は苦笑いで済ませる。残念ながら、斜に構えているのが通常営業だ。
宣言してみたものの、実際にどうすればいいか思い浮かばないまま午後の授業が終わってしまった。文化系の部活同様、ワンダーフォーゲル部の平日の活動日は月曜日と水曜日の二回だ。今日は木曜日で、特別な用事がなければ、横峰も時間があるはずだった。
氷川は赤田たちほど、川口を必要としてはいない。彼に切り捨てられても生きていける。けれど、それは寂しいことだ。そして、横峰と話をしたい理由はそこにはない。
教師が教室を出るのと同時に、氷川は席を立った。まっすぐに横峰の席の隣に立つ。彼はちらりと氷川を一瞥し、目を眇めた。
「氷川くん、どうかした?」
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端的に答えると、横峰が瞳を揺らがせた。開いた口を閉じ、逡巡の間を置いて視線を落とす。
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「用件は」
「話したい。それが理由にはならない?」
硬い声の問いに、溜息を吐くように反問を投げる。横峰は眉をひそめて迷うように黙していたが、やがて諦めたように顔を上げた。
「分かった。今日の夜?」
「隣が三年の先輩でね、一般選抜なんだ。今週末がセンターだから」
部屋で話すのは気が引けるが、さりとて他に落ち着いて話ができる場所もない。氷川のためらいを正しく読み取って、横峰がそれなら、とカレンダーを視線で確かめる。
「先延べになるけど、土曜日にお邪魔するよ」
「別に、ご飯食べながらでも平気だけど」
「俺が気にするの」
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「じゃあ、明後日ね」
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