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神森竜義
文化祭 2:神森の親戚 (1)
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文化祭は初日と二日目は原則内部公開日だ。一般来校者の見学は三日目の文化の日になる。二日目の今日は、昨日とは異なりなんとか雨は免れそうな見通しだ。
二日目の今日は、生徒も初日よりは落ち着いた様子だ。ライブイベントと講堂での発表くらいしか目新しいプログラムがないためだろう。混雑しそうな展示を見学するには今日が当たり目らしいが、氷川自身も橘との約束があり、拘束時間が長い日になりそうだ。楽器や機材の搬入は済ませたが、午前中にはリハーサルがあり、午後には出番と搬出がある。昨日あまりの盛況ぶりに諦めた天文部のプラネタリウムは、最後の時間くらいなら見に行けるだろうか。
リハーサルまでの短い時間をどう潰そうか考えながら、氷川は学生玄関で靴を履き替えた。
生徒玄関は、明日は来校者用に開放される予定だ。教職員と来客用の狭い通用口よりも、広い学生玄関のほうが飾り付けや案内に適しているという理由だ。つまり、玄関口は華やかに飾られている。たとえば、花で。
氷川の目を惹いたのは飾られた活け花――ではなく、そのキャプションだった。作品テーマと私用した花材、花器、属する流派、そして作者の所属学級と名前が記されている。二年A組の生徒の名前を見つけて、納得した。合同授業や選択科目の際にも話したことがあるが、それ以上に印象深いことがある。定期考査の総合成績で毎回一番に名前が出ている生徒だ。
「学年トップで花まで活けられるのか……」
思わず呟いてしまい、氷川は唇を押さえた。独り言はどんなに小さな声であっても恥ずかしい。そんな氷川のすぐ脇から、軽い動作で花器を覗き込む人がいた。思わず半歩避けると、その人物は忍び笑いを漏らす。横顔でよくわからないが、高校生くらいに見えた。私服姿だから、学院の生徒ではないのかもしれない。今日も事前申請があれば、学外の者でも見学はできる。特にOBは混雑する開放日よりも事前に顔を出すことが多いそうなので、部外者がいること自体はさしておかしくはない。
「この人が学年で一番頭がいいの?」
視線も向けずに訊ねられ、たじろいで周囲を見回した。今ここには、氷川の他には花を見ている生徒はいない。自分への問いかけだと認めてから、氷川は軽く頷いた。
「ええ。高等科二年生では一番頭がいい生徒でしょう」
「なるほど、君も同学年?」
「はい」
「華道部員かな?」
ようやくこちらを向いて、彼が聞いてくる。氷川は小さく首を横に振った。
「いいえ。華道は嗜みもありません。お花がお好きなんですか?」
「そっか、部員さんじゃないんだ。んー、僕も別に、そんなに花が好きなわけじゃないんだけど、部員さんだったら聞きたいことがあったんだけど、仕方ないな」
柳眉を曇らせる来校者に、氷川はええと、と手にしたパンフレットを広げた。頭の中で、しばらく手伝いをしていた間に叩き込まれたシフトの知識を浚い直す。
「華道部員でしたら、茶道部の茶室に一人は常駐しているはずです。ご案内しましょうか?」
「いや、いいよ。別件に当たってみる。親切にありがとうね」
彼は手を振って、氷川の申し出を断る。そのイントネーションに少し訛りがあって、もしかして関西の人かななどと、どうでもいいことを考えつつ、頭を下げた。
「そうですか、こちらこそ差し出がましいことを申し上げましてすみませんでした」
「いやいや、頭上げて。謝って貰うことは何にもしてないし」
慌てた雰囲気で、来校者が手を振る。顔を上げると、彼は何故か驚いた表情で視線を氷川の背後に向けていた。あ、と声を漏らして、手を上げる。
「ていうか、きみと話してたお陰で探し人見つけられたわ。竜義、こっち!」
「陽介さん、こんなところに……どうして待ち合わせの連絡をくれないんですか」
聞き覚えのある声に、氷川は背後を振り返る。そこには早足でこちらに歩いてくる神森の姿があった。
「神森くんのお知り合いの方だったんですね」
「ん? ああ、そう、竜義のお友達だったのか」
ぱちりと目をまたたいて、来校者が頷く。やっと到着した神森が、乱れた髪を軽く払って氷川と来校者を順に見た。
「氷川くんが相手をしてくれていたんですね、ありがとうございます。お久しぶりです、陽介さん」
「ああ、元気そうで何よりだ」
「お陰様で。陽介さんもお変わりありませんようで何よりです、こちらで、何を?」
親しそうな挨拶から一変して、神森が不審そうに陽介氏に尋ねる。彼は楽しげに目を細めた。元々細めの目が、糸のようになった。
「竜義の花があったら見ておこうと思ったんだよ。この子が花を見ていたから、華道部員さんだったら教えて貰おうと思ってね。結果、違ったけど」
「そうでしたか、申し訳ありませんが今年は花を活けている余裕がなかったので、僕のものはありません。氷川くん」
神森が唐突に氷川に身体を向ける。場を離れる機会を推し量っていた氷川は、ぴくりと肩を震わせた。その様子に僅かに目を眇め、しかし彼はすぐに表情を取り繕い、笑顔を浮かべた。
「お引き留めしてすみません。それから、再従兄がご迷惑をお掛けしました」
「迷惑なんかじゃないけど、再従兄弟さんなんだ?」
「ええ、神森陽介さん、僕らとは同い年で、豊智に通っています。陽介さん、こちらは僕の友人で氷川泰弘くんです」
思い出したように、神森が氷川と再従兄氏を紹介する。氷川は陽介に向き直ると会釈した。
「いつも神森くん……竜義くんにはお世話になっています、氷川泰弘です」
「こちらこそ、再従弟がお世話になってます、神森陽介です、よろしくね」
陽介がさっと右手を差し出す。握り返した手はしっとりとして温かかった。少し言葉を交わしただけでも、話しやすそうな気分の良い相手だとは分かる。しかし氷川は、神森に彼を紹介されてから、一刻も早くこの場を立ち去りたい気分で一杯だった。
彼の通う“豊智”が、豊智学院ならば、この学校の兄弟校になる。如水学院と豊智学院は通常、兄弟校間でしか転入を認めていない。つまり、如水に転入した氷川は必然的に、豊智学院に在籍していたものだと思われている。わざわざ確認されたことはないが、イントネーションを含めて標準語なんだねと不思議そうに言われた経験ならば幾度かあった。
無論、同門で同学年だからといって全ての生徒と面識があるわけではないから、氷川と陽介が初対面であることそれ自体は、神森もさして不思議には思わないだろう。だが、込み入った話題になればどこで、氷川の作為的な経歴隠匿が露呈するか分からない。後ろ暗いことはしていないつもりだが、それでも、あれこれ訊ねられたり、噂されたりするのは避けたい事態だ。その可能性を下げるためには、彼らと離れるのが得策だった。その後で彼らの間で話題になり、確かめられる可能性もあるが、人のいない場所で落ち着いて話せればまだなんとかなるだろうし。
そう算段して、氷川は神森たちに愛想良い笑顔を向けた。
「ごめんね、神森くん、約束があるからこれで失礼するね。陽介さん、どうぞ善祥祭をお楽しみください。よろしければ神森くんのクラス展示のついでに、隣のB組もご覧になってくださいね」
「ええ。お時間を取らせてすみませんでした」
「ああ、そうだったんだ、引き止めちゃってごめんな」
「いいえ、お気になさらず」
「あ、それ」
それでは失礼します、と続けようとした氷川は、陽介に話を遮られて目をまたたいた。それとは何だろうと、首を捻る。彼は吐息だけで笑みを漏らした。
「同い年なんだろ? なら、敬語いらないよ」
柔らかな表情と口調なのに、妙な強制力がある。氷川は気圧されたように頷いていた。今後会うつもりはないけれど、と心の中だけで付け加え、改めて暇を告げた。
約束があると言ったのは、決して嘘ではない。十時半から橘たちとリハーサルを行なうため、十時には体育館に集まる予定だ。一時間弱は自由時間があると見積もったが、面倒を避けるために早めに移動してしまうことにした。
体育館のライブイベントはA、Bの二つのステージを設置し、転換時間なしで交互に演奏する形で行なわれる。氷川達は全体で二番手、Bステージトップバッターなため、リハーサル後にステージをそのままにしておけるので、手間が少ないのが初心者には助かる所だ。
氷川が着くと橘たちは既に体育館にいて、他の組のリハーサルを見学していた。氷川もその輪に加わり、そのままの流れでセッティング、リハーサルと順にこなした。進行は思ったよりもスムーズで、ほとんど定刻だ。これなら開場や開演も遅れずに済みそうだ。
「氷川くんはお昼ご飯どうするとか決めてる?」
最後の組、つまりトップバッターのバンドのリハーサルまで見学したあと、クラスメイトで軽音部員の戸田が氷川を見上げて楽しそうに訊ねた。
「決めてない。早めに食べた方がいいとは思ってるけど」
「じゃあ一緒に行こうよ。皆で、寮のほうで食べようって話してて」
「あっちのが空いてるからな」
戸田の言に頷いたのが、軽音部員の棚橋。その他にもう一人軽音部員の倉本と、橘、氷川の五人が今回の文化祭バンドのメンバーだ。練習のために何度も会ったり連絡を取り合ったりして、それなりに親しくしてもらっている。
「今って、寮の食堂開いてるの?」
不思議に思って棚橋に尋ねると、彼はさも当然とばかりの頷いた。
「遊んでる暇ない受験生の昼飯用だけどな。わざわざそっちまで戻る奴は少ないから、空いてんの」
「そうだったんだ。なら、丁度いいから恩恵に預からせてもらおう」
「よし、決まり。じゃあ行こう」
橘の号令を合図に、五人でぞろぞろと寮へと移動した。食事を済ませて、身支度を整え直してまた体育館へ戻る。
「服とか髪とか弄ったりしないの?」
修学旅行の時のことを思い出し、氷川は橘に訊ねてみる。彼は目をまたたいて、首を横に振った。
「しないね。文化祭だし、コピーだし」
「そういや金髪やめたんだよな。似合ってたのに」
倉本が橘の頭に手を置いて、思い出したように言う。橘が苦笑した。
「金は手入れが大変なんだよ、すっごい傷んで切れるし。それに生徒会で外と交流とかあると、やっぱり印象悪いしさ」
「それはわかるかも。僕も道歩いてて金髪の人がいたらちょっと見ちゃうもん。ステージだったら普通なのにねえ」
外階段から体育館に戻り、戸田が扉に手を掛ける。金属製の扉は重く、一人で動かすのは大変だ。急いで手伝おうとすると、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがと。倉本くんに爪の垢を煎じて飲ませてあげたいよ」
「一番腕力あるくせに何言ってんだか」
呆れたように言いながら、倉本も扉に手を伸ばす。氷川は驚いて戸田を見下ろした。
「そうなの?」
「腕力っていうか、筋肉かな。身体がしっかりしてないと、ドラムに負けちゃうんだよね」
「そうなんだ……」
意外な情報に驚く氷川の背を、棚橋が叩く。促されて、暗いバックステージに入った。
既にフロアは開場済みだ。どれくらい人が入るかは未知数だが、学内のイベントならば閑散としていることもないだろう。楽観的な予想を立てつつ、最後の打ち合わせに向かった。
二日目の今日は、生徒も初日よりは落ち着いた様子だ。ライブイベントと講堂での発表くらいしか目新しいプログラムがないためだろう。混雑しそうな展示を見学するには今日が当たり目らしいが、氷川自身も橘との約束があり、拘束時間が長い日になりそうだ。楽器や機材の搬入は済ませたが、午前中にはリハーサルがあり、午後には出番と搬出がある。昨日あまりの盛況ぶりに諦めた天文部のプラネタリウムは、最後の時間くらいなら見に行けるだろうか。
リハーサルまでの短い時間をどう潰そうか考えながら、氷川は学生玄関で靴を履き替えた。
生徒玄関は、明日は来校者用に開放される予定だ。教職員と来客用の狭い通用口よりも、広い学生玄関のほうが飾り付けや案内に適しているという理由だ。つまり、玄関口は華やかに飾られている。たとえば、花で。
氷川の目を惹いたのは飾られた活け花――ではなく、そのキャプションだった。作品テーマと私用した花材、花器、属する流派、そして作者の所属学級と名前が記されている。二年A組の生徒の名前を見つけて、納得した。合同授業や選択科目の際にも話したことがあるが、それ以上に印象深いことがある。定期考査の総合成績で毎回一番に名前が出ている生徒だ。
「学年トップで花まで活けられるのか……」
思わず呟いてしまい、氷川は唇を押さえた。独り言はどんなに小さな声であっても恥ずかしい。そんな氷川のすぐ脇から、軽い動作で花器を覗き込む人がいた。思わず半歩避けると、その人物は忍び笑いを漏らす。横顔でよくわからないが、高校生くらいに見えた。私服姿だから、学院の生徒ではないのかもしれない。今日も事前申請があれば、学外の者でも見学はできる。特にOBは混雑する開放日よりも事前に顔を出すことが多いそうなので、部外者がいること自体はさしておかしくはない。
「この人が学年で一番頭がいいの?」
視線も向けずに訊ねられ、たじろいで周囲を見回した。今ここには、氷川の他には花を見ている生徒はいない。自分への問いかけだと認めてから、氷川は軽く頷いた。
「ええ。高等科二年生では一番頭がいい生徒でしょう」
「なるほど、君も同学年?」
「はい」
「華道部員かな?」
ようやくこちらを向いて、彼が聞いてくる。氷川は小さく首を横に振った。
「いいえ。華道は嗜みもありません。お花がお好きなんですか?」
「そっか、部員さんじゃないんだ。んー、僕も別に、そんなに花が好きなわけじゃないんだけど、部員さんだったら聞きたいことがあったんだけど、仕方ないな」
柳眉を曇らせる来校者に、氷川はええと、と手にしたパンフレットを広げた。頭の中で、しばらく手伝いをしていた間に叩き込まれたシフトの知識を浚い直す。
「華道部員でしたら、茶道部の茶室に一人は常駐しているはずです。ご案内しましょうか?」
「いや、いいよ。別件に当たってみる。親切にありがとうね」
彼は手を振って、氷川の申し出を断る。そのイントネーションに少し訛りがあって、もしかして関西の人かななどと、どうでもいいことを考えつつ、頭を下げた。
「そうですか、こちらこそ差し出がましいことを申し上げましてすみませんでした」
「いやいや、頭上げて。謝って貰うことは何にもしてないし」
慌てた雰囲気で、来校者が手を振る。顔を上げると、彼は何故か驚いた表情で視線を氷川の背後に向けていた。あ、と声を漏らして、手を上げる。
「ていうか、きみと話してたお陰で探し人見つけられたわ。竜義、こっち!」
「陽介さん、こんなところに……どうして待ち合わせの連絡をくれないんですか」
聞き覚えのある声に、氷川は背後を振り返る。そこには早足でこちらに歩いてくる神森の姿があった。
「神森くんのお知り合いの方だったんですね」
「ん? ああ、そう、竜義のお友達だったのか」
ぱちりと目をまたたいて、来校者が頷く。やっと到着した神森が、乱れた髪を軽く払って氷川と来校者を順に見た。
「氷川くんが相手をしてくれていたんですね、ありがとうございます。お久しぶりです、陽介さん」
「ああ、元気そうで何よりだ」
「お陰様で。陽介さんもお変わりありませんようで何よりです、こちらで、何を?」
親しそうな挨拶から一変して、神森が不審そうに陽介氏に尋ねる。彼は楽しげに目を細めた。元々細めの目が、糸のようになった。
「竜義の花があったら見ておこうと思ったんだよ。この子が花を見ていたから、華道部員さんだったら教えて貰おうと思ってね。結果、違ったけど」
「そうでしたか、申し訳ありませんが今年は花を活けている余裕がなかったので、僕のものはありません。氷川くん」
神森が唐突に氷川に身体を向ける。場を離れる機会を推し量っていた氷川は、ぴくりと肩を震わせた。その様子に僅かに目を眇め、しかし彼はすぐに表情を取り繕い、笑顔を浮かべた。
「お引き留めしてすみません。それから、再従兄がご迷惑をお掛けしました」
「迷惑なんかじゃないけど、再従兄弟さんなんだ?」
「ええ、神森陽介さん、僕らとは同い年で、豊智に通っています。陽介さん、こちらは僕の友人で氷川泰弘くんです」
思い出したように、神森が氷川と再従兄氏を紹介する。氷川は陽介に向き直ると会釈した。
「いつも神森くん……竜義くんにはお世話になっています、氷川泰弘です」
「こちらこそ、再従弟がお世話になってます、神森陽介です、よろしくね」
陽介がさっと右手を差し出す。握り返した手はしっとりとして温かかった。少し言葉を交わしただけでも、話しやすそうな気分の良い相手だとは分かる。しかし氷川は、神森に彼を紹介されてから、一刻も早くこの場を立ち去りたい気分で一杯だった。
彼の通う“豊智”が、豊智学院ならば、この学校の兄弟校になる。如水学院と豊智学院は通常、兄弟校間でしか転入を認めていない。つまり、如水に転入した氷川は必然的に、豊智学院に在籍していたものだと思われている。わざわざ確認されたことはないが、イントネーションを含めて標準語なんだねと不思議そうに言われた経験ならば幾度かあった。
無論、同門で同学年だからといって全ての生徒と面識があるわけではないから、氷川と陽介が初対面であることそれ自体は、神森もさして不思議には思わないだろう。だが、込み入った話題になればどこで、氷川の作為的な経歴隠匿が露呈するか分からない。後ろ暗いことはしていないつもりだが、それでも、あれこれ訊ねられたり、噂されたりするのは避けたい事態だ。その可能性を下げるためには、彼らと離れるのが得策だった。その後で彼らの間で話題になり、確かめられる可能性もあるが、人のいない場所で落ち着いて話せればまだなんとかなるだろうし。
そう算段して、氷川は神森たちに愛想良い笑顔を向けた。
「ごめんね、神森くん、約束があるからこれで失礼するね。陽介さん、どうぞ善祥祭をお楽しみください。よろしければ神森くんのクラス展示のついでに、隣のB組もご覧になってくださいね」
「ええ。お時間を取らせてすみませんでした」
「ああ、そうだったんだ、引き止めちゃってごめんな」
「いいえ、お気になさらず」
「あ、それ」
それでは失礼します、と続けようとした氷川は、陽介に話を遮られて目をまたたいた。それとは何だろうと、首を捻る。彼は吐息だけで笑みを漏らした。
「同い年なんだろ? なら、敬語いらないよ」
柔らかな表情と口調なのに、妙な強制力がある。氷川は気圧されたように頷いていた。今後会うつもりはないけれど、と心の中だけで付け加え、改めて暇を告げた。
約束があると言ったのは、決して嘘ではない。十時半から橘たちとリハーサルを行なうため、十時には体育館に集まる予定だ。一時間弱は自由時間があると見積もったが、面倒を避けるために早めに移動してしまうことにした。
体育館のライブイベントはA、Bの二つのステージを設置し、転換時間なしで交互に演奏する形で行なわれる。氷川達は全体で二番手、Bステージトップバッターなため、リハーサル後にステージをそのままにしておけるので、手間が少ないのが初心者には助かる所だ。
氷川が着くと橘たちは既に体育館にいて、他の組のリハーサルを見学していた。氷川もその輪に加わり、そのままの流れでセッティング、リハーサルと順にこなした。進行は思ったよりもスムーズで、ほとんど定刻だ。これなら開場や開演も遅れずに済みそうだ。
「氷川くんはお昼ご飯どうするとか決めてる?」
最後の組、つまりトップバッターのバンドのリハーサルまで見学したあと、クラスメイトで軽音部員の戸田が氷川を見上げて楽しそうに訊ねた。
「決めてない。早めに食べた方がいいとは思ってるけど」
「じゃあ一緒に行こうよ。皆で、寮のほうで食べようって話してて」
「あっちのが空いてるからな」
戸田の言に頷いたのが、軽音部員の棚橋。その他にもう一人軽音部員の倉本と、橘、氷川の五人が今回の文化祭バンドのメンバーだ。練習のために何度も会ったり連絡を取り合ったりして、それなりに親しくしてもらっている。
「今って、寮の食堂開いてるの?」
不思議に思って棚橋に尋ねると、彼はさも当然とばかりの頷いた。
「遊んでる暇ない受験生の昼飯用だけどな。わざわざそっちまで戻る奴は少ないから、空いてんの」
「そうだったんだ。なら、丁度いいから恩恵に預からせてもらおう」
「よし、決まり。じゃあ行こう」
橘の号令を合図に、五人でぞろぞろと寮へと移動した。食事を済ませて、身支度を整え直してまた体育館へ戻る。
「服とか髪とか弄ったりしないの?」
修学旅行の時のことを思い出し、氷川は橘に訊ねてみる。彼は目をまたたいて、首を横に振った。
「しないね。文化祭だし、コピーだし」
「そういや金髪やめたんだよな。似合ってたのに」
倉本が橘の頭に手を置いて、思い出したように言う。橘が苦笑した。
「金は手入れが大変なんだよ、すっごい傷んで切れるし。それに生徒会で外と交流とかあると、やっぱり印象悪いしさ」
「それはわかるかも。僕も道歩いてて金髪の人がいたらちょっと見ちゃうもん。ステージだったら普通なのにねえ」
外階段から体育館に戻り、戸田が扉に手を掛ける。金属製の扉は重く、一人で動かすのは大変だ。急いで手伝おうとすると、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがと。倉本くんに爪の垢を煎じて飲ませてあげたいよ」
「一番腕力あるくせに何言ってんだか」
呆れたように言いながら、倉本も扉に手を伸ばす。氷川は驚いて戸田を見下ろした。
「そうなの?」
「腕力っていうか、筋肉かな。身体がしっかりしてないと、ドラムに負けちゃうんだよね」
「そうなんだ……」
意外な情報に驚く氷川の背を、棚橋が叩く。促されて、暗いバックステージに入った。
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