嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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横峰春久

未来のために (終)

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 せっかく一人部屋になったからと横峰が私室に招待してくれたのは、年度が変わってからだった。都内と比べてこのあたりは少しばかり春が遅く、学内の桜はちょうど見頃を迎えている。冬は既に過ぎた。窓を開けたままでいるには少し気温が低いが、土と花と緑の香りの風は心地良い。
 講堂では今頃、入学式が執り行われているはずだ。始業式は明日で、氷川達には今日が春期休業の最終日だった。
 濁った空を見上げながら窓辺でぼんやりしていると、横峰がすぐ隣に立った。
「寒くない?」
「ちょっとだけ。卒業式は祝日なのに、入学式は平日なんだね」
「そうだね、卒業式のが名刺交換会になりやすいからかな」
 高校の卒業式でという言葉を飲み込む。全くあり得ない話でもない。
 目をまたたく氷川の顔を盗み見るようにして、横峰が窓を閉めた。
「あんまり冷えて風邪でもひいたら大変だよ。まだ寒いんだから」
「心配性だね」
「それくらいしか、できることがないから」
 横峰がレースのカーテンを引いた。部屋の明度が僅かに下がる。彼は氷川の髪を掻き上げ、頬にするりと手を離せた。それから逃れて、書架に足を向ける。いくら外から見えないとしても、窓の側で触れ合う勇気はない。
「俺には経済の話はいまいち分かんないし、氷川くんが勉強してるの見ても難しいことやってんなあとしか思えないからさ。せめて体調に気を遣うくらいはしたいかなって」
「横峰くんが励ましてくれるだけで、大丈夫って思えてるよ」
 素直な感情を言葉にすると、横峰が照れたように瞳を巡らせた。
 横峰は氷川をヒーローのようだと言ったけれど、氷川からすれば横峰こそヒーローだ。文化祭と、卒業式の日に、どちらも絶妙なタイミングで助けに入ってくれた。お陰で氷川は殴られも、蹴られもせずに済んだ。
 そこまであけすけに言うつもりはないので、誤魔化すように話題を変えた。
「ところでこれって横峰くんの私物なの?」
 書架にずらりと並べられた、A4やB5サイズの雑誌を指差すと、彼はなんとも言えない表情で頷いた。
「その辺の雑誌ならそうだよ」
「ワンゲル部の部室にもあったよね?」
 部外者だというのに当たり前のように出入りさせて貰っている、ワンダーフォーゲル部の部室を思い出す。これよりもっと豊富な冊数が揃っていたはずだ。
 横峰は鷹揚に頷き、氷川の隣から棚を覗き込んだ。
「うん、同じもんだね」
「山に登る人って、皆こんなに色んな本や雑誌集めるの?」
「……どうだろ、うちの父親は蔵書が多い方だったけど」
 考えるように、横峰が背表紙をなぞる。触れるか触れないか程度の距離の保ち方に、別の妄想が掻き立てられそうになって、そっと視線を外した。氷川の様子には気付かなかったのか、横峰が軽い調子で棚を叩いた。
「読みたいなら読んでいいよ。貸すし」
 魅力的な提案に、何も考えずに頷きそうになる。氷川は慌ててかぶりを振った。検定試験は六月の第二日曜日で、二ヶ月少々しか時間がない。その間も当たり前に授業があり、五月には中間考査も控えている。一学期の中間考査はさして重要度の高いテストでもないが、全く何もしなくていいわけでもない。
「読めるか分かんないし、今はやめとく。検定試験が終わったら……終わったら夏だな」
「六月だよね」
「六月はもう夏だよ」
 日本の六月は梅雨だが、氷川にとってはゴールデンウィーク前後から季節は既に夏も同然だ。湿度が高いと髪がうねって困るし、気温が二十五度を過ぎると頭の働きが鈍くなる。思い出すだけでげんなりしてきた。昨夏の萎れていた氷川を思い出したのか、横峰が慰めるように肩に触れた。喉の奥で笑う気配がして、氷川はわざと大仰に眉を跳ね上げる。
「人が本気で苦しんでるのに笑うとかひどい」
「ごめん、氷川くんが今から疲れたみたいな顔してるから。写真見るだけでも息抜きになるよ。はい、これ」
 横峰が手を伸ばし、迷いのない所作で雑誌を一冊抜き出す。B5版程度のサイズの雑誌は、冬山を扱った号らしかった。開くと、真っ白な山の写真がフルカラーで印刷されている。
「凄い……影が青く光ってる」
 新雪の山肌は絹のように滑らかで美しい光沢がある。透き通った白い樹氷の影になった部分は、水色に似た青い光を発していた。ページを繰ると、割れた雪が内側から青い光を漏らしている写真もある。通常、影というものは灰色や黒色をしているものだが、雪や氷はその“普通”の埒外にある。
 横峰もやはり、こういう場所に行ってみたいと、登ってみたいと思うのだろうか。そう考えると、不安が胸を満たした。
 大雪は人の住まう場所でも降る。東北や北海道まで行かずとも、北陸信越の山間だって豪雪地帯だ。しかし、人の手が入った場所と、そうではない場所はやはり違う。冬の山は美しいが、容易く生き物の命を奪う厳しさを併せ持っている。
「横峰くんも、冬山に登ってみたいって思う?」
 誌面から目を離せないまま、疑問が口を衝いて出る。横峰はほんの僅か、言い淀むように黙した。
「興味がないって言ったら嘘になる。でも、俺は行かない」
「お父さんと約束しているから?」
「それもあるし……こんなに心配そうな顔されちゃ、行けないよ」
 指の背で横峰が氷川の頬を撫でる。促されるままに顔を上げると、彼は嬉しそうに目を細めていた。
「別に、冬山だってきちんとした装備があって、天候や状況をちゃんと把握できれば、無事に帰って来れるもんだけどね、氷川くんが不安になるのも分かるし。知らないものは怖いよね」
「実際、遭難者や怪我人だって毎年出てるから」
「それも正しい。どんなことにも絶対はないし、道を歩いていて事故に遭う可能性よりは、雪山に登って遭難したり事故に遭う可能性のほうが高いのも確かだよ」
 横峰はそこまでで言葉を切った。だから行かないのだとも受け取れるし、いつかは導かれるように行ってしまうかもしれないとも受け取れる。それはおそらく、横峰自身にも分からない未来だ。そういう人だと知っていたから、惹かれていることを認めたくなかった部分もある。
 氷川の瞳を覗き込み、横峰は軽く笑って話を変えた。
「まあ、でも、見るだけでもちょっとは涼しくなりそうでしょ」
「そうだね、ありがと、借りる」
 実際の所、雪や氷の景色を見たくらいでは涼は取れない。それでも、横峰の心遣いが嬉しかった。誌面に指を這わせ、なぞる。滑らかな手触りと、紙の匂いがした。丁寧に読んでいるらしく、れたり折れたりもしていない。丁重に扱わなくてはと考えていると、横峰が氷川の指に手を重ねた。指の間を指先が割り、てのひらの縁に爪が触れる。
「でも、読むのは帰ってからにして。折角来てくれたんだから」
 囁く声は、甘さを含ませて低く掠れていた。耳の後ろから背筋を伝って腰まで悪寒に似た感覚が駆け下りる。衣類の下で肌が粟立ったのが分かった。洗剤か柔軟剤か、それとも香水か、甘苦い樹木系の香りが鼻を掠める。氷川は咄嗟に雑誌を閉じ、寝台の上に置いた。
 横峰は誘導が手慣れている。そう感じる度に、腹の底に心地良くない感覚がわだかまる。どちらに対する嫉妬なのか考えることを放棄して、瞼を下ろした。
 唇が形を確かめるように下唇をなぞり、柔らかく食み、緩く吸い付く。歯を立てず、舌も使わず、軽くて甘いだけの口づけなのにいつの間にか腰の下や下腹の辺りに熱が溜まっていく。やり返そうにも上手くいかず、気付けばなだめるように頬や耳朶を撫でられている。短い爪が皮膚の表面を掠めると、背がおののいた。リップ音を立てて唇を話した横峰が、笑いを含んだ吐息を漏らす。
「可愛い」
「うるさい百戦錬磨。昼間なんだからもうちょっと自重して」
 常の氷川らしくなく喚いた声は、力なく掠れていた。それが照れ隠しであることなど、とっくに知られている。だから横峰は愉快そうに喉を鳴らすだけで、氷川の顎のラインを指で撫でる動作にもためらいがない。
「昼でも夜でも自重してるよ。氷川くん泊めてくれないじゃん」
「寮則があるから」
 別に見回りや点呼があるわけではないし、他者の部屋に泊まっても特に問題はないのだが、横峰を帰らせるために錦の御旗よろしく活用していた。
 実際のところ、性的な接触に対する抵抗はあまりない。敢えて言えば、男の身体に萎えてしまうのではないかという懸念がある程度だ。ただ、触れてしまえば箍が外れてしまいそうで怖かった。昔の歌人のように明けても暮れても一人を思うような醜態を演じている暇はない。氷川にはすべきことがある。深呼吸をして気持ちを切り替え、横峰の手を払いのける。無碍にされた横峰は、気にした素振りもなく指を振った。
「真面目だね」
「余裕ないだけだよ。そろそろ帰って勉強しなきゃ」
 時間を確かめる振りで、壁の時計を見上げる。部屋に招かれて、まだ一時間も経っていなかった。横峰が寂しげに表情を曇らせ、それでも引き止めずに頷いてくれる。
「そうだね、忙しいんだもんね」
「そういうことにしといてくれると助かる」
 肩をすくめた氷川の髪を、横峰が梳くように撫でた。お互い、物わかりがいいのは口先だけだ。横峰の指先は名残惜しそうに氷川の髪に触れているし、氷川も腰を上げることをためらっている。だが、ここでだらだらしていて思う結果が出せなかったら、この先ずっと悔やむことになる。
 意を決して氷川は足に力を入れた。
「じゃあ、また、明日ね」


 控えめなアラーム音に、氷川は手を止めた。ペンを置き、ぐっと両腕を上に伸ばす。凝り固まった肩関節が、小気味よい音を立てた。ぐるりと首を回し、息を吐く。それから、思い出したようにスマートフォンを手に取った。
 メッセージが一件届いているのに気付き、内容を確かめる。そして迷いのない動作で番号を呼び出し、コールした。
『――はい、横峰だけど』
 五回目の呼び出し音が途中で途切れ、聞き慣れた声が応じる。氷川は我知らず口元を緩めた。
「いきなりごめん、今、大丈夫だった?」
 電話の向こうには、わざめきの気配がある。不安を口にすると、彼は笑うように息を吐いた。
『もちろん』
「メッセージ読んだ。優勝、おめでとう」
『ありがとう、って言っても、頑張ったのは俺じゃないし、ここからが本番だけど』
 言葉とは裏腹に、横峰の声音は誇らしげだ。嬉しそうな表情が目に浮かぶようで、氷川も自然と顔を綻ばせた。
 六月の第一土曜日と日曜日は、高校体育総体の登山競技の大会日だった。天候にも恵まれ、つつがなく開催された大会に於いて、如水学院のワンダーフォーゲル部は優勝という成績を残すことができた。横峰は既に部を引退しているが、付き添いとして選手団に同行していた。
『去年はインハイに出れなかったからな、今年は頑張ってもらわないと』
「去年は残念だったね」
『まあ、俺が怪我した時点で人数足りなかったからね、何がどうでも仕方ないよ』
 沈みそうな氷川を引き上げるように、横峰が軽く取りなす。実際、昨年度は高等科の部員数が少なく、ぎりぎりだった。今年度は醜聞もあって全体では更に少なくなっているが、高等科一年生の人数が増えたので試合には問題なかった。新規部員の獲得には横峰も現部長らも頭を悩ませているが、大会成績を残し、地道に活動していれば自然と汚名も返上できるだろう。
「本当に良かった。合宿も勉強会も頑張ってたもんね」
『OB会のお陰だよ。寄付がなかったら厳しかった』
「それも、横峰くんや部員の人たちが真面目に努力したからこそでしょう」
『何、褒め殺し?』
「真面目に言ってるのに」
 氷川は手持ち無沙汰にペンを取り、くるりと回した。耳元を押し殺した笑いがくすぐった。
『嬉しいよ、皆にも伝えておく……と、呼ばれちゃった』
「ん。三上先生や後輩さん達にもお疲れさまって伝えて」
『うん。じゃあ……氷川くんも、勉強頑張って』
 電話の向こうから、慌ただしい気配が伝わってくる。激励の言葉に、氷川は目を瞑った。
「ありがと。また、明日ね」
 横峰は今日の内に帰寮するが、会う時間は取れないだろう。そう考えながら挨拶を口に乗せる。彼は少し言い淀んでから、同じ言葉を返してくれた。
 通話を終わらせ、スマートフォンを置く。深呼吸をして肺の中を入れ換えると、浮かれていた頭が自然と冷静になった。電話をする直前まで解いていたのとは別の模擬試験用紙を開く。検定試験本番は次の日曜日だ。現時点では八割方、合格できそうな見通しではあるが、実際の試験問題や当日の体調、心理状況によっては合格ラインを下回る可能性も高い。少しでも頭に、身体に、知識と感覚を叩き込まなければならない。合格できたら、受験勉強の合間にも少しくらい、横峰と遊びに行けるだろうし。
 夢想に流れそうになる思考を引きずり戻し、氷川はタイマーをセットした。筆記具を持ち、印字された文字に意識を向ける。音が消え、狭まった世界の中で、一人静かに問題と相対する。心が濯がれていくような感覚すら気付かずに、氷川は無心で手を動かした。



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